戻るための合図
マドリードの夜は遅い。
夕食を終えても、まだ外は薄明るい。乾燥した風が窓を叩く。
スイートのリビングでは、異様な光景が広がっていた。
「……3、2、1。戻れ」
神崎の声と共に、早瀬が指を鳴らす。
乾いた音が響く。
ソファに座った九条の肩が、ビクリと跳ねた。
閉じていた目が開き、大きく息を吸い込む。
「……っ……はぁ……」
まるで水面から顔を出した溺水者のような呼吸。
額には脂汗が滲んでいる。
神崎がすぐに数値を読み上げる。
「戻り時間、4秒。……遅い」
蓮見がタオルを投げ渡す。
「さっきより深く潜ってたな。指の音が聞こえるまでラグがあった」
九条はタオルで顔を拭う。
「……聞こえてはいた。ただ、反応する意味を感じなかった」
その言葉に、部屋の空気が凍る。
氷川がキーボードを叩く手を止めた。
「意味を感じない、とは?」
「音は聞こえている。だが、その音が俺に対する命令だと認識するのに時間がかかる。『戻る』という行為が、今の俺には『不合理な中断』に感じる」
神崎が舌打ちを堪えるようにペンを置いた。
「それが依存だと言っているんだ。深海の方が居心地が良くなっている」
脳が、勝利と効率だけの世界に味を占めている。
雑音も、感情も、疲労もない世界。
そこから現実に帰ってくることは、重力のある泥沼に戻るような不快感を伴う。
九条は無自覚に、人間であることを拒否し始めていた。
「もう一度だ。今度は視覚刺激を入れる」
神崎は容赦しない。
明日、コートに立てば、誰も止める者はいない。
自分で戻れなければ、九条は終わる。
断絶の夜
深夜2時。
訓練を終え、ようやく解放された九条は、ベッドの縁に座っていた。
体は疲労しているはずなのに、脳だけが冴えて冷たい。
サイドテーブルにはスマートフォン。
通知ランプは光っていない。
自分から連絡を絶っているからだ。
(……澪)
画面をタップすれば、数秒で声が聞ける。
『雅臣さん』という、柔らかい音。
それを聞けば、間違いなく戻れる。
あの深海から、一瞬で引き上げられる命綱。
だが——
(……引けば、戦えなくなる)
ドバイでの一件が証明している。
澪の声は、九条雅臣を人間に引き戻す最強のトリガーだ。
人間に戻れば、恐怖を感じる。迷いが生まれる。情け容赦ない暴力的なテニスができなくなる。
今の異常なまでの強さは、「人としての欠落」と引き換えに手に入れたものだ。
九条は、スマホを裏返して置いた。
画面を下にして、光が見えないように。
「……必要ない」
自分に言い聞かせる声は、部屋の乾燥した空気に吸われて消えた。
勝利のために愛を遠ざける。
その矛盾こそが、最も人間らしい苦悩だと気づかないまま、怪物は目を閉じた。
魔法の箱(Caja Mágica)の影
翌日。
マドリード・オープン、2回戦。
会場であるカハ・マヒカは、鉄とガラスの要塞のようだった。
屋根が半開きになり、強烈な日差しと濃い影のコントラストを作っている。
赤土(クレー)のコートが鮮やかに浮かび上がる。
観客席は満員。
だが、歓声の種類がいつもと違う。
「見ろ、あれがモンテカルロの……」
「全く笑わないって本当か?」
「サイボーグみたいだ」
好奇心、恐怖、そして値踏みするような視線。
九条がコートに入場すると、拍手の中にざわめきが混じる。
ベンチに荷物を置く動作一つ一つが、カメラに狙われている。
氷川は関係者席で、スマホを強く握りしめた。
「……見世物小屋の扱いですね」
隣で蓮見が腕を組む。
「本人が気にしてねぇのが救いだがな。……おい神崎、顔色は?」
「悪くない。心拍も落ち着きすぎているくらいだ。……問題は、試合が始まってからだ」
対戦相手は、スペインの若手、ガルシア。
地元の大声援を受けている。
「バモス!ガルシア!」
「あのロボットを倒せ!」
完全なアウェー。
だが、九条は一度も観客席を見なかった。
コイントス。
九条がサーブを選択。
主審がコールする。
「Ready? Play.」
その瞬間、九条の周囲から音が消えた。
深度1:水面下
1ゲーム目から、九条のラケットが火を噴いた。
マドリードは標高約650メートル。空気が薄く、ボールが飛ぶ。
制御が難しいこの環境で、九条のボールはミリ単位でラインを捉える。
『15-0』
『30-0』
『40-0』
『Game, Kujo.』
わずか1分強。
速すぎる。
ガルシアは一歩も動けなかったエースが二本。
観客がどよめく暇すらない。
ベンチ裏のモニタールーム。
早瀬がデータを読み上げる。
「心拍数、変動なし。呼吸数、低下。……入りました。深度1」
神崎がモニターを睨む。
「まだ浅い。これなら声は届く。……戻す必要はない、行かせろ」
まだ安全圏だ。
しかし、そのテニスは冷徹そのものだった。
相手の良いところを消す。
弱点を執拗に突く。
ラリーをさせない。
「テニス」という対話ではなく、一方的な「作業」が行われている。
第1セットは 6-1 で九条が取った。
圧倒的だった。
だが、誰も楽しんでいなかった。
観客は、あまりの力の差と、九条の無機質な強さに水を打ったように静まり返っていた。
深度2:光の届かない場所
第2セット。
ガルシアが開き直り、捨て身の強打を打ち始めた。
「バモス!!」
リスクを度外視したショットがライン際に決まる。
観客が湧く。
「そうだ!行け!」
「目を覚まさせてやれ!」
会場のボルテージが上がる。
九条が、ふと相手を見た。
感情的な叫び。汗。必死な形相。
(……うるさい)
九条の脳内で、スイッチがもう一段階切り替わった。
『ノイズキャンセリング』
環境音がフッと消える。
ボールのインパクト音と、自分の呼吸音だけが残る世界。
神崎が声を上げた。
「下がったぞ!深度2だ!」
蓮見が身を乗り出す。
「おい、相手が乗ってきたとこだぞ。ムキになって潜るな九条!」
だが、九条のプレーが変わった。
速い。
反応速度が、人間の限界値を超え始める。
ガルシアの渾身の強打を、表情一つ変えずにライジングで叩き返す。
相手が「決まった」と思った瞬間、すでにボールは足元に返ってきている。
絶望的なカウンター。
ガルシアの心が折れる音が聞こえるようだった。
『Game, Kujo. 4-0』
一方的すぎる蹂躙。
会場はシーンとし始めた。
ブーイングすら起きない。
ただ、目の前の「異常な現象」に畏怖している。
境界線上の攻防
マッチポイント。 九条はベースラインに立ち、無表情のままボールを突き始めた。 その時。一瞬、九条の視界がぐらりと揺れた。
(……?)
深海の水圧に、体が耐えきれなくなっている。 指先の感覚が遠い。ボールの弾む音が、水底で鳴っているように鈍く遅い。 ベンチ裏のモニタールームで、神崎が血相を変えて無線に叫ぶ。
「まずい、深度3に入りかけてる! 蓮見、戻せ!」
コートサイドの蓮見が即座に立ち上がった。 九条がサーブのトスを上げる直前、静まり返る会場を切り裂くように、蓮見が叫ぶ。
「九条!! 息を吐け!!」
ルールすれすれの、鋭く重い声。 そのノイズが、厚い水膜を突き破って九条の鼓膜を叩いた。
九条はわずかに眉をひそめた。
(……うるさい)
強烈な不快感。だが、その不快感が「現実に他者が存在する」という座標を生んだ。 九条は、深海の底へ落ちる寸前で、つま先を引っ掛けるように踏み止まる。 乱れた呼吸を一度だけ吐き出し――トスを上げた。 放たれたサーブは、センターへのフラット。220km/h。 ガルシアのラケットが空を切り、壁にめり込むような乾いた音が響いた。
『Game, Set and Match, Kujo. 6-1, 6-0』
試合終了。わずか58分。 圧倒的すぎる、蹂躙だった。
帰還の痛み
ネット際での握手。 ガルシアは九条の顔を直視できず、逃げるように目を逸らした。恐怖に引きつった顔だった。 九条は何も言わず、ただ事務的に手を握り、離した。 主審と握手を交わし、自陣のベンチへ戻る。
ラケットを置いた瞬間だった。 九条の膝が、ガクッと力なく折れ曲がった。
「……っ」
座り込むと同時に、全身の毛穴から脂汗が吹き出す。過剰分泌されていたアドレナリンが急激に底を突き、血圧が乱高下している。急激な浮上による減圧症のような、強烈な目眩と吐き気。
カメラが抜く前に、氷川が素早く立ち塞がるようにしてタオルを頭から被せ、ボトルの水を渡すフリをして小声で囁いた。
「九条さん。迷走神経反射が起きています。頭を下げて。……意識はありますか」
厚いタオルの中で、九条はひきつる呼吸を抑えながら小さく頷いた。
「……ある。……戻った」
氷川は安堵の息を押し殺した。
「よく戻りました。……行きましょう。皆が待っています」
カメラは、タオルを被って動かない九条を執拗に追っている。実況が「勝利の涙か、それとも疲労困憊か」と推測する声が会場に響く。 違う。 ただ、怪物から「人間という重く不便な肉体」に魂をねじ込み直すための、痛みを伴う時間を稼いでいるだけだった。
不在の証明
ホテルへの帰りの車中。
勝利したのに、雰囲気は重かった。
神崎がタブレットを示す。
「ギリギリだったな。第2セットの4ゲーム目、あそこで蓮見が叫ばなかったら、お前は落ちてた」
九条は窓の外、マドリードの流れる景色をぼんやり見ていた。
「……勝ったなら、いいだろう」
「良くない。記憶はあるか?」
「……断片的には」
「断片的じゃダメなんだよ!」
神崎が珍しく声を荒げた。
「お前がテニスをしている間、お前の心はどこにもいない!それを繰り返せば、日常でも感情が戻らなくなるぞ!」
九条は黙り込んだ。
反論できないのではない。
(それでも勝つしかない)と思っているからだ。
車が赤信号で止まる。
ふと、歩道を歩く日本人観光客らしきカップルが目に入った。
楽しそうに笑い合い、手をつないでいる。
九条の目が、その繋がれた手に吸い寄せられる。
(……澪)
会いたい。
触れたい。
その温もりに逃げ込みたい。
そう思った瞬間、心臓が痛いほど跳ねた。
強烈な渇望。
それが、九条がまだ「人間」である唯一の証拠だった。
だが、九条はその渇望を無理やりねじ伏せた。
(まだだ。全仏が終わるまでは……)
車が動き出す。
カップルの姿は後方へ消えた。
九条は窓から目を逸らし、再び冷たい無表情のマスクを被った。
マドリードの乾いた風は、怪物の孤独を癒やしはしない。
ただ、勝利という結果だけが、彼を許していた。