126.許可された異常

帰ってこない王者

控室に戻った瞬間、九条の周りにチームメンバーが駆け寄ってくる。

「大丈夫か!?」

「意識は!?」

「どこも怪我してないか?骨や筋肉に異常は」

九条の目はどこも見ていない。ただ立っているだけだ。表彰式も、トロフィー授与も全く喜ばなかった。受け取っただけ。そこへ歩けと言われたから歩いただけ。

本人の意思がどこにもない。

蓮見が顔をしかめて言う。

「象用の鎮静剤でも打って眠らせるか?」

「今冗談に付き合ってる余裕はありません」

神崎が半ば突き飛ばすように蓮見を押し除け、九条の前にしゃがみ込んだ。

「九条。もう大会は終わった。休め。あとは俺達がやる。スイッチを切れ。落ちていい」

九条の視線は、定まらない。何も映さない。誰も見ていない。

奥の奥まで、虚無。

反応は、ない。スイッチが切れなくなっている。

氷川がタブレットを確認しながら言う。

「意識はあります。心拍も正常範囲。ただ、返事は……今の状態だと難しいかと」

蓮見が肩をすくめる。

「メディア対応どうする?義務なんだろ?」

「ええ。出ないと罰金。悪質だと見なされたら、制裁の可能性もあります。今はあえてそれを受けるという選択肢もありますが」

「…出場停止は困るぞ」

早瀬が冷静に口を開く。

「言葉の意味が理解できれば、単語で返答はできます。“はい”“いいえ”だけでも」

「それ、会話になるのか?」

「……さぁ?」

蓮見と氷川が顔を見合わせて、同時にため息をついた。

ここから無事に会見を乗り切るのは、どう考えても無理がある。

それでも行かせなければならない。

誰も口に出さないが、“このまま壊れるんじゃないか” という恐怖が、控室全体にじんわり広がっていた。

優勝者の不在

控室の外は歓声とフラッシュの嵐。

だが、その中心にいる九条だけが、無。

「歩けますか?」

氷川が問いかける。

九条は、ほんの少し首を動かした。

それが限界だった。

二人が左右を支えて、マネキン人形のように歩かせていく。

「このまま行ったら、態度が悪いだの生意気だの言われるだろうな」

蓮見がぼそっと呟く。

「もはや定番です」

氷川も同意。九条に対しての声では、よくあることだ。

後ろからレオンが苦笑いする。

「俺達、なんだかんだ九条さんのこと好きだよね」

返事はない。

九条は、ただ前を向いて歩いていた。

歩かされ、移動し、椅子に座らされる。

フラッシュの光を浴びても、瞬きすらしない。

「優勝おめでとうございます。第3セット、どのような気持ちで戦っていましたか?」

「……はい」

「え、えー…では、今日の勝因は?」

「……はい」

記者席全体がざわつく。

氷川が淡々と言った。

「本日の会見は短縮します。コンディションの問題がありますので」

地獄のような空気のまま、会見は五分で終了した。

対照的に、マルコは汗だくで、息も荒いのに笑っていた。

「逆転負けは悔しいけど、今日の彼は文句なしに強かった。戦えて楽しかったよ。また必ず当たりたい」

その言葉に拍手が起こる。

だが、九条にはその音も届いていない。

存在の欠落

控室に戻ると、九条は本当に“抜け落ちた”。

座るでも、倒れるでもない。

身体から意識がストンと抜け落ちる、あの落ち方。

神崎が叫ぶ。

「九条!戻れ!呼吸しろ!」

声をかけられ肩を叩かれて、九条の目だけがゆっくり開く。

だが焦点が合わない。

「もう休ませるしかありません。この状態で動かすのは危険です」

「食事と水分は俺が管理します。眠らせる準備を」

全員が慌ただしく動く。

優勝した直後とは思えない。

喜ぶ余裕など、誰にもない。

怪物と呼ばれた朝

翌朝。

世界はすでに騒いでいた。

〈“モンテカルロ決勝、怪物誕生”〉

〈“九条雅臣、人間の域を超えたプレー”〉

〈“あれは本当に合法なのか?”〉

〈“メディア対応が冷たすぎると物議”〉

〈“試合後の映像、明らかに様子がおかしい”〉

SNSは大荒れ。

専門家が次々にコメントする。

「彼は過集中なのでは?」

「ゾーンの持続時間が異常」

「精神状態が危険なレベルに見える」

「ただの天才を越えている」

「もはや人じゃない」

九条はというと、ベッドでぐったりしていた。

神崎がその様子を見ながら、静かに言う。

「……このままじゃ選手生命が長く持たないぞ。30代で人工関節を入れることになるかもしれない」

誰も、反論できなかった。

怪物の眠り、人間の証明

九条は、メディア対応を終え、モンテカルロを出発してからずっと眠っていた。

「……こんなに寝るか?」

蓮見が低く呟く。

「この数日、まともに“人間の睡眠”をしていなかったんです。一気に反動が来ています」

機体が巡航高度に入る頃、神崎は iPad を開いた。

Apple Watch の心電図――

自動生成された PDF が、淡々と並んでいた。

  • 測定時間
  • 波形
  • 異常検知履歴
  • 平均心拍
  • ストレス指数
  • 睡眠段階遷移

全て“正常範囲”。

なのに、正常であることが異常だった。

「……人間の限界値のギリギリのはずです」

蓮見が眉を寄せる。

「異常が無いなら、問題ないってことじゃないのか?」

神崎は首を横に振った。

「違います。普通の選手なら、ここまで追い込んだ時はどこかが“壊れる兆候”を示すんです。身体の故障、睡眠障害、心拍の乱れ、電解質バランス、精神的反応……」

画面を指先で滑らせる。

「九条の場合、それがデータとして全く“出ない”。それが怖い」

氷川が低い声で言う。

「壊れていても、機械が検知できないってことか?」

「…例えるなら壊れる前に体が自動で遮断して、強制的に“切る”。突然意識を失い、その後の深すぎる睡眠は、その証拠です」

レオンが息を呑む。

「……つまりパワープラント(発電所)みたいなものですね。過負荷が来たら、都市全体を守るために一回落とす」

神崎は無言で頷いた。

蓮見はしばし黙り、その PDF を覗き込んだ。

本人の様子とは裏腹に、データは九条を人間として示している。

「……皮肉だな。世界は怪物と呼ぶのに、身体は必死に“生き延びるための防衛”をして休ませてる」

神崎の声は医師のものではなく、人間の声になっていた。

「ですが、このままだと、長く持ちません。十年は戦えない。人工関節、脊柱障害、神経性疲労……どれかが先に来る」

氷川はゆっくりと椅子に体を預けた。

「……この PDF、協会とスポンサーにも送るべきですね」

蓮見が苦笑した。

「“怪物じゃねぇぞ、人間だぞ”ってか」

レオンがぽつり。

「唯一、人間として九条を扱っているのがこの小さな腕時計ってわけだ」

そのとき、九条が微かに眉を動かした。

眠りの底から、かすかに呼吸が変わる。

神崎が即座に起き上がり、数値を確認する。

「……起きかけています。でも、まだ戻さない。あと三時間は寝かせます」

全員がそれ以上話さず、座席の静寂だけが、エンジン音に溶けていった。

九条は眠り、世界は熱狂して叫んでいる。

だが、この客室でだけは――

「九条雅臣を人として休ませてあげたい」

それが、この灰色の戦闘機にも似たジェットの中にある、一つの秩序だった。

ディコンプレッション

プライベートジェットは静かだった。

エンジン音だけが微かに響き、九条の寝息がその音と重なる。

神崎と早瀬は、ほぼ交代もせずに九条のそばに座り、モニタリングの数値を睨み続けていた。

氷川はノートPCでメディア対応の準備。

蓮見はタオルを首にかけたまま、壁に寄りかかって目を閉じている。

レオンは窓の外の雲を眺めながら呟いた。

「……九条さん、ようやく休めてる感じがする」

「大会中、1秒も休んでなかったからな」

蓮見が返す。

「氷の王子が氷漬けになってたようなもんだ」

眠りという命令

神崎が軽く肩を揺する。

「九条、起きろ。何か飲んで食べろ。どうしても辛いなら点滴を入れるが、食べられるなら食べた方がいい」

九条の瞼がゆっくり持ち上がり、淡い光が目に入る。

「……ん……」

声は掠れていた。

意識はある。反応もある。

ただ、非常に薄い。

「食べられるか?食べたら、また眠っていい」

九条は頷いた。

咀嚼も遅いが、確実に飲み込み、必要なだけ食べる。

だが――食べ終わって10分も経たないうちに、再び深い眠りに落ちた。

まるで、身体が睡眠を強制しているようだった。

人間に戻すための到着

マドリード到着の3時間前。

モニターを見ながら神崎は言った。

「体にも脳にも深刻なダメージはない。ただ……あれだけ深いゾーン状態が続けば、反動で身体が眠りを要求して当然だ」

「危険は?」

「今のところは無い。が、二度とあの状態には入らせたくない。何度もああなれば、本気で壊れる」

蓮見が言う。

「明日の朝まで寝かせるか?」

「起きるまで寝かせろ。強制して起こすな」

九条は、目を覚まさないままスペインに到着した。

スタッフがそっと抱えるように運び、車に乗せ、ホテルへ。

「戻ってくるんだろうな……これ」

蓮見が不安を隠せない声で言った。

神崎は短く返した。

「戻す。それが俺達の仕事だ」

だが、その手はわずかに震えていた。

モンテカルロを見届ける眼

モンテカルロ決勝。

日本は日曜日。試合開始は夕方だ。

昼のうちに家事も夕食も、お風呂まで全て済ませた。どれだけ長引いても、終わった瞬間にそのまま眠れるように、準備だけは完璧に整えてリビングのテレビ前に座った。

この大会、全て見た。

リアルタイムで追えなかった試合もあったが、内容は全部把握している。九条の状態の揺れまで。

決勝が始まると、九条は最初から深度の違う集中に沈んでいた。周囲の音を完全に切った時の、あの“入った”顔。

画面越しでも分かる。

まっすぐ、視線を逸らさずに見ていた。

対戦相手のマルコ・ルアーノも強い。あの九条と拮抗する選手。

だから、この先が怖い。全豪の決勝もそうだった。

ルカ・エンリオ戦。

それまでストレートで勝ち上がっておきながら、決勝だけタイブレークにもつれ込んだ。世界中の強者が集まる全豪では珍しい展開でもない。むしろストレートで来た方が異常だ。

だが、あの時、九条の中で“スイッチ”が入った。

勝ちたい試合で、相手が喰らい付いてくる。

何が引き金になるのかは分からない。ただ、余裕のある展開では、九条は深追いしない。現状維持で戦う。

それが変わるのは、強敵が迫った時だ。

マルコは、明らかにその条件を満たしていた。

第1セットを落とし、少し経ってから九条の様子が変わった。全豪とも違う。

もともと人間離れした動きに、不気味な何かが憑いたように見えた。

圧倒的だった。

完膚なきまでに、容赦なく相手を叩き潰しにいく戦い方。普通の選手なら心を折られる。下手をすれば恐怖症になる。

二度と立ち向かう気をなくす強さ。

それでも、マルコは笑っていた。

ルカの時と違い、狂気じみた笑み。強い相手と戦えることを純粋に楽しんでいる。太陽の王と呼ばれる明るい青年像とは別の“本性”を見た気がした。

そのまま悪魔のような強さで、九条はモンテカルロを制した。

勝利が決まった瞬間も、トロフィーに触れた時も、喜ばない。目に光がない。動きはすべて事務的。

なぜ勝てるのか。

何を目的に勝ちに行くのか。

専門家でも理解できないだろう。

圧倒的な強さと恐怖の象徴なのに、夕日を浴びた横顔は痛ましくさえ見えた。

試合が終わると、次の大会スケジュールを開いた。

次はスペイン。ムチュア・マドリード・オープン。

会場はラ・カハ・マヒカ。“魔法の箱”という意味。ガラスと金属の箱のような建物。天井は開閉式で、雨なら屋根が閉じる。

調べている途中で「ボールガール」の項目が目に入った。

かつてマドリード・オープンでは、ボールガールだけにヘソ出しトップスとミニスカートを着せていたらしい。男子には同じ格好をさせない。性差別的だと批判が出て、膝丈パンツに変更された。だがヘソだしのトップスは変わっていないので、そこも批判されている。

内容自体は理解できる。

ただ、澪の手を止めたのはそこじゃない。

ネット上に上がるボールガールの写真の数々。

胸の谷間を真上から撮ったもの、ミニスカートの中を狙ったもの。露骨なアングルが少なくない。

女子アスリートへの盗撮が日本でも問題になっているが、これは世界共通らしい。

これからテニス界で戦っていく若い女子を、真剣に自分の役割と仕事をまっとうしている姿を。

最初から性的対象として扱う大人が存在する。

大会主催側の意図には踏み込まない。

ただ、数々の写真の“撮り方”に悪意と人間の醜さしか感じなかった。

ボールガールを人格や役割ではなく、性別と体として扱っている大人達がいる。

(……反吐が出る)

澪は冷えた目のまま、マウスのワンボタンでタブを閉じた。

in Madrid

スペインの首都、マドリード。

地中海沿岸の明るさとは違う。

ここは内陸にあり、空気が乾いている。

海風が撫でたモンテカルロとは、質がまるで違う。

日差しは強いのに、湿度がなく、影は濃い。

石畳が光を跳ね返し、街全体が固く、無骨な印象を持つ。

洒落たカフェと歴史的建造物が並ぶが、そこに漂うのは “優雅な余暇” ではない。

生涯労働の国らしい実務の匂い

闘牛、王宮、広場——戦いの痕跡が文化になった土地

そんな都市だ。

南欧の陽気というより、乾いた現実と誇りが支配する首都

そして何よりマドリードは 見る街ではなく、戦う街 だ。

サッカーで育った競争心、闘牛の歓声、王宮の格式、無骨な道路と広場の造形。

この街に立つと、誰もが少しだけ背筋を伸ばす。

要求される空気が、他の都市と違う。

世界のプレイヤー達がここに来る理由は、日差しでも建築でもない。

勝者だけが受け取れる空気があるからだ。

だからマドリード・オープンは“魔法の箱”と言われる。

魔法が宿るからではなく、剥き出しの現実と誇りを試される箱だから

目覚めても、勝利は他人のもの

静かなスイートの寝室。

遮光カーテン越しに、スペインの午後の日差しが薄く差し込んでいる。

空気は乾燥していて、モンテカルロの海風とはまるで違う。

九条はゆっくりと瞼を開けた。

視界がぼやけている。

しばらく天井を見つめて、体を起こそうとして――うまく起き上がれない。

(……重い)

腕も、足も、鉛のように重い。

だが筋肉痛や怪我の痛みはない。

ただ眠りの底から、まだ戻りきっていない。

(……どこだ、ここ)

喉が乾燥して掠れていた。

寝ぼけたとか、疲れているというレベルではない。

完全に“別の場所にワープしてきた”ような感覚。

ホテルの匂いが違う。

空気の質も違う。

モンテカルロじゃない。

(大会は……?試合はどうなった……?)

頭がぼんやりして、思考がもつれる。

決勝戦。

マルコ。

トップスピン。

叫び声。

観客のざわめき。

光。

そこで記憶が途切れている。

(負けたのか……?それとも……)

自分の記憶の中では、最後のポイントを取った感覚が――ない。

だから勝ったか負けたかすらわからない。

枕元のテーブルに置かれた水に手を伸ばすが、指が震えてペットボトルを倒しそうになる。

「……」

その時、部屋の外からドアの開く音。

蓮見が慌てて入ってきた。

「お、起きたか!九条!」

九条はゆっくりと顔を上げる。

焦点が合うまでに数秒かかった。

「……ここは」

「マドリードのホテルだ。移動したんだよ。お前、ずっと寝てて」

「……試合……」

蓮見は言葉を選ぶように、一瞬だけ目を伏せた。

「優勝したよ、モンテカルロ」

九条は、瞬きの回数が増える。

「……俺が?」

「そう。お前が」

「……いつの話だ」

「昨日、いやもう一昨日か?まぁとにかく、今はマドリードだ」

九条の頭は、事実を飲み込むのに時間がかかった。

まるで他人の話を聞いているようだった。

蓮見は椅子を引き寄せて座る。

息を吐き、真っ直ぐに九条を見る。

「お前……決勝の終盤、覚えてないんだな」

九条はゆっくり頷いた。

「……何があった」

蓮見は苦笑しながら――しかし笑顔ではなかった。

「お前が……いつも通りじゃなかった」

「……」

「詳しい話は……神崎と氷川から聞け。今は、とにかく座れるようになれ。まだ顔色が悪いぞ」

そして、少し言いづらそうに付け加えた。

「……思い出さなくていい。あれは、お前が気にしなくていいことだ」

九条は喉の奥で言葉をなくした。

覚えていないが、勝ったということが、安心したと同時に少し恐ろしかった。

意識の空白

神崎は、椅子に座り、静かに九条の瞳孔を確かめた。

光を当て、反応速度を確認し、脈拍と眼球の動きを観察する。

「……今は問題ないが、やっぱり記憶が部分的に抜けてるな」

九条は、ぼんやりした目で神崎を見る。

「記憶が……抜けてる」

「決勝の終盤。それから、試合後の控室でのこと。それと、移動中の記憶が丸々ないはずだ」

九条は目を伏せた。

「……原因は?」

神崎は、一度だけ大きく息を吸い込んだ。

「人格が乖離していた可能性がある」

その言葉に、蓮見と氷川がわずかに顔色を変える。

「ただし、“多重人格”の教科書的な意味での人格交代とは違う」

「大会中の極度の集中状態が長時間続いて、意識が深層に沈んでた。おそらく……“別の自分”が前に出て戦っていた」

九条は黙って聞いていた。

「そんな状態での記憶は通常、残らない。脳が生存優先モードになると、記録が後回しにされる」

神崎は九条の肩に手を置き、ゆっくりと告げた。

「強くなる。反応も速くなる。判断も冴える。だが……反動で、こうして記憶が抜けるんだ。疲れも大きい。丸一日眠っていた」

九条は小さくうなずいた。

「……そうか」

その表情には、ショックより“納得”があった。

自分の身に起きたことを、淡々と受け入れるいつもの九条だった。

戻す技術

スイートの居間に全員が集まった。

九条はソファに座り、まだ動きが重い。

氷川がタブレットを前に置き、会議を進める。

「マドリード・オープンはシード選手のため、初戦は免除されます。出場するにしても 2回戦から です。四日あります」

蓮見は腕を組みながら言う。

「その四日が問題だよな。練習は必要だが……深海入りされると困る」

神崎が頷く。

「練習より大事なのは、“深く入り過ぎないようにする訓練” と、“入っても抜け出せる訓練” だ」

早瀬も資料をめくりながら静かに補足する。

「九条さんの身体は負担が少ない動き方を学習している。だから今回の異常な深さでも壊れなかった。考えずに動いている分、脳への負担も軽い。ただ……心は別です」

レオンがため息をついた。

「今の九条さん、体より心が危ないんだよね……」

九条は黙って聞いていたが、表情はほとんど動かない。

氷川が議事録を追いながら、慎重に言葉を選ぶ。

「精神負荷の蓄積は、身体より厄介です。勝てば勝つほど、脳は同じ状態を“求める”ようになる」

蓮見が眉を寄せる。

「依存か?」

「そうです。ゾーンの強烈な成功体験は、薬物と同じで脳に“もっと”を刻みます」

神崎が重ねる。

「だから制御しないと、本人が望まなくても潜る。試合でなくても、日常でも」

視線が九条へ向く。

レオンは、あえて軽く言った。

「九条さん、勝つのが麻薬になってるよ。意識の深海に潜り過ぎて、戻り方を忘れたんだ」

九条は微かに息を吐いた。

「……戻れなくなることはあるのか」

神崎は一拍置き、静かに答えた。

「ええ。スポーツ界では珍しくない。“壊れて戻らなかった王”はいくらでもいます」

その言葉が部屋の空気を変えた。

氷川が言う。

「だから四日じゃない。“今後ずっと”制御と出口を作る。それが今回の課題です」

蓮見は九条を横目に見て呟いた。

「勝ち続けるってのは……こうなるってことか」

九条は何も返さない。

静寂の診断書

氷川がタブレットを持ち上げた。

「問題はこれです」

画面には、モンテカルロ決勝の“第3形態”以降の九条の映像。

蓮見が眉をひそめる。

「……本人に見せて大丈夫なのか?刺激にならねぇか?」

神崎は腕を組んで考える。

「メリットもデメリットもある。見せれば、自覚が生まれる。だが、映像を見たショックで急に深く入る危険もある」

早瀬も慎重に言う。

「見た自分をどう受け止めるか……ですね。普通の選手ならトラウマになりかねない」

全員が九条の反応を待つ。

九条は小さく息を吸い、言った。

「……必要なら、見る」

九条が「見る」と言った瞬間、氷川と神崎の間で視線が交錯した。

その目は――「まだ戻ってきてない」と言っていた。

九条は映像を欲した。

知りたいのではなく、掌握したいからだ。

自分の中に“知らない自分”がいることが、気に入らない。

だが神崎は即座に封じた。

「お前は今、支配よりも回復を優先すべきだ。身体は戻ってきたが、心はまだ戦場に置いてきている」

九条の視線がわずかに揺れる。

従順に頷くしかなかった。

氷川はタブレットを伏せ、空気がわずかに張り詰めた。

蓮見がぽつりと漏らす。

「……九条。あの時のお前は“勝つため”じゃなかった。“相手を消すため”に打ってた」

九条のまつ毛が震える。

ほんの一瞬。

だが、その震えは、記憶の底に“何か”が触れた証だった。

神崎が低く制した。

「思い出すな。今は戻る方を優先しろ。

 お前があの深度に入るのは──本当に必要な時だけでいい

九条は目を閉じた。

「……分かった」

だが、閉じた瞼の奥で、

あの“無感情の闇”がまだ完全には消えていないことを、チーム全員が直感していた。

深海に挑む条件

沈黙が落ちる中、氷川が尋ねた。

「……大会、どうしますか。休むという選択肢もあります」

レオンも心配そうに言う。

「休んだって誰も文句言わないよ。休んだほうがいいと思うけど……」

しかし九条は迷いも間もなく答えた。

「出る」

全員が「ああやっぱり」という顔をした。

蓮見が頭をかく。

「……知ってたけどさ。もうちょい迷う素振りくらい見せてくれよ」

氷川も苦笑する。

「九条さんは大会を避ける人じゃありませんからね」

ただ、神崎だけは表情を引き締めた。

「出るなら条件がある」

九条が視線を向ける。

「なんだ」

神崎ははっきりと言った。

「メンタルトレーニングを 毎日必ず 行うこと」

九条は瞬きひとつせず返す。

「今までもやってきたが?」

「違う。今までやってきたのは“集中状態に入るための”訓練。これからやるのは――“集中から戻るための訓練” だ」

蓮見がうなずく。

「言い換えれば、深海に潜っても自力で浮上できるようにする訓練だな」

神崎は続ける。

「出るなら、これは絶対条件だ。守れないなら……今回は見送ってほしい」

部屋の空気が、一瞬だけ重くなった。

九条はしばらく考えるふうに目を伏せ――

「……わかった」

静かに、だがしっかりと答えた。

その言葉に、チーム全員がほんの少しだけ安堵した。

感情という弱点

マドリードに到着して三日。

大会の2回戦までの間、チームは九条の身体調整と平行して、最も重要なタスクに取り組んでいた。

“集中状態から、自力で戻る訓練”

神崎が考案した手順はこうだ。

  1. 意図的に集中に入る(浅い状態)
  2. 一定ラインに沈む“直前”で止める
  3. そこから現実へ意識を戻す

ただのメンタルワークではない。

心拍数、瞳孔、筋の反応をリアルタイムで計測しながら行う。

限りなく危険な訓練だ。

早瀬がストップウォッチ片手に声をかける。

「九条さん、呼吸が深くなってる。入る前に止めてください」

氷川はデータを確認しながら、

「脳波がアルファ波からシータ波へ移行しかけています。ここからが“戻す練習”です」

九条はゆっくり目を閉じ、数秒の間を置き——

また静かに目を開ける。

それが“戻ってきた合図”だった。

「……よし。今のは早かったですね」

「いい反応だ。昨日より明らかに戻る速度が上がってる」

「このまま実戦で戻れれば、深海入りもそこまで問題じゃない」

そう言いながらも、神崎の表情の緊張は完全には緩まない。


訓練が続く中、蓮見が突然声をあげた。

「お前、一度だけ“途中で”戻った時があったよな」

氷川が即答する。

「ドバイのATP500です。急激に集中から戻った反動が出て、第3セットを落としました」

蓮見は腕を組む。

「なんで戻れた?入りきれなかったのか?」

九条は答えず、わずかに視線を落とした。

「……声が、聞こえた」

レオンが身を乗り出す。

「澪ちゃんの?」

その瞬間、控室の扉が開いた。カザランだった。一緒にモンテカルロからマドリードまで移動してきていた。

蓮見が呆れたように振り向く。

「お前、なんでここにいるんだよ」

「大会までに九条さんの髪切ろうと思って。準備してたら話聞こえてきた」

全員がため息をつく中、九条は淡々と続ける。

「……澪が日本に帰っていた後だ。声がするはずはない。だが、聞こえた“気がした”。そう思った瞬間、急に浮上して、集中に入れなくなった」

氷川が唸る。

「つまり、外部の“情動刺激”が、集中状態への移行を阻害する」

蓮見が頬を掻く。

「なるほど……やっぱり連絡取った方が良いんじゃねぇの?」

しかし九条は、固い声で短く否定した。

「取らない」

レオンがすかさず言う。

「取れば集中が削がれるから?」

九条はうなずき、明確に言った。

「全仏は絶対に落とせない。少しでも集中を乱す要因は排除する」

その徹底ぶりに、チームは言葉を失う。

チームは言葉を失った。

神崎が口を開くより先に、氷川が静かに息をついた。

「……そこまで割り切れるのは、強みでもあるが」

レオンが続ける。

「弱点にもなる、って話だよね」

蓮見は眉間を押さえた。

「お前の集中って、“無音の戦場”みたいなもんだろ。そこに他人の声が割り込んできたら、そりゃ乱れるわ」

早瀬が短くまとめる。

「情動が秩序を崩す。単純な話です」

その言葉に、カザランがぽつりと言う。

「……澪っちが悪いみたいに聞こえるよ。違うでしょ」

全員が黙った。

“違う” と分かっている。

だが現実として、九条の戦略から“感情”を排除しないと年間グランドスラムは成立しない。

九条は低く、淡々と言い切った。

「澪は悪くない。だが——“影響を受ける俺のほうが問題だ”。」

神崎の視線が鋭くなる。

「自覚しているならいい。だが、排除しすぎれば逆効果だぞ」

「承知している」

九条は一切ぶれない。

蓮見がため息をつき、肩を落とした。

「……ほんと、恋愛してても化け物やってられるの、世界でお前だけだよ」

レオンは苦笑混じりに言った。

「心は人間のままなのに、やることは怪物なんだから」

九条は応じない。

ただ、訓練再開の合図を出すように軽く顎を引いた。

その横顔は、感情を切り捨てたアスリートの顔だった。

しかし——

カザランだけは小さくつぶやいた。

「澪ちゃん、聞いたら泣くよ……そんな言い方」

九条の指先が、一瞬だけ止まった。

その“半秒の動き”を見逃すチームメンバーはいない。

氷川が、わざと優しい声で言った。

「……どれだけ排除しても、完全には切れないんですよ。それが人間です」

九条は答えない。

ただ、呼吸だけがわずかに深くなり——

再び、深海の手前で立ち止まる訓練に戻っていった。

必要なのに、遠ざける

スイートの空気が少しざらついた。

カザランが腕を組んで九条を真正面から見据える。

「やることが極端すぎない?普通に恋人と連絡とりながら試合に出たって良いと思うけど」

その声には、責めではなく“生活者のリアリティ”が滲んでいる。

蓮見が肩をすくめた。

「ま、一般論としてはそっちが普通だよな」

レオンも同意するようにうなずいた。

「離れるのが愛情じゃないでしょ……って普通の人は思うよ」

だが九条の返答は、ためらいゼロだった。

「目指す結果が人並みで良いならな」

一拍置いて、さらに冷たく続ける。

「俺が目指している場所は違う。人並みでは許されない」

その言葉は正論であり、現実であり、暴力だった。

カザランが眉をひそめる。

「……それ、澪ちゃん聞いたら泣くよ」

蓮見も苦い顔をする。

「まあな。恋愛しながら年間グランドスラムなんて、地球上に前例ないし」

神崎が静かに指摘した。

「ただ、“切り離しすぎれば”パフォーマンスは落ちる。人間は感情の生き物だ」

氷川も冷静に補足する。

「澪さんを遮断した結果、逆に情動が暴走して深海化が進む可能性があります」

意見が割れていく。

しかし九条は、その議論をすべて黙って聞いていた。

表情は動かない。

だが、その沈黙は“無関心”ではなかった。

──心の奥では、別の声がしている。

“澪が悪いわけじゃない。

それどころか……必要だ。”

それでも距離を置く理由が

“勝つため”だけと言い切れるのか。

放置しておいて、必要だとは何なのか。

遠ざけながら、大切だとは何なのか。

自分でも整理できていない矛盾が胸に溜まっていく。

だが九条は内心を出さない。

出せば、弱くなると知っているからだ。

唇をわずかに動かしただけで言った。

「……関係ない。試合までは、切る」

短い。

冷たい。

だが、その“切り方が下手すぎる”ことに本人は気づいていない。

カザランがため息をついた。

「……あんたさ。

そういうとこ、ほんと“恋愛初心者”だよ」

スイートの空気に、誰も笑わない小さな苦みが落ちた。

芝への言及

蓮見が苦笑気味に言う。

「でもさ……全仏が終われば連絡する気はあるんだろ?」

九条は頷いた。

「芝は……問題ない。ウィンブルドンの特性は理解している」

早瀬が確認するように言う。

「九条さん、芝は試合展開が速い分、負担が少ないですからね。あなたの動きとの相性もいい」

蓮見が軽く笑う。

「お前、芝での勝率、異常に高いもんな。あの大会の厳かな性格も、お前と相性いいしさ」

九条は何も返さなかった。

だが、その沈黙には“計算の確信”があった。

解除ルーティン

控室。

神崎が用意した「フロー解除ルーティン」が貼られているホワイトボードを、九条はまるで“関係のない掲示物”のように眺めていた。

1分目:深呼吸

九条は言われた通り、息を吸い、止めて、吐く。

しかし呼吸が深くなるほど、“何も感じない海底”に戻っていくようで、神崎は眉を寄せる。

「戻れ。沈むな。これは潜るための呼吸じゃない」

「……分かってる」

分かっていない声だった。


2〜3分目:ストレッチ

肩と首のストレッチをしながら、蓮見がぼそりと話しかけた。

「お前、自分のプレーの良かったところとか、振り返ったりしてるか?」

「してない。意味が無い」

「意味あるって。今後の集中コントロールには少なくとも必要だろ」

九条はほんの一拍だけ動作を止め、また淡々と腕を伸ばす。

「……勝てば、それが良かったということになる」

蓮見が呆れたように笑う。

「俺がお前のこと褒めてやろうか?」

「いらない」

即答。

氷川がタオルを折りながら、無表情で補足する。

「褒められると“戻る”らしいですよ。ドバイの時、澪さんの声が聞こえたと錯覚した瞬間、急速に戻ってパフォーマンスが落ちましたから」

蓮見が目を丸くする。

「やっぱあの時の原因それかよ……。だったら褒めるの、逆効果じゃね?」

「逆効果ですね。だからあなたは褒めずに黙っててください」

「誰が褒めるか!」

「……」

九条は会話にほとんど反応しない。

ただ、肩のストレッチを淡々と続けている。


4分目:軽いウォーキング

控室の中をゆっくり歩く。

歩きながら、神崎は九条を横目で観察する。

「九条、フローからの帰還は“筋力”の問題じゃない。精神がどれだけ現実に着地できるかだ。お前は戻る気が薄い。そこが一番の問題だ」

「……試合に勝つために、戻る理由がない」

「人間の精神の問題として、危ないんだよ」

「入れば確実に勝つ。それだけで十分だろ」

ほんの少しだけ、神崎はため息を漏らした。


5分目:水分補給と“振り返り”

紙コップを渡しながら、レオンがやんわりと促す。

「ねぇ九条さん。“今日良かったな”って思えたところ、ひとつぐらい言ってみてよ。1個でいいよ。1語でもいい」

九条は水を飲みながら、淡々と答える。

「……特に無い」

「じゃあ、次は?改善点とか」

「……もっと早く勝つ」

「それ改善点じゃないよね?」

「改善点だ」

レオンは持っていたタブレットを閉じた。

「はぁ……澪ちゃんにこの会話聞かれたら怒られそうだわ」

「関係ない」

九条の声は揺れない。

その無表情の奥に“疲労”すら感じられない。

ただ、過度な集中と勝利だけが残る“空洞”だった。

空の器

マドリードのホテル・スイート。

夕方。窓の外では乾いた風が砂塵を巻いている。

九条はヨガマットに座り、深く息を吸った。

「集中状態へ入る→戻る」の流れを意図的に行う訓練。

神崎が静かに声を掛ける。

「九条、入っていい。だが深く入るな。あくまで浅いフローだ。……戻れる範囲でな」

九条は目を閉じた。

――その瞬間、空気が変わった。

目の奥がすっと暗くなる。

音が遠のく。

“あの深海”が、足首を掴んで引きずろうとする。

(…まずい)

神崎が肩を支えようと一歩踏み出すが——

九条は一言も発さず、

ただスッと何も映さない顔で座ったまま固まった。

「九条!戻れ!」

返事がない。

呼吸が異様に整いすぎている。

体のどこにも力みがない。

——完全に“入り込んだ”時と同じ状態。

神崎は一瞬で理解した。

「(やられた…これは深い。訓練段階でこの深さはまずい)」

姿勢は崩れていない。

肉体は眠っていない。

だが、中身がいない。

まるで“空の器だけが座っている”ようだった。

呼び戻す音

その闇の中で、ひとつだけノイズが混じる。

――“雅臣さん”

九条の呼吸が、一瞬だけ乱れた。

(……澪?)

いないはずだ。ここにいるわけがない。

声が聞こえるはずがない。

だが、耳奥に残像のように響いた。

——その瞬間。

九条の集中が、深海から水面へ向かって乱暴に引き戻された。

目を開けた九条は、荒く息を吸った。

「……っ……っは……!」

体が拒絶反応を起こすように震える。

神崎と早瀬が同時に駆け寄る。

「九条!戻れたか!?」

「……戻った……」

声が弱い。

喉が乾いて掠れている。

神崎が低く呟いた。

「……声、か」

九条は答えない。答えたくない。

だが“心を動かす音”が

フローを破壊することを身体が覚えてしまった。

境界が溶けるとき

神崎はすぐに脈・瞳孔・反射を確認し、難しい顔で立ち上がった。

「……最悪だ。これは危険領域だ」

蓮見が思わず声を上げる。

「なあ、本当にそんなヤバいのか?」

「訓練レベルで人格の境界が曖昧になってる。一歩間違えれば完全に“戻れなくなる”」

氷川が眉をひそめる。

「戻れない、とは?」

「フローのほうが“本体”になってしまうということだ」

全員が黙った。

レオンがぽつりと呟く。

「澪ちゃんの声……戻るきっかけになったのは良かったけど……逆に言えば、もう本人がコントロールできてないってことか」

神崎は頷いた。

「九条のメンタルは強すぎるんだ。普通は心が折れて入れない領域に、“平気な顔して”行けてしまう。だから危ない」

蓮見が頭を掻く。

「前途多難だな……」

カザランがため息をつく。

「九条さん、不得意なことあるんだね」

氷川が淡々と言う。

「自分を褒める、弱さを認める、気持ちを振り返る……致命的に出来ないことですよ。昔から」

九条はただ黙って聞いていた。

自分にとって“当たり前”のことが、周囲にとっては恐怖でしかないと悟りながら。

ヒューマン・プロトコル

マドリードOP前日。

大会運営本部から、氷川・蓮見・神崎のスマホへ同時に着信が入った。

珍しいことだった。

TOP10選手でも、運営が“先に”連絡してくることはまずない。

氷川が対応する。

「はい、チーム九条です」

──『九条選手のご様子について、メディカルスタッフから確認を取りたいのですが』

明らかに慎重な口調だった。

遠回しではあるが、はっきり伝わる。

(大会側が“疑っている”)

・モンテカルロの試合後の異常な無反応

・記者会見での硬直

・移動中に一切姿を見せない

・SNSで出回った「ゾンビみたいだった」という映像

どれも運営の耳に入っていた。

氷川が淡々と返す。

「ご心配は理解しますが、九条は出場します。

 状態についても、こちらで把握し管理済みです」

──『しかし……モンテカルロの後半、彼はまともに会話が……』

「大丈夫です。問題ありません」

蓮見が横で小声で言う。

「いや、問題だらけだろ……」

神崎は深刻な顔で腕を組んでいる。

運営側はなおも食い下がった。

──『九条選手は、明日の試合に安全に参加できる状態なのかをご確認したいのです。

 もし不調であれば、メディカルプロトコルの提出を……』

氷川が言いかけたところで、

ソファからゆっくり立ち上がった九条が、

スマホを奪うようにして取った。

顔色は悪くない。

だが、瞳だけが底の見えない水のように無色だった。

「……出る」

低く短い。

それだけ。

運営は驚いた気配を見せつつも続けようとする。

──『九条選手、ご本人ですか? 状態の説明を……』

「問題ない」

即答。

──『しかし、健康状態の——』

「出る」

その声には、怒りでも苛立ちでも焦りでも、何もなかった。

ただ“事務的な意志”だけ。

コートに出て、勝つ。

それ以外の情報をすべて排除した者の声。

運営は沈黙したあと、折れるしかなかった。

──『……承知しました。ただし、明日のメディカルチェックで異常があれば、試合開始を遅らせる場合もあります』

九条は返事をしないまま、スマホを氷川に渡した。

氷川は深いため息をつく。

「……はい。では明日、スケジュールどおりで」

通話が切れた。

強制招集

初戦である2回戦前日の朝。

大会本部から正式な通知が届いた。

「九条雅臣選手、メディカルルームへ。出場可否判断のため、追加検査を実施します。」

トップ選手が「強制的に」呼び出されることなどほぼ無い。

運営もそれだけ九条の状態に“異常”を感じている証拠だった。

氷川が紙を読む。

「……やっぱり来たか」

蓮見が頭を抱える。

「仕方ねぇよなあ……あんな決勝した後で、普通出場できるとは思われねぇ」

神崎は冷静に頷く。

「行こう。誤魔化せることと誤魔化せないことがある。

 どのみち、逃げるわけにはいかない」

九条は、呼ばれた瞬間から表情を動かしていない。

ただジャージを羽織り、淡々と靴を履いた。

「行く」

感情は無い。

ただの報告。

異例のメディカル招集

白い壁と、無機質な医療機器の並ぶ個室。

大会ドクター二名が待っていた。

九条が入った瞬間、二人の眉がわずかに動く。

モンテカルロで出回った映像そのままの無表情——“空洞の眼”。

「九条選手、こちらに。心拍と酸素飽和度を測ります」

指示に従い、黙って椅子へ座る。

腕を差し出す動作さえ、精密機械のように無駄がない。

モニターに心電図が走る。

脈拍は低い。だが、アスリートの範囲。

医師たちは互いに視線を交わし、次へ進む。

「次に、意識レベルを確認します。九条選手、今日は……何月何日ですか?」

わずかな沈黙。

九条の目は、どこにも焦点を合わせていなかった。

「……分からない」

蓮見が「おい」と椅子を蹴りそうになるが、神崎が手で制した。

九条は平然と続ける。

「覚える必要がない情報だ。試合には関係ない」

医師の顔が固まる。

「……では、ここはどこですか?」

「大会会場。どこでも同じだ」

蓮見が今にも立ち上がりかける。

「ふざけ——」

神崎が低く抑えた。

「これは彼の“集中特性”です。意識障害ではありません」

医師たちは納得しきれない表情のまま、隠し検査へ移った。

「反応テストをします。色が表示されたら即座にボタンを押してください」

九条は無言で頷き、手を置く。

赤——0.14秒

青——0.12秒

黄——0.10秒

緑——0.08秒

室内の空気が止まった。

医師の一人が呟く。

「……異常な速さです。これは、危険な覚醒レベル——」

そこへ神崎が割って入る。

「昨年のウィンブルドン三回戦でも、同等の反応速度を記録しています。公式データ、提出可能です」

医師が言葉を失う。

神崎は続けた。

「睡眠も正常です。昨夜の睡眠スコアは83。深睡眠も平均値内。心電図は問題なし。交感神経優位ですが、彼の通常範囲です」

事実だけを積み上げ、逃げ道を塞いでいく声。

医師が反論を探すように、九条の顔を覗き込む。

「しかし……あなた自身、試合に出ることは“安全”だと思いますか?」

九条はゆっくりと顔を上げた。

その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。

「安全かどうかは……関係ない」

医師たちの表情が一気に険しくなる。

蓮見が「ああ終わった……」と頭を抱えかけたが、神崎が、淡々と制した。

「医学的“異常”は一つもありません。今ここで問題になっているのは、先生方の“印象”だけです」

空気が変わった。

出場可

医師たちは長く相談し、ついに結論を出した。

「……医学的リスクはありますが、現時点で“出場不可”と断定する材料はありません」

一瞬の静寂のあと、蓮見が声を上げた。

「通ったのか!?」

「はい。ただし、途中で異常が見られた場合は即時ストップを要請します。救護班は常時、ベンチ裏に待機させます」

神崎は深く頭を下げた。

「ご配慮、感謝します」

医師たちは最後に九条へ向き直る。

「どうか……ご自身を守ることも、考えてください」

九条は答えない。

ただ静かに立ち上がり、ドアへ向かった。

廊下に出た瞬間、張り詰めていた空気が一気に抜ける。

蓮見は壁に手をつき、大きく息を吐いた。

「……心臓止まるかと思った……あいつ、もうちょい普通の答え方できねぇのかよ……」

レオンは両手で顔を覆う。

「九条さん……ほんとに人間……?」

氷川は淡々と結論だけを口にした。

「よかった。これで……戦える」

その中で、神崎だけが表情を変えなかった。

「……本番で“戻れなくなったら”終わりだ。今日は、戻す訓練を倍にする」

全員が無言で頷く。

そして——

数歩先を歩く九条は、まるで誰の声も届かないかのように、自ら“深海”へ足を踏み入れていた。

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URB製作室

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