佐藤との過去
「新卒で入社したばかりの頃だった」
澪の声は静かで、淡々としているのに、どこか硬さがあった。
「右も左も分からなくて、社会人としてのルールも一から覚えなきゃならなかった。だから、最初にフレンドリーに親切にしてくれる先輩がいたのは、すごく有り難かったの」
数ヶ月が経ち、少しずつ職場にも馴染んできた頃。
ある日、何人かで食事に行こうと誘われた。澪は頷いた。
メンバーの中には、その“例の先輩”もいた。
「数人なら大丈夫だと思った。……でも、行ってみたら、私を含めて四人だけだったの。他の三人は全員男性」
食事の場は普通に進んだ。けれど、早い段階で二人が「用事がある」と言って帰ってしまった。
「その帰り方が、なんだか不自然だったんだよね。でも、深追いはしなかった」
残されたのは、澪と先輩の二人。
まだ電車がある時間で、「話がある」と言われて残ったが――内容は曖昧で、何が言いたいのか分からなかった。
やがて閉店時間になり、「場所を変えよう」と誘われる。
「本当はそこで帰ればよかった。けど、若かったし、相手は先輩で……。強く断れなくて、ついていっちゃった」
結果、終電を逃した。
そして――その言葉が来た。
「この後どうする?」
「『この後どうする?』って。どうするもなにもないのに……答えられなかった。そしたら、ホテルに誘われた」
澪は唇を噛みしめ、目を伏せる。
「その瞬間に分かった。最初からそれが狙いで、あの二人もグルだったんだって」
九条の沈黙を感じながら、澪はかすかに首を振った。
「……“そんなつもりじゃありません”って、断った」
澪は言い終えても、すぐには顔を上げなかった。
隣の九条は、ただ黙って座っていた。
相槌も、慰めの言葉もない。
けれど、最後まで一言も挟まずに聞き続けるその沈黙が、澪には強く伝わってきた。
「腕を掴まれたけど、怖くて、気持ち悪くて……振り払って逃げた」
澪はかすかに唇を震わせながら続けた。
「あの食事の店、最初から決められてたの。職場から微妙に離れた場所で……タクシーなら三十分。夜中に乗れば二万は超える距離」
新卒で、給料も少なく、一人暮らしを始めたばかりで貯金も減っていた澪にとって、それは大きすぎる出費だった。
「だから、結局カラオケに入った。お酒も入ってて辛かったし……始発までの時間、少しでも横になりたくて」
三時間ほど、眠ったのか眠っていないのか分からないまま休み、始発で帰宅。
その足でシャワーを浴び、髪を乾かし、すぐにメイクをして出勤した。
「ろくに寝てなくて、一日中、内臓が痛かった。昼にトイレで吐いちゃって……アルコールも抜けてなくて、ほんと最悪で」
それでも仕事は待ってくれない。
夜までフルタイム勤務をこなし、心身ともに限界に追い込まれた。
「……なのに、次の日もその人は平然と話しかけてきたの。もう、その時点で大嫌いな人間になってた」
澪は小さく息を吐き、布団の端を握りしめる。
「それ以来……私一人だけが、冷戦状態のまま、続いてる」
九条は、ただ黙って聞いていた。
慰めも怒りも言葉にはしない。
だが、その沈黙には、確かな重みがあった。
沈黙の内側にあるもの
澪の話が途切れた。
寝室には、二人の呼吸音だけが残る。
しばらくの沈黙の後、九条が低く短く告げた。
「……分かった」
それ以上の追及も、感情の言葉もない。
ただ受け止め、胸の奥に刻んだ声だった。
「………眠れるか?」
九条の問いに、澪は掛け布団を握ったまま小さく頷いた。
そして、小さな声で続けた。
「……手、握ってて」
その一言に、九条は静かに手を伸ばした。
無言で、澪の指先をしっかりと包み込む。
澪の呼吸が、少しずつ落ち着いていった。
九条の大きな手に包まれ、澪はようやく布団の中で力を抜いた。
「……寝ろ」
短く、それだけを告げる声。
命令のようでいて、不思議と優しさが滲んでいた。
澪は微笑んで、瞼を閉じる。
そのまま安堵に沈むように、静かに眠りへ落ちていった。
澪の呼吸が、静かに整っていく。
その手を握ったまま、九条はじっと隣にいた。
やがて彼女が完全に眠りに落ちたのを確かめると、九条はゆっくりと手を離し、肩が冷えないように掛け布団を引き上げてやった。
寝室は静寂に包まれていた。
九条はただ、無表情のまま彼女の寝顔を見た。
――仕組まれて、逃げ場を奪われた。
若さと立場の弱さにつけ込まれて。
胸の奥で、冷たい怒りがじわりと広がる。
内心を口には出さない。それを言っても、彼女を余計に傷つけるだけだ。
(くだらない。だが、くだらないからこそ許せない)
言葉にすれば、彼女は安心するのかもしれない。
だが九条はそれを選ばなかった。
――寝る前に聞く話ではなかった。
胸の奥に沈殿するのは、強烈な不快感と怒り。
澪の口から語られた過去を思い返すたび、胃の底がじわりと熱くなる。
澪が「カラオケで始発まで横になった」と口にした瞬間。
九条の頭の中に、その光景が浮かんでしまった。
鍵のかからない扉。外から丸見えのガラス。
その向こうで、若い女が一人、ぐったりと横になっている。
バーでの様子を見るに、澪はアルコールに強くない。
もし酔いに任せて眠ってしまっていたら――。
もし、あの場所に別の男が押し入っていたら――。
想像しただけで、脳の血管が切れるんじゃないかと思うほどの怒りが込み上げた。
吐き出す言葉は見つからなかった。声にしたら、理性が保てない。
だから九条は、ただ沈黙した。
無表情のまま。
だが、その沈黙の奥に潜むものは、誰にでも分かるほど冷たい怒気だった。
感情を顔にも声にも出さず、最後まで聞き通した。
それでも、心の奥で膨れ上がったものは消えない。
なぜ、あの男が澪に執着するのか。
九条は、眠れぬまま推測を重ねていた。
カザランが会場で口にした放送禁止用語――下品な表現だと切り捨てた。
だが、あながち的外れでもない。
要は、そういうことなのだ。
叶えられなかった欲望が、対象への執着を生む。
「手に入れられなかった」という事実が、相手の中で歪んだ形で膨れ上がり、やがて執念に変わる。
九条の指先に力がこもる。
「……くだらない」
九条は心の中で切り捨てた。
叶わなかった欲望を執着に変えるなど、取るに足らない。
それで人を縛り、苦しめるなど愚の骨頂だ。
だが――執着される側にとっては、溜まったものではない。
くだらなさが免罪符になるわけでも、澪の疲弊を軽くするわけでもない。
九条は床を見据えたまま、静かに拳を握り込んだ。
怒りが、眠気を許さなかった。
眠れなかった朝
翌朝。
朝食を済ませ、澪を会場へ送り出した。
何事もなく。蒸し返さず、掘り返さず。
九条は普段通りの顔を保った。
だが、その胸の奥では別の声が冷たく響いていた。
――このままでは済まさない。
澪の笑顔の裏にある影を、放置するつもりはなかった。
練習に向かうために下へ降りると、ロビーに普段はいない顔があった。
専属美容師のカザランだ。
彼女は練習には付き添わない。
髪や外見を整えるのが役割であり、コートに立つ九条にとって練習中にはその意味はほとんどない。
だからこそ、そこに立っていること自体が異例だった。
通常、練習に同行するのは――
マネージャーの氷川、医師の神崎、トレーナーの志水、理学療法士の早瀬、栄養士のレオン、そしてコーチの蓮見。
それが“いつもの顔ぶれ”だ。
だが今朝は、その輪にいないはずの人物が待っていた。
ロビーに立つカザランは、腕を組んだまま九条を見据えた。
「……どうでした? 話、聞けました?」
直球だった。
正直に言えば、彼女はこの件に関しては部外者だ。
だが、その一線を超えてまで澪を心配しているのが、言葉の調子で分かった。
九条は立ち止まり、短く視線を返した。
「聞いた。だが詳細は彼女のプライバシーに関わる」
九条が低く答えると、カザランは一歩も引かずに続けた。
「じゃあ……過去に寝たことあるかどうかだけ、教えてください」
爆弾のような直球を放ったカザランに、九条は眉一つ動かさなかった。
その沈黙を破ったのは氷川だった。
「……とりあえず、二人とも車に乗ってください。朝のロビーで話すことではありません」
声は低いが、有無を言わせぬ調子。
「いくらここがドバイで日本語が通じないからと言っても、言葉を選ばなすぎです」
そういう話は車内で
車が動き出してしばらくの沈黙のあと、九条が低く一言だけ落とした。
「……ない」
その声に、助手席のカザランがぱっと顔を上げる。
「あ、じゃあ――まだ無いけど、押せば行けると思ってるんだ、あの男。澪さん、めっちゃ嫌な顔してたもんね」
直感的な断言。
女性としての感覚なのか、カザランの声音には妙な説得力があった。
「……」
九条の表情は変わらない。
だが、空気はさらに冷えていった。
カザランが思い出したように口を開いた。
「でさ、九条さん気付いた? あの男、左手の薬指に指輪してた」
ハンドルを握る氷川が、バックミラー越しにわずかに目を見開いた。
「……あの距離でよく見えましたね」
「視力めちゃくちゃ良いんで」
カザランは肩をすくめて言い放つ。
九条は無言のまま、窓の外へ視線を流していた。
静かな車内に、さらに冷たい気配が広がった。
カザランはシートに背を預けながら吐き捨てるように言った。
「そりゃ不快感を顔に出すよね。……何歳なんだろ、あの男」
「三十代半ばから後半に見えましたね」
ハンドルを握る氷川が淡々と返す。
「奥さんも、子供もいるかもしれないのに、若い子にあの距離感で絡むって……最悪だな」
カザランの声色には、怒りと呆れが入り混じっていた。
九条は何も言わない。
だが、無言の圧力だけが車内を冷やしていた。
「で、具体的にどうすんの? 九条さん」
カザランの問いは、遠慮がなかった。
後部座席で腕を組んだまま、九条は短く返す。
「……あの男を調べられるか?」
運転席の氷川が、ルームミラー越しにわずかに目を細める。
「宙にも依頼しますが、最低限の情報は取れます。名前と住所、既婚かどうか、過去の評判程度なら」
「でもさ、近付けさせないことを優先した方が良いと思うよ。あの様子だと、一日話しかけられただけで相当疲れる」
カザランの声には、昨日の澪の顔を思い出した苛立ちがにじんでいた。
「……見れば分かる」
九条は短く言い切る。
遠ざけるアイデア
「じゃあさ、なんかアイデアある?」
カザランが身を乗り出してくる。
運転席から氷川が冷静に補足した。
「彼女は接客担当ですから、完全に遮断するのは不可能です。会社に配慮してもらうのが一番ですが、あの様子では、会社には何も伝えていないのでしょう。接触される度に消耗し続けます」
座席の1つに座る神崎が、眉間に皺を寄せながら頷いた。
「精神的な消耗を減らすのが先決だな。体調に響けば、本当に危険だ」
「ここで私から提案があります」
カザランがまっすぐに九条を見る。
「なんだ」
「……ああいう男って、要は彼女が“誰にも守られてない”と思ってるから、不用意に近付くんだよ。何をしても自分に害は無いって、そう思い込んでる」
言いながら、カザランの声には怒気がにじんでいた。
同性としての直感、そして軽蔑。
九条の奥歯がわずかに噛み合わさる。
卑劣すぎて、反吐が出る。
「だから、自分よりも強い者に守られていると示せばいい。分かりやすいのは、権力者の嫁とか……手を出せばただでは済まないと分かる相手が守ってると分かる。ヤクザとかね」
「……九条の正体を明かすという意味ですか?」
運転席の氷川が訝しげに問いかける。その声音は、“それだけは許さない”と告げていた。
「それは九条さんも、澪さんも望まないんでしょ? だから、遠回しに分かるようにするのが一つの手」
「というと?」
カザランは不敵に笑い、両手をパッと広げた。
「はーい、ここでカザランのマウント大作戦その1ー!」
「……番組じゃないんだから」
助手席のレオンが呆れ気味に突っ込みを入れる。
「ひとつ! 金ピカのフェラーリ乗ってるとか、そういう分かりやすーーーーい金持ちと付き合ってると見せる!」
カザランが声を張り上げて宣言した。
「……うわぁ」
助手席のレオンが、あからさまに引いた顔をする。
「いやいやいや、引くのは分かるけどさ。効果はあるでしょ? “下手に手を出したら、こいつに潰される”って周囲に思わせればいいんだから」
「発想が極端すぎるんですよ」
氷川がため息をつきながらハンドルを切る。
「その2! 澪さんの持ち物に“権力を滲ませる系”をひとつ足して、『彼氏にもらったの♡』ってやる!」
カザランが目を輝かせて両手を叩く。
「……想像できませんね」
それまで無言で座っていた早瀬が、興味なさそうな声でぽつりと漏らした。
その無表情な一言に、車内の空気が微妙に揺れる。
聞いていないようで、ちゃんと聞いているのが早瀬らしい。
「いや、想像はできなくても効果はあるの! “そういう後ろ盾がいる”って、無言で知らせればいいんだから!」
「はぁ。そういうものですか」
「その3! 相手の好みの範囲から徹底的に外れる!」
カザランは指を三本立てて高らかに宣言する。
「金髪でスタッズがついた革ジャンとか着て、見た目からして“刺々しい女”を演じる!」
「……急にそんなことしたら不自然じゃない?」
レオンが半眼で返す。
「いいの! 何も言わずに見た目だけ変える! ただこれ……仕事柄無理っぽいんだよね〜」
「無理でしょうね。顧客からの悪評に繋がりかねない」
氷川が淡々と切り捨てる。
「だよねぇ」
カザランは肩をすくめて、あっさり自分でオチをつけた。
合コンのノリ
「否定ばっかしてないで、あんた達も考えてくださいよ〜」
カザランは腕を組んで、にやりと笑った。
「こんなに男がいるんだから。ほら、例えば気になってる女の子がいたとして……何が起きたら、もう追うのやめようって思います?」
車内に一瞬の沈黙が落ちる。
恋バナのような問いかけに、全員がわずかに顔をしかめた。
「……軽く答えられる質問じゃないですね」
最初に口を開いたのは氷川だった。真顔のまま、静かに言い切る。
「順番に答えて! 過去の経験でもいいし、想像でもいいから! はい!」
カザランが手を叩いて強制的に仕切った。
「……学生時代の合コンか何かですか」
氷川がうんざりした声を漏らす。
「いいから! はい、まず蓮見さん!」
「俺かよ」蓮見が眉をしかめる。
「……既婚者だから答えづらいわ」
「昔の話でもいいんですって!」
「……じゃあ、他に相手がいるって分かった時かな。さすがにそれ以上は無理だろ」
「ほら〜そういうのそういうの! はい次! 志水さん!」
カザランに振られても、志水は表情を変えずに答えた。
「……拒絶の表情を見たら、ですかね。あれ以上のサインはない」
「おお〜真面目! はい早瀬さん!」
「興味ないですけど」
「そこをなんとか!」
「……相手が体調を崩すほどなら、普通は引きます」
「うわ、職業病〜!」カザランが笑って手を叩く。
「じゃあレオン!」
「んー、僕は……笑顔が消えた時、かな。好きなら笑っててほしいし」
「うわー優しい!ポイント高い!」
「じゃあ神崎先生!」
「……何かを強制した時点で終わりです。医者としても、人としても」
その静かな断言に、車内が一瞬だけ重くなる。
「おお〜シビア!でも納得!」
「じゃあ最後、氷川さん!」
「……」運転席でハンドルを握ったまま、氷川は短く言った。
「“相手の意思を確認しない”行為はしません。これ以上に無礼なことはありませんから」
「うわ〜正論!さすが大人!」
カザランが満足げに手を叩いたあと、わざとらしく振り返る。
「で、九条さんは?」
少しの沈黙のあと、九条は窓の外に目をやったまま淡々と答えた。
「……顔に出るから分かる」
「出たよ、シンプル!」
カザランが大げさに笑って手を叩く。
だが他のメンバーは、妙に納得したように黙った。
確かに――澪の表情が曇った時、真っ先に気付いたのは九条だったからだ。
「結論! 全員性格良すぎ! 失格!!」
カザランがバンッと手を叩いて笑い飛ばす。
「……なんの審査だったんですか」
氷川が深いため息をつく。
「いや〜、もっと“浮気されたら即切る!”とか、“金なくなったらバイバイ!”みたいなの期待してたのに!」
「発想が下世話すぎるんですよ」
神崎が呆れたように返すと、車内には小さな笑いとため息が漏れた。
いつから?
「相手は嫌がってることを承知の上で、押せ押せで来る既婚者ですよ!?」
カザランの声が一段高くなった。
「そういう奴と戦うためには、思考を読まないといけないんですよ! しかも澪さんの仕事上の評判を下げずに!! わかってます!?」
普段は茶化すことの多い彼女の真剣な声音に、車内が静まり返る。
レオンも、早瀬も、志水も黙っていた。
ふざけ半分に聞こえた作戦の数々は――結局、全部“澪を守るため”の言葉だった。
「……分かっている」
九条の低い声が落ちる。
「分かってるんなら考えて! なるべく即効性があるやつ! もう今日にでも効果が出るような作戦!!」
カザランが身を乗り出すように畳み掛ける。
「てかあの男と関わり出したのいつ!? いつから始まってるか聞きました!?」
九条は視線を逸らさずに答えた。
「……年齢を計算するに、四〜五年だな」
「なっが!!」
カザランがシートに沈み込みながら叫ぶ。
車内に微妙な笑いと緊張が同時に広がった。
「それほど長い間続いていたなら……なおさら慎重に」
運転席から氷川の声が落ちる。冷静で、温度のない響きだった。
カザランは即座に振り返る。
「四〜五年苦しめられた挙句に、“もう少し頑張れ”って言われたら、精神持ちます?」
問い詰めるような声色に、車内の空気が再び重く沈む。
氷川は口を閉ざした。だが、彼女の言葉は全員の胸に刺さっていた。
本当に乗る?
沈黙ののち、九条が低くぼそりと呟いた。
「……俺が金色の車に乗れば収まるのか?」
一瞬、車内が静まり返る。
そして全員の脳裏に――無駄に眩しい金ピカのスーパーカーを無表情で運転する九条の姿が浮かんだ。
「……似合わなすぎて笑える」
レオンが吹き出す。
「いや待って、それでサングラスでスーツとか着てたらギャグでしかないでしょ」
カザランが両手で顔を覆う。
「発想が極端すぎます」
氷川の冷静な突っ込みが、余計に可笑しさを際立たせた。
笑いが落ち着いた頃、九条が低く口を開いた。
「……当事者がいないところで相談しても埒があかない」
全員の視線が自然と彼に集まる。
「彼女に、どうしてほしいか聞いてみる。勝手に動くのは、良い結果を生まない」
その言葉に、誰も反論はしなかった。
プロの冷静さと、一人の男としての誠実さが同居するその声音に――場の空気が静かに収束していった。
妄想で爆笑
夜。
澪がシャワーを終えて戻ってきた頃、九条はソファに腰掛けたまま口を開いた。
「……今日、風早が提案した“作戦”がある」
「作戦?」
澪はバスタオルで髪を押さえながら首を傾げる。
「ひとつ。金色のフェラーリに乗っている男と付き合っていると見せる」
「ぷっ……! あははははっ!!」
澪はタオルを押さえたまま、耐えきれずに笑い出した。
「なにそれ!? 雅臣さんが金ピカのフェラーリ乗るの!? やばすぎるって!」
「……俺が乗れば収まるのか、と聞いたら全員が笑った」
九条が淡々と告げると、澪はさらにお腹を抱えて転げるように笑った。
澪は腹を抱えて笑いながら、ふと頭に浮かんでしまった光景を口にした。
「……ちょっと待って、想像しちゃった……」
「何をだ」
「金ピカのフェラーリで迎えに来る雅臣さん……!」
ベッドに転がりながら、声にならない笑いをこらえきれない。
「サングラスして、真面目な顔で『乗れ』って……! しかも、そういう車が好きなんじゃなくて、渋々やらされてるの!眉間に皺寄せて!」
九条は黙って見下ろしたままだったが――耳の奥が、わずかに赤かった。
「乗りたいと思う? 金のフェラーリ」
澪が涙目で問いかける。
「……一生、乗りたいと思う日は来ない」
九条の返答は即答だった。
「ですよね! でも乗ることを考えたんだ!」
「今も考えている」
「ぶはっ……!」
澪はまたベッドに沈み込んだ。
九条は眉間に皺を寄せ、真剣な顔で続ける。
「……本当にやらなければならないなら、やる」
その声音は、まるで清水の舞台から飛び降りる覚悟のようだった。
残りの提案
澪は笑い過ぎて呼吸困難になりかけていた。
「なにこの人……真面目天然すぎる……!!」
澪は笑いながら枕を抱きしめて転がる。
「しかも達成できる経済力あるから冗談にならないんだけど!!」
九条は何も返さず、ただ眉間に皺を寄せたまま。
本気で“あり得ない作戦”を実行する覚悟を固めているその姿に――澪は笑いのツボから抜け出せなかった。
「笑い過ぎだ。まだある」
九条が淡々と続ける。
「まだあるの!?」
澪が顔を上げる。
「……分かりやすい金のかかった持ち物を、お前が身につけて『彼氏にもらった』と見せびらかす」
「うわー……やな女……」
澪はそれをする自分を想像して、我ながら引いていた。
「そんなのやったら絶対嫌われるよ……お客さんにも同僚にも……」
「風早の案だ」
九条の無表情な付け足しで、澪はまた笑いをこらえきれず肩を揺らした。
「次。お前の見た目を、相手の好みから徹底して外す」
九条がさらりと告げる。
「それ考えたことある!! でも太ったり不潔になるのは嫌!」
澪は勢い込んで首を振る。
「……髪を金髪にして、スタッズがついた革の服を着る」
「高いピンヒールの黒のブーツとかね! 合いそう!!」
澪が調子に乗って乗っかる。
九条はわずかに眉をひそめて言った。
「……俺も好きではない」
「そこ自分の好み言うんだ!!」
澪はベッドに倒れ込み、また大笑いした。
新しい着眼点
「くだらない作戦ばかりだ」
九条が淡々と切り捨てる。
「でもね」澪は笑いの余韻で肩を揺らしながらも、真面目な顔になった。
「着眼点はヒントになったよ。相手の目線になってものを考えるってこと、してなかったから。あと……“誰かに守られてると分かったら手を出さない”っていうの、新鮮な意見だった。確かに、私は守られてるようには見えないと思う」
「そうなのか……?」
九条がわずかに眉を寄せる。
「職場だとね。彼氏いるとか、一度も言ったことないし。食事も一人で平気な人だし、寂しい女だと思われてるんじゃないかな」
澪は枕をクッションのように抱えて、天井を見上げながら淡々と言った。
「言え。俺がいると」
九条が淡々と告げた。だが、その声音はわずかにむくれた色を帯びていた。
「名前出すわけにいかないでしょ? でさ、完全に嘘をつくのは忍びないから、すでに雅臣さんに貰ったものがあるじゃん?」
澪は左手首を掲げて見せる。
「Apple Watch。これ“彼氏に貰った”って言えば良いんだよね。……今更だけど」
購入したのは、何日も前のことだ。
もう何度もつけて出社している。今更それを“彼氏からの贈り物”と発言するのは、不自然さが残る。
「なら、バンドを変えればいい」
九条は短く返した。
「見た目が変われば、話題に出しやすくなる」
「金のフェラーリも捨て難いけどね」
澪は笑いすぎて目尻を拭った。
「あー……面白くて涙出た。夢に出そう」
九条は無言のまま、わずかに眉間の皺を深くした。
その横顔を見て、澪はまた吹き出しそうになり、慌てて枕に顔を埋めた。
KUJO’S キッチン

その夜、澪は眠りの中で、不思議な夢を見ていた。
テレビ番組のセットのような場所に立っているのは、白いシェフコート姿の九条。
タイトルコールは――なぜか堂々とこう表示されていた。
「KUJO’S キッチン」
九条は無表情のまま、淡々と口を開いた。
「本日の料理は、ビーフウェリントンだ」
画面に映るレシピの文字列は、やたらと長い。
― 超プロ仕様ビーフウェリントン ―
材料(4〜5人前)
- 和牛フィレ肉ブロック(中心温度38℃で止めるのが理想)・・・650g
- 塩(フルール・ド・セル推奨)、黒胡椒(挽き立て)・・・適量
- フレッシュマスタード(ディジョン、粒なし)・・・大さじ2
- マッシュルーム(ポルチーニやシャンピニオンを混ぜる)・・・400g
- エシャロット・・・2個
- タイム、ローズマリー・・・各2枝(必ずフレッシュ)
- 生ハム(プロシュット・ディ・パルマ)・・・10枚
- クレープ(強力粉で薄焼きにしたもの)・・・数枚
- フォアグラ・・・100g(ソテーして脂を抜く)
- パイ生地(自家製ラミネーション推奨。冷凍市販不可)・・・必要量
- 卵黄・・・2個(牛乳と合わせてドリュールにする)
- バター(無塩)・・・30g
- トリュフ(必ず用意)・・・適量
作り方(プロ仕様)
- フィレ肉の下処理 肉の筋を完全に掃除。塩胡椒で下味を付け、全面を強火で香ばしく焼き固める。 焼き色は均一に深く、だが中心は生に近い状態を保つこと。粗熱を取り、全体にマスタードを塗布。
- デュクセル(茸ペースト)の作成 マッシュルームとエシャロットをフードプロセッサーで細かく砕く。 水分を完全に飛ばすまで弱火で30分以上炒める。最後に刻んだハーブを入れて香りを立たせ、塩で調整。 (水分が残っていると、完成後にパイが台無しになるため「絶対に」妥協しない。)
- 巻き込み準備 ラップの上にクレープを敷き、さらに生ハムを隙間なく並べる。 その上にデュクセルを均一に塗り、中心にフィレ肉を置く。 ソテーして脂を抜いたフォアグラをフィレの上に重ね、ラップで円筒状にしっかり巻き、最低1時間冷蔵。
- パイで包む 冷えた肉の包みをパイ生地で覆う。接合部は卵液で糊付けし、二重にならぬよう正確に処理。 模様をナイフで細かく入れ、艶出し用の卵液を塗布。 最低30分、冷蔵庫で休ませる。
- 焼成(最重要) オーブンを230℃に予熱。10分焼いたら190℃に落とし、さらに25〜30分。 焼き上がりの内部温度は55℃前後が理想。秒単位でタイマーを管理。
- 仕上げ 焼成後、最低10分は休ませる。切る際は鋭いナイフで一太刀。 付け合わせはローストベジタブル、ソースは赤ワインベースのジュ・ド・ヴィアンド。
「……和牛フィレ650グラム、フレッシュタイム、ローズマリー、フォアグラ百グラム……」
しかも、「市販の冷凍パイ生地は不可。必ず自家製でラミネーションを」と、やけにプロ仕様の但し書きが飛び出す。
「水分が残っていれば、パイが台無しになる。三十分以上炒めて、完全に飛ばせ」
九条の声は、料理番組とは思えないほど厳しい。
「途中で市販品や冷凍を使おうとするな。フォアグラも抜くな。
この料理は、労力と緊張に耐えた者だけが完成させられる」
その冷徹な解説に、澪は思わず叫んだ。
「誰が作るんだよ!!!」
観客席もない夢の中で、全力のツッコミが虚しく響く。
九条は眉ひとつ動かさず、さらに続けた。
「卵液は二重塗布。内部温度は五十五度を超えるな。……できないなら、台所に立つ資格はない」
「優しくない!!初心者殺しすぎる!!」
枕に顔を埋めながら、澪は夢の中で半泣きになっていた。
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