現実の音
昼休みを終えて、澪は潤んだ目元を指先でそっと押さえ、鏡の前で呼吸を整えた。
仕事に戻る顔をつくる。
昼のオフィスには、現実が待っている。
エレベーターの中で、他部署の社員たちが笑いながら話していた。
「九条雅臣、優勝しましたね!」
「すごいよな、よくやるよ。ほんとに。しばらくは日本でも騒ぐかもな」
「明るいニュースですよね」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
彼らの声は明るく、無邪気で、どこか遠い世界の話のようだった。
(……そうだね。明るいニュースだよね)
澪は微笑みの形だけをつくって、静かにうなずいた。
さっきまで涙を堪えながら見届けた人が、今は“誰もが知る名前”として語られている。
エレベーターの扉が開く。
眩しい午後の光が差し込む中、澪は小さく息を吐いた。
もうマイアミの夜は終わった。
ここからまた、自分の日常が続いていく。
光のないトロフィー
ホテルに戻ったのは、日付が変わる頃だった。
湿気を含んだ夜風が、マイアミの海の匂いを運んでくる。
試合後のメディア対応を終え、九条はようやく静かな空気の中にいた。
義務だと分かっていても、あの時間はいつも好きではない。
勝者として何を語っても、結局は見出しの一部として切り取られる。
だから、淡々と答えるだけだ。
「偉業だ」「歴史的だ」と人々は言う。
けれど九条の胸には、何の実感もなかった。
ただ、勝利を目指してプレーをした。
その結果に名前がついただけのことだ。
勝っても終わりではない。
明日があり、次の大会がある。
そういう世界で生きてきた。
むしろ、試合よりもマイクの前に立つほうが疲れる。
それでも一通りの義務を終え、部屋の灯りを落とす。
氷川に預けていたiPhoneを受け取ると、画面の隅に小さな通知が光った。
差出人は──澪。
その名前を見ただけで、ほんのわずかに息が深くなる。
画面をスワイプして、メッセージを開く。
そこには、短い言葉が並んでいた。
おめでとう。サンシャインダブル。
大勢の人が、あなたを讃えてるし、すごいって思ってるよ
文章の最後に、絵文字も装飾もない。
いつもの澪らしい、真っ直ぐな文だった。
九条は、無言のまま画面を見つめた。
ホテルの部屋には、まだ試合の熱を引きずるような湿った空気が漂っている。
窓の外には、夜明け前のマイアミの街。
遠くで雷鳴の残響が微かに響く。
「……」
メッセージを開いたまま、九条はしばらく無言だった。
澪の文面は、あたたかく、まっすぐだった。
祝福の言葉。達成を喜ぶ声。
何の飾りもない、彼女らしい素直な文章。
なのに、胸の奥で何かが引っかかった。
祝われているのに、不服だった。
どこか居心地が悪い。
──大勢の人に讃えられることは、いつからか“雑音”に近い。
自分が欲しているのは、それではない。
疲労の滲む指でスワイプし、短く文字を打つ。
お前がどう思っているか、だけでいい。
大勢の人は俺にとってはさほど重要ではない。
打ち終えて、画面を見下ろす。
身も蓋もない言い方だ。
蓮見が見たらきっと眉をひそめ、「頼むから外部に出すな」と言うだろう。
自分でもわかっている。
言葉にしてはいけない本音だということくらい。
だが、それでも。
大勢の人に祝われようと、喝采を浴びようと──
九条雅臣という男にとって、意味を持つのはただひとりの視線だけだった。
日本は今、平日の昼間。
澪がこのメッセージを見るのは、夜になるだろう。
時差を計算するまでもなく、彼女の生活のリズムは頭に入っている。
それを思い浮かべながら、九条は深く息を吐いた。
3月の二大会──インディアンウェルズとマイアミ。
二週間ごとに大陸を横断し、ハードコートを戦い抜いた。
サンシャインダブルという称号がどう扱われようと、いま必要なのは休息だけだった。
手首からApple Watchを外す。
画面の裏に、長時間の試合で汗に濡れた跡が残っている。
iPhoneは、メッセージを送ったまま静かに充電ケーブルにつなぐ。
通知の光が一度だけ瞬き、すぐに暗闇に沈んだ。
九条は立ち上がり、無言でバスルームのドアを開けた。
湿った空気の向こうに、シャワーの銀色の反射が揺れている。
「……やっと、終わったな。」
誰にも聞かれない声で呟き、シャワーの音がその言葉をかき消した。
帰り道の光
仕事を終えた帰り道、ようやく息をつける時間が訪れた。
駅までの歩道を、春の風がゆるやかに抜けていく。
一日の疲れを背中に感じながら、澪はふとスマホの画面を開いた。
通知欄に、ひとつだけ特別な名前があった。
──九条雅臣。
その文字を目にした瞬間、体の奥にこびりついていた疲労が、ふっと溶けるように軽くなった。
(私がどう思ってるかを知りたい、か)
思わず口の中で繰り返す。
あの人が、そんな言葉を送ってくる日が来るなんて。
初めて会った頃の九条は、自分の感情を外に出さなかった。
何を考えているのかも分からない。
自分の欲求さえ、理性の奥に閉じ込めて生きているような人だった。
それが今は、“自分の本心”ではなく、“私の本心”を知りたいと言う。
その変化が、嬉しくもあり、少し切なかった。
本当の気持ちは──少し、寂しい。
会えないことが寂しいのではない。
彼があれほどの成果を成し遂げたことは誇らしい。
心の底から「おめでとう」と思っている。
けれど、世界の舞台でスポットライトを浴び、何万人もの歓声に包まれているその姿が、ほんの少しだけ、遠くに見えた。
その距離の分だけ、胸の奥が冷えていく気がした。
でも、そんなことは言えない。
彼が背負っているものを知っているから。
指先でメッセージを打つ。
スポーツに今まで興味なかったんだけど、優勝したところ見てすごく感動したよ。泣きそうになったもん。
──嘘は書いていない。
ただ、言わなかったことがあるだけ。
画面を閉じ、深く息を吐く。
ウィジェットを開けば、マイアミはまだ朝。
彼はもう起きているだろうか。
(電話……してみようかな。)
電車が動き出す。
横浜の高層ビルの灯りが車窓に流れる。
その光の中で、澪はiPhoneの画面を見つめていた。
(京都……行けるんだろうか。本当に)
車窓の外を流れる街の灯りを眺めながら、澪は心の中で呟いた。
全豪オープンでの優勝。サンシャインダブル達成。
世界が沸き立つほどの偉業を、彼はあっさりとやってのけた。
けれど、その“偉業”という言葉の裏に、どれほどのメディア対応と喧騒が待っているかを、澪はよく知っている。
(おめでとう、って言いたいけど……その後が、地獄みたいに忙しいんだろうな)
京都行きの話をしたのは、まだパリバオープンに入る前だった。
3月の大会が終わったら、少しだけ息を抜こう。
桜の時期に合わせて温泉に行こう──そう言って、彼が珍しく「いい」と即答した。
嵐山の星のや。予約も済んでいる。
澪がカードを借りて手配した。
けれど、あの約束が現実になる気がしなかった。
世界中のメディアが彼を追い、行く先々にカメラが張り付くのが目に見えている。
そんな状況で、二人で京都なんて。
(今の彼には、休む時間すら許されないかもしれない)
電車がトンネルに入り、窓に自分の顔が映る。
ぼんやりと浮かぶ表情は、自分でも驚くほどどこか遠い目をしていた。
声の距離
電車を降りて、こちらからFaceTimeを鳴らしたら、すぐに応答があった。
「もしもし?久しぶり」
緊張して声が上ずる。
「…」
返事がない。電波が悪いのか?
「もしもし?聞こえる?」
「聞こえる」
久しぶりに低い声が聞こえてきた。
「…なんか怒ってる?」
「怒ってない」
「…拗ねてる?」
「…」
理由はわからないが、何かに拗ねてるらしい。
「拗ねるという言い方は適切ではない」
いや絶対適切でしょ。
「なんでちょっとむくれてるんですか?」
言い方を変えてみた。
「…むくれてなどいない」
相変わらずの、感情の読めない声。
けれどその“間”が、何よりも雄弁だった。
FaceTime越しの画面には、ホテルの照明に照らされた九条の姿。
髪はまだ湿っていて、朝のシャワー上がりらしい。
上半身は白いTシャツ、肩のあたりに水滴が残っている。
「顔がそう言ってます」
澪が半分笑いながら言うと、九条はわずかに眉を動かした。
「……お前、いつもそんなこと言うな」
「慣れてるからですよ」
画面越しの九条が、一瞬だけ視線を逸らす。
その仕草があまりに人間くさくて、澪の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「別に、拗ねてるわけじゃない」
「じゃあ?」
「……電話をかけたのに、出なかったからだ」
「それは電車の中だったから!」
声が思わず大きくなる。
通話の向こうで、九条が小さく息を吐いた。
「……知ってる」
「知ってて、言ってる?」
「……ああ」
少しの沈黙。
ほんのわずかに口元が緩んだ気がした。
(……やっぱり、拗ねてる)
その確信が可笑しくて、澪は画面の向こうに微笑みを落とした。
「子供か!」
さっきまでちょっとシリアスな気分に浸ってた自分が馬鹿みたいじゃないか。
「優勝、おめでとう。職場も人も知ってたよ。中継見てたみたい」
「俺が知らない人間のことなんかどうでもいい」
うわ、それ言っちゃうんだ。
「今日、なんかいつにも増して不機嫌じゃない?どうしたの」
話し方が、子供に話してるみたいになってしまう。
「いつも不機嫌なわけじゃない」
「そうだね。表情が常に真顔なだけだもんね」
「……お前、言い方がだんだん雑になってきてないか」
「え、そう?」
「そうだ」
「うーん……でも、事実でしょ?」
澪がわざとらしく肩をすくめると、九条は画面の向こうでわずかに目を細めた。
怒っているというより、反論の言葉を探している顔だ。
「表情が真顔なだけ、って言葉の選び方が悪い」
「じゃあ、何て言えばいいの?」
「……常に、落ち着いている」
「それ自分で言う?」
澪は吹き出した。
FaceTime越しの九条が、ほんの少しだけ眉を寄せる。
でも、その頬のあたりがかすかに緩んでいるのを、澪は見逃さなかった。
「ねえ、ほんとは疲れてるでしょ」
「別に」
「“別に”って言葉が出る時は、だいたい疲れてる時だよ」
沈黙。
九条は一度目を伏せ、手で髪をかき上げた。
濡れた前髪が光を受けて、静かに滴を落とす。
「……勝っても、終わりじゃない」
「うん」
「すぐに次がある」
「でも、今回の大会は終わったでしょ」
澪の言葉は、ふわりと柔らかく響いた。
その声を聞いた瞬間、九条の肩がわずかに緩んだ気がした。
「……そうだな」
ほんの少しの笑み。
それを見た澪は、ようやく安心して笑い返した。
人間だから
「あ、そうだ。確認しておきたいんだけどさ」
「なんだ」
「京都の温泉、行けそう?」
一応、断られる覚悟を持って言っておく。
相手から「行けない」といきなり言われて傷付くよりは良い。
「…行くが、行きたくないのか?」
またちょっとむくれさせてしまった。
「行きたいけど!そっちは色々忙しいでしょ?だから、やっぱり行けないってなるんじゃないかと思って確認したの」
「その日はスケジュールを空けるように氷川に言ってある。どんなスケジュールも入れさせない」
「わお」
そんな強行突破できるものなのか。
「でもさ、絶対追われるじゃん?有名人なのに」
「だからなんだ」
「女性と旅行なんて行ったら問題になるでしょ?騒がれるよ」
「…そうか?」
「そうなの。あなた自分の知名度自覚してないの?」
「知っている」
「じゃあ、なんでそんな平然としてるの」
「騒がれるのは俺だ。お前ではない」
「いや、そういう問題じゃなくて!」
澪は思わず声を上げた。
駅の構内を歩きながら、スマホを耳に当てたまま立ち止まる。
通話の向こうから、九条の低い息づかいだけが返ってきた。
「……騒がれようが、俺の行動は変えない」
「でも──」
「俺が休むと決めたら、休む。お前と行くと決めたら、行く。それだけだ」
その言葉が、あまりに真っ直ぐで。
強引なのに、迷いが一切なくて。
澪は一瞬、言葉を失った。
「……そんな簡単に言えることじゃないでしょ」
「簡単だから言ってるわけじゃない」
「じゃあ、なんで」
「有名人である前に、人間だからだ」
その一言が、妙に静かに胸に響いた。
短い沈黙。
駅のアナウンスが遠くで鳴り、足元を通り過ぎる風が冷たく感じる。
「……ねえ、それ、インタビューでも言ったら?」
「言わない」
「なんで」
「お前にしか言う必要がないから」
少しだけ間があって、九条が低く息を吐いた。
「でもさ、女性と旅行なんて行ったら、絶対色々言われるよね。なんかガチ恋コメントしてるファン見つけたよ、ネットで」
「…覚えのない人間が俺と付き合っていると書いていたが、お前か?」
「違うに決まってるでしょ」
「違うのか…」
落ち込むのかよ。
「いや、なんで落ち込むの!」
思わず声が裏返った。
通話の向こうで、九条は本気で考えているらしく、間があった。
「……お前じゃないなら、誰なんだ」
「知らないよ!そもそもネットの誰かが勝手に言ってるだけでしょ!」
「だが、“勝手”という言葉で片づけるには目立ちすぎていた」
「だからって、なんでそんな真剣に悩んでんの」
澪は呆れて、笑い混じりにため息をついた。
「だって、私は絶対にネットにそんなこと書かないし、言わないし。てか、そういう嘘の恋人設定、いちいち信じないでよ」
「信じたわけじゃない」
「今、半分くらい信じかけた顔してたよ」
「表情には出していない」
「声でも分かるの!」
やり取りのテンポが噛み合わない。
でも、どこか懐かしい。
この人は、試合中どんな鋭いボールでも冷静に返すのに、日常の会話になるととたんに不器用になる。
「……お前が違うなら、それでいい」
「最初からそう思ってよ!」
「違うと言うまでは確証がない」
「裁判か!」
笑いながら叫んだ瞬間、通話の向こうで九条が、わずかに鼻で笑った気がした。
「……なんか、今、笑った?」
「気のせいだ」
「絶対笑ったでしょ」
「気のせいだ」
頑なに認めないその声が、なんだか可笑しくて、澪はサービスアパートメントまでの道を歩きながら、声を殺して笑った。
普通じゃない人と普通の作戦
「空港で待ち合わせて京都に行くんだよね?」
「ああ」
「もしかして空港にもカメラの人とか来る?」
「さぁ…」
「いや来るって絶対」
この人はなんでこんなに無頓着なんだ。そういえば、九条雅臣関連の恋愛スキャンダルがネット上にもあまり無かった。
「雅臣さん、もしかしてあんまり恋愛の経験ない?」
「…ゼロではない」
「有名になった人が恋愛関係のスキャンダルで撮られて大打撃受けてるの知らない?」
「…結婚や子供が生まれたことがニュースになっているのはたまに見かけるが」
「テニス選手って…不倫とかしないの?」
「知らんが…あまり聞かない。なんだ唐突に」
「いや…日本だと不倫とか付き合ってるとかでよく週刊誌に撮られるのよ。それで仕事にダメージ受けたりしてる」
そう話すと、九条がしばらく黙った。
「テニス選手は、知名度が上がりスポンサーがつくことで収入が上がっていく。大会の賞金よりもスポンサーからの収入の方が多い。そこでスキャンダルを起こすとイメージに傷がつき、それだけでスポンサーが離れる。契約が一時凍結され、最悪そのまま解除になる」
「浮気で何億円も損害が出るってことね…」
「そうだ。割に合わない」
「確かに…」
いっときの欲望で何億、何十億の収入減は想像するだけで肝が冷えるだろう。
「じゃあ尚のこと私との旅行が撮られたらまずいじゃん!!」
「何故だ。後ろめたいことなど何もない」
「こっちは無くても世間は色々言うの!しかも何の知名度もない一般人と旅行はほんとまずいって」
「そうか?」
「あなた…人間には嫉妬って感情があるの知ってる?」
「知っている」
「知ってるのに、その反応!?」
「理解しているのと、気にするのは別だ」
「いや、そこは気にして!」
澪は思わず素でツッコんだ。
駅のホームの風が吹き抜けて、スーツの袖口を揺らす。
通話の向こう、九条の声は相変わらず落ち着いていて、嵐の中心みたいに静かだ。
「俺が誰とどこへ行こうが、他人の嫉妬は俺の責任ではない」
「でも、そうやって叩かれるのはこっちなんだってば!」
「叩かれたら、俺が止める」
「止められないよ、ネットの世界なんて!」
「止められる」
「どうやって!?」
「……氷川と弁護士の桐原がいる」
出てくる名前のスケールがいちいち大きい。
その冷静さがむしろ怖い。
「ちょっと待って、それ仕事モードの発想じゃない?」
「いつでも本気だ」
「いやいや、京都旅行に法務チーム出す人初めて見たから!」
澪はため息をつきながら笑った。
呆れ半分、愛しさ半分。
「ほんとにさ、そういうとこ、普通じゃないんだよね」
「普通に興味はない」
「知ってる」
「……」
「でも、たまには“普通の人間”として扱われること、嫌じゃないでしょ?」
九条は少しだけ黙った。
遠くで窓を開けるような音がして、静かな息が混ざる。
「お前が俺を普通に扱うから、俺はこうして喋ってるんだと思う」
「……」
あっけに取られた。
その言葉は淡々としているのに、妙に刺さる。
澪はしばらく無言のまま、iPhoneを握りしめていた。
「わかった。私に作戦がある」
「作戦?」
「うん。任せて。頑張るから」
「…?どういう意味だ」
九条の低い声が、わずかに訝しむように響く。
「つまりね、京都に行っても“怪しく見えない方法”を考えるの」
「怪しく見えない方法?」
「そう。まあ当日空港で待ってて」
作戦:怪しく見えない二人
京都旅行に行く当日の朝。
日本では連日、スポーツのニュースがテロップを流していた。
【九条雅臣、サンシャインダブル達成。今季22連勝】
そしてその名前の主が帰国する──と分かった瞬間、空港には黒山の人だかりができていた。
到着ロビーのガラス越しに、カメラのレンズが幾つも並ぶ。
報道陣、ファン、そして偶然居合わせた旅行客。
皆がスマートフォンを掲げて、まだ見ぬ“王者”の姿を待っていた。
「……すごい数ですね」
氷川がタブレット越しに映像を確認しながら言う。
「こっちは騒然です」
だがその頃、九条のプライベートジェットは別の滑走路──一般エリアから完全に離れたビジネスジェットターミナルに降り立っていた。
「……予定通りだ」
九条はシートベルトを外し、外の光を見つめた。
マイアミの太陽とは違う、冷たい春の光。
静寂。
同じ空港の敷地内に、歓声が沸き立つ場所と、音一つない場所が同時に存在していた。
澪と東京の空港で待ち合わせ。
九条は入国手続きはするが、人前には姿を現さない。表向きはあくまでも、日本にいるチームメンバーとの合流のために空港に寄ったことになっている。
氷川が澪を出迎えと、手続きのためにジェットの外へ向かった。
その後、現れたのは、若い小柄な男だった。
黒いマスクをして、黒縁のメガネをかけて、大きめのパーカーとデニムを履いた男子。
機内の窓から外を見た九条は一瞬、どこかの部外者が紛れ込んだか、IT担当の宙が嗅ぎ付けて来たのかと思った。
だが、タラップ近くにいたSPの藤代が「どうぞ」と通したのを見て気付いた。
あれは知り合いだ。
藤代はどんな姿の人間だろうと部外者なら絶対に通さない。
反対に、危険がない知り合いなら、どれだけ姿形が変わっていようと気付く。
犬なみの嗅覚なのか?と本気で疑うくらい、人間の見た目に惑わされない。
氷川や九条が気が付かなくても、信頼のおける人間だけをテリトリーに入れる。
その藤代がさっと体を避けて道を開けた。
そのわずかな反応だけで、九条は気付いた。
プライベートジェットのタラップを上がり、まっすぐこちらへ歩いてきた黒髪のマッシュショートの少年。
九条はわずかに眉を動かした。
「……澪か?」
マスクの奥から、抑えた声が返る。
「…正解。気付くの早すぎ。自信あったのに」
九条は軽く息を吐いた。
「お前、何をしている」
「見ればわかるでしょ。変装。…完璧じゃない?」
確かに、完璧だった。
体格の小ささが逆に功を奏して、少年にしか見えない。
立ち姿も、歩き方も、全く女性らしさがない。
九条は、ほんの一瞬、言葉を失った。
視線の先にいる“その少年”は、どこからどう見ても少年でしかない。
立ち姿も、歩幅も、服のシルエットも。
だが声を聞けば――確かに、澪だった。
「ネットでウィッグ買ったの。結構自然だよね、今のウィッグ」
彼女は無邪気に言って、前髪を指で払った。
黒髪のマッシュショートは少し長めに揃えられていて、顔をほとんど覆い隠している。
太めの黒縁フレームがその上から影を落とし、さらに黒いマスクが下半分を覆っていた。
「……自然すぎるな」
九条は低く呟いた。
「何も知らない人間が見れば、少年だと思う」
「でしょ? メンズ服って大きめで動きやすいんだよ」
澪は肩にかけた黒のスポーツバッグを軽く持ち直した。
それもまた、違和感がない。
もはや“少年の旅行者”そのものだった。
「……まさか、お前がここまで徹底するとは思わなかった」
「でしょ? “作戦成功”って言っていい?」
「まだ途中だ。これからが本番だ」
澪はマスクの下で口角を上げた。
「了解、隊長」
九条の眉がわずかに動いた。
「……呼び方を変えるな」
「だって今の私は任務中なんだもん」
藤代がそのやり取りに一瞬だけ喉を鳴らし、口元を覆った。
九条は気付かぬふりをして、視線を澪に戻した。
「……行くぞ。注目を集める前に」
「はい、了解、隊長」
その返事が妙に楽しげで、九条は無言で歩き出すしかなかった。
療養という名の旅
プライベートジェットの中は、静かに空調が効いていた。
淡い照明と革張りのシート。まるで高級ホテルの一室のような空間。
チームの数人がそれぞれ思い思いの姿勢で座っていた。
カザランが最初に声をかけた。
「久しぶり。……そのウィッグ、似合ってるじゃん」
澪はマスクの奥で目を細める。
「楽天で“男装”って検索したら出てきた。結構いい感じだよね」
「センスあるね」
「でしょ」
九条は何も言わず、通路を進む。
軽く顎で示すと、澪はその隣のシートに腰を下ろした。
短い指示だけで、まるでそれが当然のような呼吸の合い方。
「ところで、みんなも京都行くの?」
澪が尋ねると、氷川が淡々と返した。
「お二人が泊まる棟とは別です。表向きはチーム全体の“療養”という形です。九条さんの宿泊費はプライベート決済で、旅館全棟を貸し切っています」
「なるほど……リッチだなぁ」
蓮見が口角を上げる。
「お前らが泊まるのは離れだし、音とか聞こえねーから安心してな」
その瞬間、レオンが眉をしかめる。
「おじさん、それセクハラだからやめようね」
「セクハラじゃねーよ、親切だよ」
「どこがだよ」
レオンが深いため息をつき、志水が目を逸らした。
カザランは笑いを堪えきれず、肩を震わせている。
外の世界はまだ朝なのに、機内だけはまるで夜のように静かだった。
エンジンの低い唸りと、時折揺れるグラスの音。
そんな些細な音さえ、九条のチームにとっては“平和の証”のように聞こえた。
宙、現る
渡月橋近くの舟乗り場に着いた頃には、気温が少し暖かくなっていた。
川面を照らす灯がゆらゆらと揺れ、星のやへの舟が静かに待っている。
その舟の横で、見覚えのあるシルエットが手を振った。
細身のフーディーに、やたら軽装な“少年”。
「……なんでここにいる」
九条の声が、春の空気の中に低く落ちた。
そこに立っていたのは――チームのIT担当、倉科宙。
「俺も温泉行きたい。チームの“療養”なら俺も権利あります」
「呼んでないぞ」
「何故そんなタイミング良く現れる」
氷川が眉をひそめた瞬間、宙は胸を張って言った。
「チームメンバーの位置情報、全部把握してるんで」
その一言に、全員の動きが止まる。
「おい」
「こわっ」
「職権濫用だぞ」
「っていうか犯罪」
四方向から一斉に突っ込みが飛んだ。
宙は悪びれることもなく、にこりと笑って言い返す。
「だって、GPS管理もチームセキュリティの一環ですよ?想定内、想定内」
「想定外だ」
九条が即答した。
舟の係員が事情を察していないまま戸惑っていると、蓮見が肩を叩いて小声で言った。
「大丈夫です、うちの天才がたまに発作起こすんで」
宙は「発作じゃない」と真顔で反論し、藤代が深いため息をついた。
「……全員、舟に乗れ」
九条の一言でようやく動き出す。
春の舟、星の宿へ
屋形船に乗り込んで、旅館への道すがら、宙が「っていうか、この人誰?」と澪を見た。
「こら、失礼だぞ」
氷川が嗜める。
「だってこんな人知らない」
「後でちゃんと紹介する。今は黙って乗ってろ」
九条の声は低く、静かに命令の響きを帯びていた。
船を操る船頭がすぐそばにいる。
この“少年”が九条の恋人だとは、さすがの氷川でも言えない。
「はーい」
宙は素直に返事をし、桜の花びらが流れる川面をじっと眺めた。
春の光が水面をきらめかせ、屋形船の影がゆっくりと流れに溶けていく。
川風が頬を撫で、ほのかに花の香りが混じっていた。
やがて舟が静かに岸へと滑り寄り、舳先が桟橋に当たって柔らかい音を立てた。
星のやの桟橋には、すでに旅館のスタッフたちが整列していた。
昼下がりの陽光を反射して、屋根瓦が淡く光る。
白い着物の女将が一歩前に出て、穏やかな声を響かせた。
「この度は、遠路をようこそお越しくださいませ」
その物腰の丁寧さに、澪(少年モード)は思わず姿勢を正した。
九条の後ろで氷川が一歩前に出る。
「申し訳ございません。人数が一人増えました。食事はこちらで用意しますので、お構いなく」
氷川が深く頭を下げると、女将はにこやかに首を振った。
「いえいえ。本日は全館、九条様のご予約でございますので、お食事もご用意できます。どうぞご安心くださいませ」
その一言に、背後のチーム全員が一瞬だけ九条を見る。
本人は表情ひとつ変えず、ただ靴を脱いで板間に上がった。
蓮見が小声でつぶやく。
「さすが高級旅館。サービスが違うよね」
カザランが笑い、宙が感心したようにスマホを取り出して言った。
「Wi-FiのSSID、めっちゃ強そう」
「そこじゃねぇ」志水の冷たい突っ込みが飛ぶ。
廊下には川のせせらぎがかすかに響き、湿り気を帯びた木の香りが、光の中でやわらかく漂っていた。
澪は少年の姿のまま、九条の背を見つめた。
彼の歩幅に合わせながら、(ここに来るまで、ほんとに色んなことがあったな)と、マスクの下でそっと微笑んだ。
障子越しに光が揺れ、舟のゆらぎがまだ身体の奥に残っている。
川の音の中で
障子の向こうに、白く光る川面がちらりとのぞく。
陽光が水に反射し、天井や壁に淡い模様を描いている。
春の風が露地を抜け、木の香りと湿った土の匂いを運んできた。
「……静かだな」
蓮見が低く呟く。
「アメリカとは、まるで別世界だ」
九条は応えず、ただ無言のまま歩き続けた。
その背を追いながら、澪はマスクの下で微かに笑う。
ようやく――この人が“戦い”から解き放たれたのだと感じた。
旅館の奥で足を止めると、スタッフが襖を開け、深々と頭を下げた。
「こちらがお部屋でございます」
障子越しに、柔らかな昼の光がにじんでいた。
せせらぎの音と、風の匂い。
まるで世界の輪郭がゆるやかに溶けて、二人だけがその内側に残されたような午後だった。
九条が部屋に入ると、澪はマスクを外して、息を吐いた。
「ぷはー、やっと喋れる!」
少年のような格好に、女性の声が重なる違和感。
九条は荷物を開けながら、ちらりと横目を向けた。
「頭は外さないのか?」
「頭って言わないで。ウィッグだから」
澪は口を尖らせながら、髪を軽く引っ張って見せた。
「これ取ったらネット被ってるから、すごい見た目になるんだよ」
「それはぜひ見たい」
九条の声は淡々としているが、どこか愉快そうだ。
「やめて」
澪が顔を赤くして抗議すると、九条の肩がほんの少し揺れた。
笑ったのだ。
それだけのことで、澪の胸の奥が静かに温まった。
京都の春の午後、川の音が、まるでふたりの間に穏やかな時間を流していた。
障子の外からは、遠くに鳥の鳴き声が聞こえる。
陽光が、澪の頬の上でやわらかく揺れた。
マジで?
部屋のチャイムが短く鳴った。
「九条さーん、俺です」
廊下の向こうから、間の抜けた声がした。
九条は立ち上がり、静かに襖を開ける。
「どうした」
「氷川さんが、“形式上だけでも挨拶しとけ”って。……俺、そういうキャラじゃないんですけど」
面倒くさそうに立っている宙の顔には、“なんで俺が”と大きく書いてある。
九条は小さく息を吐いた。
「……少し待て」
襖を閉め、洗面台の方へ振り返る。
「宙が来た。入れていいか? 挨拶したいそうだ」
鏡の前で髪を直していた澪が、顔を上げた。
「うん、いいよ。どうせバレるし」
ウィッグを外し、素の髪を手ぐしで整える。
少年の輪郭がほどけて、澪の顔が戻っていく。
その動作の一つひとつに、旅先の空気がゆるやかに馴染んでいく。
九条が再び襖を開けると、宙はまだ同じ姿勢で立っていた。
「……待たせた。入れ」
「はいはい」
気の抜けた返事をしながら、宙は一歩部屋に入った。
次の瞬間、視線が澪に吸い寄せられ、完全に固まる。
「……え? 誰? いや、え、まじで?」
九条の視線がわずかに動く。
「さっきと姿が違うが、紹介する。綾瀬澪だ」
「……同一人物?」
「同一人物だ」
「……マジで?」
「マジだ」
宙は目をぱちぱちさせたまま、ため息交じりに笑った。
「いや、さっきまでマジで男子高校生だったんですけど。変身アプリより変わるじゃないですか」
澪は苦笑し、軽く会釈した。
「改めて、綾瀬澪です。初めまして。よろしくお願いいたします」
宙は慌てて姿勢を正し、ぺこりと頭を下げた。
「チーム九条のIT担当、倉科宙です。……さっきはすみません。完全に年下の男に見えてました」
「わかってる」
九条の低い声に、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
障子の向こうでは、昼の光を映した川面がきらめいていた。
水音が静かに流れ、風に揺れた枝の影が畳の上を撫でる。
その穏やかな明るさの中で、澪はふと笑みをこぼした。
マイアミの喧騒とは正反対の、“人間らしい時間”がここにはあった。

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