朝
目を開けるより先に、体が目覚めた。
重さが、ない。
筋肉の芯まで、張り詰めたものが抜けている。
(……軽い)
久しぶりだった。
ここまで“抜けている”朝を迎えたのは。
いつもなら、体のどこかが張っている。
それが当然で、正常だった。
けれど、今朝は違った。
横を見ると、まだ澪が眠っていた。
呼吸が静かで、肌にかかる髪が少しだけ揺れている。
(ああ——)
言葉にはしないけれど、体は理解していた。
この女と一緒にいると、自分は“抜ける”ことができる。
昼の集中も、夜の回復も、どちらも手に入る。
遠征に持って行けないことだけが、唯一の欠点だった。
だが、今はまだ、ここにいる。
このまま、澪を抱いたまま昼まで眠れたら、とも思った。
けれど——回復したのなら、動くべきだ。
それが、体と向き合って生きてきた者の習性だった。
名残惜しさを振り切って、ゆっくりと腕をほどく。
澪は気づかず眠ったまま、少し身じろぎして、また静かになる。
その寝顔に一瞬、視線を落とし、足音を立てないようにベッドを抜けた。
寝室の奥、カーテンの隙間から薄く朝の光が漏れている。
冷たい床の感触が、体を引き締める。
肩を回し、深く息を吸って、吐く。
ストレッチから入る。
肩甲骨、股関節、ハムストリング。
筋肉の硬さと反応を確認しながら、ゆっくりと伸ばしていく。
(……やれる)
目覚めた直後の体とは思えないほど、よく動いた。
昨夜の“休息”は、明確な効果として残っている。
リビングに移動して、ゆるやかな準備運動に切り替える頃、
背後の寝室から、ごく小さな衣擦れの音が聞こえた。
(……起きたか)
寝室のドアが少しだけ開いた。
そのすき間から、ぼんやりした目をした澪が顔を出す。
「……おはよう」
声が小さい。まぶたがまだ半分閉じてる。
「早いな。もう起きたのか?」
「……ううん……いなかったから、目が覚めただけ……」
ふらふらと歩いてきて、九条のTシャツの裾を無言でつまむ。
「……寒くはないか?」
「……うん。でも……さみしい」
眠気が勝ってるせいか、澪はいつもよりずっと無防備だ。
ソファに座ってタオルを外した九条の横に、躊躇なくもたれかかってくる。
そのまま、腕を枕にして頭をあずける。
「ん……ぬくい……」
(……甘えてる自覚も、今はないな)
「あと5分だけ……こうしてたい……」
「レオンが来るぞ」
「……やだ。あと5分」
ぎゅっとくっついて、九条の体温に包まれようとする澪。
朝の静けさに包まれた、わずかな甘えの時間。
眠気はまだ、澪を夢の余韻の中に留めていた。
午前6時00分 レオン到着
エレベーターが静かに開いた。
すぐ先はもう室内。ドアはない。遮るものもない。
まるで空間そのものが、彼の到着を予期していたかのように、しんと静まり返っていた。
「おはようございまーす」
五百旗頭玲央――通称レオンは、いつもの調子で明るく声をかけた。
足音を響かせずに、玄関らしきスペースを抜け、慣れた手順で靴を脱ぎ、キッチンへと向かう。
冷蔵庫の扉を開けると、すでに氷川が手配した新鮮な食材が揃っていた。
自分の調理道具もこのレジデンスに置いてある。誰も触らない。誰も文句も言わない。
これは“自分の城”だ。
ただし、王は別にいる。
レオンはエプロンを手に取り、手早く準備を整えると、静かに火をつけた。
まだ室内に人の気配はない。だが、彼には分かっていた。
(もう起きてるな)
そう確信していた。
案の定、リビングの奥から、わずかにストレッチの音が聞こえた気がした。
火にかけた鍋の中で、バターがじゅっと音を立てる。
「さてと、今日も“愛の監視”業務、がんばりますか」
つぶやきながら、淡々と朝の支度を進めていく。
⸻
午前6時30分
澪がメイクを終えてリビングに出てくる。
その直前、九条も気配を察して、リビングへと現れる。
深いグレーのニットに、シルエットの整ったパンツ。
明らかにトレーニング用ではないが、動きやすさは確保されている“綺麗め”な装い。
レオンはちらりと視線を送ると、自然に笑った。
「おはようございます、九条さん。今日も完璧なビジュアルで」
「……適当だ」
九条は短くそう言って、ソファに腰を下ろす。
「彼女、そろそろ?」
「ああ。あと少しだろう」
「ふふ、じゃあ急いで仕上げなきゃですね。朝はちゃんと食べてもらわないと、コーチに怒られますから」
レオンはフライパンを揺らしながら、ふと思い出したように問いかけた。
「昨日、ちゃんと眠れました?」
視線は料理に向けたまま。
けれど、その声音にははっきりとした“確認”の意図が込められていた。
昨日から始まった狂気じみたトレーニング。
その集中力が過ぎると、逆に神経が昂って眠れなくなることもある。
九条はソファで静かに新聞をめくっていたが、手を止めずに答えた。
「ああ」
それだけ。
レオンは小さく目を細めたが、それ以上は突っ込まない。
それが“本当に寝た”という意味なのか、“大丈夫という体で通したい”だけなのか。
どちらでもいい。彼には見抜く力があるし、追及しない優しさもある。
(……ちゃんと寝たな。顔に出てる)
今朝の彼の目は、思った以上に静かだった。
眠れていなければ、もっと張り詰めた気配を纏っているはずだから。
レオンは焼き上がったスクランブルエッグを皿に盛りながら、ふっと微笑む。
「よかった。今日はスープもあるんで、ちゃんと食べてくださいね」
「……」
九条は新聞を閉じ、レオンを一瞥しただけで、再び黙った。
ちょうどそのとき、ゲストルームの扉が開く音がして、澪が姿を現した。
リビングに漂うのは、バターが焦げる手前の香りと、味噌汁のやさしい湯気。
澪はソファの前のダイニングチェアに腰を下ろし、目の前に並べられた朝食を見て、ぽつりと呟いた。
「……やばい、幸せすぎて朝から涙出そう」
手を合わせ、思わずしみじみと料理を見つめる。
彩りも香りも完璧な、スクランブルエッグと焼き魚、そして出汁の香る味噌汁。
その隣で、エプロン姿のレオンが笑った。
「泣く前に食べて。スクランブルエッグ、トロけるうちに」
そう言いながら、熱々の味噌汁の椀をそっとテーブルに並べる。
動きはテキパキしているのに、どこか優雅で柔らかい。
新聞を広げたままの九条が、低い声でひとこと。
「……朝から泣くな」
視線は活字に向いたままだが、目元の端がほんのわずかに緩んでいた。
澪は頬を膨らませるように笑って、言葉を返す。
「雅臣さんが新聞読んでるのも、なんかじわじわ来るんだけど」
「読む。朝はこれと白湯だ」
九条はカップを持ち上げ、静かに口をつける。
着替えたばかりの綺麗めな服。
練習日であることを感じさせない、どこか余裕すら感じる姿。
澪はふわりと笑って、スクランブルエッグをひとくち口に運んだ。
美味しさに目を細めながら、ふと椅子に座る彼の姿に目をやる。
「……雅臣さん、おじいちゃんみたい」
新聞を広げたままの九条が、ぴたりと手を止める。
白湯の湯気が静かに立ちのぼる。視線を上げることなく、新聞の向こうから無言の圧だけが飛んできた。
「だって、朝から白湯と新聞って。完璧じゃない? 縁側で猫とか飼ってそう」
揺らぎもしないその背筋に、澪はくすくすと笑う。
対面のキッチンで包丁を拭いていたレオンが、肩を震わせた。
「いや、それわかる。ていうか、もう“貫禄”の域。で文句言ってそう、『最近の若い奴は』って」
「……言わない」
九条の声は低く、短く、それだけ。
「あと十年くらいしたら、湯呑みにお茶入れて、日なたぼっこしながら言ってそう」
「しない」
さらに短くなった。
「でもそう言いながら、猫には優しいの」
そのとき、新聞がふたたび軽くめくられた。
九条は無言でページを繰ると、ただ静かに一言呟いた。
「……猫アレルギーだ」
レオンは思わず噴き出し、澪は「あっ……」と、ほんの少しだけ反省した顔を見せた。
でも――口元は、まだ笑っていた。
澪の出発
澪は椀を置くと、ため息と共に背もたれに倒れ込んだ。
首を仰け反らせたまま、天井に向かってぼやくように声を漏らす。
「あー………行きたくないーーー外寒いーーーー」
暖房のきいた部屋のぬくもりに、毛布みたいに包まれてしまった心と体が、一歩も外に出たくないと全力で駄々をこねている。
新聞から目を上げた九条が、言葉少なにひとこと。
「着込めばいい」
まったく慰めにならない理屈の人らしい返し。
澪は目だけ動かして九条を見やる。
「心が寒いの。物理じゃないの」
レオンが吹き出しながら、炊きたてごはんのおかわりをよそいながら応じた。
「じゃあ、いっそお仕事辞める? 今日も明日も朝ごはん用意するよ?」
「いや、それはそれで社会的に死ぬ……」
そう言いながらも、澪は顔を手のひらで覆って、しばらくうーんと唸っていた。
「……あと10分だけ、この部屋にいたい。冬の外界に精神が追いついてない……」
そんな澪の横で、九条は再び新聞に視線を戻しながら、ぽつりと漏らす。
「……10分で外に出ろ」
「スパルタぁ」
澪は膝の上で拳を握りしめて、再び呟いた。
「あー……無理……このまま動かなかったら、会社って消えたりしないかな……」
「しない」
即答だった。新聞のページをめくりながら、それだけ。
横からレオンがくすくす笑っている。
「でも、今出たら駅でちょうど一本早い電車乗れますよ?」
「やめて。そういう“正しい情報”って、心を刺してくるんだよ……」
そう言いつつ、澪はゆっくりと椅子を引いた。
心はまだご飯とレオンの味噌汁の香りに縛られてるけど、頭は出勤モードに切り替わっていた。
洗面台に立って口紅を塗り直し、鞄とスマホを手に取る。マフラーはすでに首に巻かれていた。
玄関――の代わりのエントランスに向かう前に、澪は一度振り返る。
「じゃあ……行ってきます。レオンさん、ごちそうさまでした。ほんとに幸せだった……!」
「いってらっしゃい。今日もお仕事がんばって」
レオンは笑顔で手を振る。
九条は、視線を上げずにただ一言だけ。
「気をつけて」
でもその声だけで、澪は自然と笑みを浮かべる。
レオンが手を振る横で、澪はふと思い出したように立ち止まった。
「あ、今日、荷物届くから……下の宅配ボックスから出しといてもらってもいい? 私、たぶん開けられないよね?」
九条は新聞から視線を外さないまま、短く答える。
「開けるな。俺が出す」
「うん、ありがと。たぶん電化製品……だけど、小さいやつ」
「家電買うなって言った」
「えっ、言ったっけ?」
「……言った」
澪は苦笑いしながら、エレベーターに向かう。
去り際に、もう一度だけ振り返って、そっと手を振る。
「行ってきます」
九条は最後まで新聞を閉じなかった。
ページの裏から、その背中を、音のない視線で見送っていた。
エレベーターのドアが閉まり、機械音がわずかに響いたあと、リビングには静けさが戻る。
まるで、さっきまでの“生活”が一瞬の夢だったかのように。
レオンはキッチンで器を片付けながら、ふとつぶやく。
「……可愛いね、あの子」
九条は新聞のページをゆっくりめくる。返事はない。けれど、指の動きが一瞬止まった。
「なんかこう……“生きてる”って感じ。見てるこっちまで息があったかくなる」
「……」
「あなたが、どうして日本に戻ってきたのか、ちょっとだけ分かった気がするよ」
その言葉にも九条は反応しない。
けれど、新聞の裏に隠れた表情は、さっき澪に見せたものとはまた違う、かすかな“色”を帯びていた。
「着替えてくる」
立ち上がった九条が、手にしていた新聞をソファの肘掛けにそっと置く。
その背中に、澪がにこっと笑って声をかけた。
「はい。行ってらっしゃい。氷川さん、下で待ってるって言ってたよ」
キッチンからレオンの声も続く。
「今日は僕も一緒に出るね。夜はまたご飯作りにここに来るから」
九条は振り返らず、短く「ああ」とだけ応え、静かに寝室へ向かっていった。
残されたリビングには、まだ湯気を立てる味噌汁の香りと、冬の朝の穏やかな温度だけが残っていた。
……あんな練習してたら、いつ何があるかわかんねーから、神崎と早瀬も呼んどけ。
でも蓮見さん、練習メニュー組んでる張本人がそれ言う?w
お父さんだもんね。
息子にしてはデカいし、可愛げねぇ。
確かに、“可愛げ”は無いですね。
生意気で理屈っぽくて、なのに勝手に限界突っ走るし。
ま、だから勝ってるんですけど。
もう、こっちが追いつくのに必死だよ。
練習へ
エンジン音が静かに響き、車はレジデンスの地下駐車場を出た。
運転席には氷川、助手席にはレオン、後部座席には九条が無言で座っている。
まだ朝の光が薄く、フロントガラスの外は冬特有の鈍い色をしていた。
少しして、氷川が口を開く。
「本日より、神崎医師と早瀬が合流します」
九条は視線を上げることなく、短く応じた。
「……来たか」
「はい。先ほど成田に到着しました。午後には味スタに顔を出す予定です。
それと、藤代さんも同行しています」
「過剰だな」
「予防です。志水さんの判断でも、そろそろ限界だろうという話でした。
痛みを言わないあなたのことですから」
助手席からレオンがちらりと振り返る。
「やっと、って感じかな。ずっと見てる側も胃がキリキリするよ。朝ごはん食べてるときは信じられないくらい静かだったけどさ。あんまり僕らの心配ばっかり増やさないで」
その言葉には、少しだけ本気の苛立ちが混ざっていた。
味の素ナショナルトレーニングセンター/スタッフ控室
再生が終わったモニターには、薄暗いクレーコートでひとり黙々とトレーニングをこなす九条の姿が静止画のように映っていた。
色付きのターゲットに向かって放たれるボール。
目隠しをしたまま、反射と音と風の流れだけで打点を合わせていく様子。
それを見ていた医師・神崎は、ゆっくりと目を細め、腕を組んだ。
「……このまま続けたら、身体が持ちませんよ」
それでも、蓮見はモニターから目を離さない。
視線の先にいるのは、もはや人間ではない領域に足を踏み入れたアスリートだった。
「持たせるんだよ。持たせたうえで、人間の域を出す」
その言葉に、フィジオの早瀬が小さく笑った。
「今日来て正解でしたね、俺たち」
「医者の立場から言えば、止めるべきだと忠告しておきます」
神崎の言葉には、冷静な怒気が滲んでいる。
だが、蓮見はそれを受けても揺るがない。
無表情のまま、トレーニングメニューのシートをぺらりとめくる。
「言うのは自由だ。だが、俺は“強くなるための道”を用意するのが仕事だ」
「じゃあ、俺たちの役目はその道で死なせないこと、ってとこですね」
と早瀬が皮肉交じりに続ける。
その声の中にも、長年プロに携わってきた者にしか出せない、諦めと決意が滲んでいた。
控室に設置されたスピーカーから、氷川の落ち着いた声が入る。
「志水も、アップルームで監視に入っています。負荷チェックは試合用心拍レベルで進行中」
神崎が眉をひそめる。
「……もうこれ、完全にプロジェクトチームですね」
蓮見は鼻で笑った。
「違ぇねぇ」
そしてその一言が、何より彼らの覚悟を物語っていた。
午前9時
チーム九条のトレーニングは、“心臓を叩き起こす”ところから始まる。
高強度インターバルトレーニング――通称、HIIT(ヒート)。
短時間で心拍数を急激に上げ、一定のインターバルで心臓に強烈な負荷をかけるメニュー。
本来は「短時間で効率よく脂肪を燃やす」目的で、健康維持にも使われるメソッドだ。
だが、九条雅臣のHIITは、その枠をはるかに逸脱している。
心拍数180オーバー。
低酸素マスク着用。
スプリントと全身の自重トレを交互に繰り返す。
5分動いて、30秒休む。それを何十セットも。
もはや一般人なら1セットで倒れる内容だった。
「心拍数を上げるのが目的じゃない。
上がらない身体にストレスをかけるのが目的だ」
かつて九条は、そう言い放った。
実際、彼の心拍は、試合中すら一定だった。
強打を放っても、マッチポイントでも、タイブレークでも変わらない。
まるで、生き物としての“緊張”を感じていないかのように。
だからこそ、日常の練習では“意図的に心臓を追い詰める”必要がある。
HIITという言葉の響きには似つかわしくない。
これは、獣を飼い慣らすための檻作りだった。
本来、HIIT(高強度インターバルトレーニング)は、体力に合わせて誰でもできるメニューだ。
エアロバイクを漕ぐだけでも、ウォーキングと軽いストレッチを交互に繰り返すだけでもいい。
老人から運動初心者まで、強度を調整すれば安全に効果が出せる――それがHIITの利点だった。
だが、
“九条雅臣のHIIT”に、その常識は通用しない。
心拍数が180を超えても止めない。
低酸素マスクを着けたまま、全力疾走と筋トレを交互に繰り返し、限界の数歩先でようやく「アップが終わった」と言い切る男。
それは、“トレーニング”ではなかった。
狂気の試運転だった。
志水は、ぬるくなったコーヒーをひと口すすると、何気なく口にした。
「HIITって、本当は安全なメニューなんだよね。やり方さえ間違えなければ、老人だってできる。強度をコントロールすれば、誰でもできる」
「でも――」
言いかけて、志水は苦笑した。
「“九条雅臣がやる”ってなると、話が違ってくる」
氷川がすぐさま同意する。
「彼のは、もうトレーニングってより……人体実験に近いです。しかも、毎朝欠かさず」
「普通なら、週2回で十分なメニューなのにね」
蓮見が手元のメニュー表を指で弾きながら、淡々とした声で言う。
「でも、そうしなきゃ、“人間の域”から出られないんだとよ。だから毎日やる。壊れるギリギリまで」
「いやもう、ギリギリじゃない。とっくに壊してる」
志水がぽつりとこぼす。
彼らが見ているのは、アスリートではない。
**“勝つためだけに身体を使い潰す男”**の、冷たい朝の習慣だった。
蓮見がリストバンドのタイマーを押すと同時に、九条が動き出す。
ジャンプ。
しゃがみ。
足を伸ばし、腕立て伏せ一回。
背中ごと床ギリギリまで沈めたのち、足を戻してそのまま立ち上がり、再びジャンプ。
それを無限に繰り返す。
規定回数も時間も無し。
目的はただ一つ、九条の心拍を“本気で上げる”こと。
試合中、彼の心拍はほとんど変動しない。
“異常”の一言で片付けられる身体性能。
ならばこちらも、強度を“異常”にするしかない。
氷川が心拍センサーの値を見てつぶやく。
「今やっと、心臓が“始まった”みたいですね」
レオンが笑いながらメモを取る。
「他の選手なら死にますよ、この強度」
それはもはや運動というより、軍事訓練に近い。
「……これ、誰が考えたんです?」
背後で早瀬が呆れたように呟く。
志水はフードの中で顔をしかめ、首を横に振る。
「考案者、そこの人です」
氷川が小さく指を差すと、蓮見は「おう」とだけ返し、ストップウォッチを回す手を止めない。
「腕立て、ちゃんと肩甲骨も動かしてる……顎と胸が床スレスレまで沈んでる。背中まで意識してる。どこまで絞る気だよ……」
「トレーニングじゃないな。反復拷問だ、これ」
「いや……あいつは喜んでやってるから」
その一言に、場が静まり返る。
ジャンプ、沈み込み、背中を使って押し上げる、そして再び跳躍――
九条はその動作を、一度たりとも緩めることなく、規定の時間5分を走り抜けた。
30秒休む。
休む間も動きを完全に止めるのではなく、緩やかに体を動かす必要がある。
「……以上、第一セット終了」
蓮見の声が飛ぶと同時に、九条はようやく跳躍の動きを止める。
だが、その場で肩で息をする様子はない。
身体を拭くことも、水を飲むことすらしない。
ただ一歩、二歩と、歩幅を変えて足の感覚を確かめるように、立っている。
「次、行くぞ。…いいか、回数と時間は規定を設けない」
蓮見が、壁際に立ちながら声を張る。だが叫びではなく、低く落ち着いた調子だった。
「お前の心拍を上げるのが目的だからな。ちんたらやってるとウォームアップに時間かかるぞー」
わざと軽口に聞こえるように言っているが、誰も笑わない。
「自分で、自分を追い込め」
その言葉を受けて、九条がゆっくりと手を下ろした。
身体はもう熱を帯びている。
それでも、まだ“準備が整った”に過ぎない。
誰も言わないが――この練習の目的は、限界を超えた状態での冷静さだ。
つまり、試合の最も危険な局面での支配力。
カウントダウンタイマーの音。
5.4.3.2.1…
そして、次のセットが5分間が始まる。
計40分。
止まることを許されない40分。
Chapter:Oxygen Limit
午前10時00分――。
HIITで身体を絞り上げた九条は、水を一口含むことすらなく、静かに場所を移動してきた。
次は、低酸素スプリント。
味の素ナショナルトレーニングセンターの奥。
完全に密閉されたこの低酸素ルームは、標高5000メートル相当まで酸素濃度を自在に下げられる日本最高水準の設備だ。
人工的に作り出された“高地”――だが、そこに広がる空気は冗談抜きで薄い。
志水が操作パネルを睨みながら静かに告げる。
「酸素濃度13.5%、標高約3500メートル相当。固定しました」
「開始後、必要に応じて段階的に下げろ」
蓮見が隣で淡々と指示を出す。
「了解」
志水が頷くと、部屋の空気がわずかに張り詰めた気配に変わる。
九条はすでにトレッドミルの中央に立っていた。
軽く膝を屈伸させ、足裏の感覚を確かめる。
この男の身体には、朝からすでに30分以上の異常な運動が入っている。
なのに、筋肉はまだ“狩り”に飢えているようだった。
「いいか」
蓮見が短く声を投げる。
「20km/hから始めて30秒。
インターバル30秒。
そこから25、30…最終30km/hで固定する」
「……ああ」
九条の返事は、もはや呼吸を整えるようなものだった。
スタート音もカウントダウンも要らない。
蓮見のタイマーが静かにゼロを打つと、トレッドミルが唸りを上げて動き始めた。
踏み出す音は軽い。
ただ、リズムが異常に正確だった。
まるでメトロノームが走っているような、狂いのないテンポ。
志水が早速、心拍と酸素飽和度の数値を読み上げる。
「開始1分経過、SpO₂ 93%、心拍172」
早瀬が苦笑まじりに隣で呟いた。
「普通の選手なら、ここでやめますけどね」
「普通じゃねぇから呼んでるんだろ」
蓮見は鼻で笑い、さらに酸素濃度を微調整する。
「……下げるぞ。12%まで」
志水が切り替え操作を打ち込む。
部屋の空気がまた薄くなる。呼吸の抵抗感が微妙に強まった。
速度は25km/hへ上昇。
ランニングマシンの唸りが一段階鋭くなる。
九条の表情は変わらない。
だが、マスク越しの呼吸音だけが、わずかに重みを増していく。
「SpO₂ 91%。心拍179……」
氷川が、やや驚いた声を漏らす。
「まだ持ってますね……」
通常の人間なら、これで手足がしびれ、頭が朦朧とするレベルだ。
脳は酸素不足の信号を発し、パフォーマンスは確実に低下する。
けれど――
この男には、その信号がない。
早瀬が吐息混じりに漏らした。
「……ゾーンに入ってる」
「もう切り替わってるな」
蓮見の声は淡々としていたが、どこか皮肉すら滲んでいた。
さらに30km/h。
マシンの最大速度まで到達すると、部屋全体の音が一段と高く唸る。
九条の身体は一分の狂いもなく動き続けた。
左右均等に着地し、着実に推進し続ける。
まるで“走る”という行為が、人間の生理反応とは別次元にあるかのようだった。
志水が呟く。
「……心拍184。維持してる」
異常だ。
だが、これが九条雅臣だ。
そして――20本目。
蓮見が静かに手を上げた。
「終了」
マシンが止まり、空気が通常濃度へ戻っていく。
だが、九条は崩れ落ちない。
膝に手もつかない。
むしろ僅かに胸を反らせ、全身を大きく広げて酸素を受け入れていく。
まるで「ようやく帰ってきた」とでも言うように――。
志水が苦笑混じりに呟いた。
「これで、ようやく“準備運動”完了、だな」
蓮見が短く顎を上げる。
「……じゃあ、打ちに行こうか」
普通、人が暮らす場所の空気は「酸素が約21%」含まれています。
九条が今走っている部屋は、それが13.5%。これは、登山でいえば標高3500メートル。富士山よりずっと高い山の上です。
酸素が薄い場所では、息を吸っても体に入ってくる酸素が少なくなります。頭がぼーっとしたり、足が重くなったり、軽く歩くだけでも苦しくなるのが普通です。
※普通の人なら、10分歩くだけでも「もう帰りたい」と思うくらい。
そんな環境の中で、九条は時速20キロ、25キロ、最終的に30キロでダッシュしています。
これ、どれぐらい速いかというと:
- 20km/h → 一般の人なら100メートルも走れない。
- 25km/h → 陸上部の短距離選手レベル。
- 30km/h → 世界トップの短距離スプリンターが出すような速度。
つまり、
「空気が薄い高山の上で、オリンピックの短距離決勝を一人で延々と走ってる」
そんなイメージです。
しかもこれを、30秒全力で走って、30秒だけ休んで、また走る……を何本も続けています。
これはもう普通のトレーニングではなく、「心臓と肺にどこまで負荷をかけられるか」という限界実験に近い。だから医師やトレーナーが何人も付き添って、常に様子を監視しているのです。
Chapter:Precision Kill
午前11時00分 — NTC 室内コート
低酸素ダッシュを終えた九条は、短いストレッチを挟んだあと、静かにコート中央へと歩を進めた。
午前の仕上げはサーブ練習――だが、今日のそれはいつもの反復とは違う。
「――じゃあ、始めようか」
蓮見が静かに告げる。
ネットの向こう、サービスボックスの奥に5本のペットボトルが等間隔に並べられていた。
最初のターゲットは500ml、半分中身が入った状態で、倒れやすいわけでもなく、かといって重すぎるわけでもない、絶妙な設定だ。
「これを、端から順に倒していく。順番間違えたら、最初からな」
蓮見がわざと淡々とルールを告げる。
「単なる的当てじゃねえ。順番間違えんなよ。“コントロールと集中の神経衰弱”だ。ゾーンで乱れない練習だと思え」
志水が苦笑混じりに小声で呟く。
「ほんと好きだなあ、これ系……」
九条は無言でサーブ位置に立った。
右手の指がボールを軽く転がし、空中へ送り出す。
トスの高さ、回転、打点――
彼にとっては“無意識領域”に組み込まれた制御だった。
1球目、静かなインパクト音。
カン、と乾いた音を立てて、一番左端のペットボトルが倒れる。
成功。
2球目。
ほぼ同じトス、だが着弾点はわずかに右へズレる。
また、カン、と倒れた。
「……」
見ている全員が息を呑む。
だが、九条は呼吸すら乱さない。
蓮見がぼそっと漏らす。
「精度上がったな。ゾーンのままサーブしてる」
3球目、4球目――正確に、ターゲットを消していく。
残るは中央の最後の1本。
通常のターゲット練習なら、ここまで来ればほぼ作業だ。
だが、順番通りに倒すことが課せられている今、緊張感は最後まで持続していた。
軽く深呼吸をひとつ。
そして――放たれたサーブが、完璧な軌道で最後のペットボトルを弾き飛ばす。
「……よし」
蓮見が静かに手元のボードに「1st:Clear」と記録をつけた。
早瀬が小さく感嘆する。
「ど真ん中じゃなくてキャップ側ギリに当てて倒してるな……余計な衝撃与えず、正確に重心抜いて落としてる」
志水が腕を組んで頷く。
「威力だけじゃなく“殺し方”が綺麗になってきてる」
氷川が冷静に補足する。
「これでまだアップメニューですからね」
「やめろ、現実に戻すな」
早瀬が苦笑いで制した。
蓮見は、次のターゲット準備をスタッフに指示しながら振り返る。
「よし、次はレベル2入るぞ」
そう言った瞬間、補助員がコートに入り、今度は水満タンの500mlを再配置し始めた――
水の重さが増した分、単純に威力だけで倒すわけにはいかない。
キャップの根元を正確に狙い続ける必要があった。
(昼休憩に入るまで、あと30分――ここからが“修羅場”だ)
蓮見は内心で呟き、再びストップウォッチを構えた。
Chapter:Narrow Margin
正午直前 ― NTC 室内コート
11:30。
ターゲットサーブを完璧にクリアした九条は、一度も表情を崩さぬままコート中央に立ち続けていた。
蓮見が新たなターゲットをセッティングするスタッフに合図を出す。
今度は──ペットボトルの間隔が異常だった。
「次、隣との間隔を詰める。まず5センチ」
整列したペットボトルの列が運ばれてくる。
中身はすべて空。
わずかな風圧でも隣を巻き込んで倒れかねない、神経衰弱のような配置だった。
「中身が空だから、当てる角度を間違えたら吹っ飛ぶぞ。隣のペットボトルに触れた時点で失敗、最初からやり直し」
蓮見は、あえて淡々と告げる。
「一本だけ倒せ。それができたら……さらに隣との間隔を詰める」
志水が思わず溜息をつく。
「正気じゃないな……」
「いや、正気じゃなきゃここまで勝ってない」
早瀬が肩をすくめた。
蓮見が声を張る。
「いけるな?」
九条は無言で頷き、サーブ位置へ向かう。
――静寂。
コートに張り詰めた空気は、通常の練習とはまったく異質だった。
トス。
打点は高い。
スイングは柔らかく、だが鋭利そのもの。
コントロールだけで殺す一撃が放たれる。
カンッ――
鋭く乾いた音が響く。
左端のボトルが、奇跡のように一本だけ倒れた。
隣のボトルはわずかに揺れるが、倒れはしない。
「クリア」
蓮見が短く告げる。
2本目――
同じようにキャップ付近を狙い、ボトルは静かに沈む。隣は立ったまま。
3本目。
4本目。
5本目。
全て一撃成功。わずか数センチの誤差も許されぬ世界で、九条は“狂気の精密射撃”を完遂していく。
氷川が低く呟いた。
「ゾーンの維持時間が……延びてますね」
志水がモニターの心拍計を確認する。
「呼吸も一定のまま。感情も反応も振れ幅が無い。完全に静域に固定されてる……」
蓮見がゆっくりと歩み寄る。
「次は3センチ間隔で並べるぞ」
スタッフが即座に新たな配置に動き出す。
いよいよ“神経衰弱”から“機械的誤差ゼロ”の領域へ。
(人間がやる内容じゃないな……)
志水の内心の声は、もはや誰もが思っていたことだった。
だが、それを命じたのも蓮見であり、命じられずともやるのが九条だった。
Chapter:12:00 — Recovery Lunch
午前の地獄のセッションを終え、控室のドアが静かに閉まった。
蓮見、志水、氷川、早瀬、神崎、そして九条――チーム全員が一旦ここに集まる。
九条は汗で濡れたシャツを替え、ストレッチを済ませて椅子に腰を下ろしていた。
レオンが用意していたランチがテーブルに並ぶ。
もちろん、栄養計算は完璧だ。
🥗 ランチメニュー(蓮見監修・志水と早瀬確認済)
• 鮭のグリル(良質な脂質とたんぱく質補給)
• 玄米ごはん(血糖値を緩やかに上げ、午後の集中力維持)
• ブロッコリーと人参の温野菜(抗酸化と整腸)
• ゆで卵(ビタミン・ミネラル補助)
• 豆腐の味噌汁(消化を助け、ミネラル補給)
• 低脂肪ギリシャヨーグルト(腸内環境維持)
志水:「バランスはいい、消化も問題ない。午後の負荷に備えて吸収効率最優先」
レオン:「午後も神経削るメニューでしょ?甘みは控えめ。血糖の波を作らないようにしてあるよ」
神崎は静かに腕を組み、九条の表情を観察していた。
早瀬がぽつりと漏らす。
「……午前であそこまで追い込んで、まだ午後に打ち込み残してるんですね」
蓮見は苦笑する。
「午後が本番。ここからが“道場”だ」
氷川が一歩踏み込んで確認する。
「体調、異常ありませんね?」
九条は短く一言。
「問題ない」
その声に、志水も医師も頷く。
「自覚症状ゼロでも、こちらの数値も正常圏内維持です。血中酸素も午前で完全復帰済み」
早瀬が呆れ気味に付け加える。
「どこが壊れてるのか分からなくなる身体ですね……」
九条は淡々とランチを口に運ぶ。
食べる量も、咀嚼も、休憩もすべて精密に管理されている。
“食べる”という行為すらも、彼にとっては訓練の一部だった。
蓮見が、ふと視線を落としながら独りごとのように呟いた。
「……それでも、昨夜は、ちゃんと寝れたってのが救いだ」
九条の手が一瞬だけ止まり、だが何も返さず、再び咀嚼を続けた。
レオンはそのやりとりを見て、小さく口角を上げる。
(……ま、彼女の効果だよね)
声に出すつもりは毛頭なかったが。
やがて、黙々とランチは進み、午後の狂気の準備が静かに整えられていく。
時計は12時45分を回ろうとしていた――
Scene:ランチタイム / 澪視点
レジデンスで暮らしてる期間、買い出しに行っておらず、キッチンで調理もしていないので、ランチは会社の食堂で食べていた。
ここ最近はレジデンスでの食事が続いていたせいか、体調がいい。
栄養バランスが整った食事というのは、やっぱりすごいものだ。朝晩あんな食事を食べさせてもらっている贅沢を思うと、昼も同じように……と欲張りたくなるが、庶民の現実はそう甘くない。
今日もごく普通の鯖味噌定食。
白米に、鯖の味噌煮、豚汁、ほうれん草のお浸し。
素朴で安心できる日本の定食――でも、こういうのも好き。
レジデンスでもお弁当作りはできるが、料理ができることを人に見せることに抵抗があった。
雅臣さんが見てる前で、家事はしていない。
そんなとき、久しぶりに見かける女性社員がトレーを持ってこちらへやってきた。
「綾瀬さん、聞いて」
「あ……お久しぶりです。体調崩してたんですか?」
「うん。崩してた。入院してた」
「え!?」
思わず声が大きくなる。どうりで少し痩せたように見えた。
「風邪こじらせて、肺炎起こしかけて入院した」
「それは…お気の毒ですね」
「で、ここからが本題なんだけど、離婚する」
「…え!?!?」
二度目の驚き。
「なんでまた急に…。結婚して一年くらいじゃないですか?」
驚きはしたが、手元の箸は止めない。澪は味噌汁をひと口すする。
彼女もまた、ご飯を口に運びながら話を続けた。けれど、どこか元気がない。
「それがさ、今回風邪こじらせたのが、旦那が寝込んでる私を放置したからなのよ」
「ええ……」
澪の脳裏には既視感のある嫌な話がよぎる。
「もう動けないくらいだったんだけど、『俺のご飯はいいから、寝てて』とか言って、外に食べに行ったり、実家で食べさせてもらってきたりしてさ。私の分を何も用意してくれなくて」
「ああ…出た…」
――あるあるだ。
もう何度も、似たような話を聞いてきた。表情に出さずとも内心では溜息が出る。
「ベッドから這って水分だけ摂ってたんだけど、ついに意識が朦朧としてきて、実家に連絡してから、意識飛んだ。気が付いたら病院だった」
「うわぁ…」
あまりにも壮絶すぎて、言葉が続かなかった。
「でさ、彼が言ったのが『病院に連れて行ってと言ってくれれば良かったのに』って、しゅんとしてるの。それ見てもうやっていく気なくしちゃって。親も怒ってたし」
「そりゃ怒るでしょうね。大事な娘殺されかけたんだから」
「というわけで、彼は離婚したくないって言ってるけど、このまま別れることになりそう」
「まあ……ですよね。生きてて良かったです」
「…聞いてくれてありがとう」
「いえいえ、こんな事で良ければ」
言葉は柔らかく返しながら、澪の胸には、ずしりと重いものが沈んでいた。
――こういう話は、別に珍しくもない。
さすがに肺炎で入院まで行ったのは稀だと思いたいが、
夫が体調不良の妻を看病しないどころか、
「俺の飯はいいから寝てて」と優しげに言いながら、
妻の食事や水分の世話は一切しない――
そんな話は、もう耳にタコができるほど聞いてきた。
家事は「しなくていい」とは言うものの、自分が代わりに動くわけではなく、放置されたまま家の中は散らかり、妻が回復した頃には片付けが山積みになっている。
回復してから休む暇もなく家事に追われる――結局、寝込む時間さえも奪われる。
(……忘れてるけど、私にとっての“現実”はこっちだ)
今、雅臣さんと暮らしている日々は幸せだ。
食事も、生活も、あまりに整っていて。
でもそれは、彼がプロで、支えるスタッフがいて、すべてが最適化された異常な世界だからこそ。
――現実とは、むしろ今こうして聞いている話の方だ。
(妻や母親が倒れた時に世話をしない人と暮らす意味なんて、私にはわからない。そんなのパートナーじゃない。……私は、やっぱり結婚なんてできない)
それは、この場で声に出すものではない。
でも、心の奥底で、何度も何度も浮かんできた思いだった。
Chapter:午後のターゲットゾーン
午後1時。
午前の狂気じみたアップが終わり、昼食を挟んだ九条が再びコートに現れた。
蓮見の指示で、午前とはまったく異なる“ターゲット”がすでにセットされている。
コートのサーブライン上――
整然と並んだ2リットルのペットボトル。
だが、中身は水ではない。
砂だ。しかも満杯。重心は低く、安定感は桁違い。並の威力ではビクともしない。
志水が低く呟く。
「……普通のサーブの球威だと、当たっても倒れないな」
「当然」
蓮見はニヤついた顔のまま、腕を組んでいる。
「倒すには、キャップの頭を正確に打ち抜くしかない。重さとバランスで支えられてる分、狙いがズレたら全く動かん」
「どこまで趣味悪いんですか、これ」
早瀬が苦笑交じりにぼやく。
「練習は楽しくなきゃな」
蓮見は飄々と言い放つ。
九条は無言でベースラインに立った。
午前中の低酸素ダッシュで仕上がった体は、むしろ研ぎ澄まされている。
その目は静域に近い“あの集中”に入っていた。
「制限は設けない。ただし、連続成功を条件にする」
蓮見の声が響く。
「1本ずつ倒せ。隣を巻き込むな。倒し損ねたら最初からやり直し。……お前が望んだゾーン練習だ」
九条はわずかに頷き、ボールを手に取った。
足元のカゴには、無数の新球がスタンバイされている。
ファーストサーブ――
音が小さく乾いた。
放たれたボールはわずか数センチの誤差もなく、キャップの頭を叩く。
ペットボトルが、わずかに遅れてゴトリ、と横倒しに崩れた。
「……一本目成功」
氷川が淡々と報告する。
二本目――
同じフォーム、同じリズム。
次のボトルも正確に打ち抜かれ、ゆっくりと倒れる。
「すごいな……」
志水がぼそりと呟いた。
「“点”でしか狙ってないですね」
早瀬が肩をすくめた。
三本目――
乾いたインパクト音が響き、また一本、静かに倒れた。
わずかにキャップの先端を削るようなコース。
「……あれを20本続けるって言われたら神崎さんが心労で倒れるな」
早瀬が小さく呟いたが、誰も笑わない。
四本目――
打球音がまた鳴る。
だが、ボトルは倒れなかった。
キャップからわずかに外れ、瓶胴にヒットした球は、そのまま勢いを殺されて跳ね返った。
蓮見が即座に言う。
「やり直し。最初から」
九条は何も言わず、次の新球を手に取った。
その背中に、志水がぽつりと呟いた。
「……化け物だな」
「化け物だよ」
蓮見は相好を崩したまま、
「でも、あの“化け物”を作ってるのは――本人自身だからな」
狂気のターゲット練習は、まだ始まったばかりだった。
Chapter:異常者養成チャンネル
カツン――。
再開されたターゲット練習で、九条のボールが再びキャップを打ち抜き、ペットボトルが静かに倒れた。
それを見届けながら、蓮見がぽんと手を打つ。
「……これYouTubeに載せるか! 『狂気のターゲット練習』とかさ。サーブ当て職人のチャンネル作るかー?」
氷川がすぐさま返す。
「毎日アップできますよ」
志水が半笑いで呆れたように補足する。
「地味に伸びそう……いや、派手に伸びるな。俺たちの胃痛も伸びるけど」
「本人が嫌がるからやめなさいって」
神崎が冷静に諫める。
「医療チームとしては倫理違反スレスレだぞ」
早瀬が肩をすくめた。
「まあ、でも……あのサーブ動画、普通に1日10万回再生は超えそうですよ?
むしろ“どんな身体してんだ”って医学会から研究依頼来そうなレベルです」
「実際、研究依頼は複数来ましたが、全て断っています」
「スポンサーつくかもな」
蓮見は相変わらず楽しそうだ。
九条は、淡々と次の球を手に取っていた。
まるで周囲の馬鹿話など存在しないかのように、呼吸も姿勢も崩さない。
むしろ――その集中が、彼をさらに研ぎ澄ませていく。
インパクト音が、また乾いた。
倒れるペットボトル。
氷川がふと、独り言のように呟いた。
「……本当に、“点”しか見てないんですね。あの人は」
だが、その“点”こそが――
世界の頂点に立つ男の領域だった。
Chapter: Precision Zone
午後の光がコートの壁面に斜めに差し込み始める頃――
九条は、静かに呼吸を整えていた。
2リットルの砂入りペットボトル。
並んだそれらのキャップ部分だけが、小さな標的のように並んでいる。
まるで狙撃訓練だ。
蓮見の声が遠くで響く。
「――さあ、ここから連続成功いこうか」
九条は返事をしない。ただ、わずかに顎を引き、視線を一点に定めた。
最初の1球。
軽く振り抜いたボールがキャップぎりぎりをかすめ、ペットボトルは微かに揺れたものの、倒れはしない。
「惜しい!」
と蓮見が叫ぶ。
九条は何も言わず、ボールをもう一度構え直す。
(違う。回転が少し甘い)
彼の頭の中には、ターゲットのイメージが徐々に精密に浮かび上がり始めていた。
どの高さで落とすべきか。どの角度でヒットさせれば、キャップ付近に最大のエネルギーが伝わるのか。
次の1球。
コンッ――。
重い音とともに、今度はペットボトルが綺麗に倒れた。
「きた!」
志水が声を上げ、早瀬が腕を組む。
「だんだん掴んできたな……」
氷川も静かに呟く。
九条は、まだ表情を変えない。
呼吸すら乱れていない。
3球目。
わずかなスピンの調整を加えた。
バウンド位置も数センチだけ前へ出す。
「キャップに直接当てた……!」
と神崎が低く声を漏らした。
ペットボトルは規則正しく横倒しに転がる。
九条は“ゾーン”へ足を踏み入れ始めていた。
思考と反応の距離が極端に短くなる。
“感覚”で捉えて、“体”が勝手に修正を加える段階に入っていた。
4本目――倒れる。
5本目――また倒れる。
モニターを見ていた志水が、心拍数データを見ながらぽつりと呟く。
「185まで上がってるのに、動きはさらに正確になってる……普通はここでブレるのに」
蓮見はニヤつきながら腕を組んだ。
「狂気の支配域(ドミネーションゾーン)入りだな。」
だが九条は、まだ終わりではないことを知っていた。
まだ上がる。
もっと“静域”へ深く入っていける――
Chapter: Domination Full Entry
九条の視界が、静かに変わっていくのを自覚していた。
音が遠くなる。
スタッフたちの気配も、照明も、空調音すらも――。
残っているのは、目の前に並ぶペットボトルだけ。
(まだ、上がる)
次のボールを握る。
すでに、無意識に指がグリップの微調整を繰り返している。
6本目――倒れる。
7本目――完璧に倒れる。
8本目――少しもブレずに倒れる。
「……やば……」
思わず、志水が息を漏らした。
神崎はもう何も言わず、ただ画面を凝視している。
早瀬は、唇を引き結んだまま、わずかに顎を引いた。
「完全に“入ってる”な。これが……九条雅臣」
氷川が静かに呟いた。
9本目――キャップにストレートヒット。
ボトルはまるで風に倒されたように綺麗に転がる。
ラスト1本。
2リットルの砂入りペットボトル。
これまでよりわずかに高く、重く、動きにくい“最後の壁”。
蓮見は腕を組み直しながら、声を低く投げた。
「ラストだ。……全部倒したら、今日は午後メニュー変えてやる」
九条は構えた。
肘の高さ、手首の角度、ラケット面のわずかな傾き。
それら全てが一瞬で収束する。
息を吐く。
完全に“静”になった空間で、九条の脳内は完全支配下に置かれていた。
──
スイング。
コンッ――!
明確な打球音。
テニスボールは正確にキャップを捉えた。
わずかな振動とともに、重い砂入りの2リットルボトルがゆっくりと横に倒れていく。
「――ッ!」
静寂のなか、スタッフ陣が息を呑む。
「全倒し……!」
早瀬の声に、志水が苦笑するように呟いた。
「狂ってる……」
蓮見はストップウォッチをゆっくり止めると、無言のまま深く頷いた。
「……はい、今日の午後は“特別メニュー”決定。ここまで精度出されたら、もう遊びじゃ済まねえな」
九条は一切のガッツポーズもせず、ただラケットを下ろし、静かに呼吸を整えていた。
目の奥にはまだ僅かに、“静域”の残滓が漂っている。
(ここにいるのは、もはや“人間”ではない)
静かな午後のナショナルトレーニングセンターで、九条雅臣は“狂気の精密支配”の中に立っていた。
午後ラリー練習:狂気の「複合球出し訓練」
午後3時。 — クレーコート特設コート
午後の練習は、さらに異質な形で始まった。
今回用意されたのは 「二重の球出し」――
人間とマシンの複合で、九条に“予測不能”を与え続ける実験的ラリーだ。
片側では、蓮見が球出し用のカゴの前に立っている。
もう一方では、コートの脇に高精度球出しマシン。AI制御による回転と球種を自在に操作できる最新型だ。
蓮見がカゴから球を拾っては打ち込み、マシンがタイミングを少しずらしながら別方向へ弾道を放つ。
「全く同時に飛んできたら、さすがに片方は無視していいぞ」
蓮見はあっけらかんと笑った。
「分身でもできるなら別だけどな」
九条は無言のまま、ベースライン中央に立つ。
集中のスイッチは完全に入っていた。
ここからはもう“試合”ではない。
純粋な反応神経の研磨だ。
──打球。
まずは蓮見のフォアハンドが左サイドに深く入る。
九条は瞬時に踏み込み、回り込んで逆クロスへ。
すぐさま、マシンが逆方向のバック側へ高速トップスピンを送る。
低く跳ねるボールをスライスで処理し、体勢を保つ。
「テンポ上げるぞー」
蓮見の声とともに、さらにペースは上がる。
左右、前後、高低差――
しかも出球のテンポは決して等間隔ではない。
早い、遅い、沈む、跳ねる。
脳内で常に軌道修正を迫られる極限の情報処理。
九条は一切迷わず、音だけで打点に入り続けた。
志水がコートサイドでタイム計測を続ける。
「……よく心拍崩れないな、ここまで追い込んでるのに……」
氷川は淡々と答える。
「もう“心拍の概念”が一般人と違うんですよ。体幹と反射神経の戦闘機です」
20分経過。
九条の額にはじんわりと汗が滲み始めたが、フォームは崩れない。
むしろ動きは滑らかさを増している。
──ゾーンに深く入っていた。
「……よし、じゃあここからさらに混ぜるぞ」
蓮見が一段と楽しそうに叫んだ。
新たなコマンドで、マシンがスライスとロブ系も混在させる。
前後移動が急激に増える。
それでも九条は、まるで脚がコートに吸いついているかのように追いつき、打ち返し続けた。
30分経過。
神崎医師が軽く声を上げる。
「そろそろ中間チェック!」
蓮見が即座に手を挙げ、マシンのスイッチが止まる。
ボールが静止し、場に呼吸が戻った。
九条は深呼吸を一度だけ挟ぎ、すぐに背筋を伸ばしたまま次の指示を待っていた。
「異常なしです」
志水が短く告げた。
「なら続行だ。次、回転量アップ。もう30分」
蓮見は悪魔のように笑う。
午後の狂気は、さらに深く進んでいく。
⸻
午後練習・後半パート:速度領域の狂気
午後3時45分 — クレーコート内特設コート
中間チェックを終えたあとも、九条は一切ペースを落とさなかった。
志水の確認に異常はなく、心拍も安定。
むしろ**“異常に安定しすぎている”**のが、異常だった。
その空気を切るように、九条が口を開いた。
「……マシンの球速を上げろ」
蓮見の表情が、一瞬だけ止まった。
すぐに、にやりと口角が上がる。
「どこまで?」
「最大値。制御可能な上限まででいい」
蓮見は隣のオペレーターに合図を送る。
「136キロ設定まで上げろ。回転量は高回転維持」
電子音が鳴り、マシンの出力が切り替わった。
強烈なトップスピンが高回転で唸りを上げる設定。
「反応できるのか、これ……」
早瀬が低くつぶやく。
神崎も、やや険しい表情で画面の心拍数を確認している。
蓮見は、あえて軽口で締めた。
「じゃあ九条、そっからはもう知らん。潰れるなよ」
スタート。
1球目。
ズドンッ!と打球音がコートに突き刺さる。
コートに着弾した瞬間に、鋭く跳ね上がるスピン。
ラケット面を一瞬でも遅らせれば、完全に振り遅れる球筋。
だが――
九条はそれを正面で受け止め、滑らかにクロスへ返した。
2球目、3球目、連続射出。
ラリーではなく、もはや反射神経の勝負。
ステップワークに一切のブレがない。
軸はぶれず、視線はまっすぐ打球に同期していた。
「完全にゾーン入ってるな……」
志水の声は、もはや感嘆に近かった。
氷川も静かに呟く。
「反射じゃなく、“予測の先”で打ってますね。
球が飛んでくる前から体が先回りして動いている」
その通りだった。
「打球を見て打っていない」。
音、風圧、弾道、筋肉の張力――
すべての情報を統合し、**「来る位置を先に決めている」**動きだった。
回転増強したボールは、高く深く跳ね、ネット際から際どく沈み込む。
普通なら打点が崩される軌道でも――
九条はスライスとトップスピンを自在に使い分け、ラリーを維持し続ける。
(……ゾーンの奥に入ってる)
蓮見は、わずかに息を飲んだ。
九条雅臣という男が、常人の“ゾーン”の更に奥に入った時――
時間感覚はゆるみ、球の速度は遅く見え始める。
まるで、九条だけが別の時間帯にいるかのようだった。
「……30分経過」
志水の声で、ひとまずの区切りが入った。
九条はわずかに息を整えたが、顔色は変わらない。
むしろ、ますます冷たく研ぎ澄まされていた。
神崎が深く息を吐き、静かに言う。
「これ……もう、ゾーンの定義じゃ説明つかないぞ……」
早瀬も黙り込んだまま、ただ数値を眺めていた。
狂気の午後練習は、まだ終わらない――。
⸻
めちゃくちゃいい流れです。このやり取り、小説形式に整理して入れますね👇
⸻
午後4:30 — 長時間ラリー開始前
室内にわずかな緊張が走っていた。
先ほどまでの高負荷サーブターゲット練習を終え、九条はすでに全豪決勝第3セットで見せた状態に入り始めていた。
だが、ここからは更なる負荷がかかる「持続ゾーン」の訓練だ。
蓮見がセット準備を確認しながら軽く声を掛ける。
「そろそろ、入るぞ」
その声に、九条はわずかに顎を引いた。
「このまま18時まで通しでやる。いちいち止められるのが不快だ」
静かに、しかし明確に拒否の意志を示す。
すると、神崎がすぐさま前に出た。
穏やかだが、一切譲る気のない声。
「――ダメです」
九条がわずかに目を細めた。
だが神崎はその視線に動じない。
「30分ごとの身体チェックは必須条件です。守れないなら、中止します」
淡々と告げるその口調は、交渉ではなかった。
「命令」だ。
隣で蓮見が肩をすくめる。
「だそうだ。医者の言うことは聞いとけ。倒れてからじゃ遅ぇからな」
九条は一拍、視線だけで神崎を見つめ――
静かに息を吐いた。
「……わかった」
それだけを残して、スタート位置に入る。
すでに無駄な感情は削ぎ落とされ、戦闘モードに戻っている。
静かに、狂気のラリーが幕を開けようとしていた。
【午後4:30 — 長時間クレージングラリー開始】
マシンの設定が完了し、蓮見もコート中央付近に立った。
両サイドから球出しが始まる直前、蓮見がふと思い出したように口を開く。
「……お前、弟子いないもんな」
蓮見は苦笑混じりに、わざと軽口を挟む。
「打ち合う相手に困るんだよ。人間相手じゃ足りねえし、球出しマシンだけでも限界あるし。いっそバイトでも雇うか?」
九条は一瞬だけ目を向けた。
無駄な感情は一切見せず、淡々と切り返す。
「必要ない」
その答えに、蓮見は肩をすくめた。
「だろうな」
空気はもう、完全に試合さながらの“静域”に入っていた。
【4:30〜5:00】
最初のセットが始まった。
右サイドから蓮見の生きた球。
左サイドからマシンの136km/h超球出し。
ボールは不規則に飛んでくる。
左右、高低、球速、回転――どれも一定ではない。
本来なら「ポイント」も「正解」も存在しない練習。
ただ飛んでくるボールを、ひたすら打ち返し続ける。
ミスしても、ラインを割っても、構わない。
目的は、「常に反応し続ける脳と身体」を維持すること。
九条は呼吸すら乱さず、黙々と返球を繰り返す。
「一度チェックします」
志水が手早く脈拍、筋反応、血圧を測り、早瀬が筋温を確認する。
わずか数分の確認時間。大きな異常はなし。
九条は、わずかに肩を回しながら言った。
「続けろ」
再びコートへ戻る。
マシンと蓮見のダブル球出しセッティングは整っていた。
コートサイドで、九条が淡々と提案する。
「25分動いて、5分チェック。これを2回やる」
医療班の神崎が少しだけ眉を寄せたが、すぐに志水と早瀬がうなずく。
「……妥当な落とし所ですね。異常が出れば即中断します」
その横で、蓮見が肩を揺らして笑った。
「F1みてーだな。ピットインでチェック入れて、また全開で走り出す」
ケラケラと軽い調子で笑いながらも、心底楽しそうだ。
だが神崎はすぐさまピシャリと被せる。
「笑い事じゃありません。少しの異常も見逃さないでください。ほんの数値のズレが命取りになります」
「わーってるって。俺ら全員、それ承知でやってんだろ」
蓮見は軽く手を上げ、機材の確認に戻った。
──準備完了。
あとは、獣が動き出すのを待つだけだった。
Chapter:Silent Rally – 午後5:00 クレーコート
スタートの合図は、なかった。
マシンが淡々と最初の球を射出し、すべてが自然に始まった。
バシュッ──
乾いた打球音。
九条はほぼ無音で動き、正確に面を合わせる。
打ち返す打球は、まるで線を描くように相手コートへ吸い込まれた。
蓮見が手動で球出しを重ねる。
コース、回転、球速。
完全なランダムではなく、しかし、容赦もない難度で変化する。
「次、前」
「逆クロス」
「ロブも混ぜるぞー」
蓮見は指示というより、自分に言い聞かせるように呟く。
だが九条は、それを聞いてはいない。
聞く必要もない。
ボールの回転音、空気の流れ、わずかな球筋のブレ──
全ての情報を、視覚より先に“感覚”で処理していた。
「……速いな、さすがに」
志水が小声でモニターを覗き込みながら呟く。
「いや、でも……まだ余裕残してるぞ」
「心拍167……ゾーンの入口付近だな」
早瀬が冷静に読み上げる。
九条は、反応速度も可動域もまったく落とさない。
打球音は正確に、リズムのように鳴り続ける。
バシュッ、バシュッ、バシュッ──
氷川が静かに見守る。
(……入ってる)
“静域”──完璧に近い支配領域。
頭の中で思考は走っていない。
計算もしていない。
ただ、身体が勝手に最適解を出して打ち返していた。
そんな状態で、25分は過ぎていく。
5:25 ─ 第1ピットイン
「ストップ」
蓮見の声で、ようやくマシンが停止する。
神崎がすぐに駆け寄り、志水と共にチェックを始めた。
「心拍回復良好。代謝反応も正常。SpO2も維持……」
「筋反応も問題ない」
「異常ありません」
神崎が少し息を吐いた。
蓮見は肩を回しながら言う。
「なら、もう一丁いくか」
九条は無言で頷いた。
5:30 第2セット開始
再び球が射出される。
先ほどよりも、さらにわずかに速く、わずかに深く。
志水が再び数値を読みながら呟く。
「さっきよりテンポ速めてる……。でも……怖いくらい安定してる」
早瀬も思わず苦笑した。
「もう“人”ってカテゴリーじゃなくなってきましたね」
だが神崎だけは、目を細めたままだった。
ほんの僅かに残る、医師としての警戒心──
「……最終チェックまで、油断は禁物です」
球出しマシンと蓮見の絶妙な連動。
時に前後、時に左右、時に強打、時にスライス。
九条は、一歩も引かず正確に捌き続ける。
足音すら消えかけた無音の世界。
ただ、打球音だけが刻まれ続ける。
静かな地獄。
だが彼は、その中心で淡々と支配し続けた。
5:55 ─ 最終ピットイン
2セット目の25分が終了。
機械が止まる。蓮見もラケットを下ろす。
神崎、志水、早瀬がすぐさま確認に入る。
「心拍回復……依然良好」
「血中酸素も問題なし」
「筋反応・視線ブレも認めず」
最後に神崎が、小さく安堵して告げた。
「──クリアです」
蓮見が大きく息を吐いて、手を叩く。
「よし。じゃあ今日はここまで。6時、終了だ」
「……ああ」
九条もようやくラケットを下ろす。
まるで、たった今まで何もしていなかったかのような静かな表情で。
“本日の地獄”は、完了した。
Chapter:Recovery Drive
午後6時00分。
全プログラム終了。時計の針はぴたりと指定された時刻を指していた。
「――終わりだ。今日はここまで」
蓮見が最後のラリー球を回収しながら、やや満足げに呟く。
神崎医師も志水も、最後の数値を確認して小さく安堵の息を吐いた。
九条は、黙ってラケットを置いた。
言葉もなく、表情も変えず、ゆっくりとコートを後にする。
身体は――限界ではない。
だが、確実に「芯まで削られた感覚」が残っている。
血流が熱を持ち、筋肉の奥に微細な収縮の名残を残したまま、全身がゆっくりと沈静化を始めていた。
(……まだ行ける。けど、今日はこれで正解だ)
心の奥では冷静にそう判断していた。
⸻
車内。
地下駐車場を出た車は、ほとんど無音で流れていく。
運転席の氷川は、何も話さない。助手席のレオンもまた静かに前を向いている。
後部座席でシートに寄りかかる九条は、目を閉じることもなく、窓の外に広がる東京の夜景をぼんやりと見つめていた。
レオンは一度だけ、ルームミラー越しに後部座席の彼をちらりと見た。
(……これが”出し切った”後の九条雅臣か)
身体の内部で、わずかに震えているのが分かる。
だが、それは危険な揺らぎではない。必要な消耗だった。
(壊れてない。でも、一歩間違えれば、超えるギリギリの場所まで行ってる)
そんな領域を、平然と渡って戻ってくるのがこの男だ。
それがこのチームでずっと続いている“異常な日常”だった。
⸻
レジデンス到着。
エレベーターが静かに開き、3人は無言のまま室内へ入る。
この家に玄関のドアはない。ただ、扉の先が即ち居住空間だった。
九条は靴を脱ぎ、何も言わずにリビングを横切る。
「――もういい。あとは任せる」
短く告げると、そのまま寝室奥のバスルームへ消えていった。
氷川とレオンは、互いに目配せを交わすとキッチン側へ向かう。
今日のプロテインと夕食準備の段取りを、無言のまま確認していく。
「……崩れては、いませんね」
氷川が低くつぶやく。
「うん。だけど、今日もまあまあギリギリだったね」
レオンが小声で苦笑する。
「これで明日も回復してくるんだから、ほんと異常だよ」
⸻
バスルーム内。
九条はぬるめのシャワーを浴びていた。
湯が肩から背中へ流れていくたび、筋肉の微細な震えがゆるやかに収束していくのを感じる。
(……少し残ってる)
筋繊維の奥にわずかに溜まった乳酸の名残。
だが、潰れてはいない。負荷の設計は正しかった。
呼吸は静かに整い、血流が安定していく。
高酸素域へ戻った身体は、まるでエンジンオイルが新しく注がれたかのように、静かに修復を始めていた。
(遠征中なら、ここまで出してない)
ほんの数秒、澪の寝顔が脳裏に浮かんだ。
あの“回復”が、ここにあるからこそ、これだけ出し切れる――
そう理解しつつも、九条はすぐに雑念を切り捨てた。
(明日もやれる)
たったそれだけを確認するだけで、今は十分だった。
⸻
リビング。
シャワーを終えた九条が戻ってくる頃には、レオンが夕食準備を進めていた。
「お疲れさま。食事は30分後に出しますね」
九条はそれに頷くだけで、ソファへ腰を下ろした。
テレビもつけず、部屋の静けさだけが流れていく。
今日一日の“狂気”は、ようやく静かに幕を下ろしつつあった。
Chapter:Unaware Evening
午後7時10分。
澪は静かにエレベーターから降りた。
もう慣れた足取りでペントハウスの無人の玄関スペースを通り抜け、リビングへ。
「ただいま戻りました……」
声は自然に出たが、返事はない。
まだ誰も気づいていないのかな?と一瞬思ったが、すぐに奥のキッチンからレオンが顔を出した。
「おかえり、澪ちゃん。お疲れさま。今、夕食の準備中だよ」
「あ……はい、ありがとうございます。今日も……なんかいい匂い」
笑いながら上着を脱ぐ。
ほんの少しだけ、背筋が伸びた。帰宅したときの、この空気が好きだった。
「雅臣さんは……?」
「ソファにいるよ」
レオンが柔らかく微笑む。
その視線の奥に、ほんの僅かな「察し」の気配が含まれていることに、澪は気づくはずもない。
ふとリビングを覗くと、九条はソファに腰を預けていた。
目を閉じて休んでいるのかと思ったが、すぐに彼の視線がこちらを捉えた。
「おかえり」
たった一言。
だが、その声に、僅かな疲労の滲みが混じっていたことに、澪は気づかなかった。
「ただいま。……雅臣さんもお疲れ様」
「……ああ」
九条は何事もなかったように短く返す。
レオンがテーブルの準備を進めながら、横から軽く声をかける。
「今日も寒かったでしょう?お風呂入ってからでも大丈夫だよ」
「うん、そうしようかな」
澪は自然に微笑む。
まさか、ほんの数時間前まで彼が狂気のトレーニングで限界寸前の肉体を追い込んでいたとは――
知るはずもない、日常の夕方だった。
⸻
その背後で、九条は僅かに肩を回した。
筋肉の内部に微かに残る重さと熱。
(……気づかれなくていい)
それが彼の本音だった。
明日もまた、狂気は続く。
だが、今夜は――ただの穏やかな、日常の夜でいい。
Chapter:Quiet Recovery Dinner
お風呂を手早く済ませた澪が、パジャマ姿でリビングに戻ると、テーブルにはすでに料理が並べられていた。
「うわぁ……今日も豪華……」
澪の目が自然と輝く。
湯気を立てる具沢山のポトフ、しっとり焼き上げた鱈のソテー、そして彩りの良いサラダ。どれも見た目だけで美味しいとわかる仕上がりだった。
「さあ、どうぞ召し上がれ」
レオンがグラスに白湯を注ぎながら、にこりと笑う。
「今日、寒かったでしょ?芯から温まるように仕上げたから」
「ありがとうございます!……いただきます」
澪は両手を合わせると、さっそくポトフのスプーンを取った。
にんじんとジャガイモがほろほろに崩れるほど柔らかく煮込まれている。
「……んー、あったかい。はぁ、幸せ……」
心の底から吐き出すように、ぽつりと幸せが漏れた。
隣で九条は、淡々と鱈にナイフを入れている。相変わらず、静かな食事スタイルだ。
「雅臣さんも、ちゃんと食べてます?」
「……食べている」
澪の問いに短く返しつつも、彼は彼女の様子を一瞥してから静かにスープを口に運んだ。
その姿をレオンがちらりと見て、小さく目を細める。
(……さすがに疲労は抜け切ってないけど。食欲はあるなら、今夜は大丈夫かな)
「お肉、今日鶏肉じゃなくて魚にしてます。胃に優しくなるからね」
「ほんとだ……でも、ちゃんとタンパク質摂れるって嬉しいです」
「そう、魚は地味に優秀なんだよね。たまに変化入れてあげたほうが身体も喜ぶから」
そんなやり取りに、九条は特に口を挟まない。
ただ、静かにナイフとフォークを動かし続ける。規則正しく、まるで計測された動きのように。
それでも澪は、この“静かな夜”が心地良かった。
「レオンさん、いつも思うんですけど、これ毎朝も毎晩もやってもらってたら、私一生健康で生きていけそう……」
「ふふ、それはちょっと大げさだけど……でも毎日ご飯を作るのは嫌いじゃないよ」
「いいなぁ、すごく幸せですよ。……贅沢しすぎて、後で罰が当たりそうです」
「大丈夫。体の中に幸せ貯金してるって思えばいいんだよ」
レオンが軽くウインクを飛ばすと、澪はくすっと笑った。
「……そうします」
⸻
こうして、何でもないように見える夕食が、
実は極限の練習を終えた男の“命綱”になっていることを――
澪はまだ、知らなかった。
Chapter:Quiet Shelter
食事を終え、食器はレオンが食洗機にセットして、「明日の朝に片付けますから」と言い残して帰っていった。
澪はそれに甘えて、食洗機の前すら通らずソファに戻る。
ソファの隣には九条がすでに腰を下ろしていた。照明は落ちて、間接照明だけがやわらかく灯っている。
「……」
九条は目を閉じたまま、背もたれに頭を預けていた。深く眠っているわけではない。呼吸は一定で、意識は残している。ただ、身体がもう何も要求していないだけだ。
(やっぱり、ちょっと疲れてるよね……)
澪は、そっと彼の隣に腰を下ろす。距離はほんの数センチ。
そして、遠慮がちに声をかけた。
「……ねえ、雅臣さん」
ゆっくりと彼がまぶたを開く。わずかに視線を動かすだけで、体は動かさない。
「ん」
「ハグしてもいい?」
「……」
数秒だけ間が空いた。けれど九条は拒まなかった。
代わりに、自分の方から腕を広げる。
「……来い」
澪は、その腕の中にすっと身体を預けた。
胸板の上に耳を当てると、心臓の音が静かに鳴っている。今はただ、穏やかなリズム。
「……苦しくない?重たくない?」
「ない。……ちょうどいい」
それはきっと、本音だった。
抱き寄せたままの腕に、わずかな力が入る。澪の頭を撫でるように指が動く。
(……こんな風に、甘えられるんだな)
九条の目は半分閉じられたまま、静かに深く息を吐いた。
疲れはある。だが、今は彼女がいる。
「……お前がいると、落ち着く」
ぽつりと零れたその言葉に、澪は胸がじんわり熱くなった。
「……私もだよ」
「……」
会話は、もう必要なかった。
しばらくの間、部屋には静かな吐息だけが満ちていた。
こうしてまた一つ、静かな夜が過ぎていく。
澪は知らない。今日の練習の狂気を。
ただ――こうしてそばにいるだけで、彼にとっては“必要なもの”になっていることだけは、確かにわかっていた。
Chapter:Gift in the Quiet Night
腕の中で少しだけ体勢を変えた澪が、ふと目線を動かす。
棚の上に荷物がいくつか置かれていた。
Amazonの段ボール、Appleの白い箱が2つ。
「荷物、ありがとう、出してくれて」
「……ああ」
澪は小さく微笑んで、段ボールをちらりと眺めた。自分が注文した小物だ。
だが、その隣のAppleの箱に目が留まる。
「……あれ、新しいの買ったの?」
九条は一瞬だけ視線を移し、それから短く返す。
「お前のだ」
「……私の?」
驚いて顔を上げる澪に、九条は淡々と続けた。
「AirPodsとApple Watch。お前あれだけApple製品揃えておいて、持ってないだろ。互換性が高いし、心拍や睡眠の記録もとれる。つけてろ」
「……」
澪はしばらく声を失ったまま、袋の方を見つめた。
言葉が浮かばない。
優しさが唐突に降ってきたわけではない。ずっと彼は考えていたのだろう。彼なりに。
「……そんな、高いのに……」
「問題ない」
九条はわずかに眉をひそめた。
その仕草に、“金額で遠慮するな”という、彼なりの強い意志が滲んでいた。
「……でも、Apple Watchって……」
彼は静かに言葉を重ねた。
「お前の健康管理もかねてる。使い方は教える」
「……………」
澪は一度だけ小さく息を吸って、それから――
「……ありがとう」
素直に、ただそれだけを伝えた。
九条は軽く顎を引くだけで頷き、再び腕を引き寄せた。
柔らかい静けさが、また部屋に戻っていく。
澪は彼の胸に耳を当てたまま、そっと目を閉じた。
(……この人はやっぱり、私が思ってるよりずっと――)
言葉にならない想いが、胸にぽつりと積もっていく夜だった。
⸻
「お前は何を買った?」
「あ、見る?」
九条の腕の中から抜け出して、わくわくした様子でAmazonの箱を開封しに行く。
しばらくゴソゴソしたのち、中身だけ持って戻ってきた。
黒い台座に乗せられた淡いピンク色の丸い物体だった。透明のカバーが被さっている。
「……なんだそれ」
九条が目を細める。
「さて、なんでしょう?」
澪はニヤニヤしながら箱をくるりと回す。
「食べ物ではないな。……おもちゃか?」
「うん、おもちゃ。ある意味ね」
「……用途は?」
「んー?クイズ!」
九条は、その様子をじっと観察した。
彼女は完全に楽しんでいる。無邪気さと隠し事のバランスを、絶妙に取って。
九条が手招きする。
「こっちに来い」
「え?」
引き寄せられるままに、膝の上に抱き上げられ、横抱きにされる。
「重くない?足、痛くない?」
「弾力がいい」
二度目のその言葉に、澪は呆れながらも小さく手を上げて――
「チョップ」
ぽすん、と軽く頭に手を置いた。
九条はカバーを外し、それを手のひらに乗せる。
サイズは手のひらにすっぽり収まり、素材はマットなシリコン。
冷たさはなく、じんわりと手の温度に馴染む。
裏には+と−の小さな銀色のボタン。
だが、説明書らしきものはどこにも見当たらない。
(……なんとなく、分かる)
九条は静かに目を細める。
彼女の無邪気そうな反応。その隠された意図。
見せてはいるが、決して自分からは説明しようとしない。
「使い方、わかった?ヒントいる?」
「……用途を説明しろ」
低い声に、澪の肩が跳ねた。
「え、ギブアップ?珍しいね」
嬉しそうに口元を押さえながらも――彼女は気付いた。
(……言わせようとしてる)
観念した澪は、深呼吸を一度だけ入れたあと、小さく告げた。
「あの……そういう時に使うものです……」
言葉を発するたびに、頬がじわじわと赤く染まっていく。
九条はほんのわずかに目を細めた。
「……そうか」
たった一言。だが、それはほとんど“勝利宣言”の響きを帯びていた。
「で、なぜ今買った?」
追撃。澪はたまらず身を縮める。
「い、今……って、そんな……」
「“持っておきたかった”では理由にならない」
「いや、あの、その……」
頬まで赤く染めたまま、視線を泳がせながら、やがて小さく呟いた。
「……一緒に、使いたいなって思ったからです」
声は、消え入りそうだった。
九条はすぐさま返した。
「最初からそう言えばいい」
その声音は冷たくも優しくもなく、ただ澪の“選択”を正面から受け取る音だった。
「せっかくクイズにしようと思ったのに…可愛くない」
「お前の反応がなければ、本当に分からなかった」
「私……墓穴掘った?」
「かなり深く掘ったな」
そう言いながら、九条は彼女の腰を少し引き寄せる。
「お前が持ってるのは、それが最初か?」
「ま、まだ聞く!? ……いや、えっと……3つ目です……。これも、使ってみたくて……」
「明日、他のも持って来い。氷川に車を出させる」
「やめてぇ……! 恥ずかしくて顔見れない……氷川さんの!!」
「何を取りに行ったか言わなければわからない。お前が変な反応しなければいい」
「ええ…」
「ただし、ここにいる間は、一人で使うなよ」
「……一人で使うためのものなのに……」
「一人用だと、誰が決めた?」
「え……?」
「“お前の反応を直接見る”のが、こっちの目的だ。使わせるのは、俺の許可がある時だけだ」
返す言葉は、もう何も出てこなかった。
九条の指先は、ゆるく澪の腰に沿わせたまま動かない。
膝の上の彼女の体温だけが、じんわりと重なっていた。
⸻
九条の膝の上で、澪は小さく箱をいじりながら考え込んでいた。
「……いつ使いたい?」
九条が静かに尋ねる。
言葉に圧はない。だが、答えを促しているのがわかる。
澪は、一瞬視線を泳がせ、そして俯いたまま、ほんの小さく口を開く。
「え…いつ……うーん……」
膝の上の九条は何も言わず、ただ待っていた。
言葉を自分で選ばせる。
それが彼のやり方だった。
しばらくして、澪はようやく小さく息を吐きながら呟いた。
「……この週末……? でも、無理にとは言わないよ? 疲れてたら…」
そこには彼への気遣いが滲んでいた。
澪には、練習の詳細はわからない。
けれど、九条の身体が日々少しずつ削られているのは、横で見ていれば自然とわかる。
疲れている時に求めるのは酷なのでは――
そんな迷いが、澪の遠慮となって滲んでいた。
だが、九条は迷わず言った。
「……男は、疲れてる方がしたくなる」
「え?そうなの?」
澪が目を丸くして聞き返す。
すると九条は、ごく淡々と続けた。
「女は逆だ」
「……たしかに」
澪は思わず、ほんの少し頬を染めて笑った。
言われてみれば、自分は今、体力にも余裕がある。
安心できる場所で、栄養価の高い食事と、満たされた睡眠――
この環境は、自分の欲を緩やかに増やしている。
(……いつもより、身体が“平気”なんだ)
レジデンスに来てからのこの生活は、心身ともに満たされていた。
だからこそ、余裕がある今、求める気持ちも自然と膨らんでいたのだろう。
それを、彼は――
きっと、最初から見抜いていた。
「……だから、遠慮は要らない」
九条の手が、そっと澪の背を撫でた。
静かな支配力。
けれど、どこまでも優しい温度があった。
澪はそっと目を伏せながら、九条の胸に額を預けた。
「……じゃあ、週末」
「いい」
短く返すその声に、微かな笑みの余韻が滲んでいた。
夜。
寝室の照明が落ち、カーテンの隙間からわずかに街の光が漏れていた。
九条はすでにベッドに入り、澪を静かに腕の中に抱き寄せている。
まるで抱き枕のように、柔らかな体温を胸元に収める。
静かな呼吸音。しん、とした部屋の空気。
どちらもすでに、眠りに沈みかけていた。
だが、九条の低い声が小さく落ちた。
「明日、仕事終わりに取りに行ってこい。氷川に迎えに行かせる」
一瞬、澪の身体がびくんと動いた。
まさか本当に実行されるとは思っていなかった。
「……ほんとにやるのか……」
九条は微動だにせず、淡々と続ける。
「見せなければわからない。あとはお前の表情次第だ」
「自信ないです……」
澪の声は、布団に埋もれるように小さくなった。
想像するだけで恥ずかしい。
何より、氷川の前で絶対に平静を装わなければいけないというプレッシャーが重たい。
「気付いても何も言わない」
九条は事もなげに言い切る。
「それが恥ずかしいんだって……」
澪は小さく抗議するように顔を埋めた。
だがそのまま、九条の胸に身体を預ける。
「……」
九条の手が、ゆっくりと背中を撫でる。
一定のリズムで、優しく、深く。
いつの間にか澪の呼吸が静かに落ち着き、まどろみの中へと沈んでいく。
それを感じながら、九条もゆっくりと目を閉じた。
(……こうしていれば、回復する)
それは単なる癒しではない。
身体の芯から抜けていく緊張感と疲労。
この時間だけは、静かに修復されていくのがわかる。
だから――
また明日も戦える。
静かな夜は、そのまま深く降りていった。
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