48.1月31日 Side:九条

1月31日 昼(九条視点)

目を開けたとき、寝室の時計は12時を回っていた。

静かな部屋。カーテン越しに届く冬の光が、床に淡く影を落とす。

――あいつ、もう出たか。

澪がいないことは、ベッドの隣の冷たさで分かった。

ナイトテーブルの上に伏せていたスマホを手に取る。

画面には、新着メッセージの通知がひとつ。

『今日、仕事終わってから直接そっちにいっていいですか?』

澪からのiMessage。

まぶたを閉じ、ひと呼吸置いて、短く指を動かす。

「いい」

それだけ打ち込み、送信。

返事は必要ない。読めば分かるはずだ。

体を起こし、ベッドから抜け出すと、スマホで氷川に連絡。

余計な指示は要らない。ただ短く済ませる。

送信を終えると、頭を少し押さえた。

昨日は結局、彼女を寝室に入れた。

今まで、絶対やらなかったことだ。

女を泊めたとしても、ゲストルーム。

寝室は誰の物でもない、自分の空間。

――自分の部屋に他人を泊めることはなかった。

過去の失敗。

まだ若かった頃、寝顔を勝手に撮られた経験がある。

それ以降、女性を泊めるなんてあり得なかったし、外で会って終わりにするのが当たり前だった。

だから澪を自分の寝室に入れたこと自体、例外中の例外だった。

(……あいつは、そういうことをする奴じゃない。)

胸の奥に小さな理由を置くように、視線をそらす。

そのとき、スマホが短く震えた。

氷川からのメッセージ。

『化粧品類、もし彼女が持ち込んだものがあれば、写真を撮って送ってくれると商品の調達に助かります。肌や髪質がわかるので。』

……。

無言のまま画面を見つめた。

澪のスキンケア用品は、ゲストルームの洗面台に並んでいるはずだ。

正確に何を使っているか知っていれば、同じもの、もしくは上位品を揃えることができる。

論理としては分かる。確かに効率的だ。

けれど。

(……勝手に撮るのか?)

一瞬、眉間に小さな影が落ちた。

あいつが寝ている時、隣で勝手に写真を撮られたらどう感じるだろう。

いや、それ以前に、自分が人の持ち物を撮影して送るという行為に、嫌悪感が走った。

昔を思い出した。

若い頃、寝ている姿を勝手に撮られたあの日。

笑いながら「友達に見せた」と言われたときの、あの冷え切った感覚。

挙げ句の果てにはSNSで自己顕示の道具として使われた。

その時、自分がどんな表情をしていたのか、記憶すら曖昧だ。

それほど、感情を凍らせた瞬間だった。

それを――今、自分がやるのか?

指が、スマホの画面の上で止まった。

ほんの数秒、微かな逡巡。

そして、打ち込んだ。

「不要だ。用意は任せる。」

――それで済む話だ。

氷川ならきっちりやるだろう。

ベッドの背にもたれ、ひとつ息を吐いた。

澪のものに、勝手に手を伸ばすのは違う。

それをするぐらいなら、氷川に任せきりにした方がいい。

(……それでいい)

リビングに向かいながら、心の奥でふと小さく思った。

(今日は……直接、帰ってくるのか。)

その想像が、どこか胸に熱を灯した。

ほんのわずか、だが。

1月31日 昼(氷川視点)

スマホの画面に、九条からの短い返信が表示された。

『不要だ。任せる。』

「……はいはい、そうくると思った。」

氷川は小さく肩をすくめ、苦笑した。

ゲストルームにある化粧品類の写真を送ってくれれば、

肌質や好みが分かるから助かる――そう伝えたのに、丸投げされるのは目に見えていた。

「まあ、だよな。」

彼は立ち上がり、タブレットを手に取る。

指先が素早く画面を滑り、百貨店のラグジュアリーフロアの担当者のリストを呼び出した。

「さて、お姉さま方の出番です。」

彼は営業担当たちと築いてきた独自のネットワークを持っていた。

百貨店、美容サロン、ブランド店舗――九条のプライベート用に何度も動いてきた信頼できる相手ばかり。

さっそく電話をかける。

『もしもし、氷川です。ええ、いつもお世話になっております。』

穏やかな声色。

表情は落ち着いているが、内心はすでに全方位計算を始めていた。

『はい。今回は女性用のバスアメニティとスキンケア一式をお願いしたいんです。ええ、こちらの手元には直接のサンプルがないので……そうです、現場はシティレジデンスの方。』

相手の声が受話器越しに弾む。

――任せてください、彼女の雰囲気や年齢層、肌質、髪質はだいたいどのくらいですか?

――持ち物のブランド傾向は?

――敏感肌か、乾燥肌か、脂性肌か、それとも混合か?

氷川は資料用ノートをめくり、現場の簡単なメモを書き留めた。

(持ち込みの化粧品ブランドは……分からない。ラベルを見れば即分かるほど詳しくはないし、現場の写真もない。……ただ、分かるのは、彼女自身が「丁寧に手入れされている」という事実だ。)

髪質は柔らかく、しっとりと艶がある。

肌は薄化粧でも透明感があり、荒れやくすみが目立たない。

(つまり――食事、睡眠、生活リズム。日常の基盤で、肌と髪を保ってるタイプだ。)

高級ブランドの化粧品は使っていない。

でも、それは嫌いだからではなく――おそらく「自分で買わないだけ」だ。

(効果があって、信頼できるものなら、ちゃんと使うタイプだな。要は、コスパ重視の堅実派。)

氷川は頷き、メモに線を引いた。

(なら、今回の調達品は――ブランド偏重じゃなく、効果重視の高級ラインを揃えるべきだ。

百貨店の姉御たちなら分かるはず。)

スマホを手に取り、またも百貨店の美容部門に連絡を入れた。

『追加でお願いします。ナチュラル系を普段使ってる人向けに、ラグジュアリーでも嫌味のない、

使用感が優れてるアイテムを優先で。』

『了解です!任せてください。』

電話越しに、熟練の美容部員の頼もしい声が響く。

氷川は小さく笑った。

(……ほんと、ありがたいな。)

九条の横暴さに苦労する日々ではあるが、こういうプロたちと組めるのは、彼に仕えているからこそ。

(あとは――爪だ。)

澪から旅行鞄を受け取った瞬間、氷川の目は自然と彼女の指先に向いた。

ナチュラルネイルの手元。

この年代の女性には珍しく、ジェルネイルをしていない。

だが、ただ素のまま放置しているわけではなかった。

(……甘皮が乾燥してない。爪の形が完璧に左右対称、長さも全指揃ってる。

セルフケアでここまで整うことは、まずない。)

つまり――彼女はネイルサロンに通っている。

ジェルやアートを載せる装飾目的ではなく、

「ケア目的」でプロの手を借りて、ナチュラルネイルの美しさを維持している。

真冬なのに手が全く乾燥してないということは、特別なケアをサロンや自宅でも行っている。

(派手なものを好まない。けれど、ケアには人一倍お金と時間をかける。自分の身を“丁寧に扱う”タイプだ。)

氷川は、内心で小さく頷いた。

(本質的に、外見で飾り立てるタイプじゃないんだ。でも――土台にはきちんと投資する人間だ。)

そういう人は、与えられた高級品も素直に使いこなす。

ブランドに踊らされず、効果を重視し、必要ならちゃんと取り入れる。

百貨店の美容部員たちには、このポイントもきっちり伝えておこう。

「……氷川さん?」

後ろからスタッフが声をかけてくる。

「少し聞きたいんですが、先ほどの調達リスト、香りの系統は――ああ、ナチュラル志向。華美すぎないラインでまとめてくれ」

(服装もだ。)

澪の服――決して高いブランド物ではない。

タグやロゴに見覚えはないし、旅行バッグだって、

どこにでも売っているようなスポーツブランドの丈夫なものだった。

バッグもブランド品じゃない。

けれど、どれもきちんと手入れされている。

(清潔感がある。色味も、季節感もちゃんと揃えている。

安くてもフォーマルに見えるものを選んで、“ちゃんとした人”に見える努力をしている。)

彼女は、ネームバリューに惹かれるタイプじゃない。

高級ブランドで「分かりやすい優越感」を得たいわけじゃないし、人目を意識して背伸びするタイプでもない。

Sunreefの販売担当をしているという収入クラスの割に、生活レベルが質素だ。

(……堅実な範囲で、最大限きれいに整える。それが、この人の流儀なんだ。)

つまり――

(与えられた高級品は、戸惑いこそすれ、毛嫌いはしないだろう。ただし、過剰に押し付ければ“怖がらせる”。)

氷川は頭の中で、慎重にライン引きをした。

澪は、根がしっかり自立している。

だからこそ、今回のような特別扱いを「好意」として受け取れば、きっと心を揺らすだろう。

澪が持ち込んでいるもの、服、化粧品、髪や爪の手入れ――

どれを取っても、丁寧で、まっすぐだ。

この女は、“持たされたもの”ではなく、“自分で選んだもの”で生きている。

氷川は深く、静かに息を吐いた。

(……正直、手がかかる。)

九条だけでも胃が痛いというのに、また一人、手のかかる人間が増えた。

綾瀬澪。

見た目は控えめで、穏やかそう。

あまり主張しないタイプに見える。

だが――

(“扱いが難しい”女だ。)

まず、徹底した自己管理。

肌も髪も、爪も、服も――

どれも整っていて「自分で手をかけ、選んでいる」感覚が強い。

こういうタイプは、睡眠や食事のペースを乱されると、急激に機嫌を損ねる。

食事の栄養バランスにも敏感で、揚げ物やジャンクフードを勧めようものなら、内心では強く拒絶するだろう。

(根が繊細なんだ。)

しかも、好奇心が強い。

何にでも疑問を持ち、掘り下げる。

それでいてネガティブ思考にも触れやすい。

単純に物を与えて喜ばせればいい、という相手じゃない。

下手に手を出せば、心を閉ざされる。

(……見方によっちゃ、“女版の九条雅臣”だな。)

だから、対応の仕方は分かる。

九条にするのと同じだ。

急かさない、押さない、遮らない。待つ。必要なものを揃えて、相手が使うかは任せる。

管理を手放させようとしたら駄目だ。

(……あー……やれやれ。)

氷川は思わず、胃の奥を押さえた。

(なんで俺は、こういうタイプばっかり相手にしてるんだ……)

午後。百貨店からの配送が、シティレジデンスの地下搬入口に届いた。

氷川は配送スタッフと簡単なやり取りを交わし、自分の手で内容を確認する。

「さすが、抜かりないな……」

箱の中には、百貨店側が選定したスキンケアセット、ヘアケア、ボディケア用品がずらり。ナチュラル系ブランドを中心に、香りやテクスチャの違いでいくつかバリエーションを揃えてある。高級ラインではあるが、嫌味な派手さはない。

(使うかどうかは、彼女次第。けど、用意がないのは論外だ。)

九条はジムに行っているので、室内にはいない。この間に全ての清掃とセッティングを済ませる。

栄養士のレオンのために食事の材料も搬入させた。

現場スタッフに指示を出し、ゲストルームのバスルームと洗面、キッチンの冷蔵庫内にこれらを整えてもらう。

バスローブやタオルも一新、ベッドリネンもフレッシュなものに交換。室内全てを完璧にクリーニング。

全て、彼女が「安心して帰って来られる空間」に作り変える。

「……よし。」

控えめに頷き、氷川はスマホを取り出した。

『調達完了、配置済みです。』

短い報告を送信。

返信は、やはり短い。

『了解。』

氷川は内心で小さく笑った。

(こっちは胃が痛くなる思いでやってるのに、そっちは一言かよ。)

けれど、不思議なもので、こういうやりとりを繰り返してきた年月が、信頼になっていることも分かっている。

(……さあ、あとは本人たちの問題だ。)

レジデンスを後にし、夜の街を歩きながら、氷川は深く息を吐いた。

「……はぁ。」

肩の荷が少しだけ降りたはずなのに、胸の奥には不思議な感覚が残っていた。

(ほんと、厄介だな、あの2人。)

九条雅臣。

世界一のプレーヤー、完璧主義、支配者気質。

人を信用しない、無駄を嫌う。

そして――綾瀬澪。

控えめで、穏やかそうに見えるが、内面は繊細で複雑。

相手に簡単に心を許さない、自分のペースと信念を大切にする。

(お互い、難易度が高い人間だ。)

普通なら、片方が相手に飲まれるか、すれ違って壊れていくだろう。

でも――この2人は、そうならないかもしれない。

氷川の口元が、かすかに緩んだ。

(……少し、先が楽しみになってきた。)

仕事は仕事。

余計な感情は持たないのがプロの流儀。

けれど、人間として、どこかで興味を持ってしまう。

(あの2人が並んで進む未来は、どんな形になるんだろうな。)

夜風が吹き、コートの裾を揺らした。

氷川は胸ポケットからスマホを取り出し、スケジュールアプリを開く。

明日も朝から仕事だ。

(……さあ、帰って休もう。胃薬も忘れずにな。)

小さく笑い、氷川は足を速めた。

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URB製作室

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