「さっき、朝食を食べたら2回目していいって、約束したよな」
ベッドのふちに腰を下ろして、九条がぽつりと切り出す。
澪は少し身を引いて、警戒するように目を細めた。
「したけど……まさか4時間しか寝てないなんて思わなくて」
「したら、眠れる」
即答されたその言葉に、澪は思わず息を詰める。
「確かに……眠くはなるね。それは、わかる」
「なら、いいな」
「……もしかして寝てなくて、ちょっとハイになってる?」
「お前が、ストレッチもジムも禁止したからだ」
「え、それ私のせい!?ちゃんと寝ておけば良かったのに…」
そう言いながら、澪は苦笑いを浮かべる。
九条は返事をしない。ただ静かに、ベッドのマットレスに手を置いたまま、こちらを見てくる。
その視線が、淡々としているのに、どこか熱い。
「……飛行機の中では、眠れなかった」
「私の寝言が気になって?」
その問いにも、九条は何も言わない。
でも――澪にはなんとなく察しがついた。
(ああ、そっか。私が隣にいる状況で、他のチームメンバーの人がいるっていう状況で気が張ったのか……)
九条だって、氷川や藤代が後ろにいる中で、無防備に眠るわけにはいかない。
自分の言動がどう受け取られるか、常に考えて動いてる人だ。
「……じゃあ、私のせいかもね。寝言いうし?」
「……言ってた」
「……やめて、もう内容は言わないで……!!」
「全部は聞こえなかったが、“おかわり”って聞こえた」
「だからやめてってばーーーーー!!」
顔を真っ赤にした澪が布団に潜ろうとした瞬間、九条がその手を掴んだ。
「……本当に、“おかわり”でいいんだな?」
「ちが、あれは……たぶん、夢で、パンとか……」
「そうか。パンか」
「ううう……!」
九条の顔は真顔のまま、けれど目が少しだけ笑っている。
もう、逃げられない。
でも、逃げる気も――ない。
「じゃあ……ちゃんとしたら、寝てね」
澪が、少しだけ真面目な声で言う。
「旅行中、無理して私に合わせただろうから。明日に備えて、休んだり、準備運動したり……好きにしていいから」
九条は一拍だけ間を置いてから、低く返す。
「……好きにする」
その“好きに”の意味を一瞬で誤解されたことに、澪は思わずジト目になる。
「……そこだけ聞き取らないで」
九条は肩をすくめた。
わざとか、天然か。それすら分からないけど――たぶん、わかっててやってる。
「……ちゃんと寝るの、約束してくれたら、してもいい」
そう付け加えると、九条の目がゆっくりと細められる。
「……なら、“ちゃんと”とは何だ?」
「寝落ちじゃなくて、ベッドでちゃんと横になって、アラームかけて、朝まで……」
「……わかった」
「わかった?」
「“ちゃんとする”から、“ちゃんとさせろ”」
「ちょっと待って、私の“ちゃんと”はそこじゃない」
「違わないだろう」
「……もう……」
抗議する口調なのに、声の奥に笑いが混じってしまう。
こんなふうに、からかわれて、翻弄されて、それでもどこか甘い。
九条雅臣という人は、理性と欲の境界を、いつもほんの少しだけ曖昧にしてくる。
「いつからこんな屁理屈言う子になっちゃったんだろ、雅臣さん」
澪が小さくため息をつきながらぼやく。
「お前のせいだ」
即答。
思わず吹き出しそうになる。
「……まあ、私と知り合う前はこんなじゃなかったんなら、私のせいか」
「そうだ」
これまた迷いのない返事に、澪は目を細めた。
「……なんかちょっと責任感じるなぁ。日本の誇るトップアスリートを屁理屈王に育ててしまったなんて」
「悪くない育ち方だ」
「開き直った!?」
「“屁理屈”ではなく、“論理の応用”だ」
「言い方変えただけじゃん、それ」
声だけのやり取りなのに、どこか空気があたたかい。
部屋の温度でもなく、陽射しでもなく――
二人の間にある、静かな余白が、心地いい。
▶ 続き(BOOTHへ)
「……ん、あつい……」
かすれた声で澪が呟く。
熱を持った肌と肌が触れ合い、呼吸が絡む。
けれど九条は、それをほどこうとはしなかった。
「……疲れた?」
そう聞いた澪の声には、どこか心配と照れが混じっていた。
九条は少しだけ間を置いて、低く答える。
「……正直…まだできる…」
「ふふ……」
澪が小さく笑う。
笑うたび、胸元に伝わる振動が心地よかった。
「約束したから、一度ちゃんと寝て?」
「……お前が先に寝るだろ」
「そうかも……もう力入らない……」
呟きながら、澪の指が九条の背中にすべり込む。
ただ触れていたい、というような、優しい手のひら。
九条はその指を感じながら、そっと額を澪の髪に預けた。
柔らかい香りが、微かに残る。
「……痛いところは?」
「ない。……ちょっと、明日筋肉痛になるかもだけど」
「……変な場所が筋肉痛になったら、マッサージする」
「やった。VIP待遇」
笑いながらも、澪のまぶたは少しずつ重くなる。
疲れているのに、心地いい。
眠りに落ちる寸前の静けさ――
九条は腕の中の体温を感じながら、ただ黙って、呼吸を揃えていた。
まるで、自分の鼓動が澪に伝わっているかのように。
何も語らず、何も問わず。
ただ、今だけは。
ひとつのベッドで、ひとつの鼓動の中に沈んでいく。
「……寝よっか」
かすれた声でそう言った澪が、九条の胸元に額をこすりつける。
猫みたいに、甘えるような仕草。
どこかまだ余韻に蕩けたままの動きだった。
「……そうだな」
短く応じて、九条がシーツを肩まで引き上げる。
澪の身体が、自分にぴたりと密着してくるのを感じながら、
九条はそのまま腕を回し、柔らかく包み込むように抱きしめた。
「このまま一緒に寝てもいい?」
「……いいに決まってる」
ためらうように聞く声に、即答する。
まるで、迷いが生まれる前に消すように。
静寂が満ちる。
外はまだ昼前。
けれど、カーテンの隙間から落ちる光も、どこか柔らかくて――
朝からずっと起きていたとは思えないほど、ベッドの中は静かで暖かい。
「……ねえ、雅臣さん」
「ん」
「今日、幸せだね」
「……お前がそう思ってくれるなら、俺もそうだ」
「……ふふ」
ふわっと笑って、そのまま澪の呼吸がゆっくりと沈んでいく。
九条はしばらくの間、ただ黙ってその呼吸のリズムを感じていた。
温度、柔らかさ、重なった鼓動――
どれもが、確かにそこにある。
それは、勝利でも支配でもない。
ただ、守りたいもの。
触れて、抱いて、知った重み。
「……おやすみ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、
九条もまた、まぶたを閉じた。
今だけは、言葉もなくていい。
ただ、彼女の眠りに溶け込むように――
静かな午後の夢の中へと、ゆっくりと落ちていった。
カーテン越しの光が、だいぶ傾いていた。
昼の柔らかさを残したまま、部屋は少しだけ琥珀色に染まっている。
澪が、ゆっくりとまぶたを開けた。
隣には、まだベッドにもたれたままの九条。
片腕で澪を抱き寄せていたその姿勢はほとんど変わっておらず、
ただ目だけが、すでに覚めたようにこちらを見ていた。
「……ん、何時?」
「夕方。16時前くらいだ」
「これで、睡眠時間ちょっとは確保できた?」
「何なら寝すぎたくらいだ」
「嘘。そんなことない。まだ合計8時間くらい」
「お前がそうやって監視するから、数字で言い返せない」
「私のせいじゃないでしょ。自己管理が甘いだけです」
澪が小さく笑って、寝ぼけたまま彼の胸に顔をこすりつける。
「……夜、眠れるように、ジム行ってくる」
九条がそう言って、静かにシーツをめくる。
「いってらっしゃい。体、動かしてきて。帰ってきたら、ご飯しよ」
「……ああ」
立ち上がりながらも、九条の動きにはどこか名残惜しさが残っていた。
澪がベッドから手を伸ばして、その手首をふわっと掴む。
「ねえ」
「なんだ」
「この週末、ほんとに幸せだったよ。ありがとう」
九条は言葉を返さず、ただ軽く額に唇を落とした。
それが返事だった。
ベッドに残された澪は、そのままもう一度、シーツをかぶってごろりと寝返る。
ほんのり香る彼の残り香に包まれながら――
次に帰ってくる“彼”を、ゆっくり迎える準備をする。
ジムへ
夕方、九条雅臣は滞在先の高級会員制ジムへ足を運んでいた。
完全予約制、プライベート個室。芸能人や政財界の人間も利用する施設だが、誰も彼の名を声に出す者はいない。気づいたとしても、空気が違いすぎて近寄れない。
黒のトレーニングウェアに着替えた九条は、無言で準備運動を始める。
静かだが、一動作ごとの精度と滑らかさが異質だった。
旅行中に鈍った身体を、明日の練習に支障が出ない程度まで戻す。それが目的――のはずなのに。
まずはフリーウェイトゾーン。
ダンベルプレス、スクワット、スプリットランジ。
重量もフォームも、まったくブレない。
トレーナー不在。彼は自分で自分を“追い込む方法”を知っている。
続いて体幹強化。
サイドプランクからバランスボールを使ったピラティス応用。
20秒、30秒、45秒と時間を伸ばしながら、インナーマッスルを確実に刺激していく。
サーキットに入ると、空気が変わった。
バトルロープ、メディシンボールスラム、ケトルベルスイング。
インターバルは最小限。時計も見ない。
機械のように繰り返す。
仕上げはジャンプトレーニングとアジリティ。
ハードルジャンプ、ラテラルステップ、バーピー、シャドーフットワーク。
どれも短時間で神経系を叩き起こすメニュー。
汗が滝のように流れても、九条は黙って繰り返す。
「全開」ではない。だが、“静かに狂気をはらんだ調整”というべきセッション。
彼にとってはこれで「軽め」なのだ。
シャワールームに入る前、Apple Watchのリングが三周した。
リングを閉じることに意味はない。ただ、これくらいやって当然だというだけ。
帰宅時には、すでにすべてをクールダウンしている。
汗の匂いも消し、表情も穏やかに戻し、涼しい顔で澪のもとへ戻る。
「ご飯、できてるよ」
「ありがとう。先に手を洗う」
あのジムでの光景を知る者は、誰もいない。
九条雅臣という男は、見せる必要のないものは決して見せないのだ。
夕食
九条がリビングに入ると、澪はすでに食卓の最後の仕上げをしていた。
エプロン姿のまま、小鍋の蓋をそっと開けて湯気を確認しながら、少しだけ緊張した表情。
「作り置きも使ってるけど…今日の分は、ちゃんと色々調べたから」
テーブルに並べられたのは、色味も栄養も考え抜かれたプレート。
- メインは鶏むね肉の塩麹グリル。脂質は抑えつつ、しっとり仕上げた高たんぱくな一皿。
- 副菜にはブロッコリーとゆで卵のサラダ、きのこと大根おろしの和え物。
- 雑穀入りのごはんと、豆腐とわかめの味噌汁。
- そしてデザート代わりに、カットしたキウイとバナナが小さなボウルに。
「どうかな…ちゃんとアスリートっぽくなってる?」
「充分だ。理想的すぎるくらいだ」
「よかった…一応、“筋肉食堂”って検索したり、“テニス選手 夜ご飯”って調べたりした」
「お前がその単語で検索してるとは誰も想像しないな」
澪が照れくさそうに笑う。
「だって、ちゃんと寝て、ちゃんと食べてほしいんだもん。…命かかってる仕事でしょ?一応、私なりにできることはやりたいから」
九条は黙って箸を取る。
味はもちろん良い。だが、それ以上に“理解しようとしてくれたこと”が、心にしみる。
何も言わなくても、彼女が自分を見ていることが、今は分かる。
「明日ってレオンさん来る?」
澪が茶碗を置きながら訊ねる。
「明日は練習日だから朝から来る。氷川から連絡があった」
「そっか。やっぱプロにちゃんとお任せしたい。アスリートの食事、責任重いもん」
「お前のも美味い」
そう言って、九条は涼しい顔で味噌汁をすする。音ひとつ立てずに。
「イギリス帰りで和食食べたかったから、お味噌汁作ったの」
「普段より少し甘く感じる」
「うん、ちょっとだけ白味噌混ぜた。私の好みだけど、疲れてたら沁みるかなーって」
「……美味い」
九条が短くそう言って、静かにまた一口すする。言葉より、その仕草に満足がにじんでいた。
「ありがと」
澪は照れ隠しのように笑って、自分のお椀に視線を落とす。ほんの少し、心がほどける音が聞こえたような気がした。
「鶏胸肉、塩辛くない?大丈夫?」
「丁度いい」
「お世辞じゃない?」
「俺が言うように見えるか?」
「見えないです、全然。でも私が傷つかないように言ってるのかと思って」
「口に合わなければ、無理して食べない。特に塩分が多いものは摂らないようにしてる。つまり、そういうことだ」
「……なるほど。わかりやすい」
澪が小さく笑って、安心したように箸を進める。九条はただ静かに、また一口鶏肉を口に運んだ。
食後
完食。
「ご馳走様。美味かった」
「……よかった」
澪が、少し照れたように笑う。
それだけの言葉なのに、ちゃんと伝わるのが嬉しかった。空になった器を見つめて、心の中で小さくガッツポーズをする。
九条は椅子に寄りかかって、食後の静けさを味わっている。特別な会話がなくても、満ち足りた時間が流れていた。
「よかった。明日、早いんでしょ?片付けはやっとくから、先にストレッチでもしといて」
「お前もだ」
「え?」
「一緒に寝るって言った」
「…あ、うん。じゃあ、食洗機だけ回してくる…!」
わたわたとキッチンに戻っていく澪の背を見て、九条はほんの少しだけ、口元を緩めた。
この食卓が、明日への力になることを、誰よりも自分が知っている。
「お前、風呂は?」
食器を流しに運びながら九条がふと尋ねる。
「雅臣さんがジム行ってる間に済ませたよ。汗かいてたから」
「そうか」
短く返す九条の声に、気遣うような温度が少しだけ混じっていた。
別に確認したかっただけなのか、それとも自分の汗のにおいを気にしたのか――。
澪はその言葉の端を探るように、ちらりと彼の横顔を見たが、何も表情は変わっていなかった。
「……こっちも寝る準備しとくね」
「もう寝る気満々だな」
「そりゃもう。今日はもうガッツリ寝かせるって決めたんだから」
そう言いながらタオルをたたむ澪の背中に、九条は何も言わず、照明を少し落とした。
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