42.気持ちのやりとり

言葉に宿る迷い

食事が終わった。

重箱の中には、もうほとんど何も残っていない。

「ごちそうさまでした」

手を合わせてから、お箸をそっと箱の上に戻す。

九条さんは何も言わなかったけど、完食していた。

淡々とした動作だけど、ゆっくり時間をかけて食べていた。

ただの“栄養摂取”とは違う、“行為としての食事”だったのかもしれない。

それだけで、少し安心した。

この人にも“食べる”という動作に、意味を持たせる瞬間があるんだと思えたから。

私は、重箱を重ねて片付けた。

布で包んで、エレベーターがある部屋まで持って行こうとした。

その瞬間、横から声が来た。

「いい。置け」

その一言に、動作が止まる。

——え?と思って顔を上げると、彼はテーブルから視線を外さず、微動だにしていなかった。

それでも、“もう下げるな”という意志は伝わってきた。

誰かが回収しに来てくれるのだろう。

仕方なくそのままにしておいた。

少し間が空いた。

沈黙。

時間は、20時。

私はコップの水を飲み干し、椅子から立ち上がった。

「……じゃあ、今日はそろそろ――」

そう言いかけたところで、

「まだ帰るな」

その声に、動作が止まった。

食事前とは違っていた。

今度は、“命令”ではなかった。

どこかに、迷いと、言い淀みがあった。

私はその場で立ち止まる。

この時間で帰るな、ってどういう意味?

それを聞いたら、この人は答えられるんだろうか。

どうしたい?という問い

「……だったら、何をすればいいですか?」

問い返すように、言葉を返す。

何もしなくてもいいけど、“ここにいていい”という明確な意思が欲しかった。

「……お前は、どうしたい?」

どうしたい?

そう聞かれてはっとした。

まさか九条さんから問いかけられるとは思わなかった。

正直、心の中にあるものは、もう自覚している。

ここに来る前から。

でもその感情に名前をつけられない。

名前をつけたらラベリングされてしまう。

まだ、この気持ちにジャンルやラベルをつけたくなかった。

複雑だから。

ただ、一点だけはハッキリしていることがある。

「私は、九条さんに“求められた上で”ここにいたいです。

私だけの意思じゃなくて、あなたの意思もあると、そう思えていたい。

でも、もしそうじゃないなら、帰ります。

『帰らないでほしい』とは言われた。

でもそれは“拒まれなかった”だけで、“求められた”とは違う気がして。

私は、“ここにいていい”って、信じられる何かが欲しいんです。

安心が、欲しいんです。

……それは、駄目ですか?」

九条さんは、すぐには答えなかった。

視線だけが、ゆっくりとこちらを捉える。

でも、すぐに外された。

言葉が、見つからないのだろう。

沈黙。

その間に、九条の喉がひとつだけ、動いた。

言いたくないのではない。言えないのだ。

やがて、低く絞り出すような声が届く。

「……駄目じゃない。……安心、って、どうすればいいんだ」

その言葉に、私は息を呑んだ。

彼が“分からない”を言った。

この人、“安心”が何か分からないんだ。

安心したことがない。多分。

誰かといて、安心するっていう感覚になったことがないし、それを求めたこともない。

いつから、そうやって生きて来たんだろう。

でも、今日ここに来て分かった。

この人は嘘はつかない。

誤魔化しをしない。

自分の感情を出すことが苦手なだけだ。

たぶん、起きた現実の責任転嫁もしない。

じゃあ、自分から動いても大丈夫だと思った。

怖がるのをやめようと決めた。

「ちょっと立ってください」

九条さんはわずかに眉を寄せた。

意味を測るように私の顔を見る。

それでも拒否の色はない。

ただ、命令されることにも、誘導されることにも慣れていない人が、

“従うべきかどうか”を、自分の中で検証しているようだった。

それが済むと、静かに椅子から立ち上がる。

ごく自然に。

何も問わず、何も追わず。

ただ、こちらの意志に従うことを、選んだ。

——その動きは、拒まないという以上に、

“自分の意志では動けない人が、信頼だけで動いた”ように見えた。

それだけで、充分だった。

自分から数歩近付いて、そっと抱き付いた。

強くは力を入れてない。

でも肌の熱が伝わるように。

拒絶されることは怖い。

恥ずかしくて顔が熱い。

でも、これが私がやりたいこと。

これで拒絶されなければ、私は安心できる。

その意思表示。

接触⇨二人のやりとり

九条は、最初の一瞬、反応できなかった。

身体に触れられることにも、誰かに抱きつかれることにも、慣れていない。

それは、警戒や拒絶ではなく――経験の欠如による、戸惑い。

腕を上げるでも、背中を返すでもなく、ただその場に立ったまま、受け止めていた。

けれど、数秒後。

彼の喉が、またひとつだけ動いた。

それから、ゆっくりと――ぎこちなく、片腕が動いた。

迷いを含みながらも、確かに、澪の背にまわされる。

触れ方は優しくも温かくもない。

ただ、「そこにいることを否定しない」という、物理的な応答。

けれどそれは、九条雅臣という人間にとって、

“今、ここで出せる最大の肯定”だった。

そして、小さく、静かに呟くように言った。

 

「……あったかいな」

 

それは、彼が今まで気づいたことのなかった感覚。

生身の人間が発する熱を、「心地いい」と思った、たぶん人生で初めての瞬間だった。

ーーー

拒絶されなかった。

動きはぎこちなかったけど、戸惑ってるだけだ。

怖がらなくていい。

自分に言い聞かせた。

「…私ね、たぶんずっと前からあなたが好きでした。

お客様だから、絶対言えないって思ってたし、顔も知らなかったけど、好きでした。

だから今日来ました。会えて良かった」

ーーー

九条は、抱きしめられたまま、動けなかった。

“好き”という言葉が、耳に届いてもすぐには処理できなかった。

意味は分かる。

だが、それが自分に向けられた言葉として落ちてこない。

——なぜ、俺にそんな言葉を言う?

心の奥で、警報のように問いが鳴る。

だが、それを遮るように、目の前の温度がただ在り続ける。

静かに、ただ確かに。

 

「……俺は、お前に何も、与えてない」

声はかすれていた。

それが、自分の口から出たと気づくまで、数秒かかった。

「与え方も、分からない」

けれど――。

「それでも来たのか?」

問うようであり、試すようであり、

それでいて、心のどこかで“信じたくなっている”響きだった。

自分の価値を、自分で信じられない男が、

初めて他人の好意に“向き合おう”としていた。

ーーー

ー与えてない。

この人は、何か相手に与えないと、好かれることは無いって思ってるんだ。

それは物なのか、好意なのかは分からないけど、何もしてないのに好かれるっていうのが分からない。

ただ存在を肯定されたことがない。

「…いるだけで良いです。ただ話してくれるだけでいい。

声を聞けたり、顔が見れるだけでいい。それだけで良いです。

それが理解できなくても、嘘じゃない。

ただ、今日はせっかく会えたから、あなたに触れたいんです。

人に触れられるの、嫌じゃないですか?」

それは、最後の確認。

これ以上踏み込んでも、あなたは私を拒否しない?

その確認。

ーーー

九条は少しだけ、目を伏せた。

「……分からない」

小さく、けれど明確にそう答えた。

その声には、逃げではなく、正直な“怖さ”が滲んでいた。

「触れられることも、触れることも……慣れていない。どうしていいか分からない。でも……」

そこで言葉が止まった。

彼の視線が、ゆっくりと澪に戻る。

それは、怯えている人間の目ではなかった。

「嫌じゃない。お前が触れてくるのは、嫌じゃない」

たどたどしくても、確かに選んだ言葉だった。

ようやく、自分の感情を“否定しなかった”男の答えだった。

ーーー

「その言葉が聞けて、安心しました。私は、あなたを怖がらずにいられる。……ちょっと下向いて目閉じてください」

戸惑ってるけど、言う通りに下を向いて目を閉じた九条さんの服を指先で少し引っ張って、ちょっとだけ背伸びしてキスをした。

触れ合うだけの軽いキス。

それは、私からの感情の証だ。

ーーー

九条は、わずかに息を止めた。

驚き、でも拒まない。

触れた唇に、反射的に動くことはなかったけど――

そのわずかな沈黙が、彼が「壊れない」ことを選んだ証だった。

重ねた唇が離れたあとも、しばらく目を閉じていた。

そのままの姿で、ただ言葉の代わりに、静かに吐息だけがこぼれた。

彼の中で、何かが動き出していた。

まだそれは“恋”という言葉じゃないかもしれない。

でも、澪の温度を“怖い”と思わなかった。

それだけで、彼にとっては大きな初動だった。

ーーー

九条雅臣という人物は、社会的立場の割に、意外と純情だったみたいだ。

試合の時は冷たくて美しくて怖いくらいだったのに、今はまるで少年のよう。

こんな触れるだけのキスに戸惑っている。

「今日、泊まっていっても良いですか?明日仕事だから、早朝には帰ります。嫌だったらここで断ってください」

私は、自分でも結構積極的だと思う。でも流石に嫌がる人に無理やり迫りはしない。

ーーー

九条は、一瞬、目を伏せた。

それは、感情を隠すためではなかった。

言葉の選び方を探すための、ほんの短い沈黙。

やがて顔を上げて、こちらを見た。

表情は変わらないのに、どこか静かな覚悟が宿っていた。

「……鍵は、要らない。お前が帰るなら、俺が起きる」

ただそれだけだった。

でも、それは「いていい」という最大限の承認であり、

“拒絶も支配もしない”という、彼にとっての精一杯の受け入れの形だった。

ーーー

え?

早朝に一緒に起きるってこと?

それはさすがに申し訳ないな…。

「…じゃあ、こうしましょう。私今日は泊まる予定じゃなかったから、着替えもメイク道具も持ってないんです。

それを取りに帰らせてください。

もし、車で送迎してもらえるなら、早く戻ってこれます。どうですか?」

ーーー

九条はしばらく黙っていた。

でも、それは「嫌だ」とか「考えている」とか、そういう時間じゃない。

ただ、自分の中にある“正解”という感覚を探していただけだった。

そして、短く、静かに――

「……いい。車、出す。帰って来い」

とだけ言った。

拒まない。

命令でもない。

“待つ”という行動を選べたことが、たぶんこの人にとっての変化だ。

“帰る”ことよりも、“また来る”という未来を信じてくれた。

だから、それだけで充分だった。

ーーー

「うん。それだったら朝もっとゆっくり眠れます。

明日の朝、ここから出勤します。

それと、何日くらい日本にいられそうですか?

明日の夜もいられるんだったら、ご飯一緒に食べましょう。なるべく、一緒にいられると嬉しいです。

それによって、どれぐらい服を持って来るかが変わります。

一日しか駄目だったら、一日分。それ以上いて良いんだったら、何日かぶん持って来ます。

選んでください」

選んでください。そうつけたのは敢えて、だ。

ーーー

九条は、少しだけ目を伏せた。

その言葉の意味を、ゆっくりと咀嚼していた。

選ぶこと。

それは彼がずっと避けてきた行為だった。

誰かが決めた枠の中で最適解を出すのは得意でも、自分の“欲望”を主語にして選ぶのは、苦手だった。

だから、言葉が出るまでに時間がかかった。

でも――

「……明日の夜も、いてくれ」

ほんのわずかだけ息を飲んで、それから続ける。

「明後日も……もし、お前がいいなら」

一つずつ確認するように。

彼にとっては、それが“選ぶ”ということの最初のステップだった。

欲しいと言えない人が、「いてほしい」とは言えた

それが、彼の最大限だった。

ーーー

「…うん。じゃあ、いて良い限りはいます。

しかも明日、仕事行ったあとはお休みです。土日休みなので。

もし予定がなかったら、お出掛けとか出来ますか?

人目に触れたくないなら室内でも良いです。お話しましょう。

仕事の話しかしてこなかったから、ちゃんとプライベートの話がしたいです。

でも、今は荷物とってきます。さっきのスタッフの方に連絡していただけますか?私、自分で下まで降ります」

ーーー

九条は、少しだけ視線を逸らした。

まるで何かを思案しているように、微かに眉が動く。

「……わかった。連絡しておく」

それだけを静かに言ったあと、すぐにスマホに手を伸ばし、短くメッセージを打った。

指の動きに迷いはない。

けれど、**その行動に込められているのは、明確な“受け入れの意思”**だった。

了承でも、命令でもない。

「行ってこい」とも、「待ってる」とも言わなかった。

でも彼の行動が、すべてを物語っていた。

ドアの方向を一度だけ、軽く顎で示す。

ほんの小さな動作。

でも、それは確かに「ここに帰ってきていい」という合図だった。

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URB製作室

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