1. 12月上旬、ファーストコンタクト
― 問い合わせメールの署名にあったのは、ただ一行の名前だけだった。
そのメールは、朝9時すぎに届いた。
件名に船種名とモデル番号が記されていて、添付ファイルにはプレゼン資料のダウンロードリンク、本文はたった三行。
From: kujou.m@example.com
To: m.ayase@marina-sales.jp
Subject: Sunreef 50 購入に関する資料依頼
Sunreef 50 に関して、購入を検討しています。
該当モデルの仕様資料とオプションリストをお送りください。
可能であれば来週中に一度、通話での打ち合わせを希望します。
九条
末尾にあったのは、名前だけ。
会社名も肩書きも、電話番号もなかった。
メールアドレスは個人のもので、ドメインはスイス。
澪は、画面のスクリーンショットを撮って、直属のマネージャーに送った。
「初回対応お願い」と一言だけ返ってきた。
本社経由でこの手の案件が来るときは、大抵“まとも”だ。
そう言いながら、マネージャーはいつもどこか緊張していた。
そういう意味では、これはおそらく「特別な誰か」だということだった。
澪は、リクエスト通りの資料をまとめ、あいさつも最小限に添えて返信した。
文面には、無駄な言葉を一切置かなかった。
プロとして扱うというより、「一切の感情を交えないやり取り」を選んだ。
それが最初の一歩だった。
ほどなくして、返信が届いた。
通話の日程とともに、わずかに希望が記されていた。
通話手段について:
可能であれば FaceTime を希望します。
難しい場合は Zoom でも問題ありません。
(FaceTime……?)
一瞬だけ眉が動いた。
ヨット販売の初回打ち合わせで、FaceTimeを希望する顧客はほぼいない。
普通ならZoomかGoogle Meet。企業案件ならTeams。
それでも澪は、すぐに頷いた。
この顧客はApple製品を使い慣れていて、セキュリティに対する“こだわり”があるのだろうと判断した。
そしてもう一つ――
この人は、LINEやWhatsAppなどの“フランクさ”とは無縁なのだと、直感で悟った。
「わかりました。FaceTimeで承ります」
次にその名前を口にするのは、通話の開始直前だった。
Tuesday 20:30 JST|初回通話と、確認のための問い
澪は、通話5分前にデスクの前に座っていた。
職場ではなく、自宅のダイニング。
その日の勤務を終えたあと、iPhoneをMacに繋ぎ、資料フォルダをデスクトップに並べた。
外付けモニターにはSunreef 50の平面レイアウト、オプション仕様一覧、そして工程表。
時刻は20:25。
画面の隅にある小さな時計が刻む秒針の音まで聞こえそうな静けさだった。
(……FaceTimeか。珍しい)
澪の職場では、打ち合わせの多くがZoomかGoogle Meetで行われる。
が、このクライアントは、事前にこう伝えてきた。
可能であれば、FaceTime希望。
無理であれば、Zoomでも構いません。
この一文だけで、ある種の警戒心と、セキュリティ意識の高さがうかがえる。
Apple端末間だけで完結する通信。外部サーバを経由しない利点。
澪は、念のためプライベートのiMacから通話を開始することにした。
カメラはオン。
ただし、相手側のカメラは、オフだった。
画面には「Kujoh M.」とだけ表示されている。
名乗るべきか、一瞬迷い――澪は、いつも通りの声で口を開いた。
「こんばんは。綾瀬と申します」
0.5秒の沈黙。
続いて、音声が届いた。
「こんばんは。……九条です」
やや低めで、雑音のない音質。
トーンは一定で、余計な抑揚がなかった。
(予想通り、無駄のない人だ)
「本日はお時間いただき、ありがとうございます。いただいていた内容をもとに、仕様書の概要と納期スケジュールを整理いたしました」
澪は資料フォルダを開き、画面共有の準備をしたが――
「資料は後で送ってください。先に、話だけ聞きます」
「……かしこまりました」
すぐに切り替え、口頭で説明を始める。
プロジェクトのフェーズ、選べるパッケージ構成、艇体とインテリアの基本仕様。
彼は一度も被せてこなかった。
だが、数分おきに、こう尋ねた。
「その選択肢は、耐久性を理由に外しても問題ないか?」
「設置位置の自由度は、他のモデルと比較してどれぐらいですか?」
「天井のラインが1cm上がることで、重心にどの程度影響が出るか想定していますか?」
技術面にも、構造にも、価格にも精通していた。
一通り話し終えた頃、彼はこう言った。
「このまま、続けてください」
澪はそこで、一度小さく息を吐いた。
画面の向こうに相手の顔はない。けれど、話すごとに“重さ”だけが確実に伝わってくる。
「……承知しました。では、カスタム可能なエリアの中でも、先に優先順位を整理することをお勧めします。次回以降、こちらで一部シミュレーションを用意してご確認いただく形がスムーズです」
「分かりました。優先するのは、静けさと、導線です。それ以外は任せます」
数秒の間。
「……すべてを任せる、という意味ではありませんよね?」
「仕様の方向性を確定させたうえで、意見は出します。初回なので、まずは全体像を整理してください」
その応答に、ようやく澪は一つ、理解した。
この人は――
「任せる」と「任せない」の線引きを、正確に使う。
そういう相手には、“曖昧な好意”も“気安さ”も、通用しない。
だからこそ、やり取りはきっと、正確で、速い。
通話は予定通り、30分で終了した。
終了のあいさつは、互いに省略された。
通話が終わる直前、彼が発したのはただ一言だった。
「……失礼します」
画面が黒くなると同時に、通話が切れた。
Macの時計は21:01を示していた。
(……名前しか、知らない)
澪は椅子にもたれ、背中で息を吸った。
目の前にあるファイル名は、「Kujou_Proposal01」。
必要なのは、証明のみ
初回通話の翌日、彼から短いメールが届いた。
本件、予定通り進行を希望します。
初期設計案を拝見次第、判断します。
文章の温度は一定だった。
だが、“判断します”という一言だけが、どこかくっきりと際立って見えた。
澪はその夜、初期ラフ案と使用素材リストをまとめ、オプション別に3つのPDFを分けて送信した。
丁寧に組んだつもりだった。
だが、返信は予想よりも早く、そして鋭かった。
素材は選定リスト③のAラインで統一。
ギャレーとベッド下収納は、フルカスタム希望。
納期は最長2年ですよね。
信頼は不要。証明だけでいい。
澪は一瞬、画面を見つめたまま指を止めた。
“信頼は不要。証明だけでいい。”
それは警告のようにも、促しのようにも読めた。
2年という納期は、海外製ヨットとしては常識の範囲内だ。
だが、九条は「納期に理解を示す」とは言っていない。
ただ――「信じるだけなら、やめろ」と言ったのだ。
つまりこれは、
「理由を示せ。進捗を可視化しろ。信じさせるな、証明しろ」
という、ごく冷静な“提示”だった。
澪は、少しだけ背筋を伸ばした。
彼は、最初から“信頼”を預ける気はない。
そのかわり、“期待しない信頼”を最初から断言している。
だから澪は、余計な温度を交えない返信を選んだ。
ただ、完璧に整った次の資料を――返すだけだった。
(なら、私は仕事をする)
それだけだと思った。
通話前夜。
澪はデスクの上に並べた資料を一度閉じ、営業部のチャットアプリを開いた。
指先が止まり、何度も打っては消して、ようやく一文を残す。
綾瀬:
有本さん、例のSunreefお求めの九条様の案件ですが、確認させてください。
顧客は「静けさを譲れない」と仰っていて、Sunreef 50では満足されない可能性があります。
まだ公式発表前のモデルですが、60 Power Ecoを一度ご紹介してもよろしいでしょうか。
条件に合えば、支払い能力が高い方のようですので、正式契約に進む見込みも高いです。
メッセージを送ると、すぐに「既読」の表示がついた。
数秒の間。
次の瞬間、上司の名がチャットに浮かぶ。
有本:
60 Ecoか……。お前、どこから情報取った?
綾瀬:
ポーランド本社のディーラー向け資料です。NDA範囲内。
有本:
ならギリギリ通る。
ただし、「まだ発表されていない」とは絶対に言うな。
あくまで“特別仕様の参考案”として出せ。
画面の文字を見つめながら、澪は短く息を吐いた。
綾瀬:
承知しました。慎重に進めます。
チャットの光が消え、部屋の中は再び静かになった。
モニターに映る自分の顔が、やけに緊張して見えた。
(“静けさ”を欲しがる人……一体どんな人なんだろう)
翌日のFaceTimeで、澪はその答えに出会うことになる。
澪は、画面に並んだAIの比較表を眺めていた。
使っているのは、最近話題になり始めたばかりの「ChatGPT」。
2022年の冬に公開されてから、世界中で“生成AI”という言葉が一気に広まった。
社内ではまだ正式導入もされていないが、澪は興味本位でアカウントを作っていた。
(……自分で作るより、早いかも)
軽い気持ちで入力した。
“Sunreef 50 と Sunreef 60 の性能比較を表にしてください。
静音性・構造・価格・航行性能の違いを中心に。”
数秒後、AIは表を返した。
その構成があまりにも整っていて、澪は思わずマグカップを持ち上げる手が止まった。
(……これ、使える)
AIが示す冷徹な数値は、九条の「信頼は不要。証明だけでいい」という言葉に、完璧に応えるものだった。
澪はその表を少しだけ整え、余計なデザインを削ぎ落とした。
“AI生成”という文字を小さく消して、提案資料に貼り付ける。
画面の隅で、時計の針が静かに進む。
この瞬間、澪はまだ知らなかった。
たった数ヶ月後、このAIが世界を変えるスピードで進化していくことを。
画面越しの海のような沈黙の中、澪は呼吸を整えた。
通話の向こうの男は表情を変えず、ただ静かに聞いている。
「Sunreef 50で十分だと最初は思っていました。でも、“静けさを求めている”と仰ったとき、
それはスペックの話じゃないと気づいたんです。」
九条は黙って聞いていた。
その沈黙は、承認でも否定でもなく——“続けろ”という合図に近い。
「Sunreef 50は、確かに静かです。エンジンの振動も抑えられていて、会話の邪魔にならない。
でも――それは“音を抑える”船。対して、Sunreef 60 Ecoはいわば“音を消す”船です。」
澪はタブレットを操作し、航行映像を共有した。
波の音、風の音、そして——何も聞こえない静寂。
その沈黙こそが、彼女が伝えたかった“証拠”だった。
「フル電動推進で、航行音は35デシベル。人のささやきよりも静かです。
波を割る音すら柔らかく、ただ“静けさそのもの”が海に溶ける。
これは機能ではなく、一種の造り手の思想です。」
九条の表情が、わずかに緩む。口元にかすかな呼気の跡。
それが、この男にとっての“理解のサイン”だと、澪は学びつつあった。
「Sunreef 50は、快適な船。でも60 Ecoは、世界が音を止める場所です。
もし、“静けさ”が目的そのものなら――こちらを選ぶべきだと思います。」
短い沈黙。
やがて、スピーカーから息が抜けるような音がした。
彼が笑ったのか、ため息なのか判断できない。
「……予算は、希望が叶うなら出す。選べ。」
「承知しました。――Sunreef 60 Ecoで、ご提案します。」
画面が暗転する。
通話が切れたあと、澪はしばらく椅子に背を預けた。
心臓の鼓動が、ようやく耳に戻ってくる。
“静けさを求める”——
それは贅沢じゃない。
戦い続けた人が、ようやく求めた“音のない場所”だった。

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