83.ロンドンからドバイへ

隠蔽工作

食事を終えて部屋に戻ると、澪は慌ててベッド周りやソファを点検し始めた。

クッションを叩き、シーツのしわを伸ばし、サイドテーブルの避妊具をバッグにしまいこむ。

「匂いとかある!?」

「アイツは犬じゃない」

「でもなんか部屋の空気とかで分かるかもしれないじゃん!」

「……わかっても言わない」

ベッドの掛け布団をめくった瞬間、澪の動きが固まった。

思ったよりもはっきりと残ったシミに、ピシッと音がしそうな勢いで固まった。

「なにこれ!こんなシミできるほど!?」

「……ああ」

言葉を詰まらせた澪の脳裏に、さっきの光景がよみがえる。

途中、自分でも制御できないほど乱れた瞬間があった。

九条はそこまでは口にしない。ただ冷静に、

「部屋の痕跡よりお前の表情でバレるぞ。普通にしてろ。寝室まで覗かない」

ピンポーン。

ベルの音に、澪は一瞬びくりと肩をすくめた。

ドアを開けると、そこに立っていたのは──

黒いシザーケースを持ち、片手にメイクボックス、もう片手に巻き髪用のヘアアイロンを持った風早蘭。

「お待たせ〜。戦闘準備、完了です」

にこやかにそう言う彼女は、どう見ても美容師というより撮影スタジオのメイク担当そのもの。

「……なんか、本気装備ですね」

「当たり前でしょ?素材を最大限活かすには、準備が命だから。取りに行くの面倒だし」

背後で九条が「やめろと言った」と低くぼやくのが聞こえたが、風早はまったく意に介さず、ずかずかと部屋の中へ入っていった。

「じゃあ、ここに座ってください」

床に手早くビニールシートを広げて、その上に背もたれ付きの椅子を置いた。

「…よろしくお願いします」

澪が少し緊張しながら座ると、風早が澪の首にクロスを巻く。

スプレーで軽く髪を濡らしながら、

「長さはあんまり変えたくないんですよね?」

「はい。何なら今少しずつ伸ばしてて」

「それは良いですね。ぜひ伸ばしましょう!」

「何故そんなに喜ぶ」

九条がガン見しながら警戒する。

「いろんなヘアアレンジができるからです!」

風早はにっこり笑いながら、澪の髪を指先で持ち上げ、光に透かして見る。

「ハーフアップも、編み込みも、まとめ髪も…あぁ、和装ヘアも絶対似合う。あとはカールの大きさを変えるだけで雰囲気もガラッと…」

「…やめろ」

九条が低く言う。

「まだ何もしてないのに」

「お前の想像がもう趣味の匂いがする」

「趣味ですけど?悪いですか?」

澪は小さく肩を震わせ、笑いをこらえていた。

風早は澪の前に回り込み、前髪を指でつまんで角度を確認する。

スッ、と鋏が開き、チョキ…チョキ…と乾いた音が静かに響いた。

切り落とされた細い髪が、クロスの上にふわりと落ちる。

「顔まわりは少し軽くしますね。動いたときに柔らかく見えるように」

「お願いします」

九条は隣のソファで腕を組み、微動だにせずその様子を見守っていた。

まるで何かの審査でもしているかのような視線だ。

「そんなに睨まなくても、ちゃんと可愛く仕上げますって」

カザランが笑いながら、鋏の刃先を澪の耳元へと滑らせる。

シャキン…シャキン…とリズムよく整えられていく髪。

澪は鏡越しに、自分の髪型が少しずつ整っていくのを見つめていた。

カザランがサイドの毛先を揃えていると、九条がじっと鏡越しに覗き込み、低い声で口を開いた。

「……そこ、もう少し長く残せ」

「素人は黙っててください」

即答で返すカザラン。

「……」

九条はわずかに眉をひそめ、何か言いかけたが、澪が笑いをこらえているのに気づき、口をつぐんだ。

「はい、動かないでー。彼氏さんの圧に負けないで可愛くしますから」

「……お願いします」

澪は鏡の中で小さく頷いた。

「メイクしちゃってるからシャンプーできないし、ドライヤーで飛ばしちゃいますね。九条さん、107D持って来てるんですよね?とってきてください」

「俺を使うな」

「手が空いてる人間は働くもんですよ。ほら、早く」

わずかに間を置いて、九条は無言で立ち上がった。

澪のスーツケースから、澪が「神の風!」と言っていた白いドライヤーを取り出して戻ってくる。

「ほら」

「はい、どうも」

渋々と渡したドライヤーを、風早は満面の笑みで受け取った。

「ありがとうございます。じゃあ乾かしていきまーす」

「嬉々としてやるな」

「だって楽しいんですもん」

メイクの系統

「澪さん、何系のメイクが好きとかありますか?」

「何系!?」

不意打ちの質問に、澪が目を瞬かせる。

「可愛い系とか、綺麗系とか、大人っぽいとか…逆に可愛らしく見える方が好きとか」

「そんなに変えられるんですか!?」

「はい。余裕っす。なんならパンク系にもできます」

「やめろ」

九条の低い声が即座に飛ぶ。

「私、大人っぽくなれるんですか?」

「はい。メイクで顔が変わるタイプなので、なれますよ」

「ならなくていい。過度に顔を変えるな」

「なーーんで九条さんが答えるの。澪さんの意思優先!!」

九条、注意されて黙り込む。

「……私、子供っぽく見えますか?」

「え、全然。ノーメイクだとちょっと幼くはなるけど、しっかりメイクしたら大人の女性に見えますよ」

「スチームルームで現地の女性に子供っぽいと言われたことを気にしている」

九条の説明に、風早が「あー…」と納得した。

「日本人は骨格が小さいし肌が綺麗な人が多いから、年齢不詳に見えてるだけですよ。あと前髪あるから子供に見えるってのもあります」

「だから気にするな」

「それに澪さん、化粧で変われるなら二刀流ですよ。素顔で守備力、メイクで攻撃力」

「なんの話だ」九条が眉をひそめる。

「じゃあナチュラル系、フェミニン系、キュート系っていうジャンルだったらどれが好きですか?」

「「ナチュラル」」

澪と九条の声がダブった。

「だからなんで九条さんが答えるの!!何回言わせるんすか!!フリじゃないからな!!」

「俺にも答える権利はある」

「彼女は所有物じゃねーから!!」

「…ま、まあでも好み一緒ですし…」

「澪さん!こういうとこ甘やかしたら今後エスカレートしますよ!!」

風早の勢いに対して、澪は思いの外冷静だった。

「エスカレートしたら私が止めますから、大丈夫です」

「止められると思うか?」九条が低く笑う。

「…止めます」

「おー、挑戦状だ」風早がニヤリとする。

「だって雅臣さん、私が本気で嫌いになるようなことはしないから。だから、大丈夫」

「おお…意外と信頼関係築いてる?」

「意外とはなんだ」九条が眉をひそめる。

「いやほら、外から見たら“支配”に見える時あるじゃん。でも実際は…」

「支配じゃなくて保護です」澪が即答する。

「……お前、言うようになったな」九条が小さく笑った。

無自覚

「大丈夫!?この男、無自覚に洗脳とかモラハラしそうだから、なんか辛い事あったら言ってくださいね!?」

「おい」

九条にとっては聞き捨てならないことを風早が言っている。

「私、こう見えてモラハラからは逃げるので、本当に大丈夫です。そんなに男性に尽くすような女じゃないですよ」

澪は至って落ち着いた様子で、そう答えた。

「………あんまそうは見えないけど……」風早が目を細める。

「よく言われます。何されても耐えそうって。でも、結構冷めてるんです」

「冷めてる、ね…」

九条が意味ありげに繰り返す。

脳裏には、初めて会った日の夜、柔らかい雰囲気とは裏腹に目の奥が冷めている澪の姿を思い浮かべていた。

「はい。だから、束縛とかも一定ライン超えたら“じゃあもういいです”ってなると思います」

「…お前は、たまに本当に怖い」

九条にとって“怖い”のは、澪が怒ることではなく、何も言わずに彼女が消えること。無言で見限られることだ。

いつもの無表情の裏で九条がそんなことを考えてるとは、風早は気付かない。

「じゃあ、澪さんのその感じでメイクします。はい、九条さんは絶対口出すから、向こう行ってて。出来上がったら呼びますから」

「………」

九条は別室へ渋々引き下がる。

女性2人になったところで、メイク開始。

「澪さん、意外と芯強い感じ?」

「っていうか、男性をそんなに求めてないんです。だから、ちょっとした事ですぐ冷めちゃうんです、私」

「…意外」

「よく弱そうに見られます。すぐ言い負かされそう、とか」

「見た目が控えめに見え過ぎてるんだろうね」

風早はコンシーラーを取りながら、澪の頬に軽くタッチする。

「でも、骨格はしっかりしてるし、目の形も強め。メイクで少しだけ際立たせれば、“押し負けない感”は簡単に出せるよ」

「へぇ…」澪は鏡越しに自分の顔を覗く。

「逆にノーメイクだと、控えめさとか、守ってあげたくなる雰囲気が前面に出ちゃう。九条さん、そこにやられてる気がするな〜」

「…ああ、そうかも」澪が少し笑う。本性はそんなことないんだけどね、と続けて。

「あの人、見た目からして“守る側”じゃん。そういう男が惹かれる女って、大体ギャップ持ってるから」

その時、九条が戻ってきて「まだか」と割って入り、風早が「昭和のお父さんか!」と即座に追い返した。

「どんだけ澪さんと離れたくないんだよ…ああ見えて依存してるの九条さんの方か」

澪はメイクしてもらっている顔を動かさないようにしながら、淡々と答えた。

「依存されてるとは感じませんけど…大事にしてくれてるな、と思ってます。でも、髪型とか服装とかに口出してきませんよ。あ、一回あったかな。バスローブでホテル内ウロウロするな、って言われました」

「澪さん、意外と大胆だね」

「ズボラなだけです。私服に関しては何も言われてないですよ」

「ほんっとにエスカレートしてだんだん酷くなって辛くなったら言ってくださいね!?あの男捨てられてから初めて後悔するタイプですよ」

「……雅臣さんに限らず、多くの人がそうです。私も含めて。無自覚に線を踏み越えて、踏んだことに気付かず、距離を置かれてから気付くんです。事の重大さに」

風早が一瞬、手を止めた。

「……そういう経験、ある?」

澪は鏡越しに目線を合わせず、口角だけわずかに上げる。

「まあ……ちょっとだけ」

「ふーん……そういうの、顔に出さないタイプだ」

風早は再び手を動かしながら、ぼそっと言う。

「なぜか表面に出ないだけですよ。別に隠してるつもりはないです。わざわざ言わないだけ」

「……九条さん、ホントに油断できないとこ惚れたな」

その瞬間、ドアがノックもなく開いた。

「まだか」

風早がメイクブラシを持ったまま振り向く。

「あんた犬じゃないんだから! 待ってなさい!」

「どちらかと言えば猫科の動物ですね。ツンデレの」

澪が笑いをこらえながら口を挟むと、九条は無言で目だけ動かして彼女を見る。

「もー、見てくださいこの“気になって飼い主見に来ちゃいました”顔」

風早が呆れ混じりに笑い、「大人しく待っててください」とまた九条を追い返した。

「猫って、締め出されると外でニャーニャー言いますもんね。呼んでも来ないし、しつけも通用しないのに」

澪が笑い混じりに言うと、風早も頷いた。

「あ、そんな感じ。じゃあ外で待ってる猫さんの為に、そろそろ完成させようかな。儚さ残しつつ、芯の強さが分かる女性っぽい感じで」

ブラシが髪を滑るたび、前髪が整い、瞳の印象がくっきりと際立っていく。

頬の血色をほんのり足し、唇に自然な艶をのせる。

手際の良い指先が最後の毛先を巻き終える頃には、澪の表情も少し柔らいでいた。

完成形

「……はい、完成」

鏡の中には、いつもの澪よりも少しだけ大人びて、けれどちゃんと彼女らしい顔があった。

澪が立ち上がると、ちょうど部屋のドアが開き、九条が入ってきた。

彼は数歩こちらへ歩み寄り、澪の前で立ち止まる。

何も言わず、ただじっと視線を向ける。

きょとんとしたような、けれどどこか見入るような目。

褒めるでも茶化すでもなく、ただ見ている――それだけで、胸の奥が妙に落ち着かない。

「……何か言ったらどうですか」

風早がむっとして言うと、九条は一拍置いて、目を細めた。

「……いや」

理由は言わない。

けれど、その「いや」に含まれたものは、鏡よりも鮮明に澪の胸に残った。

九条の視線を受けながら、澪はなんとなく落ち着かず、椅子から立ち上がり足を少し動かした。

すると、巻いた髪がふわりと揺れて肩に触れる。

その柔らかな揺れに、九条の目がほんの一瞬だけ追う。

言葉は相変わらずない。

けれど、その沈黙の奥で、何かを確かめるような温度があった。

「…可愛い?」

澪がとことこと歩み寄り、首を傾けて上目遣いで見上げる。

九条の視線が一瞬だけ泳いだ。

「……ああ」

短く答えた声は、いつもよりわずかに低く、照れを含んでいる。

澪が小さく笑った瞬間、背後から風早の声が飛んだ。

「おお〜!珍しく照れてる!」

九条は軽く舌打ちし、視線を逸らす。

「うるさい。さっさと俺の髪も切れ」

「はいはい。床の髪の毛踏まないようにね」

収入がかかったカット

例によって、九条は全く動かず、背筋をまっすぐにしたままドライカットで髪を整えてもらっている。

「試合前だから前髪ちょっとだけ切りますよ。目にかかったら文句言うでしょ」

「俺の成績次第でお前の収入も変わる」

チーム九条のメンバーの収入は、選手である九条が稼いだ金額のパーセンテージで決まる。

一番割合が多いのが戦術コーチである蓮見、次いで割合が高いのがマネージャーの氷川。その次がトレーナーの志水。
本来トレーナーはそこまでの割合が多くはないものだが、志水は付き合いが長く、九条の体のことも性格もよく理解しているので、こうなっている。

風早はチーム内での割合は多い方ではないが、それでも世間一般の収入レベルからはかけ離れて収入が多い。

「全身全霊でカットします」

「常にそうしろ」

「してますってば。ほら、動かないで」

九条は微動だにせず、鏡越しに澪の姿をちらりと見やる。

澪は椅子の隅に座って、さっき褒められた髪を指先でそっと触っていた。

「はい。できた。九条さんはシャワーで流してきた方が良いですよ。服の隙間に入るし、男性の髪は刺さったら痛いんで」

「え、髪の毛って刺さるんですか?」

バスルームに消えて行った九条を横目に、澪が驚いていた。

「刺さります。切った短い髪って硬いから、棘みたいに皮膚に刺さってめっちゃ痛いです。しかもピンセット使わないと抜けない」

「…うわ、それは嫌だな」

「でしょ?だから九条さんも素直に流しに行ったんですよ。髪が刺さったら不快極まりないから」

澪は想像して背筋をぞわっとさせながら、鏡に映る自分の髪型をそっと触った。

ふわりと巻かれた髪が、軽く指に絡まる。

「…これ、自分じゃ絶対できない」と小さく呟くと、風早は得意げに「でしょ」と笑った。

「澪さんのメイクするの、九条さんが嫌がってた理由わかった。彼女が可愛くなって自分が照れるのが嫌だったんだ。それか、彼女が外で他の誰かに注目されるのが嫌か、もしくはその両方か」

「……え、そこまでですか?」

「あの男はありえる。独占欲の塊みたいじゃん」

「……まあ、不快な出来事に対応するよりは、最初から起きないように先回りする人ではありますね」

「ああ見えて前はもっと淡白だったんだけどね」

「そうなんですか?」

「うん。誰にも関心が無いし、執着も無い、って感じ。戦力になる人間はそばに置いとく」

「へぇ…じゃあ、私のことには一応関心持ってくれてるってことなんですね」

澪が小さく笑って言うと、風早は「それはもう顕著に」と即答する。

「ただ、あの人のそれは“興味”というより、“管理”に近い部分もある」

「管理…」

「悪い意味じゃなくて。試合もチームも私生活も、全部コントロールして勝ち続けてきた人だから、気になるものは全部手元に置いておきたいんだと思う」

澪は少し考え込む。

「……じゃあ、私もその中に入っちゃったってことですか」

「入ってる入ってる。むしろ最優先枠で」

「……それ、聞いたらあの人絶対否定しますよね」

「するだろうね。でも、独占欲って諸刃の剣だから、やり過ぎると相手に嫌がられる。そこらへんの線引きコントロールするの難しいとこだよね」

「まあ、独占欲を向けられるのは私は嬉しい方なので、それは良いんです」

風早が片付けを終えて、さっきまでカットに使っていた椅子に座った。

「じゃあ、澪さんの地雷ってなに?」

「…嘘、でしょうか。騙すとか、信頼を裏切られる行為」

「浮気とか?」

「浮気もそれに入ります。でも、それだけが限定じゃなくて。嘘をつくと、嘘でまた塗り固めないといけなくなるし、どれかの嘘が必ずバレます。その時に、この人は嘘をつくから、真剣に話をしても無駄だって思っちゃうんです」

「うわ、極端」

「そうなんです。失った信頼が、地の底まで一気に落ちてしまって、回復しないんです、私。自分でも面倒な性格だと思います」

「ああ見えて試されてるじゃん。九条さん」

「試すなんて、大それたことしてるつもりはないんですが…それでも、彼は良くも悪くも裏表が無いので、安心できます」

「確かに。興味なかったらマジで塩対応するもんなー、あの人」

塩対応

「……誰が塩対応だ」

低い声がして、澪と風早が同時に振り返る。

バスルームから戻ってきた九条が、髪とシャツの襟元をタオルで拭きながら立っていた。

「戻ってきてたんですか」

「お前が俺の評価を好き勝手してる声が、そこまで聞こえた」

「じゃあドアの外で立ち聞きしてたってことですか?」

「聞くつもりはなかった。勝手に聞こえた」

風早はにやにやと笑い、わざとらしく澪の肩を叩く。

「ほらね。こうやって、さりげなく全部把握しようとする」

「把握して何が悪い」

「ほら出た、独占欲」

澪は小さく笑って、視線を九条に向けた。

「……でも、嘘はつかないもんね?」

九条はその問いに、間髪入れず答えた。

「つく必要がない」

その声音はあまりにも即答で、風早が思わず「……あー、こりゃ信頼されるわ」と呟いた。

九条の視線が、澪にすっと吸い寄せられる。

いつもの、素顔に近いプライベートとも違う。

かといって、営業スマイルをまとった仕事モードとも違う。

髪はふわりと巻かれて、動くたびに光をまとって揺れる。

メイクは派手すぎず、けれど瞳を一段と大きく見せ、輪郭を柔らかく整えている。

澪はただ椅子に座っているだけなのに、なぜか目を離せなかった。

「……どうですか?」

首を少し傾けて、澪が問いかける。

九条は答えを探す間もなく、短く言葉が落ちた。

「……似合ってる」

風早が「ほら、やっぱり照れてる」とニヤつく横で、九条は眉間に皺を寄せ、視線を逸らした。

「でもこれで外出たら高確率で声かけられそう。まあ今日はもう一人でウロウロはしないだろうけど…」

風早が澪の姿を見ながら至極当然のように言った。

「どこから来るんだ、その確信は」

「私、天才の仕事したんで」

「…」

九条がわずかに目を細め、風早を見やる。

「天才の仕事」と言い切るその顔が、冗談ではなく本気なのがわかるから余計に腹立たしい。

「……自分の仕事を誇張するな」

「誇張じゃないっすよ。これで澪さんが外歩いたら、視線は絶対集まる。九条さんが嫌がるタイプの視線がね」

「それは天才の仕事なのか?」

「女の子を可愛くする天才です」

ドヤ顔で踏ん反り返る風早。澪は小さく笑って肩をすくめる。

「まあ、今日はもう一人で外は出ませんから」

「当然だ」九条が即答する。

「ほらー、こういうとこ独占欲全開なんですよ」

風早の茶化しに、九条は無言で睨みを返すだけだった。

「じゃ、ぼちぼち私も部屋で荷物まとめますね。まだ後で飛行機で会いましょ」

風早はとっとと道具をまとめて「Bye」と言いながら去って行った。

静かになった部屋の中で、澪が「髪、乾かそうか。ちょうどドライヤーそこにあるし」と、ソファから立ち上がった。

澪が差し出したドライヤーを、九条は受け取った。

「いい。自分でやる」

短くそう言って、ソファ横のコンセントにコードを差し込む。

温風が髪を払う音だけが、しばらく部屋に満ちた。

手ぐしで整える動きは、適当にやっているように見えるのに、綺麗で無駄のない所作そのもの。

澪は、その整った横顔を何気なく見つめる。鼻筋も、顎の輪郭も、人工物のようにバランスが良い。

これで天然なんだから、神様は不公平だ。自分よりも、よほど外に出したくないほどに美しいのは彼の方だと思いながら。

ドライヤーのスイッチが切られる。

「……乾いた」

短くそう告げて、九条はコードを巻き取りながら澪を見やった。

九条がドライヤーを片付けたタイミングで、テーブルに置いてあったスマホが軽く震えた。

画面を覗くと、氷川からの短いメッセージ。

〈全員、出発準備完了。ロビーに揃い次第空港へ向かいます〉

「……行くぞ」

九条が立ち上がる。澪も自分のスーツケースを閉めに向かった。

空港へ

エレベーターで下に降りると、ロビーには既にチーム全員が揃っていた。

蓮見が「お、来た来た」と軽く手を上げ、志水と早瀬は黙って頷く。

風早はスーツケースの上に腰掛け、コーヒー片手に「私の方が早かったね」と笑った。

「これで全員ですね」氷川が人数を確認する。

「じゃあ、向かいましょうか。ドバイまで」

外に出ると、ホテルの車寄せにはロングリムジンが待機していた。

荷物を積み込み、順番に乗り込む。澪は九条の隣に座る。

走り出した車の中、エンジンの振動が足元から伝わってきて、遠征の始まりを実感させた。

九条は腕を組んだまま、前方を見据えている。

その横顔は、もう試合モードに入りかけているようだった。

さらば、ロンドン

空港に着くと、既にプライベートジェットが待機していた。出国準備が整い次第、すぐに離陸できるようになっている。

例によって待ち時間もなく、全員の出国手続きは滞りなく完了した。

機内に入ると、柔らかい照明と落ち着いたグレーの内装。初めて乗った時は澪も戸惑ったが、既に少し慣れてきていた。

それぞれが指定席に腰を下ろし、荷物を収納すると、氷川がタブレットを片手に前に立つ。

「移動中に会議室でミーティングを行いたいと考えていますが、九条さんはお疲れではありませんか?」

九条はシートベルトを締めながら、短く答える。

「異論ない。ベルトサインが消えたら、澪は寝室で休ませる」

イギリスからドバイまで、約7時間の移動。フライトの間、寝室のベッドで横になれば、移動の負担を少しでも減らせる。

澪は横目で九条を見て、「雅臣さんも寝てよ?」と声をかける。

「ミーティングと言っても、30分程度です」と氷川が補足。

「はやっ!」と思わず漏らす澪に、九条は淡々と付け足す。

「無駄な話に時間を割かなければ短縮できる」

澪が「……まあ、確かに。全ての職場がそうなら良いのに」と笑みを浮かべ、全員に視線を送る。

「では、離陸後、会議室で約30分。内容はドバイ入り後のスケジュールと調整事項です」

空の上の会議

離陸後、ベルトサインが消灯後。

キャビン前方にある会議室にメンバーが移動すると、中央に8人がゆったり座れる大型テーブルが鎮座していた。

磨き上げられた木目の天板に、無駄のないラインのリクライニングシート。

壁面には4K大型ディスプレイが埋め込まれ、氷川が資料を映し出している。

照明は会議用に少し明るめに設定され、温度も快適な22度に保たれていた。

「では、ドバイ入り後のスケジュールを共有します」

氷川の声が静かに響く。

高速Wi-Fiに接続されたタブレットから、資料が全員の端末に自動送信される。

テーブルの一角では蓮見が腕を組み、映像を見ながら短く頷く。

「現地入りしてからの練習コートの割り当ては?」

「第1希望の時間帯を確保済みです。到着翌日の午前中、気温が上がりきる前です」

氷川の返答に、志水が手元のメモにさらりと書き込む。

九条は背筋を伸ばしたまま、ほとんど言葉を挟まずに資料を目で追っていた。

だが時折、重要なポイントでは低い声で指示を出す。

「メディア対応は? 余計な露出は避けたい」

「公式会見のみです。それ以外のインタビューはカットしました」

「それでいい」

会議は本当に無駄がなく、30分もかからないテンポで進む。

4Kディスプレイには、試合日程、練習時間、食事の配達手配、移動ルートが次々と映し出されては更新される。

最後に氷川がまとめる。

「以上で確認事項はすべてです。残り時間は休息に充ててください」

会議が終盤に差しかかったところで、蓮見が低い声で切り出した。

モニターの資料はすでに閉じられ、机上には湯気の立つコーヒーだけが残っている。

「……ATP500は、優勝を取りに行く大会じゃない」

その言葉に、九条がわずかに視線を向ける。

「全豪からの間が空いてる今、無理して取りに行く必要はない。今年お前が狙うべきは、4大会の制覇だ」

声には一切の迷いがない。

「シード選手だから序盤で強敵と当たることはまずないだろうが、格下でも調子が良い相手なら深追いはするな。怪我の芽は試合前に摘む」

蓮見の視線は、まるでレントゲンのように九条を射抜く。

九条は短く頷いた。

「わかってる」

「言葉じゃなくて、行動で守れ。俺はお前のテニスの未来を削る試合は一試合たりとも許さない」

その口調は叱責ではなく、長年同じ道を歩んできた者の静かな忠告だった。

氷川も横から補足する。

「ドバイは調整の場と割り切って、勝敗よりもコンディション優先で動きましょう」

九条は再び頷き、会議は終わりを迎えた。

椅子から立ち上がると、目線は自然と寝室のほうへ向いていた。

その奥では、澪が静かに眠っているはずだ。

苦言

会議が終わって各々がバラバラに散らばると、キャビンには低いエンジン音と、カップの小さな音だけが響いていた。

蓮見は何気なくデスクに肘をつきながら、窓の外を流れる雲を眺めるふりをして口を開く。

「……アイツ、今年は普段より追い込みが少ない」

視線は外だが、その声ははっきりと九条のことを指している。

「一緒に時間を過ごす相手ができて、本人も時間配分に戸惑ってる様子があった」

淡々とした言い方だが、蓮見の目は見逃していない。

いつもなら、孤独を前提に自分を極限まで追い詰めていた男が、今は他人と共同生活をし、誰かのためにスケジュールを動かしている。

――その変化が、九条自身にとって「支え」になるのか、「乱れ」になるのか。

それを見極めようとする眼差しは鋭い。

氷川がカップを置き、低く応じた。

「本人は何でもないことのように受け入れていますが……見方を変えれば、無理をして冷静を装っている風にも見えますね」

蓮見はふっと笑いを漏らす。

「全豪の決勝のときの、あの常軌を逸したゾーンにまた入りたがってたが……彼女といるときは真逆だもんな」

「むしろかなり人間らしいと言える状態です。それがプラスになるか、どうか……ですね」

「俺はその方がいいと思ってるさ。だが今までマシンモードで戦って勝ってきたアイツが、“人間”のままで戦う方法を覚える必要があるかもな」

短いやり取りのあと、ふたりは再び黙り込む。

機内には再びエンジン音だけが残り、その奥には九条の寝室へ続くドアが静かに閉じられていた。

雲の上の寝室

その頃。

澪は機内のシャワー室で軽くシャワーを浴びてメイクを落としてから、髪をほどいて乾かすと、ベッドの縁に座って窓の外を眺めていた。雲が下に広がり、目の前には一面の星空。

機内特有の低い振動と、外の暗い空。

横になれば眠れるはずなのに――目は冴えたままで、何度も寝返りを打つ。

シーツの上でゴロゴロしていると、ドアが静かに開いた。

控えめな物音とともに、九条が入ってくる。

薄暗い室内に、スーツ姿の影が近づいた。

「……寝たかと思ったが」

低い声。

澪は枕から顔を半分だけ出して、目だけで彼を見る。

「ううん、全然。なんか……落ち着かなくて」

九条は短く息をつき、上着を脱いで近くのハンガーに掛けた。

「会議は終わった。……一緒にいる」

そう言って、躊躇なくベッドの端に腰を下ろす。

澪の胸の奥に、ようやく少しだけ安心感が広がった。

「会議、どうだった?」

「いつも通りだ。最低限の連絡事項」

「雅臣さんは眠れそう?」

「…少し食べてから寝る。お前は?」

「私も食べようかな。今寝てもお腹すいて起きちゃうかも」

「起きてから食べても良いが」

「駄目。変な時間に食べたら肌荒れする」

「時差があるから変な時間も何も無い」

「……確かに。雅臣さん、胃が荒れたりしないの?」

「しないな」

「おお、鋼鉄の内臓」

「誰がだ」

九条が片眉をわずかに上げる。

澪はベッドにぼすん、と横になり、髪がシーツの上に広がった。

「だって、時差があっても元気そうだし。普通、胃とかやられそうなのに」

「慣れだ。若い頃から遠征続きだったからな」

「うーん…私は無理そう。二日で恋しくなる、日本の味」

「そう言いながら、お前はどこでも平気で適応しそうだ」

「褒められてるのかな、それ」

「事実を言っただけだ」

そう言いながら九条は、澪の頬に軽く触れた。

長距離移動中の機内でも、乱れのない整った手つき。

その感触に、澪のまぶたが少し重くなる。

「向こうで食べるか?」

「うーん……ここで食べたら行儀悪いし、シーツ汚しちゃうよね…。でも2人がいいしな…」

九条は一瞬だけ無言になり、視線を落とす。

「……わかった。持ってこさせる」

「え、いいの?」

「お前がそう言った」

澪は少し恥ずかしそうに唇を噛んだが、目元は緩んでいる。

九条はさっそく氷川に短く連絡を入れ、ルームサービスのように軽食を運ばせる段取りを整えた。

「本当はベッドで食べるの、好きじゃないんでしょ?」

「好きじゃないが……お前が寝る前に安心して食えるなら、例外だ」

「……むふふ」

ぼそっと呟いた澪の耳まで、ほんのり赤く染まっていた。

ベッドの上の軽食

ノックの音に九条がすっと立ち上がる。

「俺が行く。お前はここにいろ」

「え、でも—」

「化粧してない顔を見られたくないんだろ」

一瞬きょとんとして、澪は小さくうなずいた。

九条は寝室のドアを開け、通路の先の入り口まで歩いて行く。

スタッフからトレイを受け取るその姿は、完全に「外用の顔」に戻っていて、柔らかさのかけらもない。

戻ってきた彼は、再びドアを閉めると同時に表情を緩め、トレイをベッド脇に置いた。

「ほら。こぼすなよ」

「ありがとう。……やっぱり、こういうとこ優しいよね」

「お前が嫌がることを避けてるだけだ」

「それが優しいんじゃん」

「特別な事じゃない」

寝室の中は、空を飛んでいることを忘れるほど静かだった。

低く一定の空調音だけが耳に残り、エンジンの唸りもほとんど感じない。

淡い間接照明が、二人の間に置かれた小さなテーブルを柔らかく照らしている。

「……空の上って、もっと揺れたりうるさいイメージだったよ」

澪はフォークを手に、小声で感想をもらす。

「機体が違う。これはコンディションを整えながら移動する為のものだ」

九条は淡々と答え、皿を澪の方へ押しやる。

「ほら、そっちも食え」

「そんなに食べられないよ」

「食べられるだけ食べろ」

二人で一つのトレーから分け合うように、ゆっくりと口へ運ぶ。

窓の外には漆黒の夜空が広がり、都市の灯りもない。

ただ、静けさと温もりだけが、この小さな空間を満たしていた。

食後の歯磨き

洗面台の方から、水の音と歯ブラシのかすかな動きが伝わってくる。

九条は食器をまとめ、サイドの小さなトレイに置いた。

この静けさの中では、その一つひとつの動作すら、やけに際立って聞こえる。

「……ん」

澪が口をすすぐ音がして、続けてタオルで口元を軽く押さえる。

姿見の前で髪を整えながら、鏡越しに自分のすっぴんを見て、

ほんの少し眉を寄せているのがわかった。

「……何?」

背後からの視線に気づいた澪が、鏡越しに問いかける。

「別に」

九条は短く返すだけで、視線を逸らさなかった。

澪は小さくため息をつき、タオルを畳んで戻ってくる。

澪がベッドに入ってから、「俺も行ってくる」と入れ替わりで九条も洗面へ。

歯磨きの音を聞きながら、澪はベッドに潜り込んでいた。

九条が洗面から戻ると、澪は既にベッドの掛け布団に半分潜り込んで、こちらを見ていた。

シーツの白に、シャワーを浴びていないはずの素肌の温もりがほのかに滲んでいる。

「雅臣さんも、一緒に寝よ」

招くように掛け布団の端を持ち上げる。

眠気よりも、その声の柔らかさが、九条の足を自然にベッドへ向かわせた。

「……寝るだけだぞ」

「うん、わかってる」

わかっている、という返事にしては、妙に甘い顔で笑う。

九条は苦笑しつつも、澪の隣に腰を下ろし、ゆっくりと横になった。

静かな空の上で、二人だけの小さな夜が始まる。

九条は、腕の中で小さく息をつく澪を見下ろした。

柔らかい髪の香りと、身体越しの熱。

今だけは、何も遮るものがない。

ドバイに着けば、彼女はすぐに仕事。

その後は、自分も大会に入って、別々の時間が続く。

余裕のある夜は──おそらく今が最後。

甘える仕草に羞恥が薄いのも、そのことを澪が分かっているからだろう。

だが、機内の寝室はホテルのような完全防音ではない。

数メートル先には、チームの人間たちがいる。

この場所で手を伸ばすべきではない。

──そう分かっていても、指先が僅かに動く。

気持ちが、理性の枠を押し広げていく。

九条は、わざとゆっくりと髪を撫でた。

撫でながら、自分の中で最後の線を探すように呼吸を整える。

澪は、その手に小さく身を預ける。

細い指が、服の一部をつまんで離さない。

──そんな仕草ひとつで、喉の奥が焼ける。

耳元で囁けば届く距離。

しかし声を出せば、扉の向こうに漏れるかもしれない。

その危うさが、かえって熱を煽る。

九条はゆっくりと彼女の頬を指先でなぞった。

柔らかい肌。

触れるたび、理性の輪郭が曖昧になっていく。

「……寝るだけ、だ」

そう告げながらも、腕の力は緩まない。

澪の唇が、不意にわずかに開いた。

その一瞬の隙に、九条の視界は彼女の唇だけに狭まる。

──あと数ミリ。

「……澪」

低く押し殺した声で、九条は告げた。

「拒め」

それが最後の、理性の綱だった。

たった一言、「嫌」と言ってくれれば、今すぐにでも離れられる。

しかし澪は、少し瞬きをしてから、首を傾げる。

「……なんで?」

澪の問いに、理性の糸が細くきしむ。

手を離すはずの指が、逆に腰を引き寄せた。

九条は、彼女の吐息が触れる距離で低く告げた。

「……声を、殺せるか」

澪は一瞬だけ目を見開き、次いで頷いた。

その仕草が、最後の制御を溶かした。

唇を深く塞ぎ、ベッドの軋みすら立てぬよう、ゆっくりと沈めていく。

呼吸と心音だけが、密室に満ちていった。

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URB製作室

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