88.ドバイ2日目 夜

ホテル到着

練習を終えた九条は、既にホテルに戻っていた。

 トレーナーに身体をほぐされ、食事を済ませ、静かにルーティンをこなしていく。

 一方で、澪はまだ仕事中だった。

 会場ではブースの最終確認やリハーサルが続き、同僚やスタッフとの打ち合わせも長引いている。

 時計の針は進んでいたが、まだ終わりは見えなかった。

 九条はホテルの窓辺に立ち、遠くの街の灯りを眺めながら思う。

 彼女が戻ってくるのは、自分よりずっと遅いだろう。

ホテルの部屋で風呂とストレッチを終えた頃、テーブルの上のスマホが震えた。

 画面に映る名前を見て、九条は無言で通話を押す。

 『今から帰るねー!』

 明るい声が耳に響く。

 時計を見ると、夜の八時を指していた。

 「……早くないか?」

 淡々とした声。

 けれど、わずかに口元が緩む。

 ほんの少しだけ、嬉しそうに見えた。

 『今日はリハーサルだけだったから! お腹すいたー』

 笑い声と一緒に、外のざわめきが混じる。

 どうやらAirPodsで通話しながら歩いているらしい。

 ヒールの音がコツコツと響き、誰かとすれ違う気配もする。

 九条はベッドに腰を下ろし、タオルで髪を拭きながら応じた。

 「……気をつけろ」

 『大丈夫! すぐ着くから!』

 その呑気な声に、部屋の空気がわずかに和らいだ。

 『もう夜ご飯食べた?』

 「……ああ。先に食べた。今、シャワーから出たところだ」

 『え! カメラオンにして!!』

 弾む声がスピーカー越しに響く。

 「……なぜ」

 九条はタオルで髪を拭きながら、無表情のまま応じた。

 『だって、見たいから! ほら、ほら! 絶対さっぱりしてる顔してるでしょ!』

 「必要ない」

 『え、上半身裸?』

 「バスローブだ」

 『カメラおーん!!』

 「断る」

 即答だった。

 九条の声音は一切揺れず、いつもの平坦な調子。

 澪は「けちーー!」と不満をぶつけながらも、笑い混じりの声を返す。

 静かなホテルの一室に、彼女の呑気な声だけが明るく響いていた。

 『じゃあ私がオンにする!』

 そう言って澪のカメラが切り替わり、スマホ越しに夜道の景色が映った。

 会場からホテルまでは徒歩で一キロ圏内。

 人通りもあり、街灯も整っている。だが夜道に絶対の安全はない。

 「……ふざけて歩くな。油断するな」

 九条の声は淡々としているのに、妙に鋭かった。

 『大丈夫だよー、すぐ着くから!』

 澪は呑気に笑い、ヒールの音を響かせながら歩いていく。

 九条は無言で画面を見つめ続けた。

 それだけで、澪の足取りがほんの少し落ち着いた。

「ここはお前が住んでる日本じゃない」

 九条が低く言う。

 『え、じゃあ狂人のフリしようかな』

 どういう防犯対策だ。

 「知らない? 狂った人のふりしたら、変質者とかナンパが怖がって離れていくの」

 澪は呑気に笑いながら、ヒールを鳴らして歩いていく。

 九条は短く息を吐いた。

 「……馬鹿らしい」

 だが画面を通して見ている彼の目は、決して澪から逸れなかった。

澪の帰還

 カメラ越しの背景が変わり、明るい照明のロビーが映る。

 『ほら。ホテル着いたよ』

 澪がスマホを掲げ、笑顔で示した。

 九条はベッドの上からそれを見て、短く頷く。

 『ほら。ホテル着いたよ』

 九条は短く頷いたが、すぐに言葉を継いだ。

 「……部屋まで映せ」

 『え、もうロビーだよ?』

 「いいから」

 澪は苦笑しつつスマホを持ち直し、エレベーターに乗り込む。

 扉が閉まる間際まで、九条の視線は画面から離れなかった。

 『ほんと心配性なんだから……』

 小声でそう呟きながら、澪は自室のドアを開けた。

 「……着いた」

 画面越しに見せられた部屋の様子に、九条はようやく目を細める。

 「……今後のボートショーの期間が心配だ」

 今日は夜の八時に帰ってこられた。

 だが本番が始まれば、接客や商談は夜まで続き、戻りはもっと遅くなるだろう。

 『大丈夫だってば。ちゃんと気を付けるから』

 澪は明るい声で返すが、その笑顔の奥に少しの疲れがにじんでいた。

 画面の中で、澪がホテルの廊下を歩いていた。

 『もうすぐ着くよー』

 呑気な声に、九条はスマホを手に立ち上がった。

 扉の外から足音が近づいてくるのがわかる。

 九条は通話を繋いだまま、無言でドアへ向かった。

 ロックを外して扉を開けると、澪がそこに立っていた。

 『ただいまー!』

 笑顔で片手を振る。

 九条は短く息を吐き、ドアを広げた。

 「……入れ」

 澪は「はーい」と言いながら、バッグを抱えて中に入っていった。

澪の夜ご飯

 「お腹すいたー! ご飯頼んでいい?」

 「……好きに選べ」

 澪は嬉しそうにルームサービスのメニューを広げ、あれこれ迷い始めた。

 時計はすでに夜の八時を回っている。

 ここから食事をして、風呂に入り、寝る頃には遅い時間になる。

 一般の会社員なら、こういう生活リズムも珍しくないのだろう。

 だが、アスリートとしての九条からすれば、女性である澪がこのスケジュールで動くこと自体が気になった。

 ――過保護なのは分かっている。

 それでも、気にせずにはいられなかった。

澪はメニューをめくりながら、嬉しそうに声を上げた。

 「パスタにしようかなぁ。あ、でもカレーもいいな」

 「……消化に重いものは避けろ」

 九条が淡々と釘を刺す。

 「えー! また出た!」

 澪は不満げに唇を尖らせたが、結局メニューをめくり直す。

 「じゃあ、サラダとスープ……あとチキンならいい?」

 「構わない」

 九条の即答に、澪は苦笑しつつ注文を済ませた。

 「本当はお粥とか食べたいけど、そんなの無いし……栄養足りないよね」

 メニューを見ながら澪がぼやく。

 「そうだな」

 九条は短く応じただけだが、その声はどこか優しかった。

 「じゃあ、スープとチキンにしよ。お腹に優しそうだし」

 澪は自分で納得したように笑い、注文を終えた。

 「よし。届くまでの間にメイク落としてくる。お風呂の時間を短縮するため!」

 澪が元気よく立ち上がり、ポーチを手にバスルームへ向かう。

 九条はソファに腰を下ろしたまま、その背中を無言で見送った。

 ――別に宣言するほどのことではない。

 だが、彼女らしいと思えた。

しばらくして、澪がタオルで顔を押さえながら戻ってきた。

 「じゃーん! 顔が薄くなりました!」

 九条は視線を上げ、無表情のまま一言。

 「大して変わらない」

  「うわ、また地雷踏んだ! 流石に仕事用のメイクは顔変わってるでしょ!」

 澪がタオルで髪を拭きながら抗議する。

 九条は平然と答えた。

 「お前の雰囲気は変わってない」

 「……そんなこと言うなら、今度“地雷メイク”してやる」

 挑むように笑う澪。

 「なんだそれは」

 即答する九条に、澪は吹き出した。

 「説明はしない。見てのお楽しみ!」

 いたずらっぽくそう言いながら、ソファに腰を下ろした。

大急ぎの食事

ノックの音とともにルームサービスが届いた。

 澪はテーブルに並べられた料理を見て、ぱっと表情を明るくする。

 「いただきます!」

 手を合わせて、さっそくスープにスプーンを伸ばした。

 九条は既に夕食を済ませていた。

 それでもソファに腰を下ろし、澪の隣に座る。

 何をするでもなく、ただ静かに横で見ていた。

 澪は気にする様子もなく、食欲旺盛に口へ運んでいく。

 時折「美味しい!」と呟きながら。

 その声が部屋の静けさをやわらげ、九条の横顔をほんの少しだけ緩めていた。

 スープを飲み干してチキンも平らげた澪は、満足そうにため息をついた。

 「……美味しかった。あー、でもデザートも頼めばよかったな〜」

 九条がすぐに口を挟む。

 「この時間に甘いものはよせ」

 「えー! せっかく頑張ったのに!」

 澪は不満げに口を尖らせる。

 九条は視線を逸らさず、淡々とした声を返した。

 「……睡眠に響く」

 「うぅ〜〜……わかってるけど」

 渋々スプーンを置いた澪は、子どものようにむくれてソファに沈み込んだ。

 その様子を、九条は表情を変えずに見つめ続けていた。

 「早く風呂に入れ」

 九条の声は変わらず淡々としている。

 「シャワーで済ませようかな」

 澪はスプーンを置きながら伸びをした。

 「あまり推奨はしない」

 「だよね〜……冷房で冷えてるし」

 澪は自分の腕をさすり、少し考え込んでから顔を上げる。

 「お湯張ろう。すぐ貯まるでしょ」

澪がそう言って立ち上がる。

 九条は無言で頷いた。

 海外のホテルに日本のような自動給湯はない。

 結局は蛇口をひねって、湯加減を確かめながら自分で溜めるしかないのだ。

 「……じゃ、適当に温度調整しながらやってみる」

 澪はタオルを抱え、バスルームへ消えていった。

 しばらく経っても、バスルームからシャワーの音が途切れなかった。

 気になって九条がドアを開けて覗くと、湯気の中で澪がバスタブにシャワーでお湯を溜めていた。

 泡だらけの湯面が広がっている。

 「せっかくシャワージェルあるから、泡風呂〜」

 澪が無邪気に笑い、こちらを振り向いた。

 「一緒に入る? 楽しいよ?」

 九条は扉に手をかけたまま、淡々と答える。

 「……子どもか」

 「えー! いいじゃん!」

 澪が湯をかき混ぜて、さらに泡を立ててみせる。

 バスタブにお湯が半分ほど溜まった頃、澪がふと顔を上げた。

 「あ、待って。二人で入れば体積で水位が上がって、これでも入れる!?」

 九条は無言で澪を見下ろす。

 「……」

 確かに理屈はそうだ。

 だが、まるで自分が“ただの水位調整の体積要員”扱いされているようで、納得いかない。

 ――なんだこれは。太っていると言われているようなものではないか。

 澪はそんな九条の内心も知らず、楽しそうに泡を手ですくい上げていた。

 「……早く済ませろ」

 九条はそう言い残し、ドアを閉めた。

 「はーい。あーつれない〜〜!」

 澪の呑気な声がバスルームから響き、泡のはじける音と混じって消えていく。

 その声色が軽やかな分だけ、無事であることに安心もしていた。

風呂上がり

 「……あー、さっぱりした〜!」

 おじさんのような声色で澪がバスルームから出てきた。

 パジャマ姿に着替え、タオルで髪をわしゃわしゃと拭いている。

 九条は無言で立ち上がり、ドライヤーを手に取った。

 「座れ」

 「え、乾かしてくれるの?」

 目を丸くする澪を、九条は淡々と椅子に座らせる。

 熱風が静かに髪を撫で、指先が梳くように通っていく。

 澪は目を細め、子どものように気持ちよさそうにしていた。

 「VIP待遇〜」

 澪はご機嫌で椅子に座り、目を閉じる。

 お風呂上がりでスキンケアも済んでいるせいか、顔が艶々していた。

 九条は手際よく髪を乾かし、ドライヤーを置いた。

 「……歯を磨いて寝ろ」

 「え、なんかお父さんみたい! いや、お母さん?」

 澪が目を開けて笑う。

 九条は表情を変えず、タオルを畳みながら短く返した。

 「……どちらでもない」

就寝

 「わーい楽ちん。あざます!」

 九条に髪を乾かしてもらった澪は、上機嫌でバスルームへ向かい、歯磨きを済ませる。

 戻ってくるなり、勢いよくベッドにダイブした。

 ふかふかの掛け布団に顔をうずめ、両手を広げて転がる。

 九条は枕元のライトを調整しながら、その様子を無言で見下ろしていた。

 「明日から本番だから、ちょっと緊張するかも」

 布団に顔をうずめたまま、澪が小さく呟いた。

 九条はベッド脇に腰を下ろし、淡々と返す。

 「リハーサルでは問題なかったんだろう」

 「うん」

 「なら大丈夫だ。お前なら対処できる」

 澪は顔を上げて、目を丸くした。

 「……え、優しい」

 九条は視線を逸らさず、無表情のまま。

 「事実を言っただけだ」

九条が無表情で言い切ると、澪は布団に潜り込みながら肩を揺らした。

 「ムフフフ……」

 「……何がおかしい」

 「だって、そういうのが嬉しいんだよ」

 澪は布団から顔を出し、にへっと笑った。

 九条はわずかに眉を寄せ、しかしそれ以上は何も言わなかった。

 「……もう寝ろ」

 九条が枕元のライトを落とす。

 布団に包まれた澪は、柔らかな声で呟いた。

 「おやすみ。また明日ね、雅臣さん」

 「ああ」

 暗闇の中でも、二人の間に流れる気配は確かにあった。

 翌日に控えたそれぞれの本番へ向けて、静かな夜が更けていく。

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URB製作室

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