再起動は不要
呼ばれても目線すら上げない。
普通じゃないよこれ……むしろ“入ってる”状態。
これ、もう入場時から試合始まってる。
Margaret Court Arena / Day Match
オーストラリア・メルボルンパークにあるマーガレット・コート・アリーナは、全豪オープンで使用されるメイン3会場のひとつだ。
ロッド・レーバー・アリーナに次ぐ規模を持ちながら、屋根の開閉機能を備え、晴天時には自然光が美しく射し込む構造となっている。
観客席とコートの距離が近く、選手の息遣いまでも伝わる——そんな**“臨場感”**が、このアリーナの最大の特徴だ。
午後の陽射しが、屋根の隙間から斜めに差し込んでいる。
青い空と白いスタンド。コートに落ちる影はまだ浅い。
【第1ゲーム】試合開始の合図
午後の陽射しが、屋根の隙間からコートに射し込んでいた。
九条は、ベンチの端に静かに座り、一本目のラケットを手に取る。
指先で、張り詰めたガットを一度だけ撫でる。
それが、彼にとっての「試合開始の合図」だった。
名前を呼ばれても、返事はない。
立ち上がることすら、相手の動きよりも“遅く”見える。
——だが、それは誤解だ。
九条雅臣の演算は、もうすでに始まっている。
あれ、たぶんスイッチ入るサイン。
まだ完全に“無風”。
マーガレット・コート・アリーナ。
午後の光が斜めに差し込む。
観客のざわめきが、まだ“スポーツの空気”をまとっていた。
九条は、ベースラインに立った。
ラケットを構える動きに、無駄がない。
1本目。
センターへ、フラット。
音がした瞬間、終わっていた。
打球音と同時に、相手のラケットは空を切る。
15–0。
2本目。
今度はスライス。
低く、沈む。
相手が前に出るが、届かない。
30–0。
3本目。
わずかにテンポを変えたボール。
相手が反応し、触れる。
だが、リターンは甘い。
九条は、一歩前へ。
ラケットを振り抜く。
クロスに叩き込まれたボールは、ライン際で跳ねることなく沈んだ。
40–0。
4本目。
ボールを3つ受け取り、2つを後ろに捨てる。
選ばれた1球を、ゆっくりと持ち直す。
目線すら動かさない。
——打つ。
ネットの白帯すれすれに滑るボール。
相手は足をもつれさせ、ラケットのフレームに当てる。
ボールは浮き、そのままネットに落ちた。
Game Kujo.
観客の拍手も、どこか遠い。
まるで誰もが、「まだ始まっていない」と思っているようだった。
だが、その“錯覚”こそが——
九条雅臣の“演算”の始まりだった。
【第2ゲーム】静音ブレイク
1本目。
相手がトスを上げる。
九条は、構えを崩さずに見上げる。
——スイングの癖、肘の位置、軌道の予測。
情報が、頭の中で一瞬にして組み立てられる。
サーブはセンター。
速く、伸びる球。
だが——九条は、ほとんど動かずにその場でリターン。
クロスへ、低く沈む弾道。
相手のスイングが間に合わず、ネット。
0-15。
観客席に、わずかなざわめきが走る。
開始10秒足らずの静寂のあとに生まれた、最初の“音”だった。
2本目。
今度はスライス気味に外へ逃がすサーブ。
だが、九条は読みきっていた。
一歩横に滑るだけで、リターンはベースラインすれすれに落ちる。
相手はフォアに回り込むが、体勢が崩れる。
ストレートへの逆襲は、わずかにラインを割った。
0-30。
静かに、確実に。
試合は“削られはじめて”いた。
3本目。
焦りを隠せない相手が強打に出る。
だが、スイングの軌道が早い。インパクトがズレて、リターンが浅くなる。
九条はベースライン内側へとステップイン。
——そして、一切の余裕を見せずに叩き込んだ。
鋭いクロス。
ラインの内側にわずかに着地し、ボールは跳ねずに消えた。
0-40。
3本連続のブレイクポイント。
だが、九条の表情に変化はない。
4本目。
セカンドサーブ。
相手がわずかにラケットを握り直した、その瞬間。
九条の足が、音もなく前に出た。
インパクト直後のボールに合わせ、ライジングでリターン。
ドロップに近い軌道。
ネット際に落ちたボールに、相手の足は届かなかった。
——Game Kujo.
開始から2分も経たずに、ブレイク。
そのまま、無言のまま自陣へと戻っていく。
マーガレット・コート・アリーナに、また“静けさ”が戻った。
【第3ゲーム】再現性
ベースラインに立つ九条の動きは、あまりにも“静か”だった。
観客はまだ、第2ゲームの余韻を引きずっている。
だが、本人にとってはもう「前の情報」だ。
1本目。
打球前のモーションに、一切の“演出”がない。
ただ、正確に動作が積み上げられていく。
センターへのフラットサーブ。
時速210キロの球が、ほとんど伸びを感じさせない直線で飛ぶ。
相手はかろうじて反応するが、フレームに当たり大きく弾かれる。
15-0。
2本目。
今度はワイドへ。
スピンが強くかかっていて、外へ大きく逃げていく。
相手は逆を突かれた形で踏み出すが、バランスを崩しリターンはネット。
30-0。
観客席が少しだけ騒がしくなる。
ただし、それは“驚き”よりも“理解の範囲内”といった反応だった。
3本目。
九条は、ボールを3つ受け取る。
2つを無言でベンチ側に弾き、ひとつを選ぶ。
その選球すら、演算の一部。
構えを取った九条の眼差しは、ネットの向こうではなく「内側」にあった。
自分の身体の精度、そのわずかな揺らぎの検出に集中している。
そして打つ。
スライスサーブ。
低く滑るような軌道で、バウンド後に急激に沈む。
相手の足が止まり、タイミングを外された返球は大きく浮く。
九条は無言で前に出て、軽くクロスへ打ち抜いた。
40-0。
4本目。
わずかに構え直し、次の1球を選ぶ。
一拍だけ、深呼吸。
そして、
ノーバウンドで叩くように、フラットをセンターへ。
相手の動きより先に、ボールがライン上で音を立てた。
——Game Kujo.
まだ、九条は一言も発していない。
表情も変わらない。
マーガレット・コート・アリーナには、
また一層深い“無音”が降りた。
【第4ゲーム】読解
マーガレット・コート・アリーナの午後は、まだ陽射しが柔らかい。
だが、コートの空気には徐々に“異変”が生まれはじめていた。
第4ゲーム、相手のサービスゲーム。
1本目。
センターを狙ったフラットサーブ。
速度は出ていた——が、九条は一歩も動かず、ラケットを差し出すだけで返した。
球は鋭くクロスへ沈む。
0-15。
相手の足が、わずかに止まる。
2本目。
今度はワイドへ。だが、九条の読みが早かった。
ライジングで捕らえたリターンが直線でベースラインを割る。
0-30。
ベンチから立ち上がった蓮見の指先が、無意識にジャケットの裾を摘む。
3本目。
相手はリズムを変える。
ゆるいスライスでタイミングを外そうとしたが——
九条はすでに踏み込んでいた。
ネットすれすれの打球が、ショートクロスへ。
相手の足が止まり、動き出す前に——ポイントは決まった。
0-40。
スタジアムが静まり返る。
“He’s reading everything…”
(全部読まれてる……)
そして4本目。
震えた手元から放たれたセカンドサーブは、インパクトでわずかにズレた。
ボールはスピンがかかりすぎ、ラインを割る。
Game Kujo.
スコア:4-0(Kujoリード)
コートに、風はなかった。
だが、なにかが確実に“狂い始めて”いた。
【第6ゲーム】予定動作
九条のサービスゲーム。
マーガレット・コート・アリーナの屋根から射す光が、彼の影を長く落とす。
その姿は、まるで“演算を実行するシステム”のようだった。
1本目。
センター。
音もなく踏み込んだサーブは、ライン上を正確に貫く。
相手のラケットが動いた時、球はすでに通り過ぎていた。
“Did he even move?”
(今……動いたか?)
2本目。
今度はスピードを少し落とし、外へ逃げるサーブ。
打点がズレた相手のリターンは、フレームに当たって大きく跳ねた。
30-0。
3本目。
九条は、ボールを3つ受け取る。
無言で2つを弾き、選んだ1球をしばらく指で転がす。
そして打ち出したのは、極端なスライス。
バウンド後に沈む球に、相手はタイミングを外され、ネット。
40-0。
試合は、まだ始まって10分余り。
だが、空気は異様に“整いすぎて”いた。
4本目。
ラケットの軌道は、なめらかで、何の抵抗もなかった。
まるで「予定されていた動作」のように。
返球は甘く浮いた。
九条は、一歩も動かずにラケットを振る。
ショートクロス。ラインぎりぎり。
Game Kujo.
スコア:6-0。
“He hasn’t missed a single shot.”
(彼は、まだ一球もミスしていない)
“No waste. No emotion.”
(無駄がない。感情もない)
“Just… shutdown.”
(まさに……シャットダウンだ)
相手の手がわずかに震えている。
それを、九条は見ていない——にも関わらず、知っていた。
それは「勝っている者の姿」ではなく、
ただ“次の演算が始まった者”の動きだった。
った。
セットポイントの直前も心拍変わってない。 ……処理対象としか見てないな、あれ。
“再起動”じゃない。 最初から、止まってなかっただけだ。
コメント