58.2月5日(水)

Wake Up

翌朝 — 2月5日(水)

目を覚ますと、まず先に身体が目覚めていた。

軽い。

全身に張り詰めていた負荷の残り香が、きれいに消えている。

(……完全に抜けた)

ゆっくりと息を吐き、寝返りを打つと、隣に澪の温かな気配があった。

安定した呼吸。小さく丸まった肩。

九条は少しだけその髪に指を触れ、静かにベッドを離れる。

足音を立てぬよう、カーテンの隙間からわずかに漏れる薄明かりへと歩いていく。

リビング。

まだ外は冷え込みが残る静かな冬の朝。

窓の向こうにはかすかな白い息が漂っていた。

九条はタオルを肩にかけ、淡々とストレッチに入る。

肩甲骨から股関節、ハムストリングス――

ひとつひとつを確認するように、ゆっくりと可動域を広げていく。

昨夜の抱き枕の効果は、確かに身体に残っていた。

まるで、研ぎ澄まされたナイフが一晩で再び磨かれたかのように、切れ味が戻っている。

(問題ない。まだ持つ)

右足をゆっくり引き寄せ、背中を伸ばす。

関節の動きも、反応も滑らかだった。

そのまま深く屈み、数秒間静止する。

「…………」

心拍は、穏やかだ。

自分の身体がいまどの位置にあるか、どれだけ酷使できるか――

すべてを計算しながら、静かに確認を続けていく。

間もなく、澪が目を覚ます頃だろう。

(今日も、動ける)

そう静かに確認を終えると、九条は立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。

薄い朝日が、冬の東京を照らし始めていた。

Chapter:Recovery Morning

午前6:00 ― 九条レジデンス(ペントハウス)

エレベーターが静かに開いた。

「おはようございまーす」

いつも通りの爽やかな声が、まだ薄暗い室内に響く。

五百旗頭玲央――レオンは、軽やかに靴を脱ぎ、キッチンへと向かった。

冷蔵庫を開けると、氷川が前日に手配した食材が美しく整って並んでいる。

もち麦、鮭、ほうれん草、トマト、グレープフルーツ……。準備は万全だ。

「ふふ、今日も愛の監視スタートですっと」

軽口をひとつつぶやきながら、エプロンを身につける。

火を入れたフライパンの上で、オリーブオイルがじゅっと音を立てた。

(昨日のメニュー考えたら、今日は徹底的に回復系だね)

自分の頭の中で献立の最終チェックを進める。

筋繊維の回復、内臓負担軽減、免疫ケア、そして澪の幸せ。

「たんぱく質祭り、開催~」

思わず口に出る。完全にいつもの調理ルーティンだ。

——その頃、リビングの奥。

九条は既に起きていた。

寝室奥のカーテンから射す朝の光が、薄く床に伸びている。

静かなストレッチの動き。

昨日の超高負荷トレーニングを経た身体は、驚くほど軽かった。

腕、肩、背中、股関節、ひとつひとつ丁寧に伸ばしていく。

昨日の蓄積が嘘のようだった。

ベッドの温もりと、彼女の柔らかさに包まれて眠った感触が、まだ微かに皮膚に残っている。

それだけで、違う。

ストレッチを終えた彼は、ゆったりと首を回し、リビングのソファへと歩く。

新聞を取り上げ、コーヒーを淹れる準備も整っている。

カップに注がれる黒い液体の香りが、静かな空間に広がった。

「……」

まだ時間はある。

静かな朝は、何よりの回復だった。

 

午前6:30 ― ゲストルーム

ドアがそっと開く音。

「おはようございます」

澪が姿を現した。

今日も、綺麗にアイロンの効いたシャツに、膝下丈のスカート。

落ち着いたメイクと低めに結った髪。いつも通り、完璧な朝の“顔”だった。

「おはよう。今日も完璧ですね、澪ちゃん」

レオンが笑顔で出迎える。

鍋の中では、豆腐とあさりの味噌汁が湯気を立てていた。

「おはようございます、レオンさん。…いい匂い」

ダイニングに座り、目の前の食卓を見た瞬間、澪の目がまんまるになる。

「……わぁ」

もち麦ごはん、鮭のハーブグリル、彩り鮮やかなオムレツ、マリネサラダ、

そして小ぶりなデザートのグラスには、グレープフルーツとブルーベリーが蜂蜜で艶めいていた。

「やばい……幸せ……」

澪は思わず手を合わせた。

「あったかいうちに食べてー。鮭は今朝焼きたて」

レオンがウインクを飛ばす。

「今日も泣きそう」

その横で、新聞を読んでいた九条は、短くひとこと。

「……泣くな」

今日も淡々とした声だったが、目の奥がほんのわずかに緩んでいた。

「いただきますっ」

澪は笑顔で箸を取ると、オムレツをひと口。

ふわりと広がる卵の甘さ、ほうれん草の歯応え、しめじの旨味。

それだけで、もう幸福感がじんわり満ちていった。

「美味しい…!幸せすぎる…」

「筋肉修復に全振りメニューです。九条さんの分はアスリート仕様、澪ちゃんは幸せ仕様ね」

「ありがとうございます…ほんとに…」

にこにこ食べ進める澪を見ながら、九条はコーヒーを口に運ぶ。

この静かな朝が、今の彼にとっては最高のコンディションだった。

Scene:朝の移動 — 車内

午前7:40― レジデンス出発

地下駐車場に止められた黒い車が、静かにエンジンを始動させる。

運転席には氷川。

助手席にはレオン。

後部座席には、今日も無言のまま九条が座っていた。

冬の朝。

フロントガラス越しに映る景色は、まだ眠たげな街の色をしている。

車内は、しばらく誰も言葉を発さない。

エアコンの送風音と、タイヤの走行音だけが淡々と流れていた。

やがて、九条が静かに口を開く。

「澪の退勤後、迎えに行ってやれ。忘れ物を取りに帰りたいらしい」

一拍遅れて、氷川が答える。

「かしこまりました」

返答は至極淡々としていたが、その瞬間――

レオンは助手席でちらりと横目を送る。

氷川もまた、ほんの一瞬だけハンドルを握る手にわずかな力が入った。

(今、自然に“澪”って呼んだな……)

誰もツッコミは入れない。

けれど、この小さな変化は二人とも気づいていた。

それは、ほんの数ヶ月前の九条にはなかった自然さだった。

名前を口に出すことへの躊躇が消え始めている。

まるで、そこにあるのが当たり前であるかのように。

もちろん九条本人は、何事もなかったように前を向いたまま。

鋭利に整えられた“仕事モード”の顔をしている。

だが、その硬さは全豪オープンの頃とは微妙に違っていた。

守るための硬さではなく、

共に在るものを抱えたまま進む強さ。

レオンは、わずかに口元を緩めた。

内心で、そっと呟く。

(……いい感じに、可愛くなってきたじゃないの)

静かなまま、車は次の目的地へと滑っていった。

【本日の九条雅臣 強化メニュー】

📅 2025年2月5日(水)

🕘 午前9:00〜

① HIIT(高強度インターバルトレーニング)

• いつもの恒例メニュー。

• 呼吸・心拍のベースを整えつつ、身体の“動きの精度”を作る。

🕙 午前10:10〜

② 低酸素ルーム・ダッシュ(標高4000m相当)

• トレッドミル使用、SpO2監視下でのインターバル走。

• 呼吸筋・心肺機能・脳の酸素耐性を養成。

• ここまでが「心臓のアップ」ゾーン。

🕚 午前11:30〜

③ 260km/hリターントレーニング

• ついに導入した球出しマシン260km/hコース!

• 蓮見コメント:

「せっかくマシン用意したし、試してみようぜ」

「人間と違ってマシンにはトスや癖がない。予測もできない。不規則球に対する純反射神経の強化になる」

• 🎯 課題:

当てるだけで良い。面を作ること。

ネットを超えればOK。コースや深さは問わない。

• 完全に反応速度と面の正確さだけを見る。

• 🧠 意図:

• ゾーン維持中でも【視覚刺激→脳→筋出力】の処理速度を最大化。

• 恐怖心の克服、心の迷いゼロ状態での反射力養成。

• 実戦での超高速サーブ対策

⚠ 安全対策:

• 神崎医師、志水トレーナーのモニター常駐。

• 蓮見は球出し管理兼観察ポジションへ。

• 念のためリバウンドネット&吸収マットを設置(事故防止)。

🔧 技術的補足

• 260km/h=秒速約72m

• サービスボックスまで0.4秒以下

• 人間の視覚反応限界=約0.2秒

• 予測ゼロなので**「見た瞬間に面を出す」**がすべて

🌙 蓮見のひと言

「人間の域なんて最初からいねえ奴だし。ゾーンのまま面を出せるかだな」

Chapter:Kujou 260 – 開幕

午前11:30。NTC特設コート。

260km/h射出対応の特注マシンが、低く唸る音を響かせて待機している。

空調は抑えられ、室温はわずかに低い。

マシン内部では、わずかな圧縮音とモーターの振動が連続して鳴っている。

コートの奥、九条雅臣は静かに立ったままマシンを見据えていた。

わずかに膝を緩め、両腕を垂らして、身体の重心を床へと落とし込んでいく。

対面する蓮見が、ストップウォッチを握りながらぼそりと呟く。

「……いいか。返せなくても当たるなよ」

一瞬、間があった。

「当たったら死ぬぞ」

それは大げさな表現ではない。

260キロの硬式球が、人体の急所に直撃すれば、冗談抜きで命に関わる。

しかし九条は、わずかに顎を引いただけだった。

「返す」

その声は、極めて静かで、極めて冷たい。

だが、そこに迷いも恐れもない。

蓮見は思わず小さく笑った。

「──だろうな」

後ろで控えていた氷川が、医療班へ軽く目配せを送る。

志水と神崎は、すでにパルスオキシメータと心拍センサーの準備を整えていた。

準備は整った。

マシン、発射シーケンス開始。

淡々と機械音声が告げる。

わずかに床が震える。

260km/hの球速。

打球到達まで約0.38秒。

見るのではない。読むのでもない。

「感じる」以外に対応策はない速度域。

だが、九条雅臣は――

ただ静かに、わずかにラケット面を浮かせただけだった。

その眼光は、既に“試合”を始めている。

マシンの起動音が唸る中、蓮見がストップウォッチ片手に口を開いた。

「……なあ、氷川。このサーブマシン、名前あんのか?」

氷川はちらりとマシンを横目で見やり、淡々と返す。

「特注仕様ですから、正式名称はありませんが……。コードネームはついてます」

「ほう。で?」

「**“BEHEMOTH(ベヒモス)”**です」

「……わかるけど、ネーミングが重いな」

苦笑しつつ蓮見が肩を竦める。

志水もぼそりと呟く。

「神話の怪物呼ばわりされるサーブマシンとか、チーム九条らしすぎますね……」

「事実だろ。出してる球速がもう人間の域ギリなんだよ」

そう言った蓮見の目の前で、

**“BEHEMOTH”**は弾を飲み込むように吸い込み、発射準備を整えはじめた。

九条はただ、静かに構えていた。

まるで、“怪物”を相手にしているのは自分ではなく、

**“怪物を飼いならしてるのが自分だ”**と言わんばかりの、冷静な構えで――

BEHEMOTH

コートの奥、無機質な大型マシンが低いモーター音を響かせて待機していた。

通常の練習用ボールマシンではない。

260km/hの超高速設定。

市販品では到底再現できない“特注機”だった。

「さて、いきますか。“反応速度テスト第1号”」

「……蓮見さんならなんて名前つけますか?」

氷川が冗談交じりに尋ねると、蓮見はにやっとして答えた。

「**“死神1号”**でいいだろ。下手すりゃ当たったら死ぬ」

「センスもうちょっと頑張ってください……」

志水が呆れた声を出す横で、神崎が苦々しく眉を寄せる。

「本当に、誰か選手の心配をしてください……」

「いや、だから僕らが付いてるわけで」

早瀬が苦笑しながら返した。

だが冗談にしては誰も笑っていない。

昨日の異常なペットボトルターゲット練習から一転、今度は生きた弾丸を捉える時間だ。

 

 

蓮見がボール装填を終え、インターホンで確認を取る。

「では——撃つぞ」

マシンの照準ランプが点灯し、駆動音が唸りを上げた。

 

第一球。

空気を裂く轟音とともに、黄色の球が放たれた。

シュバァァンッッ!!

わずか0.4秒。

ネットを越え、コート奥まで一直線に突き刺さる。

だがその瞬間――

 

九条はほとんど動いていなかった。

ラケット面だけを最小限に合わせる。

パンッ――

無駄のないスイング、いや、もはやスイングとも言えない“合わせ”。

音だけが軽快に響き、ボールはコート後方のネットへと吸い込まれていった。

 

「1本目、クリーン返球」

氷川がすぐさま記録を読み上げる。

「反応速度0.18秒。安定域内」

「上等だ」

蓮見が唇を吊り上げる。

「次、ランダムコース行くぞ。

 

蓮見が設定を切り替えた瞬間、

コースは左右ランダム、高低変化も加えられる。

予測の効かない260km/hが、完全に“殺しにくる球”へと化けた。

 

第二球、第三球――

「右高め!」

「左ボディ寄り!」

「低い、前!」

志水と早瀬が思わず声に出してしまう変化。

だが九条の身体はすべて“先に待っていた”ように動いていた。

視線は微動だにせず、ほんのわずかな肩と手首の操作だけで、全ての球に面を合わせる。

 

「ほんと、人間じゃない……」

神崎が低く吐いた。

 

氷川が冷静に記録を続ける。

「反応速度、平均0.17秒……通常の神経反射では不可能域です」

 

5球、10球、15球――

九条の呼吸は乱れず、顔色も変わらない。

 

志水が、僅かに緊張しながらモニターを確認する。

「心拍173、維持……」

Chapter:交差する死神

コート奥。

2台のマシンが並んだ。

片側に死神1号(BEHEMOTH)、もう一方に死神2号(第二機体・同スペック。蓮見命名)

両方とも260km/h固定出力。

市販品では絶対に許可されない、プロトタイプの双子機。

 

「これなら連続射出は避けられる」

蓮見がストップウォッチを弄りながら、説明する。

「片方を冷却してる間に、もう片方が発射。交互に撃てば耐久リスクは半減。撃たれる側の負荷は倍増だが」

「もはや冗談で済まない領域ですね」

志水が低く呟く。

「冗談で済んだら医療班いらねぇだろ」

蓮見が肩をすくめた。

神崎はモニターから視線を離さず、苦々しく付け加える。

「まったく……誰の命を守ってるのか分からなくなる」

 

ブォォン……

両機体が唸りを上げる。

交互に放たれる260km/hの弾丸。

しかもコースも高低も、ランダム設定だ。

通常なら「読み」を活かしても回避不能のセットアップ。

だが――

 

九条は、微動だにせず立っていた。

むしろ、目が静かに鋭さを増していく。

「撃て」

その声は、氷のように平坦だった。

 

第1射──死神1号

シュバァァァン!!!

わずか0.4秒で吸い込まれるように打球面が合わせられ、カウンターのようにネット奥へ返球。

第2射──死神2号

直後に逆サイドへ、僅かにスライスがかった弾丸。

九条の左足が一瞬跳ね、わずかな体幹操作だけで面が固定される。打球は吸い込まれるようにライン上に落ちた。

 

「おかしい……もう“見る”作業してないですね、あれ」

神崎の声がわずかに震えていた。

志水が口を結ぶ。

「見てない。感じてるんです」

 

このまま数十球続く。

音と光の世界。

それはもはや反射神経ではなく――人間の時間認識の崩壊域に近かった。

 

蓮見は、ストップウォッチを止めながら笑った。

「……脳が物理法則をねじ曲げ始めてるな、あいつ」

「そろそろ、そっちも用意しときます」

氷川が端末を操作する。
「ペットボトルターゲット、セッティング始めます。…まあ、また“打ち返して当てる”って言い出すでしょうから」

蓮見は心底楽しそうに笑った。

「いいねぇ。やっぱ“異常”はこうでなきゃな」

Chapter:死神タワー

マシンの唸りが落ち着いたところで、蓮見がふと思い立ったように顔を上げた。

「なあ、そもそもだけどさ……これ人間のサーブ想定してるなら、ネットより高い位置から打たねえと意味なくね?」

九条はほんの一瞬だけ蓮見を見た。

そして、即答。

キャスター付きの昇降台を使え。

蓮見の顔が苦笑に歪む。

「そりゃまあ置けば置けるけどよ。問題は安定性だ。マシンの発射角変わるし、位置ズレるぞ?」

「構わない。**動きを読むのは俺の仕事だ。**コート内に入れば、どこでも打ち返す。」

そのあまりに平然とした返答に、一瞬全員が黙った。

神崎が額を押さえ、苦々しく漏らす。

「……本気で頭痛くなってきた……

志水も苦笑しながら横目で蓮見を見る。

「これ、“神経訓練”っていうより、異常生物の飼育実験ですね」

「今さら驚かねえけどな」

蓮見はキャスター昇降台の準備を指示しながら、にやりと笑った。

BEHEMOTHタワー、完成だ。

氷川が静かに補足する。

「名称がどんどん重くなっていきますね……」

BEHEMOTH(死神1号・2号)訓練・フェーズ2

 

マシンが唸りを上げる。

轟音、発射音――

「シュバァァァッ!!」

0.4秒後、九条のラケット面がわずかに動く。

普通なら「合わせる」だけのはずのタイミング。

だが。

フルスイング。

打点は前。ラケットヘッドが鋭く走る。

放たれたボールは、一直線にコートの反対側のライン際で突き刺さるように着弾。

早瀬が呆然と声を漏らす。

「これ……人間の練習か?」

志水が小さく呻く。

蓮見だけは、にやりと笑った。

「――今日も、九条雅臣は正常運転だな」

九条は静かにラケットを構え直し、低い声で指示を出す。

「ペットボトルをコートの何ヶ所かに置け。狙った場所に返せなければ意味がない」

すぐに氷川が反応する。

「準備済みです」

すでに横でスタンバイしていた500mlのペットボトルを複数本手に取り、無駄のない動きでコートの数箇所に配置していく。等間隔ではない。わざと角度や距離をずらして置かれていくペットボトル群――九条の要求を理解した配置だった。

「セット完了です」

氷川が下がると、再びコート中央に静寂が戻った。

そして、死神1号・2号は、次なる発射準備を始めていた。

志水が低くつぶやく。

「これ……反射神経だけじゃない。打点の前後距離まで正確に調整させるつもりですね」

早瀬もわずかに息を呑み、静かに続けた。

「しかもフルスイングで。……普通の神経ならビビって打てなくなる」

神崎が苦笑混じりに肩をすくめる。

「そもそも、“ビビる”という感覚自体が、もう残っていないんでしょう」

蓮見は少しだけ顔を歪め、スイッチに指をかける。

「弾数は抑える。威力が威力だからな……」

息を整えるように一拍置いて、蓮見が静かに宣言した。

「……じゃあ行くぞ――」

その声を合図にするかのように、九条がわずかに顎を引いた。

構えたまま、短く、ただひとこと。

「撃て」

機械が低く唸りを上げる。

次の瞬間、死神1号2号が同時に動き、鋭い破裂音とともに超高速のボールが空気を切り裂いた。

シュバァァンッ――!!

人間の限界を試すような速度で、黄色の弾丸が次々と襲いかかる。

筋出力

志水が思わず画面に手を伸ばした。

「……おい。これ、打点衝撃いくら出てる?」

氷川が冷静に計算式を叩く。

「ボール一球の運動エネルギー、約147ジュール。

打ち返すときは反転分を含め、実質300ジュール近い」


300ジュールは、30kgの鉄球を1メートル持ち上げるのと同じエネルギーだ。

「……0.05秒以下の衝突時間でだろ? 瞬間出力で言えば――」

早瀬が低く呟く。

「一瞬で数千ワット級の筋出力。指先から肩甲骨まで、全部同期させてる。普通は関節が耐えられない」

神崎が、目を細めた。

「……九条雅臣じゃなきゃ、全身のどこかが壊れてる」

マシンの前に立つ九条は、それでもわずかもぶれず、次の球を待ち構えていた。

Cool Dawn

蓮見がストップウォッチを止める音が、硬質に響いた。

「──よし、いったん昼休憩だ」

タイミングを合わせるように、BEHEMOTHと死神2号が唸るような駆動音を徐々に落としていく。マシンもフル稼働が続けば、内部に熱がこもる。人間と同じく、冷却が必要だ。

蓮見は肩を回しながら、前方の九条を見やった。

「腕と身体のメンテナンスもやっとけ。マシン同士、クールダウンしてこい、九条」

冗談めかして言ったが、声にはわずかに本気が混じっている。

九条は、少しだけ息を整えたまま、無言で頷く。

氷川が小さく補足する。

「体温39.2度、皮膚表面温度は40度を超えてます。神経伝達も過敏領域に入ってます。午後は様子を見ながら調整します」

「死ぬ気か、マジで……」

志水が溜め息交じりに呟く。だが、九条の表情に疲労の色は薄い。

「──後半はクレーだぞ。そっちのゾーンに頭切り替えろ」

蓮見の指示に、九条はわずかに首を動かして応えた。

彼の視線の先では、まだ温度の下がりきらない**“死神1号”“死神2号”**が、冷却用の大型ファンの風を受けながら静かに冷えていく。

まるで――

**「怪物同士の決闘のインターバル」**のように。

Chapter:Recovery Plate

──午後0時00分。

味スタNTC・スタッフ専用ダイニングルーム。

 

「お待たせ。リカバリーメニュー入りまーす」

軽やかな声とともに、レオンがワゴンを押して入ってきた。

一瞬、医療スタッフ用の食事搬送に見えなくもないが、中身は間違いなく超一流シェフの仕事だ。

 

テーブルの中央にプレートが置かれる。

「はい、今日のメインは鶏胸肉の低温ポッシェ。柚子胡椒のソースは控えめに仕上げてるから、塩分で浮腫まない。午後の反応速度に響くからね」

レオンが、手慣れた動作で次々と小鉢を並べていく。

「十六穀米は少なめ。食物繊維で午後の血糖コントロール。温野菜はさつまいもとブロッコリー。あ、こっちはなめこと豆腐の赤出汁」

志水がその匂いに顔をほころばせる。

「…これ病院食名乗って良いレベル超えてますね。普通に食堂で出せる」

「いやいや、選手生命かかってるからプロ仕様だよ?」

「むしろお前がプロだわ」

蓮見が感心する横で、レオンは笑う。

 

「ビタミンC補給のキウイとオレンジのコンポート、黒豆ヨーグルトは腸内環境ケア用。消化スムーズじゃないと午後のスイング精度に影響するからね。白湯も常温まで落としてあるよ」

 

最後に九条の前に一皿がセットされる。

九条は何も言わず、食器に手を伸ばした。

フォークを持つ指先は、午前のトレーニングの疲労が残っているはずなのに、震えもなく静かだ。

ゆっくりと、鶏胸肉にナイフを入れる。

 

──しっとり。

断面が綺麗に切り開かれ、柔らかな白身に柚子の香りが広がる。

 

「…失敗は無さそうだな」

「当然。ポッシェは温度管理だけで勝負だから。71.2度、ど真ん中です」

レオンが得意げに胸を張る。

 

九条はそのまま無言で一口運ぶ。

舌の上に乗せ、じっくりと味わう。

…わずかに、眉が動いた。

 

「……悪くない」

「合格いただきましたー」

軽口を返しながら、レオンも椅子に腰を下ろした。

志水と早瀬も、それぞれ手早く食事に集中していく。

 

午後もまた異常な速度域の練習が控えている。

食事という名の「調整」も、すでに訓練の一部だった。

 

Chapter:怪物たちの昼食

――食事が進むにつれ、徐々に場の空気にも柔らかな余裕が戻ってきていた。

 

九条は無言のまま淡々と箸を進める。

だが、それだけでレオンには十分だった。

「……味が分かるってことは、今日は余裕ありそうですね」

ふわっとした口調でそう切り出す。

「初日はほとんど味覚が追いついてなかった感じでしたよ。食欲というより、補給義務で詰め込んでる感じ出てました。けど、こうやって普通に『食事』してくれてると、作る側も少し安心します」

レオンの声には、職人としての素直な喜びが滲んでいた。

 

志水が箸を止め、茶碗を軽く回しながらニヤリと笑う。

「そもそもこの人自体が怪物みたいなもんですから。普通の人間の回復速度じゃない」

「ベヒモスですね」

氷川が即座に静かに返した。

 

蓮見が半笑いで振り返る。

「お、おう…? なんでまた急に?」

氷川は淡々と説明する。

「ベヒモス――旧約聖書の『ヨブ記』に登場する、神が創造した“陸の怪物”です。

その巨大さ、強靭さ、耐久性……非常に“九条雅臣的”かと」

「へえ。知識だけはやたら持ってるな」

蓮見が茶化しながらも少し興味を持ち始めると、氷川はさらに続ける。

「ベヒモスは日に千の山の草を食べるとされ、骨は鉄、尾は杉の木のようだとも。

最後の審判の日には選ばれた者たちの“糧”となる運命にある――という伝承も残っています」

「え、それマジ?」

「事実です」

「…死神1号どころじゃねぇな、こりゃ」

蓮見が呆れたように笑った。

志水も肩をすくめる。

「ま、レオンの料理を『糧』として飲み込んでる時点で、今日もベヒモスは健在ってわけか」

「えー、飲み込んでるなんて失礼な。ちゃんと味わってくれてますよ」

レオンが明るく抗議するも、九条は一切反応せず、鶏胸肉を静かに口に運び続けている。

 

その横顔に、静かな異常性が漂っていた。

通常なら潰れるはずの負荷を受け止め、淡々と食事を進め、午後には再び“死神”と向き合う準備をしている。

 

氷川がぽつりと結ぶ。

「怪物に怪物の燃料を投じてるだけですよ。

……我々はその観察役です」

 

食器の軽い音が響く。

外は、午後の死神訓練へ向けた静かな準備が進みつつあった。

13:00 — クレーラリー練習:本格始動前の作戦会議

蓮見が腕を組んで、全員をぐるりと見渡した。

「……ラリーを続ける相手どうするよ?3時間のラリー打てる奴なんてうちにいないぞ。九条相手なら最低2人交代で回さないと、どっちが潰れるかわからん」

志水が苦笑する。

「それ、選手のサポートじゃなくて、スタッフの過酷労働ですよね……」

氷川が冷静に挟んだ。

「玉出しマシンと人間を交互に使います。マシンは一定のコースを作り、人間が負荷の変化を加える。

主に私と蓮見さんが交互に球出し、早瀬さんも短時間であれば打ち手に入れます」

蓮見が腕を組みながら、少し考え込んだ。

「まあ……氷川が打てるなら助かるけどよ。人間が入る時は20分交代だな。 そっちの肩がもたねぇだろ?」

「異論はありません」

氷川が淡々と答える。

続けて早瀬が静かに口を開いた。

「私はフォーム調整程度の球速にとどめます。筋疲労を蓄積させない範囲で混ぜます。目的は配球のバリエーションですから」

神崎がわずかに眉をひそめる。

「まあ……安全策としては妥当でしょう。あとは――本人が無茶をしなければ、ですが」

志水がすぐに苦笑を乗せる。

「それが一番信用ならないんですよね」

「まあな」

蓮見は笑いながら肩を竦めた。

「でも、止めるのは医者の役目だ。俺らは“やれるだけの環境”を整えてやる。そうだろ?」

神崎は苦笑交じりに息を吐く。

「もちろん。だからこそ、30分ごとに徹底的に身体チェックを入れます。異常が出たらその場でストップをかける」

「氷風呂の準備は先に進めておきます。終了時刻16:30固定。 即座にクールダウンできるよう整えます」

氷川が静かに補足した。

そのやり取りを背後で聞きながら、蓮見はマシンの設定パネルを睨み、ふと思いついたようにぼそりと呟く。

「……せっかくだしさ。『九条雅臣のラリー相手募集!1時間限定!』ってアナウンスしたら集まってくんじゃねえの?

空気が一瞬静まり返る。

志水が、呆れ混じりに息を漏らした。

「確かに。実質、日本代表クラスのトライアウトになりそうですね……」

氷川も、わずかに口元を緩めた。

「一応、“現役プロ選手限定”に絞れば、一定レベルは担保できるでしょうが」

だが――

背後でそのやり取りを聞いていた九条が、静かに、嫌そうに顔をしかめた

「……断る」

即答だった。

蓮見が肩をすくめる。

「だろうな。まあ、お前不特定多数が来るのが一番嫌いだもんな。相手が読めないと、逆に練習効率落ちるタイプだし」

神崎が深く頷きながら、静かに口を開いた。

「それに――一度始まったら本人が止めなくなるのが問題です。終わる気配がなくなる

淡々とした声で早瀬が続ける。

「今日はまず安全第一で組みましょう。**“欲張らない、でも極限まで”**が、今回のテーマです」

蓮見が手を叩くようにまとめた。

「よし。予定通り、俺らで回そう。

……でもよ、今度ほんとにやるか?公開練習イベント。たぶんめっちゃバズるぞ?

そこまで言ったところで、コートの奥で準備を整えていた九条が、わずかに顔を向ける。

「……やらない」

たったそれだけの短い返答。

だが、その声音には譲る気配が一切なかった。

まるで“支配者”の宣告のように、淡々と。

蓮見が腕を組みながら、コート奥の別のマシンに目を向けた。

「……まあ、そろそろ普通の速度で打てる方を使うか。

こっちは連続稼働もいけるし、調整もしやすい。今やりたいのは球速じゃない。九条を走らせることだ」

氷川がすぐに設定パネルを操作し始める。

「クレー用にバウンド設定を下げて、左右の振り幅は最大にします。コーナーワークも入れておきましょう」

志水が呟く。

「コート全体を使わせると、心肺も足も削れてくる……良い負荷ですね」

蓮見が振り返り、あっけらかんと言い放った。

「お前も言ったろ。**“使えるものは何でも使え”**だ」

九条はわずかに顎を引いて、静かに答えた。

「……使え」

そこには、もはや“覚悟”でも“気合”でもない、

ただ訓練を受け入れる者の呼吸だけがあった。

崎は、わずかに眉をひそめながら呟いた。

(……またか)

30分ごとの状態確認は必ず入れます。限界を見誤らないように

早瀬が静かに横で頷いた。

「こっちはもう修理班みたいなもんですからね。壊れる前に止めますよ」

その声に、どこか苦笑も混じっていた。

Chapter:Clay Storm ― クレーの嵐

午後1時、味の素NTC・クレーコート練習場

 

機械音が静かに立ち上がる。

コート奥に据えられたサーブマシンとは違う、**“ラリーマシン”**が始動を始めていた。

蓮見が設定パネルを覗き込み、念入りに最終調整を加える。

「OK。左右の振り幅最大。前後もランダム。

コート全面フル稼働、行くぞ」

氷川が横で即座に確認する。

「バウンド設定もクレー専用に変更。弾道高め、球速は100〜120km/hの範囲内でランダムに回します」

「3時間通しだ。最初から飛ばさなくていいぞ」

そう言いながらも、蓮見の目はどこか楽しそうだった。

志水が淡々と告げる。

「九条、心拍数・呼吸・皮膚反応、リアルタイム監視中です。異常が出たら即ストップを要請します」

神崎も少し険しい顔で頷く。

「強度は高くなくとも、時間が武器になる練習だ。油断しないように」

 

九条は黙って、ベースラインに入った。

コートに立った瞬間、その背筋から空気が変わる。

汗もなく、迷いもなく――“支配者”の姿勢。

 

蓮見が軽く手を上げて合図を出す。

「撃て」

マシンがボールを吐き出す音を立てた。

 

――シュパン!

最初の1球が、低い弧を描いてベースライン付近に落ちた。

九条はスプリットステップを一度刻み、難なくフォアで捉える。

パン、という乾いたインパクト音。

ラケット面はわずかに寝かせている。クレー用のスピンボール。

 

第二球、今度はバックハンド側のワイド。

躊躇なくステップで入り、無理なく捌く。

三球目はドロップ気味の浅い球。

足を細かく運び、低い位置で持ち上げるようにスピンで拾い上げた。

 

(順応が早い)

志水がモニター越しに呟く。

早瀬も静かに続ける。

「クレーの球足、バウンド、全部もう身体が覚えてる……」

 

マシンは遠慮なく攻め続ける。

前後左右、際どいところに連続で配球される。

一球一球に「答え」を出し続ける九条。

ペースは乱れない。

息は浅く、長く、正確に吐かれる。

“削られない身体”

“崩れないフォーム”

 

――30分経過。

神崎が予定通り、インターバルチェックを入れる。

「一時停止。数値確認に入ります」

志水が素早く計測結果を読み上げる。

「心拍数138。血中酸素97%。筋反応正常。熱放散良好。

まだ余裕域内です」

「……動きも全く崩れていませんね」

早瀬の言葉に、神崎がわずかに息をつく。

「順調だ。続行可能」

 

蓮見がもう一度手を上げる。

「再開だ。撃て」

 

マシンが再び唸り始める。

九条の足元が、細かな赤土の粒をはね上げる。

スライド、反発、スライド。

足裏の摩擦とバランス感覚が研ぎ澄まされていく。

 

志水がぼそっと呟く。

「こういう時だけ“人間じゃない”って言いたくなるね……」

氷川が小さく笑う。

“生きた自動演算機”――とは良く言ったものです」

蓮見は腕を組みながら言い足した。

「全仏のクレーを獲りにいくなら、この程度は“準備運動”だ」

 

そのまま、午後2時――

さらに午後3時へと、粛々と刻が進んでいった。

Chapter:Clay Storm ― 終盤の静域

午後3時00分 — 味の素NTC・クレーコート

 

再び打球音が刻まれ始める。

2時間が経過してなお、九条のフットワークに乱れはない。

スライド――

踏み込み――

体幹の回転――

同じリズムで、同じ精度で、

淡々と打球を返し続けていた。

 

「……こっからが本番だな」

蓮見がストップウォッチを睨みながら呟く。

氷川も静かに補足する。

「集中力の切れる時間帯です。疲労による誤差が出始めるタイミング」

 

志水がモニターのデータを読み上げる。

「心拍144、酸素96%。脳波は依然として“静域”の波形を維持しています。

自律神経も安定。まだ深く入りすぎてはいません」

早瀬がゆるく頷く。

「ただ、入り始めたな……あの集中の奥に沈んでいく兆候です」

 

九条の表情は無だ。

まるで、彼の内側だけが“無音の演算”を続けているようだった。

息も乱れず、汗は最低限。

省エネ、なのに精密。

「この集中域……限りなく危ういよね」

志水が小声で漏らす。

「ええ。完全に深層ゾーンへ入り込む一歩手前……」

神崎の表情は硬いまま。

「これ以上入らせると、“戻ってこなくなる”」

 

その言葉に、氷川も深く頷いた。

「全豪決勝の時と同じ兆候です。

まだ“意識下”には留まっていますが……もう一段落ちたら止めるべきです」

蓮見は腕を組みながら、短くまとめる。

深いゾーンに沈む前に切る。……時間で行くぞ」

 

志水が次のタイムキープを宣言した。

「次のインターバルチェック、15時30分」

「それで最終判断だ」

蓮見が頷く。

 

ボールはなおも吐き出され続ける。

前後、左右、上下――

マシンは執拗に変化球を投げ続けるが、九条は迷わず対処を続けた。

恐ろしいまでの適応能力。

もはや“対話”にすら見える――

コートと、土と、球との会話。

 

15時30分、インターバル。

志水が即座にデータを読む。

「心拍148、酸素95%。まだ正常範囲内。ただし、深部脳波は“境界域”へ。」

神崎は苦い表情を崩さない。

「……もう十分だ。これ以上は危険だ」

早瀬が静かに追い打ちをかけた。

「戻れなくなる寸前です。“今日は切り上げましょう”

 

蓮見は大きく息を吐き――

「じゃ、ここまでだ」

 

機械が停止音を鳴らす。

打球音が止まった瞬間、コートに静寂が降りた。

 

九条は、最後の一歩を踏み出して返球し――

そのまま、ゆっくりとラケットを下ろした。

無音のまま、顔は前を向いたまま――

 

(――まだ意識が深部に残ってるな)

蓮見はそう見抜きつつも、もう声を掛けない。

“抜け出させる”作業はここから医療班の仕事だ。

 

氷川が小声で補足した。

「このあと、アイスバスに入れます。

ゾーンから身体を物理的に戻していく作業に切り替えます」

神崎が短く頷く。

「それで“日常”に戻せる」

志水は、静かに苦笑した。

「……本当に、毎度命綱握ってる気分だよ……」

 

クレーコートは、ようやく静けさを取り戻した。

その赤土の上に、九条雅臣という“静域の怪物”だけが、なおも立っていた。

Scene:16:30 — クレーコート終了

午後4時30分、正確に時計の針が進んだ瞬間。

蓮見が短く合図を出す。

「――終了」

マシンが停止し、ボールが転がる音だけが残った。

コートにはわずかな砂煙が漂う。

九条はラケットを下ろし、ゆっくりと呼吸を整えた。

肩は上がっていない。呼吸も荒れていない。

“限界”ではない。

だが、医療班はそれでも限界一歩手前だと判断している。

神崎が歩み寄る。

「ここまでです。抜きますよ」

九条は小さく頷く。

声を出さずとも、その表情で了承していた。

志水がヘッドセット越しに静かに確認を取る。

「氷川、アイスバス準備」

「了解。搬送ルート開けます」

早瀬が、わずかに安堵した声で呟く。

「故障ゼロ、負荷レベルも計画通り……今日のところは合格ですね」

蓮見が、軽く肩を叩きながら小さく笑う。

「これで終わりじゃねえぞ。明日もある」

九条は、その言葉にも反応を返さない。

ただ黙って、淡々とアイスバスへ向かうルートへ足を進めた。

静かに、獣の檻を一度だけ離れるように。

Chapter:氷温管理

17:00 — リカバリールーム

クレーコートでの長時間ラリーを終えた九条は、氷川と共にアイスバスルームへ移動していた。

呼吸はわずかに深く、それでも歩く姿はまったく乱れていない。

「心拍数:82、体温 37.5度」

志水がデバイスを確認しながら報告する。

神崎医師も横でメモを取る。

「すでに通常域まで落ちています。入水可です」

氷川が小さく頷いた。

「雅臣さん、いつでも」

九条は答えず、静かに足元のスリッパを脱いだ。

目の前には10.5℃に調整されたアイスバスが静かに待っている。

だが、すぐには入らない。

これが九条雅臣の“儀式”だ。

左肩をゆっくりと回す。関節の動きを確認する。

右の手首を握って、数秒静止する。

背筋を伸ばし、深く息を吸い込んだ。

「……」

静寂の中で、自律神経を完全に整えていく

呼吸は腹部まで深く降ろされ、

吸気:5秒 → 保持:3秒 → 呼気:7秒

このリズムを4回繰り返す。

志水が小さく漏らす。

「この人、もう自動運転だな……」

5分の準備を終え、ようやく九条は一歩を踏み出した。

両手を湯縁にかけ、呼吸を乱さぬまま一気に入水

ザブン——

太腿まで、胸元まで、肩まで、一段階ずつ。

完全に沈む頃には、わずかに肌が赤みを帯びていく。

だが表情は変わらない。

「5分カウント、スタートします」

氷川の声に志水がストップウォッチを押す。

「SpO₂ 98%、心拍72、安定」

神崎が一つ一つ確認する。

冷水による交感神経の急上昇を、完全に自律神経制御で抑え込んでいる

蓮見が控室の奥から眺めて、ぼそっと呟く。

「普通の奴なら一気に血圧跳ね上がって卒倒もあり得るぞ…」

早瀬は腕を組んだまま、目を細める。

「だからこそ…“彼の身体は別物”なんですよ」

3分経過。

唇は青くならず、指先も震えない。

むしろ静謐そのものだ。

志水が再び低く呟く。

「神経伝達の統制域が広すぎる……

……やっぱりあなた、少し人間やめてますよ」

氷川が静かに微笑む。

「彼は“自分の肉体を最も信じない男”です。

だから常に支配下に置こうとする」

5分終了。

九条は再びゆっくりと立ち上がり、

用意されたタオルに腕を通す。

その全ての動作が、まるで**“機械整備完了”**のように正確だった。

「……完了しました」

氷川が報告すると、九条はわずかに目を閉じて答えた。

アイスバスから出た直後、タオルで身体を拭きながら、九条は静かに深呼吸を整えていた。

筋肉の内部まで一気に冷やされた刺激は、痛みすらも鋭く冴えさせる。

けれど、脈は安定している。心拍も、体温も。

(……戻した)

この“感覚”が戻ってこなければ、練習の意味が無くなる。

極限まで追い込んだあとは、必ずそこに戻す作業が必要だった。

氷川が静かに近づく。

「迎えの時刻までは、予定通り15分です」

「わかった」

「車は準備してあります。澪さんの会社前に18時ちょうどに到着します」

九条は短く頷くと、タオルを手に取ったままロッカールームに向かって歩き出した。

氷川は、わずかに表情を緩める。

(この切り替えが、あの人の強さでもあり、人間らしさでもある)

それが昨日までの彼には、少し足りなかった。

澪という存在が、わずかな“余白”を生んでいる。

レオンは、その様子を後ろから眺めながら呟くように口にする。

「……さて、“王”が人の顔に戻った。行きますか、お迎え」

氷川も軽く笑う。

「はい。忘れ物取りへ」

九条は、静かにジャケットの袖を通しながら言った。

「無駄口は慎め。あと15分後だ」

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URB製作室

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