決意の証
翌朝。
テーブルの上にはレオンが用意した朝食が並んでいた。
パンに卵、フルーツ。ドバイらしくデーツも添えられている。
澪はコーヒーを手にしながら、ぼんやりした顔でパンをかじっていた。
「なんか変な夢見てた気がするんだけど……忘れた」
「……」
九条は何も言わずに、サラダを口に運んでいる。
澪は肩をすくめて、パンをもうひと口。
「でも、朝からちゃんと食べられるのは幸せだな〜」
「食べろ。昨日の消耗も残っている」
「はいはい、監督みたい」
レオンが調理器具を片付けながら、首をかしげる。
「消耗って?それ、きいてもいいやつ?w」
「ち、ちがうから!」
澪が慌ててフォークを置き、真っ赤になって否定する。
「昨日はしてないから!!」
九条は無言で紅茶を口に運び、視線を落としたまま微動だにしない。
「いや、正直すぎるでしょ」
レオンが苦笑いしながらフルーツをつまむ。
澪は耳まで赤くしながら、パンにかぶりついてごまかした。
朝食を終え、出かける支度を整えた澪が、玄関に向かいかけて足を止めた。
「私さ……」
振り返って、九条に声をかける。
「ん」
短く応じる九条に、澪は少し考え込むように言葉を続けた。
「別に、人に好かれなくてもいいって思ってたのね。好かれてもそんなに嬉しくもないし、嫌われても平気だって」
九条は何も返さず、ただ耳を傾けている。
「でも、実際は……嫌な女になりたくなくて、どっちつかずな態度をとってたのかもって思ったの。良い人に心配してもらえたり、気にかけてもらえたりすると……やっぱり嬉しいって思えたし。だから、カザランにお礼言っといて」
わずかな沈黙ののち、九条が低く呟いた。
「……あの顔で、どっちつかずか」
澪は苦笑し、軽く目を閉じた。
「そこ!? そんな冷たい顔してたの、バレるぐらいだったってことだよ。外から見ても相手がまともじゃないって、今回の件でやっと分かった」
そう言って、バッグを手に取る。
「じゃ、行ってきます」
九条は短く視線を送り、低く告げた。
「気を付けろ」
「はーい」
軽やかに返す澪の背中を見送りながら、九条は無言のまま深く息を吐いた。
ボートショー会場。
澪の立ち居振る舞いは、昨日までとはわずかに違っていた。
客に対してはいつも通り、親切で礼儀正しい。
だが、同僚の男性に対しては――もう、曖昧に笑ってごまかしたりはしなかった。
肩に触れられれば、一歩引いて距離をとる。
不用意に近づかれれば、すぐに話題を切り替えて空気を変える。
表立って問題は起こさない。だが「黙って耐える」ことも、もうしない。
その小さな変化は、彼女の中の決意の証だった。
ぼっち飯ですが何か?
「いつも夜どこ行ってるの?」
同僚にそう尋ねられ、澪は一瞬だけ言葉を探した。
みんなと同じホテルに帰るはずなのに、自分だけいつの間にか姿を消している。
不審に思われても当然だった。
「……一人で食事に行ってるだけですよ」
淡々と、短く答える。
相手は「ああ、そうなんだ」と納得したように頷き、それ以上は追及してこなかった。
澪はにこやかに微笑んで話題を切り替える――その笑顔の奥に、誰にも言えない秘密を隠したまま。
大会モードの予兆
同じ頃、アビエーション・クラブ・テニス・センター。
コートに立つ九条は、もう大会を意識した“集中モード”に切り替わり始めていた。
打ち合う球は一球ごとに鋭さを増し、相手のショットを読む眼差しには一切の隙がない。
チームメンバーも無駄口を挟まず、ただその姿を見守っていた。
「……少しずつ、試合の顔になってきたな」
蓮見が小声でつぶやく。
「大会が近いですからね」
志水が淡々と応じる。
球の音が乾いた空気を切り裂き、観客のいないコートに響いた。
九条の周囲だけ、もう試合本番のような緊張感に包まれていた。
昼の練習を終え、簡単な食事をとる時間。
いつもなら澪から「そっちはどう?」と電話がかかってくる頃だったが、この日は静かなままだった。
九条は一度だけスマートフォンを見やり、指先で番号を選ぶ。
「……様子を見る」
誰に告げるでもなく、短くつぶやいて発信した。
数コールの後、澪の声が明るく響いた。
『あ! 雅臣さん! ごめん、今日お昼バタバタしてて電話できなかった!』
その元気な声を聞いた瞬間、九条の肩からわずかな力が抜けた。
「そうか」
それだけを返し、無表情のまま食事を口に運ぶ。
「元気そうで良かった」
九条が短く告げると、澪が弾む声で返した。
「うん。あ、そういえばね――サングラスの異様な集団がいたって、会場でちょっと噂になってたよ。殺し屋みたいで怖かったって」
「………」
電話口の九条は沈黙した。
表情は変わらないが、背後で昼食をとっていたチームの数人が小さくむせた。
「………」
短い沈黙のあと、九条は無表情のまま低く告げた。
「気にするな」
「そっか。まあ、もう見ないといいなー」
澪はあっさり流して、次の話題へ移った。
電話が切れると同時に、蓮見が小さく吹き出しそうになる。
「……俺ら、殺し屋扱いかよ」
レオンとカザランが肩を震わせ、氷川が咳払いで場を整えた。
「今日も遅いのか?」
九条が淡々と問いかける。
「昨日ほどは遅くならないかなー。なんで?」
澪の声は相変わらず明るい。
「できれば、買い物に行きたい」
一瞬の沈黙のあと、澪が大げさに声を上げた。
「うわ、めずらし!」
電話口から伝わる笑いに、九条は表情を変えないまま小さく息を吐いた。
「買い物どこ行くの?」
澪が楽しそうに聞く。
「………言わない」
九条は無表情のまま短く答えた。
「なんでよw」
澪が笑い声を混ぜて突っ込む。
「言えば、余計な詮索をするだろう」
「するする!気になるもん!」
「……だから言わない。行けば分かる」
九条は淡々と告げる。
「秘密♡って言ってくれればいいのに」
澪が茶化すように笑う。
「………」
電話口の沈黙が、逆におかしくて澪は吹き出した。
「もう!ノリ悪い!でも、楽しみにしとく!」
澪が明るく言い切る。
「……ああ」
九条は短く返す。
たった一言でも、それでいい。
澪は満足げに笑い、「じゃあね」と通話を切った。
スマートフォンを静かに置いた九条の横顔は、やはり無表情のままだったが――その沈黙の奥に、確かな意志があった。
ロボットの成長
電話を切ったあと、澪はスマートフォンを机に置き、ふっと笑った。
最初の頃の九条を思い出す。
休みの日に「何したい?」って聞いても、返ってくるのは「わからない」とか「お前は?」ばかりだった。
興味がないのか、本当に分からないのか――とにかく、自分から何かを望むことはなかった人。
その九条が、今は自分から「買い物に行きたい」なんて言う。
「……成長したな〜」
しみじみと呟いて、澪は一人でくすっと笑った。
澪が資料を整えていると、例の先輩が横からのぞき込む。
「今日、機嫌悪いの? ……もしかして“あの日”?」
吐き気のするような言葉。
けれど澪は、瞬きひとつ変えなかった。
「忙しいだけです。失礼します」
感情の一切を削ぎ落とした声でそう告げ、資料を抱えたまま先輩の脇をすり抜ける。
顔も向けない。視線も合わせない。
無。完全に無。
「今日、綾瀬さん様子おかしくない?」
「うん……お客さんと接してる時は笑顔なんだけど」
「それ以外の時間、いつにも増してクールだよね。目も合わせない感じ」
同僚たちが小声で囁き合う。
それを耳にした澪は、ふと振り返るが――表情ひとつ変えない。
ただ資料を抱え、無表情で足早に持ち場へ戻っていった。
夜のお買い物
黒塗りの車のドアが、氷川によって静かに開けられる。
澪が乗り込むと、すぐ隣に九条も腰を下ろした。自然な流れのようでいて、絶対に隣を譲らない。
「お疲れさまです、九条さん、澪さん」
運転席に座り直した氷川が、バックミラー越しに一言だけ告げる。
車内は広く静かだった。
九条のスーツの袖が澪の手に触れそうで、わずかな距離感が胸をざわつかせる。
「モールまで十五分ほどです」
「……ああ」
九条は短く返すだけ。
澪は、さっきまでの仕事モードから解放されたのか、こっそり大きく息を吐いた。
窓の外には、黄金に輝くドバイの夜景。
九条は腕を組んだまま無言で座っていたが、その沈黙の横顔に守られている気がして、澪は不思議と落ち着いていった。
煌びやかなモールの一角。ガラス張りのファサードに「HERMÈS」の文字が輝いていた。
澪は足を止め、ぽかんと口を開ける。
「……え? ええっ? ここ?」
「……」
隣で手を引いたまま、九条は迷いなく中へ入ろうとする。
「ちょ、待って待って! これエルメスだよ? ほんとに? まさか間違ってない?」
「知ってる。書いてある」
九条はいつもの無表情で、当たり前のように返す。
「いやいやいや……ここに来る人って、バーキンとかケリーとか、そういうの買うんじゃ……」
「Apple Watchのバンドだ」
あまりに淡々とした答えに、澪は思わず素っ頓狂な声をあげた。
「……え、バンド!? あの、時計の!? そんなの売ってるの!?」
澪の脳内には、「エルメスはバーキンという高いバッグを売ってる店」の幻が浮かんで消えた。
九条はブランドが好きではないのに、商品知識は自分よりあるかもしれない。
そのギャップに、胸の鼓動が落ち着かなかった。
過去に、誰かに買って贈ったのかもしれない。
どれにする?
トレーの上に、ずらりと並べられたApple Watchバンド。
澪は思わず身を乗り出した。
「え、こんなにあるの? シンプルトゥールに、ドゥブルトゥール……名前からして呪文みたい!」
「……一番丈夫なものを」
無表情で言い放った九条に、店員は一瞬固まった。
「いやいや、丈夫さで選ぶものじゃないでしょ!」澪は慌てて突っ込む。
「……使うのはお前だ。選べ」
澪は真剣に悩みながら、白いバンドを手に取る。
「こっちの“H”のバックルが可愛い。白かピンク、どっちもいいなぁ」
「……主張が弱い」
「えー! 主張強いのは嫌! 私が使うんだよ!」
九条は一瞬黙り込み、わずかに眉を寄せた。
「……ならそれでいい」
澪は勝ち誇ったように笑いながら、店員に「これでお願いします」と告げた。
澪が白い“H”のバックルのバンドを抱え、にっこりと笑った。
「これにする!」
その笑顔を横目に、九条はすでにブラックカードを差し出していた。
店員が恭しく受け取る。
「えっ、ちょっと待って! 私払うよ!」
慌てて澪が財布を取り出すが――
「俺が連れて来た」
淡々と一言で切り捨てられる。
「いやでも、これは私の……」
「言い争うだけ時間の無駄だ」
「…………」
勝ち誇っていたはずの澪が、今度はしゅんと黙り込む番だった。
横で手続きを進める九条は、いつも通りの無表情。
けれど澪には、その姿がなぜか頼もしく見えてしまう。
試す価値
「ブランド品とか好きじゃないのに、なんでエルメス来たの?」
澪が、白い“H”のバックルのバンドを大事そうに撫でながら尋ねる。
九条は前を向いたまま、ほんの僅かに息を吐いた。
「……分かりやすい物が良いんだろう。お前が守られていると」
「あー……カザランが言ってたやつ?」
「くだらないが、目に見えるもので他人の反応や見る目線が変わるなら、物は使いようだ」
澪は思わず笑ってしまった。
「くだらないって言いながら、ちゃんとアドバイス実行するんだ?」
澪が半分からかうように笑う。
「俺達には無かった発想だ。……試してみる価値があるかもしれないと思っただけだ」
九条は淡々と答える。
「じゃあ、頑張って“彼氏に買ってもらいました”って言ってくるね」
澪は腕に新しいバンドをつけ、拳を軽く握って見せる。
「……頑張って“嫌な女”とやらになってこい」
「嫌われたら慰めてね」
澪が冗談めかして笑うと、九条は無言のままこちらを見た。
その表情に冗談を返す余地はなく――澪は思わず視線をそらした。
食後に練習タイム
「今ちょっと、軽く練習するから見て」
澪が立ち上がって姿勢を整える。
「……ああ」
九条はソファに腰を掛けたまま、表情を変えずに頷いた。
興味がないように見えるのに、その視線は一瞬たりとも澪から外れない。
「……あ、あの、これ……か、彼氏が……えっと……彼氏に…」
最初の一言から盛大に噛んだ。
九条の眉がぴくりとも動かない。
「……わざとらしい」
「うるさいな! 今のは練習だから!」
澪は顔を赤くして言い返すが、口元が引き攣っている。
「顔が引き攣ってる。声も裏返った。……とんだ大根役者だな」
「ダメ出し多すぎるでしょ!!」
「ほら、頑張れ。せめてセリフぐらい言え」
無表情でスパルタな指導。
「……えっと……このApple Watchのベルト……か、彼氏が……」
澪の声が小さく裏返る。
「弱い。トーンが死んでる。目を見ろ」
「ちょっと! 私オーディション受けてるんじゃないんだけど!?」
思わず叫んだ澪に、九条は淡々としたまま、肩をすくめた。
「彼氏に買ってもらったんです!!」
謎に気合いが入りすぎて、澪の声がホテルのスイートに響いた。
「よほどアピールしたいんだな」
「いや、これはほら……伝わらないと意味ないから!」
「エルメスのバンドを買ってもらったとは、なかなかに嫌味だな」
「いやいやいや、演技だし! 仕方なく言っただけだし! そもそも本当は自分で払おうと──」
「その本体は自分で買ったのか?」
「ほ、本体も……彼氏に……」
「声が小さい」
「彼氏に買ってもらったんです!!」
澪の声が二度目に一段と大きくなった。
「……まぁ、合格とする」
「何それ!!」
澪は怒ってクッションを叩く。だが九条は表情一つ変えずに座っていた。
ただ、わずかに目の奥に宿る光だけが、ほんの少しだけ満足げだった。
「完全に私の演技見て楽しんでるでしょ!!」
澪がソファに座り込み、クッションを抱えて抗議する。
「そんなに演技に自信があるのか」
「そういう意味じゃない!!」
九条は一切動じず、低い声で返した。
「明日、スムーズに言えるように協力してる。……そろそろ慣れてきた頃だろう。もう一度」
「うう……」
結局、澪は渋々立ち上がり、胸の前でApple Watchを掲げる。
「か、彼氏に買ってもらったんです!」
「声が不自然だ。今のは嘘をついているようにしか聞こえない」
「嘘じゃないんだけど!? あーもう!!」
その後も寝る前まで、何度も何度も繰り返させられた。
練習という名の拷問。
九条は無表情のまま淡々とダメ出しを続け、澪は最後には布団に突っ伏して「私、俳優になれない……」と呻く羽目になった。
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