サンプル動画と、15秒の既読表示
週明け、澪は新しい資料をメールに添付して送った。
Sunreef 50の内装例をまとめた参考動画と、素材の組み合わせリスト。
動画は、実際の完成艇を3パターン、内装中心に撮影したもので、合計45秒。
どれも、現行モデルで実装可能な構成だった。
本文には、要点だけをまとめた。
素材・色調ともに印象の異なる組み合わせとなっております。
ご希望の雰囲気に近いものがあれば、お知らせください。
送信から、15秒後。
通知音が鳴った。
「既読」ではなく、「返信」だった。
本文は、3行。
一番下のセットで。
変更不要。
澪は数秒、画面を見つめていた。
指先がキーボードの上で止まる。
(……見た?)
いや、見るまでもなかったのかもしれない。
あるいは、もう決まっていたのかもしれない。
動画を開いてもいない可能性もあった。だが、彼のやり方なら――
「それでも、正確に選んでいる」
そう感じさせる何かが、そこにはあった。
選定③・一番下のセット。
マットグレーの天井。微細な縦織のある壁面パネル。
白木のように見える床材。線の細い家具。陰影が深く、静かな空間。
装飾性はほとんどなく、配色は無彩色に近い。
“美しい”と呼ぶには、あまりに主張がなかった。
けれど――どこか、引き込まれる。
澪は、仕上がりイメージのスクリーンショットをもう一度見直した。
「……これで十分、ってことか」
きらびやかさがない。
個性を誇示するような要素もない。
だが、逆にその“無”の中に、意思のようなものを感じた。
たとえば、余計な会話をしない人の沈黙に、
ただの無関心ではない“集中”が宿るように。
澪は、自分でも意識せず、次のメール文面からある言葉を削っていた。
「いかがでしょうか」
「ご希望に沿っておりますか」
「ご確認のほど、お願いいたします」
そうした定型の気遣いを、使わなかった。
尋ねる必要がない、と判断したからだ。
“選ぶ側”と“提案する側”
その境界線が、揺れていた。
けれど澪は、不思議と、それを気にしなかった。
その日の夜、報告用に社内サーバーにファイルをアップしながら、ふと思った。
(……仕事って、こんなに静かでいいんだっけ)
その静けさが、不快じゃなかった。
むしろ、少しだけ落ち着く気がしていた。
選ばれたのは、無彩色の組み合わせ
返信は、15秒で来た。
素材はCラインのグレー系で統一。
天井は低反射仕上げ、マット寄り。
照明の演出は極力控えて。光源を見せないでください。
それだけだった。
どの組み合わせも、高級感のある仕上がりだったが、3つ目――黒とグレーが基調のモダンインテリアは、少しだけ“無”に近かった。
冷たさではなく、無表情。
静けさではなく、遮断。
「ご自身の“好き”ではなく、“情報の排除”が選ばれた気がする」
澪はそんなメモを設計案の余白に残した。
—
照明プランに取り掛かりながら、澪は考えていた。
オーナーによっては、素材の手触りや、陽の入り方にすらこだわる。
だが彼は、“好み”について一言も触れてこなかった。
木材も、布地も、ガラスの質感すら。
その“感じ方”ではなく、“使いやすさ”で全てが判断されていた。
—
澪は、何も問わなかった。
問う必要もなかった。
「それが“良い”か“悪い”かも、私はもう尋ねなかった。」
送った素材構成案には、黙って“確認済”のマークが戻ってきた。
無彩色のインテリア。
光を抑えた空間。
操作性の優先。
感情を受け止めない、海の上の箱。
――それを選んだのは、彼だった。
「それでいい」ではなく、「それがいい」
澪は、その夜もiMacの画面を見つめていた。
最終候補として選定した素材リストは、カラーリング、質感、耐久性、メンテナンス性などを比較しながら三案に絞り込んだものだった。
内装の主材はウォールナット。控えめな艶を抑えた、濃い木目のパネル。
シートは明るめのベージュグレー。ライティングの反射を程よく受ける中間色。
床材は石調のテクスチャでまとめ、壁材とのコントラストで奥行きを出す。
すべてが、あくまで「主張しない」方向で揃えてある。
そこには、澪なりの読みがあった。
(この人は、色で主張されるのが嫌なんだ)
届いたメールには「素材の選定案、確認した」とだけあった。
添付されていたのは、澪が送った資料に“OK”の手書きサインが添えられたPDF。
それだけで終わるかと思った瞬間、もう一通メッセージが届いた。
件名も、宛名もない短い本文。
「それでいい」ではなく、「それがいい」。
統一感の取り方、無駄がない。
よく見てる。
澪は、その文面を数秒見つめたあと、画面を閉じた。
—
「それでいい」ではなく、「それがいい」。
その言葉に、妙な熱がこもっていたわけではない。
けれど、そこに“選んだ”という主語の存在が、確かにあった。
仕事上の評価は、あってもなくてもいい。
それを前提にしてきた。
けれどこの人は、はじめて“自分の意志”として何かを選んだ。
それは、澪の作業に対する「了承」ではなかった。
「選定案③を選んだのは、自分だ」という明確な選択。
(この人……ちゃんと“見てた”んだ)
—
メッセージの返信はしなかった。
する必要もないと思った。
ただ、次の仕様書のファイル名を少しだけ変えた。
“Sunreef50_Interior_Option3_Confirmed.pdf”
そこに、彼の選択が残るように。
そして澪は思った。
(ちゃんと伝わる人なら、言葉は最小限でいい)
そういう相手のほうが、ずっと楽だ。
そう信じたいと思った。
音声通話、音の向こうにあるもの
通話が始まったのは、午後6時ちょうど。
仕事帰りのラッシュと重なる時間帯だったが、九条からの指定時間だった。
澪は事務所の会議室にMacを持ち込み、資料と議事録を並べたまま、FaceTimeの通知を待った。
着信が入る。
画面に表示されたのは「音声のみ」の通話。
ビデオはなし。音だけが、ヘッドセットに届く。
「綾瀬です。お時間ありがとうございます」
「……はい」
以前と変わらない、抑揚のない返事。
静かで、無駄がなかった。
けれど、澪はふと気づく。
(……生活音が、まったくない)
雑音のひとつも入らない。
背後のテレビも、人の声も、風の音さえもしない。
まるで、完全密閉された部屋の中にいるような、無音の空間だった。
「ご確認いただいた素材構成について、最終的な確認をお願いしたく……」
澪は一つずつ説明を進める。
返ってくるのは、必要最低限の単語。
「それでいいです」
「左寄りで」
「間接照明の範囲、少し広めに」
確かに“話している”のに、会話という感覚がなかった。
だが、不快ではない。
—
むしろ澪は、その“静寂”の中に、少しだけ居心地のよさを感じていた。
画面越しに何も映らないのは分かっているのに、
どこか、ずっと見られているような感覚。
気配がないのに、確実にそこに“誰かがいる”という重さ。
(この人……たぶん、生活感が、ない)
見たわけではない。
聞いたわけでもない。
けれど、感じてしまった。
—
通話が終わったあと、澪は思った。
「感情がない」のではない。
「生活を必要としない」ような人なのだと。
それが、孤独かどうかは分からない。
でも、理解できる気がした。
なぜか。
澪自身もまた、似たような静けさを抱えて生きていたからだ。
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