設計要望書が届いた日
初回の通話から、ちょうど3日後。
澪のもとに、再びメールが届いた。
ギャレーは右舷、L字型。
キャビン数は減らして、ひとつを広く。
クローズな空間より、明るさと開放感を。
色は寒色系で統一。
利用者は一人。来客は想定しない。
一見、冷たくも見える要望だった。
けれど、澪は思った。
(この人、最初から“他人を入れない設計”を選んでる)
四人乗り、六人乗りが標準のSunreef 50。
けれどこのオーナーは、そのどれでもない。
「一人で使う」が前提。
澪は、すぐにカタログから一人仕様の事例を抜き出し、
内装構成に合わせた参考画像を並べてみた。
そして気づく。
どれも、彼が求めている形には――足りない。
返信メールは、送信からちょうど8分で返ってきた。
それだけだった。
しかし、その一文だけで澪は理解した。
(……やっぱり、ちゃんと“読んでる”)
「興味がない」わけではない。
「こだわりがない」わけでもない。
ただ、“不快”かどうかを境界線にしているだけ。
彼は“違和感”だけを見つけて、黙ってそれを除外する。
自分の中にしかない基準で、静かに、正確に。
澪は、思った。
(この人、喋らなくても、全部伝わる気がしてくる)
でも、それは“信頼”ではなかった。
たんに、ノイズがないだけ。
彼が放つ空気の中には、雑味がない。
それは、澪にとっては「安心できる冷たさ」だった。
だから、進められた。
温度がないことが、むしろ心地よかった。
1月下旬、初の仕様書すり合わせ
通話は、いつも通りの静けさで始まった。
映像は、今回も片側だけ。
澪のiMacには、自分の姿が映っている。
けれど、相手の画面はずっと黒いままだった。
「では、本日は初稿のご確認をお願いします」
淡々とした進行。
澪は、自分が“営業”であることを完全に消し去るように、
設計担当としての声色とテンポで説明を続けた。
相手は、口を挟まない。
ただ、ときどき短く言う。
「はい」
「次」
「それ、戻して」
一言だけ。
それ以上の反応はない。
澪の画面には、操作中の図面と補足資料が交互に映っている。
静かな空間。クリック音だけが響く。
(……この人、本当に“黙って見る”だけなんだ)
確認の仕方に癖はない。
だが、どのスライドでも、説明が終わる直前に次を促される。
つまり、すでに読み終わっている。
読みながら、見ながら、同時に判断している。
人間離れした処理速度。
そう呼ぶと、大げさに聞こえるかもしれない。
けれど、それは“無駄のなさ”という形で澪の神経を圧迫してくる。
「収納容量について、1カ所だけ補足があります」
九条は、黙って図面の拡大を待った。
「こちら、ベッド下収納は引き出し式に変更予定です。
荷物を一人で出し入れされる想定で、片手でも開閉可能なスライド式にしています」
返答はなかった。
でも、沈黙は不安じゃなかった。
“この沈黙は、検討中”――それだけが伝わってきた。
澪は、その“間”に慣れ始めていた。
通話は、20分で終わった。
提案の8割が承認された。
残りは、「別案を提示してほしい」と短く返された。
その夜、澪は修正案をまとめながら、ふとメールの下書きを見た。
でも、書くべき言葉は、もう決まっていた。
ご指摘の件、再構成しました。
詳細は添付資料をご確認ください。
それだけでいい。
装飾のない、正確なやり取り。
そういう“関係”が、今のところ一番信頼できる。
すべてを任せる、は信頼ではない
修正案を送った日の翌朝、澪のもとに返信が届いた。
本文は三行。
家具配置は実用性優先、視界の遮りを最小に。
それ以外は任せます。
読み終えた瞬間、澪はモニターの前でほんの少しだけ眉を寄せた。
(……それ以外は、任せる)
言葉としては、信頼のように見える。
けれど、違う。
澪はこれまで何度も「任せます」と言われてきた。
だが、それが本当に“信頼の証”だったことはほとんどない。
実際は、確認が面倒なだけだったり、後から文句を言うための逃げ道だったりする。
けれど――この人は違う。
「任せた」と言って、訂正してきたことは一度もない。
「任せる」と言って、本当に触れてこない。
責任の所在が、最初から“こちら側”だけに置かれている。
言い換えれば、それは「判断の責任を負うことを、最初から前提にされている」状態だった。
澪は、そういう扱いに慣れている。
だが、その慣れが少しだけ、胸の奥にざらついた。
(私は、あなたのための設計士じゃない)
けれど――設計士であることは、誇りだった。
誰かの欲しいを、形にする。
それが、澪がこの仕事を続けている理由だった。
再度、図面を開く。
レイアウト上の導線を確保したうえで、家具配置を調整。
最小限の動きで生活が成り立つように、手元の空間をひとつずつ組み替えていく。
澪の手の動きに、迷いはなかった。
(“信頼”されてるとは思ってない。でも、求められているのは分かる)
そんな微妙な立ち位置の中で、
澪は、自分の居場所だけを静かに確認していた。
誤解されがちな誠実さ
相手からの返信は、いつも早かった。
澪が図面や提案書を送ってから、30分も経たないうちに、短い返答が届く。
マテリアルに違和感はない。
配線図面の更新が必要。次の案に反映を。
言葉に曖昧さはなく、要求ははっきりしている。
ただ――どこにも、“ありがとう”は書かれていなかった。
澪は別に、それを求めていたわけじゃない。
でも、人によっては「冷たい」と感じるかもしれないと思った。
(でも違う。これは“冷たい”んじゃない)
彼の返答には、“無駄”がないだけだ。
感謝も労いも、感情的な装飾語も、すべて排除されている。
だがその代わり、伝えるべき内容が、恐ろしく正確だった。
メールの言葉だけで、彼がどのレベルでこちらの提案を理解しているのかが伝わる。
何を求め、何を求めていないか。
どこまで許容できて、どこは絶対に譲れないのか。
それが、三行の中にすべて詰まっている。
(ああ、この人、“親切”じゃないんだ)
でも、それが澪にとっては、逆に心地よかった。
言葉の“優しさ”で誤魔化されることもない。
約束の時間を破ることもない。
レスポンスが遅れて、「すみません、忙しくて」なんて言い訳もしない。
この人は、“ちゃんとしてる”。
それだけで、十分だった。
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