カフェ・ソシャエティー・ドバイ
カフェの扉を開けた瞬間、ひんやりとした冷気が頬を撫でた。
外の乾いた熱気とは別世界のように、室内は大理石の床に金色の装飾が散りばめられ、シャンデリアが高い天井から光を落としている。
壁一面にはアート写真が飾られ、席ごとに小さなランプが置かれ、まるでラウンジのような落ち着きがあった。
窓の外にはマリーナの水面が広がり、停泊しているクルーザーの船体が陽射しを反射している。
澪はメニューを受け取った瞬間、ぱっと表情を明るくした。
「わーい、何食べようー」
高級感のある革張りのメニューには、パスタやリゾットなどのイタリア料理と並んで、カプチーノやスイーツの写真が載っていた。
ティラミスやピスタチオケーキは、どれもデコレーションが華やかで、いかにも“写真映え”を意識した一皿ばかり。
周囲のテーブルでは、外国人観光客たちがスマホを構え、まず料理よりもカメラを楽しんでいる。
九条はそんな喧騒を気にする様子もなく、メニューをざっと目で追い、淡々と閉じた。
「炭水化物は控えろ。午後に眠くなる」
澪はむっとした顔でメニューを抱え込む。
「せっかく来たのに夢が無いなぁ。……でもデザートは食べるから」
九条は視線を落とし、わずかに口元を緩めるだけで何も言わなかった。
そのやり取りさえ、エスプレッソの香りに包まれた空間の一部のように溶けていった。
澪は革張りのメニューをじっと眺め、写真の派手さに一瞬迷ったけれど、結局はシンプルな一皿に指を止めた。
「……ケバブのプレートにしよ。ドバイに来たんだし、やっぱり一度は現地の味食べないと」
九条が横目で確認する。
「肉はいい。タンパク質だからな」
「ふふ、雅臣さんに褒められた」
澪は嬉しそうに笑い、さらにデザートの欄を開いた。
「でも甘いのも食べたい。……バクラヴァって、これ美味しそう」
「砂糖漬けだぞ」
「いいの!現地の味だもん」
澪の声は弾んでいて、観光客らしい無邪気さがそのままカフェの空気に溶け込んだ。
彼女が選んだのは、チキンケバブのプレート。サフランライスにグリル野菜、さらにフムスとピタパンも添えてもらう。甘いものは外せず、最後にバクラヴァとミントティー。――観光客らしい、旅の思い出になるようなセレクトだ。
一方で九条は、メニューをほとんど迷わず閉じた。
「タンパク質と炭水化物。調整用だ」
彼が頼んだのは、骨付きのラムチョップに炭火で焼いたサーモン、サフランライス大盛り、レンズ豆のスープ、サラダにエスプレッソ。――まるで試合前の補給をそのまま持ってきたような内容で、量が明らかに多い。
注文を済ませたあと、澪は目を丸くしてテーブルに身を乗り出した。
「……見慣れてきたつもりだけど、やっぱり多くない?」
「今日はまだ少ない。明日はコートで調整があるから、もっと食べる」
淡々と返す声に、澪は「ひぇ……」と小さく呻いた。手元のバクラヴァがますます小さな一口菓子に見えてしまう。
やがて、銀のトレイに乗せられて料理が運ばれてきた。
九条の前には、骨付きのラムチョップがどっさりと盛られ、香ばしい匂いが漂う。炭火焼きのサーモンからは油がじゅっと音を立てて、レンズ豆のスープは湯気を立てていた。
一方の澪の皿には、彩りのいいケバブのプレート。サフランライスが黄色く輝き、ピタパンの隣にはフムスの小鉢。デザートのバクラヴァは蜂蜜の甘い香りを漂わせている。
澪は思わず笑ってしまった。
「ねえ……私のは“ごちそうランチ”で、雅臣さんのは“補給食”って感じ」
「足りないと調整できない」
九条は淡々と答え、ためらいもなくラムをナイフで切り分ける。咀嚼も速いが乱暴ではなく、まるで燃料を正確に取り込むみたいに黙々と食べ進めていく。
澪はというと、最初の一口をフムスにピタをちぎってつけながら、ゆっくり味わっている。
「んー……しあわせ……」
九条は無表情のままラムを噛み切っている。
「急激に血糖値を上げると、眠くなるぞ」
「雅臣さんって、ほんとに夢がない!」
澪はむっとして言いながらも、結局もう一口食べてしまう。
「でも、こういうのが旅の記憶になるんだよ」
九条はフォークを置き、わずかに肩をすくめた。
「俺は試合が記憶になる」
「そりゃそうだけど……」
澪はグラスのミントティーを回しながら、小さく笑った。
「私の思い出は、こういう美味しいのとか、窓の外の景色とか。だから、一緒にいるとちょうどいいのかもね」
九条は返事をしない。ただ、エスプレッソを口に運び、苦味をゆっくりと喉に落とした。
その沈黙の奥に、否定でも肯定でもない静かな同意があった。
「いや、待てよ?ある意味雅臣さんの立ち位置って、めっちゃ夢ある立場だよね。成功すればこんな生活ができる!みたいな。インフルエンサー的立ち位置取れる」
「興味がない」
「でしょうね!インスタとか絶対やらなそう」
「見たことすらない」
「ワオ」
澪はスプーンを持ったまま、ぽかんと口を開けた。
「……ほんとに一回も?おすすめに出てきたりもしないの?」
「出てこない。通知は切っている」
「そういう問題じゃなくて!」
思わず声が大きくなって、隣のテーブルの観光客がちらっと振り返った。澪は慌てて口を押さえる。
「……まじで別世界だ……」
九条は淡々とサーモンを口に運び、ナイフを拭った。
「俺に必要なのは、試合の映像と対戦相手のデータだけだ」
「いやー、浪漫もエンタメも切り捨てすぎ!」
澪は呆れながらも笑い出す。
「でもまあ……それが雅臣さんらしいか」
「食べ物にカメラ向けるな」
九条の低い声に、澪は慌ててスプーンを持ち直した。
「私はやらないってば!やるんならとっくに撮ってるよ!!」
「撮る前に忘れて食べただけじゃないのか?」
「それもあるけど!!」
澪はあっさり認めて、頬を赤くする。
「そもそもSNSやってないんだってば!」
「……意外だ」
九条はナイフを置き、淡々と視線を向ける。
「え、なんで?」
「お前は“写真映え”とかに弱そうだから」
「むっ……!」
澪は唇を尖らせる。けれどすぐに笑い出し、テーブルの上のミントティーを一口。
「確かに、写真で綺麗に写ってるところには弱いけど、自分が撮るかどうかは別じゃない?」
「そうだな。お前が撮ってるところはほとんど見ない」
「でしょ?」
「だからこそ、信用した」
九条の言葉に、澪は一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。
「……そんなことで信用とか言う?」
「大事なことだ」
「ふふっ……ほんと、真面目だなぁ」
澪はミントティーのグラスを両手で包み、窓の外のマリーナに視線を移した。
水面に反射する陽射しが眩しくて、なんだか少し胸の奥まであたたかくなる。
レオンからのお誘い
「家にTVがないお前こそ、エンタメを切り捨ててないか?」
フォークでデザートのバクラヴァを小さく切り分けながら、澪は肩をすくめた。
「私は取るべき情報とか、欲しい情報を取捨選択したいの」
「情報と思想が偏るぞ」
「それは否定しきれないけど……」
澪は一口運び、蜂蜜の甘さに思わず目を細める。
「TVを垂れ流しで見る方がよっぽど思想がメディアに支配されると思う」
九条は少しだけ目を細め、短くうなずいた。
「まぁ、それはそうだな」
澪は嬉しそうに笑って、フォークを皿に置く。
「わ、珍しく意見一致!」
「たまにはある」
九条はエスプレッソを口に運び、視線を窓の外のマリーナに向けた。
澪は頬杖をつきながら、その横顔を盗み見る。
「……でも、こうやって一緒に話す方が、どんなニュースより面白いけどね」
「私は取るべき情報とか、欲しい情報を取捨選択したいの」
「情報と思想が偏るぞ」
「それは否定しきれないけど……」
澪は一口運び、蜂蜜の甘さに思わず目を細める。
「TVを垂れ流しで見る方がよっぽど思想がメディアに支配されると思う」
九条は少しだけ目を細め、短くうなずいた。
「まぁ、それはそうだな」
澪は嬉しそうに笑って、フォークを皿に置く。
「わ、珍しく意見一致!」
「たまにはある」
九条はエスプレッソを口に運び、視線を窓の外のマリーナに向けた。
澪は頬杖をつきながら、その横顔を盗み見る。
「……でも、こうやって一緒に話す方が、どんなニュースより面白いけどね」
「その割に、俺の名前を知らなかったがな」
「TV見てたら知ってたのかな?」
「何かの大会優勝の折に、ニュースで触れていたかもしれない」
「あー、それはあるかも。でも、知らなかったからこそ、知らない人同士で会話ができて、こういう関係になれたと思ってるよ?」
「そうだな。お前の態度が冷静だったから、俺は接しやすかった」
九条の淡々とした言葉に、澪は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「……それ、めちゃくちゃ嬉しいんだけど」
ちょうどそのとき、テーブルの上に置かれていた九条のスマホが震えた。
スマホの画面に表示された名前を見て、九条の口調がわずかに緩んだ。
「……レオンか」
通話ボタンを押すと、スピーカー越しに明るい声が響く。
『一緒に市場行かない?よかったら澪さんも一緒に。今日の夜は魚料理にでもしようかと思って』
九条はちらりと隣の澪に視線を送った。
「行くか?」
「え、魚市場?」
澪の目がぱっと輝く。
「行く! 行きたい!」
即答する澪に、レオンが電話口でくすりと笑う。
「じゃあ決まりだね。二人とも、あとで港で合流しよう」
通話を切ると、澪は首を傾げながら微笑んだ。
「レオンさんって、ほんと家庭的だね」
九条は淡々とエスプレッソを飲み干す。
「栄養と献立は彼の管轄だ」
「へぇ……。なんか、チームに混ぜてもらえるの嬉しいな」
澪はテーブルに残ったミントティーを口にしながら、窓の外に広がるマリーナを見た。
その穏やかな水面に、少しだけ“家族の食卓”みたいな温かさを想像していた。
市場へ
料理を平らげると、二人はすぐに席を立った。
昼下がりの陽射しが眩しい。ホテルの車寄せに停めてあったSUVに乗り込むと、澪がふと首をかしげる。
「ところでさ……魚買ったら、この車で運ぶの? 臭くならない?」
九条はシートベルトを締めながら、淡々と答える。
「専用のクーラーボックスを持ってくる。市場で氷詰めにするから問題ない」
「なるほど、さすが準備が抜かりない……」
「俺ではない。レオンの手配だ」
澪はくすっと笑って窓の外を見た。
「なんか、遠足みたいで楽しみ」
ジュメイラの港に近づくと、潮の匂いが車内にまで入り込んできた。白い外壁の建物の前には、大小さまざまなトラックが横付けされ、早朝に水揚げされた魚を積んでは去っていく。
車が停まると、すでにレオンが待っていた。薄い色のシャツにサングラス姿、腕を組んでこちらを見つけると、口元に笑みを浮かべる。
「やあ、待ってたよ」
彼は大きなクーラーボックスを指で示しながら、軽く手を振った。
「今日の港は当たりだ。鮮度も揃ってる。ちょうどいいタイミングで来たね」
澪は思わず目を丸くした。
「わぁ……本当に市場って感じ! すごい、全部ピカピカしてる」
九条は表情を崩さず、レオンに視線を向ける。
「選ぶのは任せる。栄養とコンディションを考えてくれ」
「了解。じゃあ二人は気になる魚があったら言って。調理方法考えるから」
市場の中へと足を踏み入れると、氷の上に並んだ魚が銀色に光り、威勢のいい声が響き渡っていた。
大小様々、色も様々な魚介類が並び、澪が興味深そうに辺りを見回しながら歩いている。
「ねえ、シェリーってなに?」
氷の上に並んだ銀色の魚を前に、澪が首をかしげる。
レオンがすぐ答える。
「こっちではよく食べられる高級魚だよ。正式には“エンペラーフィッシュ”。日本の鯛に似てるけど、食感はちょっとしっかりしてる」
「へえ……エンペラーフィッシュなら聞いたことある!」
澪は感心して頷きつつも、魚を指差して小声で言う。
「でも、見た目が全然シェリーっぽくないね?」
「シェリーっぽい見た目ってどんなの?」
レオンが笑いながら聞き返す。
「……エレガントで、女性っぽい感じの魚!」
思いつきで言ったのか、澪は自分で言ってから少し照れる。
「どんなだ」
横で聞いていた九条が、抑揚なくツッコミを入れる。
レオンは声を上げて笑い、
「なるほどね、ネーミングセンスで魚を選んだらそうなるのか。市場の人に言ったら、きっと大喜びされるよ」
と軽口を返した。
「鯛に似てるなら、美味しそう。でも……高いんだよね」
澪が遠慮がちに言う。
「買う」
九条は一瞬の迷いもなく答えた。
「え、今の間のなさ!」
澪が目を丸くする。
「魚は鮮度がすべてだ。値段は問題じゃない」
当たり前のように言い切る九条に、レオンが肩をすくめて笑う。
「ほんと、迷わないね。じゃあ今日はシェリーの塩焼きに決まりだ」
澪はまだ口をぱくぱくさせながら、氷の上の銀白色の魚を見つめていた。
「鯛に似てるならカルパッチョとか美味しそうだけど……生はやめた方がいい?」
澪が市場の魚を見ながらぽつりと言う。
レオンが苦笑する。
「現地だとシェリーは基本グリルか蒸しだね。加熱が前提。寄生虫とか衛生基準の問題で、生で出すのはほぼ聞かない」
「そっかぁ」
「日本みたいに“刺身前提”で流通してないからな」
九条も補足する。
「鮮度が良くても、生食するなら日本料理店など、管理が徹底されている店に限った方がいい」
「なるほど……。じゃあカルパッチョはおあずけか」
澪は名残惜しそうに魚を見つめ、それでも「じゃあ今日は現地流で食べてみたい」と笑った。
「うわ、すっごい色の魚がいる」
澪が思わず立ち止まる。氷の上に並んだ魚は、体が薄いブルーに包まれ、背の部分だけ鮮やかな黄色の帯が走っていた。まるで南国の宝石のようだ。
「これも……食べられるんだよね?」
レオンが横から覗き込んだ。
「ウメイロだな。見た目派手でも味は上品。塩焼きや刺身でもいける高級魚。今日は刺身はしないけどね」
「へえ……見た目と味って、必ずしも一致しないんだ」
澪は感心しながら魚を見つめる。
九条が一歩近づいて、横顔をちらりと見下ろした。
「気に入ったか」
「うん、綺麗だから飾り物みたい。でもちゃんと食べられるって不思議。でも調理難しそうだよね?」と澪が不安げに言いかけた瞬間。
「買う」
九条が店主に視線を投げただけで、氷の上の魚は取り分けられていく。
「はやっ!」
澪が思わず声を上げる。
レオンが肩をすくめて笑った。
「まあ、迷ってる間に鮮魚は売り切れるからな。タイミングは大事」
「タイミングって……そういう問題?」
澪は苦笑いしつつも、横に立つ九条の迷いのなさに胸の奥がじんとする。
氷の上に鎮座するロブスターを見つけて、澪の目が一気に輝いた。
「うわ……!ロブスター!めっちゃ大きい……!」
まるで宝石でも見つけたみたいに、顔を近づける。
「カルパッチョは無理でも、ロブスターならバターで焼いたら絶対美味しいよね……!贅沢すぎるけど……」
その言葉を最後まで聞かずに、九条が店主に声をかける。
「買う」
「……っ、またはやっ!」
澪が呆れ半分、笑い半分で肩を揺らす。
レオンが楽しそうに口笛を吹いた。
「おー、ロブスター即決とは。澪ちゃん、今日の夕食は豪華メニュー確定だな」
澪はまだロブスターを見てキラキラしながら、九条を見上げて小さく言う。
「……嬉しい。ありがとう」
澪はロブスターを眺めたまま、不安げに声を落とす。
「……でも、こんなに大きいの、一度で食べられる?」
横で腕を組んでいたレオンがにやりと笑った。
「たぶん九条さんなら余裕。こう見えてめちゃくちゃ食べるから。何ならチーム全員呼んでパーティーする?」
「え、そんな……。それ、レオンさんが調理大変じゃない?」
澪が思わず心配そうに問いかける。
レオンは肩をすくめて、さらりと返す。
「僕、これが本職だから。パーティー料理なら何百人分だって経験ある」
「……何者なの?」
澪は素直に目を丸くした。
横で九条が一言。
「料理人だ」
「簡単にまとめすぎじゃない!?」
レオンが笑いながら問いかける。
「九条さん、どうします? 二人っきりで食べるか、みんな集めてパーティーにするか」
九条はすぐには答えず、隣の澪へ視線を落とす。
――お前はどうしたい。
言葉にせず、そう問いかけているのが伝わった。
「……楽しそうだけど」
澪は少し迷いながらも口を開く。
「準備とか片付け大変じゃないかな? あと、雅臣さん、人が集まるの嫌じゃない?」
「チームメンバーなら問題ない」
九条は淡々と断言する。
「うーん……でも、早瀬さんとか志水さんって、静かなところ好きじゃん。呼んでも来ないかも」
「……確かに」
澪は苦笑しながらも、すぐに言葉を足した。
「でもカザランは絶対来る」
「……ああ、来そうだな」
九条が珍しく小さく笑った。
「なら、連絡するだけしてみる」
九条が短く言い切る。
レオンは即座に頷き、スマホを取り出した。
「了解。Slackに書いとくよ。夜七時でいい? “ドバイの魚料理食べたい人、九条さんの部屋に集合”って」
澪は思わず笑ってしまった。
「なんか学生の呼びかけみたい」
「魚の量からして、むしろそのくらいのノリでちょうどいいよ」
レオンはさらりと返しながら、もう入力を打ち込んでいる。
澪は、少しだけ胸の奥がわくわくするのを感じていた。
――この人たちと一緒に、食卓を囲む夜が来るなんて。
澪は少し考えて、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、私も準備とか片付け、手伝うね」
「……移動で疲れてるだろう」
九条が低い声で問う。
「うん。でも、私も食べるんだし。それに、みんなでご飯作るの楽しそう」
その言葉に、レオンがふっと笑みをこぼす。
「いいね。ますますパーティーっぽくなってきた」
九条は澪を一瞥したあと、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
「……好きにしろ。だが、明日から仕事だろう」
九条が淡々と告げる。
「うん。でも今日は飛行機でもホテルでもいっぱい寝たし、元気。食べる分の準備と片付けは手伝うよ。レオンさん一人じゃ大変過ぎ。他の人達、準備とか手伝ってくれなさそうなイメージ」
「氷川は働く」
「氷川さんは逆に休ませてあげて。気使いすぎて可哀想」
「それが仕事だ」
「いやそれにしてもよ」
「蓮見は何もしない」
「雅臣さんも何もしないでしょ?」
澪が呆れ顔で言う。
レオンが堪えきれずに吹き出した。
「澪さんが言えばするんじゃない?」
「……お皿運んで、くらいは言えばやってくれるかも。いや自分が食べる分だけどうにかするとか?こういう集まりの場って、性格出るよね」
「俺は運ばない」
即答する九条。
「ほらー!出たよ」
澪が笑うと、レオンも肩をすくめる。
「でも、みんなで集まった方が意外と面白いかもよ。氷川さんは気を利かせすぎて疲れるだろうけど」
「…疲れるくらいなら、最初から来ないだろう」
九条の冷静な分析に、澪は苦笑した。
「じゃあ私が頑張ってみんなの分運ぶね」
澪は笑顔でそう言う。
九条は黙って澪の横顔を見た。
楽しそうに言ってはいるが──想像してみる。
大皿を抱えてキッチンとテーブルを行き来しながら、メンバー一人一人の分を気にかける澪。
呼ばれもしないのに、自然とそういう役回りを背負ってしまう。
……なんとなく、可哀想に思った。
九条は少し間を置いてから、短く言った。
「……自分の分だけにしろ」
「そういうわけにいかないでしょ。何もしない人がいるなら尚更」
「自分のことは自分でやるものだ」
「それあなたが言う!?」
澪が思わず声を上げる。
部屋の空気に、レオンの笑いが小さく混じった。
けれど、気にする様子もなく、澪はすぐに視線をレオンへ向ける。
「ねえ、アクアパッツァ食べたいな。シェリーでやったら美味しそう」
「いいね、それ。魚もさっき買ったやつたくさんあるし。一品はそれにしよう。ハーブは僕が持ってる」
レオンが楽しげに答え、もう頭の中では調理工程を組み立てている様子だった。
澪は小さく「やった」と喜んで、九条は黙ってその様子を眺めていた。
パーティーの準備
部屋に戻るなり、レオンが魚の袋をカウンターに置き、袖をまくって手際よく包丁を握った。
「いざ、ドバイの魚パーティー!」
「わーい、楽しみー」
澪はぱっと顔を輝かせ、すぐに皿やカトラリーを探しはじめる。
その横で氷川が呼ばれ、ためらわずスーツのジャケットを脱いで椅子に掛けた。白いシャツの袖をきっちり肘まで捲り、無駄のない動きでレオンの指示を受けていく。
澪も一緒にテーブルの上を整えているが、慣れないキッチンであたふたしているのがすぐに分かる。
九条はそんな澪を見て、黙って立ち上がった。
「……何をすればいい」
澪が驚いて顔を上げる。
「え、手伝ってくれるの? じゃあ、このお皿お願い」
九条は不器用そうに皿を受け取り、澪の隣に立った。まるでサポートするように、皿を並べ、彼女が手を伸ばせばその先に物を置く。
レオンはそんな二人を横目に、ひっそりと笑いながら魚にナイフを入れた。
早めの来訪者
キッチンから漂う香りに誘われるように、チャイムが鳴った。
「おじゃましまーす!」
カザランが、まだ夜には少し早い時間にやって来る。手には小さな紙袋を提げていて、中にはきっちり冷えたスパークリングウォーター。
「魚パーティーって聞いたら、待てなくて。飲み物持ってきたよ」
続いて意外な顔ぶれも現れた。
「……あ、ほんとにやってるんだ」
扉の前に立っていたのは早瀬。後ろに神崎が控えている。
「え、早瀬さん来たの?」と澪が目を丸くすると、
「レオンの料理食べたくて。魚好きなんだよ、俺」
と、ぶっきらぼうに言って入ってきた。
神崎は苦笑いを浮かべて続く。
「誘われたから一緒に。彼の誘い断ると、あとで拗ねるんだ」
「拗ねない」
早瀬が即座に反論するが、神崎の目は笑っていた。
レオンが鍋を振る音と、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。
気付けばテーブルのまわりには、氷川、カザラン、早瀬、神崎――思った以上に人が集まっていた。
九条は黙って全員の顔を見回し、ほんの少しだけ眉を動かす。
(……意外と来たな)
澪はうれしそうに笑って、人数分のお皿を並べている。
「にぎやかになってきたね」
その声に、九条の視線が澪に戻る。
彼女が楽しそうなら、それでいい――そう思いながらも、内心で「準備も片付けも結局こいつが気を使うんだろう」と考え、ほんのわずかに落ち着かない気持ちが残る。
そこへ、無骨な気配とともに藤代が現れた。
片手に抱えているのは、瑞々しい果物がぎっしり詰まった大皿だった。
「市場で見つけた。こっちのマンゴーは甘い」
短く言い残して、無言のままテーブルに置く。
「わ、ありがとうございます!」
澪が目を輝かせると、藤代は少しだけ肩をすくめて、あとはいつもの無口な調子で隅に腰を下ろした。
テーブルには、焼き上がる魚の香り、スパイスの匂い、湯気の立つ鍋。
氷川はワインの栓を抜きながら「飲める人は控えめに。明日もあります」と淡々と声をかける。
カザランは澪の手元を覗き込み、「盛り付けセンスあるじゃん」と茶化しながら、皿に彩りを添えるように野菜を飾りつける。
早瀬は香りを確かめるように鼻をひくつかせ、神崎は「これなら栄養面もバランス良い」と満足げにうなずいていた。
気付けば、長いテーブルはすっかり埋まり、皿やグラスが次々と並んでいく。
海外遠征の夜、こんなふうにメンバーがそろうのは珍しい。
九条は黙って椅子に腰を下ろし、ちらりと澪を見る。
彼女が笑っているなら、それでいい。
にぎやかなざわめきの中、そう思った。
レオンが包丁を動かしながら振り返る。
「蓮見さん、お酒飲んで寝てるかもしれないから、九条さん電話して」
九条が無言でスマホを取り出してスピーカーモードで発信すると、すぐに声が返ってきた。
「おー、もう着く! 奥さんと子供に頼まれて買い物行ってた!」
澪が首をかしげる。
「買い物?」
「ドバイチョコレート!本場のやつ、日本に送れって言うから、探したわ」
蓮見の笑い声の向こうで、空港みたいな雑踏音が聞こえる。
「ドバイチョコレート?」
「どこにでもあると思ったら、意外と置いてなくてさ。必死で探した」
澪は思わず笑ってしまう。
「なんか、一番観光客っぽいですね」
電話を切ると、九条は椅子に腰を下ろす。
「やっぱり志水さんは来ないかなー」
レオンが肩をすくめたその時、ドアチャイムが鳴った。
「……来た」
思わず全員が視線を向ける。現れたのは、紙袋をいくつも抱えた志水だった。
「飲み物。いろいろ買ってきた」
袋の中からは、アラビアコーヒー、カラックチャイ、ミントレモネード、柘榴ジュースまで、色とりどりのテイクアウトカップが並ぶ。
「わあ、柘榴ジュース!」
澪が小さく声を弾ませると、志水はほんの僅かに頷いて、テーブルにそれを置いた。
レオンが吹き出す。
「結局来るんだね。しかもめっちゃ気が利いてる」
志水は何も言わずに薄手のジャケットをハンガーにかけ、当たり前のようにその輪に加わった。
キッチンから香ばしい匂いが広がり、テーブルの上には次々と料理が並べられていく。
澪は「美味しそう!」と何度も声を弾ませ、レオンは嬉しそうに手際よく皿を仕上げていた。
そんな中、九条に聞こえない場所で、早瀬がレオンに声を落とす。
「……これ、絶対九条さんが言い出してないでしょ」
レオンは苦笑しながら頷いた。
「うん。僕が市場に誘って、駄目元で“パーティーする?”って言ったら、澪さんが乗ってきた」
「やっぱり」
早瀬は納得したように目を細める。
レオンがさらに付け加える。
「しかもね、準備も九条さん、ちゃんと手伝ってたよ」
「………想像できない」
「早く来たら見れたのに。あ、でも片付けも手伝うんじゃないかな」
レオンがわざとらしく囁くと、早瀬は思わず吹き出した。
乾杯
「乾杯!」
グラスやカップが一斉に軽やかな音を立てる。
澪も柘榴ジュースを高く掲げて、皆と一緒に声を合わせた。
普段は人の輪の真ん中にいることが少ない自分が、こうして大勢で笑い合っている。
その瞬間、胸の奥からぽんと弾けるような感覚が込み上げてきて、思わず口をついた。
「……わ、私、今めっちゃ陽キャっぽい!!」
澪が感動して泣きそうな表情で喜んでいる。
皆が一瞬きょとんとしたあと、どっと笑い声が広がる。
九条はグラスを口に運んだまま、横目で澪を見て、わずかに口端を緩めていた。
グラスを口に運んでいた九条が、横目でちらりと澪を見て、低く言った。
「お前は十分うるさい」
「なっ……!雅臣さん知らないでしょ!私、普段はクールなんだから!!」
「お前の勘違いだ」
あまりに即答で切り捨てられて、澪がむっと頬を膨らませる。
「職場だとね、私ほんと仕事マシンみたいなんだから!」
澪が力説する。
九条はワインを口にしながら、無表情で言い捨てた。
「……この場にいる誰にも伝わってない」
「だって、雅臣さんがいたら崩れるの!」
言った本人が自分で赤くなって、周囲は一瞬しんとしたあと大笑いに包まれる。
九条は眉をひとつ動かすだけで、淡々と返す。
「俺のせいにするな」
「えー!ほんとにそうなんだもん!」
澪が抗議しても、九条はグラスを置き、無言で彼女を見下ろした。
「ところでさ、私、今めっちゃオタサーの姫っぽくない?」
澪が両手にジュースを持って、謎の喜びをあらわにする。
カザランが即座に首を横に振る。
「オタサーじゃないでしょ、どう見ても」
「え、じゃあなんて言うの?」
「…………プロ集団?」
「プロ集団の中の……なんだろ」
九条が淡々と口を挟んだ。
「賑やか師だろ」
「それピエロじゃん!」
「だからそう言ってる」
澪は「ひどい!」と笑いながらグラスを振って、周囲もつられて大爆笑。
「なんかもっと可愛いのないの!?」
澪が両手を広げて訴える。
九条は皿の魚料理を口に運びながら、淡々とした声で言った。
「お前は姫という柄じゃない」
「知ってるけど!」
即答する澪。
場の空気がまたどっと笑いに包まれる。
レオンが「こういう掛け合い、夫婦漫才みたいだよね」と笑って、カザランが「澪ちゃんの方がツッコミ強い」と乗っかる。
「でも、九条さん執事になるんでしょ?じゃあ澪さん、お嬢様じゃん」
レオンが口元をにやっとさせる。
痛いところを突かれて、澪が言葉に詰まる前に、九条が淡々と続けた。
「本物のお嬢様なら執事に憧れはしない」
「図星つかないで!!だから庶民なんだってば!!」
慌てて両手を振る澪。
「お嬢様がその辺にいたら、執事喫茶成り立たないでしょ!」
必死の反論に、テーブルのあちこちから笑い声が上がる。
九条が淡々と告げる。
「お前は何もせず座っているのが性に合ってない」
澪はむっとして振り返る。
「違うよ。自分が動かないと場が回らないから、自分から動くことでスムーズに行くように気を使ってるの」
「……自分で言うのか」
九条が呆れたように目を細める。
「だって私まで雅臣さんみたいにご飯作ってもらうのソファーで待ってたら、レオンさん大変でしょ!?」
レオンがにやりと笑いながら、
「うんうん、澪ちゃんはそういう子だよね。九条さんも見習ったら?」
九条は無言でグラスを口に運ぶ。
その沈黙自体が「絶対に見習わない」という意思表示になっていて、澪が「ちょっと!?」と突っ込んで場が笑いに包まれる。
ドバイチョコレート
九条がさらりと告げる。
「その代わり材料費は俺がもってる」
レオンがサラダを取り分けながら笑って補足する。
「ついでに光熱費も会場費もね。基本的に九条さんの持ち出し」
「えっ……!」
澪は思わず目を丸くする。
「私だけ何も買ってないじゃん!」
澪が慌てて言う。
九条は箸を置き、淡々と返す。
「今気付いたのか」
「何か買ってくる!」
「いらん。必要なものはある」
そのやり取りに蓮見がタイミングよく袋を持ち上げる。
「ドバイチョコレート、お前の分も買ってきてやったぞ」
「え、この流れで!?ありがとうございます」
澪は反射的に受け取ってしまう。
「受け取るんかい」
蓮見が笑うと、周りもどっと笑いが起きる。
「嬉しい…まだ食べたことなかったから…」
澪が袋を覗き込み、宝物を扱うように目を輝かせる。
「雅臣さんもドバイチョコレートいる?食べたことある?」
「甘過ぎる」
「またそんなこと言って……絶対ちょっとは美味しいって思ってるでしょ?」
「……一口で十分だ」
「ほら!それって美味しいってことじゃん!」
澪が嬉しそうににやっと笑う。
九条は黙ってグラスを傾けるが、その無言が“否定できない”の証拠みたいに映ってしまう。
忠告
澪がソファに座って、ドバイチョコレートの袋を覗き込んでいると、澪の耳もとに、小さく低い声が落ちる。
「……食べ過ぎるな。後でバーに行く」
「っ……」澪は思わず目を瞬かせ、小声で返す。
「……そうだ、お腹いっぱいになり過ぎないようにしないと」
そのやり取りを、カザランが鋭く拾った。
「……あー!なんかそこイチャイチャしてる!」
「し、してない!普通に話してただけ!」澪が慌てる。
「嘘だー。距離めっちゃ近かったもん。人前ではチュウとかエッチなことするの我慢してねー」
カザランの声は少し酒に揺れている。
「しないってば!」
澪は真っ赤になりながら否定するが、テーブルの視線が集まり、さらに居心地が悪くなる。
そのとき、藤代が珍しく口を開いた。
「……否定はしないんですね」
「え?」
「そういう…行為があること自体は、否定しないんですね」
「あ」
澪は凍りつき、顔を覆って俯いた。
レオンが笑って飲み物を吹き出しかけ、、氷川が「お前ら、そこまで飲ませるな」とカザランに注意する。
蓮見は「ま、今さらだな」と肩をすくめ、神崎は苦笑い。
周囲の目が集中する中、九条は何事もなかったようにグラスを口に運ぶ。
助け舟も、否定も、一切ない。
「……っ~~~~!」
耐えきれず、澪は両手で顔を覆い、そのままソファーに突っ伏した。
「うわー、真っ赤!」
「そこまで照れるのかよ」
「おーい、照れ隠しでもう一杯飲むか?」
わちゃわちゃと冷やかす声が飛び交い、カザランは腹を抱えて笑い転げている。
蓮見が「はいはい、からかうの終わり。魚が冷めるぞ」と手を叩いて場を収めるが、澪の耳の先まで赤いまま、しばらく戻ってこなかった。
片付け
食後、皿やグラスがテーブルに散らばる。
レオンが「じゃ、片付け始めるか」と立ち上がると、氷川もすぐに動いてシャツの袖をまたまくる。
「俺もやる」
と九条も立ち上がり、澪が驚いた顔で見上げる。
「え、雅臣さんが!?」
「自分の皿くらいはな」
「いやいや、それで済ませないでよ」
結局、澪は皿を積んでキッチンに運び、氷川とレオンが食洗機に入れる。
カザランは「はいはい、拭くのは私ね」とタオルを持ち、早瀬と神崎は小声で「学生の合宿みたいだな」と苦笑する。
最後に志水が黙ってゴミ袋をまとめて一箇所に置いた。
思ったよりも早く片付いて、リビングは再び落ち着きを取り戻す。
解散命令
「意外とみんな動いてくれたから、早く終わったね」
澪が満足そうに言うと、レオンも「確かに。片付けの早さはチームワークの証拠」と笑った。
ふと見ると、神崎医師はグラスを持ったままソファに沈み、目が半分閉じている。
「先生……?」と澪が声をかけると、早瀬がすぐ横から支えに入った。
「飲み慣れてないのに、無理したんじゃないですか」
「……眠いだけだ……」と神崎が小さく呟く。
「はいはい、もう部屋に戻りましょう」
早瀬に肩を貸され、神崎はフラつきながらも退出。ドアが閉まると、残った空間が少し静かになる。
片付けが終わって、ひと息ついたところで九条が立ち上がる。
「……明日もある。早く戻れ」
淡々とした声で、全員に向かって解散命令を下す。
「出たよ、九条さんらしい締め方」レオンが苦笑。
「そんなこと言って、イチャイチャしたいだけだろお前〜」
蓮見がからかうように言うと、場にクスクスと笑いが広がる。
「うるさい」
九条が淡々と吐き捨てるように言った瞬間、蓮見をはじめ場の空気が一気に緩んだ。
「はいはい、じゃあお開き〜」
レオンが手を叩いてまとめると、それぞれが席を立ち始める。
氷川はテーブルを最後に確認してから、静かに「ごちそうさまでした」と一礼。
早瀬は既に神崎を支えて出て行った後で、志水も無言のまま飲み物の袋を肩にかけて部屋へ戻っていく。
カザランは「じゃ、また明日ねー」と軽く手を振り、蓮見は「チョコ食べすぎんなよ」と澪に声を掛けながら笑って去っていった。
やがて扉が閉まり、広いレジデンスに残ったのは九条と澪だけになった。
バーへ行く
魚パーティーもひと段落した頃、九条が澪にだけ小さく囁いた。
「――行くぞ」
澪は少し緊張して、九条の後ろについて階段を降りていた。
ホテルの奥、知る人しか知らないような地下への通路。
灯りは控えめで、足元を誘導するように光っている。
重厚な扉を抜けると、そこは深い色調のバーだった。
グラスに反射する光だけが静かに揺れ、外の喧騒など最初から存在しないような、隠された空間。
「……すごい。こんな所、初めて」
思わず声が小さくなる。澪の肩に、しんとした空気が降りてくる。
九条は迷わずカウンター席ではなく、奥の二人掛けソファへ歩いていった。
「こっちだ」
視線ひとつで促され、澪は隣に腰を下ろす。
「どうして、ここを?」
小声で尋ねると、九条は淡々と答える。
「……人に見られない方がいい」
その声音は冷静なのに、指先がテーブルの下でそっと触れてくる。
不意に触れられた手の温かさに、澪は小さく肩を揺らした。
「こういう場所、あんまり来たことなくて……」
そう言った自分の声が、バーの静けさに溶け込んでいく。
九条は横顔をわずかに傾けただけで、澪の視線を受け止めていた。
「……なら、俺と来ればいい」
澪は革張りのメニューを開き、ずらりと並ぶカクテル名に目を泳がせていた。
「初心者におすすめなのって、どれ?」
ページをめくりながら小首を傾げる。
九条は淡々と返す。
「アルコールに強いのか?」
「……強そうに見える?」
冗談めかして笑いかけると、彼は一拍の間を置き、低く言い切った。
「全く」
その即答に、澪は思わず苦笑した。
「ひどいなぁ。ちょっとくらい期待してくれてもいいのに」
九条はメニューを奪うように閉じ、バーテンダーを見やった。
「Something fruity and light for her. Low alcohol, please.」
落ち着いた低音で流れるように告げる。バーテンダーが「Of course, sir.」と微笑んで頷く。
「え、私まだ決めて──」
「……お前にはそれで十分だ。And for me, a single malt. Neat.」
「……翌日、練習あるんじゃないの? 強いお酒なんて飲んで大丈夫?」
「問題ない。一杯で止める」
「一杯だけ?」
「お前と飲む夜を記憶に残すのに、量は必要ない」
テーブルの下で触れたままの手に、指先がかすかに力を込められる。
そのさりげない仕草に、澪は言葉を飲み込んだ。
グラスが静かに置かれる。
澪の前には透きとおったジンフィズ。
気泡がシュワシュワと立ち上って、氷がカランと涼やかに鳴った。
「……きれい」
澪は思わず見入って、小声でこぼす。
九条は自分のグラスを手に取りながら、横目で澪を見た。
「お前に似合うと思っただけだ」
九条が口をつけたグラスを見て、澪が興味津々に首を傾ける。
「雅臣さんの、それ……どんな味?」
少し間を置いて、九条は低く答えた。
「……やめた方がいい」
「そんな、子供みたいなこと言わないでよ。私、もう子供じゃないんだから」
九条はわずかに目を細める。
「今しがた、子供みたいなことを言ったばかりだろ」
澪は、むっとして唇を尖らせる。
けれど、その仕草すら九条には“甘やかしたくなる子供っぽさ”に映っていた。
九条が差し出したグラスを、澪は期待と緊張の混ざった顔で受け取った。
「……じゃあ、一口だけ」
琥珀色の液体をそっと口に含んだ瞬間──
「……っっっ!!」
喉を焼くような熱さに目を白黒させて、慌てて口元を押さえる。
「な、なにこれっ……!アルコールの火ぃ飲んだみたい……!」
涙目で小声を漏らす澪。
九条は眉をわずかに上げて、グラスを取り返す。
「だからやめろと言った」
「だって……大人っぽいから、ちょっとは味わえるかなって……」
言い訳のように呟きながら、水を慌てて口にする。
「……顔に全部出ている」
九条は苦笑を堪えるように視線を逸らした。
その表情はいつもより柔らかくて、澪は余計に恥ずかしくなる。
「……次は氷を舐めてから、少しだけ口に含め」
「何それ?飲みやすくなるの?」
澪は訝しげに首を傾げながらも、素直に氷を唇へ運ぶ。
舌先でちょん、と触れ──
九条は思わず小さく息を呑んだ。
氷の冷たさに目を細める仕草。
濡れた唇を、無意識に舌で拭う。
……その一瞬だけで、別の欲を刺激される。
澪は冷たさに顔をしかめながらも、そのまま恐る恐る再挑戦。
ほんの少しだけ琥珀色を口に含むと──さっきよりは喉の痛みが和らぎ、鼻の奥にほのかな香りが抜けていく。
「……あれ、さっきより……大丈夫かも」
「………」
「なに? ちゃんとやったよ?」
「お前……日頃から、そんなことしてるのか」
低い声で問われ、澪は瞬きをした。
「そんなことって何?」
「氷を舐めて、そんな顔を……」
「え? だって雅臣さんが“やれ”って言ったんじゃない」
「そうじゃない」
苛立つように短く返す九条。
けれど澪には意図が伝わらない。首を傾げ、困ったように笑う。
「全然意味わかんないよ。普通に飲みやすくなったってだけなのに」
グラスを傾ける彼女の横顔を見ながら、九条は眉間を押さえた。
──伝わらない方が、まだいいのかもしれない。
威勢
ジンフィズをちびちび飲んでいた澪の頬が、じわじわと桜色に染まっていく。
グラスの縁に唇を寄せるたび、氷の音が小さく鳴った。
「……顔が赤いぞ」
「え、うそ?」
九条が低く告げると、澪は慌てて手で頬を覆った。
「少し酔ってる」
「そ、そんなことない。だって軽いって言ってたし……」
「お前の体質には軽くない」
「……え?」
小首を傾げる澪。
氷を舐めたあの仕草に赤い頬が重なって、九条は思わず深いため息を吐いた。
「お前にはバーは早かったな」
「私とっくに成人してるんですけど!?」
「グラス半分でこれだ」
「……うぅ、そんなこと言われたら飲みにくいじゃん」
九条は軽く眉をひそめながら、澪のグラスを取り上げて自分の方へ置いた。
「俺が飲む。これ以上は要らない」
「え、もう没収!?まだ残ってるのに」
「……お前の赤い顔を見ていれば十分だ」
「せめて最後まで飲ませて!それ美味しい」
「飲むペースが早過ぎる。飲み慣れていない」
「今日は介抱してくれる人いるから大丈夫」
「最初から俺に頼るな」
「だって酔い潰れても置いていかないでしょ?」
「潰れるまで飲むな」
「それ全部飲んでも潰れないから大丈夫」
九条はグラスの縁に残った雫を見て、低く吐き捨てる。
「……じゃあ飲め。潰れたら、俺の責任じゃない」
その声音に、澪は一瞬だけ「えっ」と目を見開く。
でも、口元は笑ったまま。
「うん。潰れないから大丈夫」
言いながら、ちびり、とグラスを傾けた。
酔っ払い
最後の一滴まで飲み干して、得意げにグラスを置く澪。
「ほら、ね? 潰れてないでしょ」
九条はグラスを片付けるように遠ざけ、低い声で告げた。
「部屋に戻るぞ」
立ち上がった澪を、黙って観察する。
一歩、二歩。
──ふら。
ヒールの踵が微妙にずれて、身体がわずかに傾く。
すぐ横に伸びてきた腕に、澪は目を瞬かせた。
「……あれ?」
「潰れてないと言ったのは誰だ」
支える九条の手は、冷静で、容赦がない。
足元がふらついた瞬間、九条が肩を支えた。
「……やっぱり無理をしていたな」
「ちょっと…つまずいただけでしょ」
強がる澪に、冷たい吐息が落ちる。
「言い訳はいい。歩けるか?」
「……歩ける」
口ではそう答えても、再びぐらりとした身体を、九条が片腕で引き寄せる。
「……全く。手間をかけさせる」
「ごめん……」と呟く澪の頭を、わずかに押さえつけるようにして腕の中に収める。
その顔には怒気もあるが、諦めの色も混じっていた。
「仕方ない。今夜は俺が運ぶ」
エレベーターを降り、廊下を並んで歩く。
九条が繋いだ手に、澪の指がじわりと絡んでくる。
「……」
さっきまで騒がしかった口が、急に静かになった。
と思ったら、腕に柔らかな重みが寄りかかってくる。
「おい」
低く呼びかけても、返事はない。
ただ、肩に額を預けるように寄ってきて、熱を帯びた吐息がかすかにかかる。
人前では決してしない仕草。
それが酔いで崩れた今、隠しようもなく滲み出ている。
「……甘えるのは、部屋に戻ってからにしろ」
叱責めいた声を落としながらも、九条の腕は力強く支え続けていた。
「大丈夫か?」
問いかけに、澪はしなだれかかったまま小さく頷く。
言葉は返さない。
気分が悪いのか、それともただ酔いで力が抜けているだけなのか。
判別できずに、九条は腕を少し引き寄せて支え直す。
無言のまま、廊下を進む。
澪の体温とわずかな重みが、手の中に確かに伝わってきた。
心配を隠した硬い表情のまま、九条は足を止めずに部屋まで連れていった。
部屋に入ると、九条は扉を閉めてから、腕を支えたまま問いかけた。
「歩けるか?」
「ん……大丈夫」
返事はするものの、実際に足を踏み出せば、その一歩は危うい。
踵が床を探るように揺れ、バランスを崩しそうになる。
九条の眉間に、静かに皺が寄った。
「……どこが大丈夫だ」
澪は恥ずかしそうに笑うが、足元はおぼつかない。
その様子に、九条は深い溜息を落とした。
九条はしばらく黙って澪の様子を見ていたが、すぐに結論を出した。
「……駄目だな」
次の瞬間、強い腕が澪の体をすくい上げる。
ふわりと浮いた視界に、澪が驚いたように目を瞬かせた。
「わ、ちょっと……」
「歩けないくせに、強がるな」
胸に抱きかかえられたまま、澪は抗議するように口を開きかける。
けれど、九条の無言の気配に、言葉は喉の奥で溶けていった。
足音も乱さず、淡々とベッドまで運んでいく姿が、なぜか優しくて、悔しいくらいに頼もしい。
お世話係
ベッドにそっと降ろすと、澪の体が沈み込む。
靴を脱がせてやりながら、九条は短く告げた。
「水を取ってくる」
「……ん」
半分眠たげに返事をする澪。
頬はほんのり赤く、目尻も緩んでいる。
普段なら見せない表情に、九条は一瞬だけ視線を留めたが、すぐに踵を返した。
冷蔵庫から水を取り出し、グラスに注ぐ。
氷が当たる小さな音が、静かな室内に響いた。
「飲めるか」
ノロノロと上半身を起こした澪は、九条に支えられながらグラスの水を口に含む。
喉を通る冷たさに、ふぅと小さく息を吐いた。
「うー……顔、洗わなきゃ」
外出前に塗った日焼け止めと、薄く重ねたメイクが気になるのだろう。
けれど九条はすぐに制した。
「その状態で風呂に入るのは危険だ」
足元もおぼつかないまま濡れた床に立たせれば、転倒しかねない。
アルコールの回った身体で熱い湯に浸かるのもリスクが大きい。
「……じゃあ、顔拭いて。コットンで」
潤んだ目で見上げる澪の声は、酔いと眠気が入り混じって柔らかかった。
「自分でできるだろ」
「むり……」
ベッドに沈んだまま、弱々しく首を横に振る。
普段なら絶対に言わない甘え方だった。
数秒の沈黙のあと、九条はため息を落とし、洗面台に歩いていく。
引き出しからコットンとクレンジングを取り出し、液体を含ませて戻ってくると、ベッド脇に腰を下ろした。
「じっとしていろ」
コットンを指に挟み、澪の頬にそっと当てる。
赤く火照った肌に触れると、澪がくすぐったそうに目を細めた。
「……エステみたい」
「寝言を言うな」
ぶっきらぼうに言いながらも、力は驚くほど優しかった。
「……次、拭き取り化粧水で拭いて」
枕に沈み込んだまま、澪がぼそりと指示を出す。
「全く」
呆れ声とともに九条は眉間に皺を寄せた。
だが手は止まらない。言われた通り、コットンを新しく取り出し、化粧水を染み込ませる。
柔らかく触れると、澪は気持ちよさそうに瞼を閉じる。
その仕草が、子どもじみているのに、妙に艶っぽかった。
「……これ毎日やってほしい……」
「寝言は寝てから言え」
「もう寝そう……」
「だろうな」
まぶたを半分閉じて笑う澪の表情は、普段なら絶対に人前で見せない無防備さを帯びていた。
九条は小さく息を吐き、最後にコットンをゴミ箱へ放り込みながらベッド脇に腰を下ろした。
「もう寝ろ。風呂は朝入れ」
返事はなく、聞こえてくるのは静かな寝息だけだった。
立ち上がり、枕元の照明を落とす。
厚手のカーテンを引いて外光を遮り、カーテンの端がぴたりと閉じたのを確認する。
振り返ると、ベッドに沈んだ澪は無防備に眠っていた。
九条はしばしその姿を見つめ、心に誓う。
──もう、絶対に外では飲ませない。
飲ませる時は、必ず室内で。風呂を済ませてからにする。
静かに息を吐き、足音を殺してベッドの傍を離れた。
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