64.2/8 夕方 ロンドン到着→サヴィル・ロウへ

ロンドン市内 ホテル到着

到着したのは、ロンドン市内、テムズ川沿いに建つ老舗ホテル「The Savoy」。

専用ゲートから車で乗り入れると、すでにロビー横にあるスタッフ専用デスクでチェックインの手配が済んでいた。氷川の手際が、もはや不気味なほどに無駄がない。

澪は、光沢のある石床を歩きながら、ふと立ち止まり、ふらりとロビー端のソファに腰を下ろした。

「……ああ……ムリ……」

高級感のある深いクッションに体を沈めると、頭も脚も動かなくなった。体内時計は日本時間の午前2時過ぎ。実際のロンドンは夕方だとしても、澪の脳内では「今日はもう終わってる」。

「今何時……? めっちゃ眠い…」

あまりに非現実的な出来事が次々と押し寄せ、ついに思考がシャットダウンしかけていた。

九条がチェックインを終えて戻ってきた時には、澪は片手で頬杖をつきながら、もう目を閉じていた。

「……寝るな。部屋に上がるぞ」

その声だけで、現実が戻ってくる。

「うぅ……ちょっとだけ……ここ、ふかふか……あと5分……」

「1分だけだ。超えたら起こす」

「え……本当に寝てもいいの……?優しい……」

「仮眠の許可だ。“甘やかし”ではない」

その淡々とした言葉に、澪は思わず笑った。

「なんで執事服仕立てるだけなのに、こんなに疲れてんのかな、私……」

ぼやくように言いながら、ほんの1分間、澪は夢の入り口に沈んだ。

「……1分経った。起きろ」

低く静かな声が、耳元で告げる。

澪は片目だけをうっすら開けた。

眠気はピーク。体は重く、脳はふわふわしてる。

「……部屋まで……遠い?」

「聞く前に立て」

「むぅ……私の体内時計、今たぶん朝の4時ぐらいなんだけど……」

すると九条は、何の前触れもなく立ったまま言った。

「抱えて運ばれるか、歩くか。選べ」

その一言で、澪の目がバチッと開く。

「え、ちょ、待って。それまた肩に担がれるやつじゃ…」

「早くしろ。俺は10秒しか待たない」

「10秒!?え、数えるの?今数えてる!?怖いんだけど!!」

澪は慌てて立ち上がり、髪をぐしゃっとかきあげた。

「……歩くよ!歩くけど!ソファに根が生えてたの!もう!」

「なら黙ってついてこい」

容赦のない言葉とは裏腹に、歩き出した九条は少しだけ速度を落としていた。

それに澪は気づきながらも、何も言わずに小走りで並ぶ。

スイートルームのドアが静かに閉まる音を背に、澪はようやく靴を脱いだ。

ふかふかの絨毯が足を包んでも、疲労の重さは消えない。

「……眠い……ああでも、メイク落とさないと肌が死ぬ……」

スーツケースすら開けず、バッグからポーチだけを引っ掴み、

よろよろと洗面所へ吸い込まれていく。

「シャワー……面倒だけど……入らなきゃ……」

「海外って、なんでこう、疲労感すごいの……」

もはやゾンビと化した声でぼやきながら、鏡の前で髪をくしゃくしゃとほどく。

九条はその様子を背後のソファから黙って見ていたが、まったく乱れていない。

まるで自宅に帰ったかのようにジャケットを脱ぎ、時計を外す。

慣れている。あまりにも、遠征と移動に。

澪は思わず、半分閉じた目で文句を吐いた。

「……先に、シャワー浴びてもいいですか……」

「許可は要らない。自分で選べ」

「選べって……私もう思考回路がほぼ消えてるんですけど……全自動で洗ってくれる機械ほしい……」

ようやくバスルームの扉を引きながら、

「この人、明日も平気な顔してテーラーと打ち合わせするんでしょ……なんなん……」と、

小声で最後のぼやきを残して消えていった。

シャワーを終えた澪が、バスルームの扉を開ける。

シャワー完了

澪はホテルのふわふわのバスローブに包まれてはいるが、髪は濡れたまま、目も半分しか開いていない。

ふらふらとバスルームから出てきたその瞬間、九条が静かに声をかけた。

「――座れ」

その一言で、澪は止まる。

「……へ?」

九条は既にドライヤーのコードを延ばし、ソファ前の椅子を指さしていた。

澪は言われるままに、とてとてと歩き、ぺたりと腰を下ろす。

そのまま、髪をそっと持ち上げられた感触に、心地よさがじんわり染みる。

「……これ……もう、執事のお世話……始まってる……?」

ぼそりと呟いた声は、ほとんど寝言だった。

九条は返事もせず、タオルで丁寧に髪の水分を取り、

そのあと低温の風で、やさしく根元から乾かしていく。

ときおり、指先で髪をすくうたびに、

澪のまぶたがどんどん閉じていった。

それでも、最後の力を振り絞って一言。

「……自分でシャワー浴びただけ……褒めて……」

乾かす手が止まり、九条が小さくため息をつく。

「……手のかかる“お嬢様”だな」

次の瞬間、ぽんと、軽く頭をはたかれた。

「いったっ……!」

と言いつつも、澪の口元には、眠気と一緒に笑みがこぼれていた。

ドライヤーの音が止むと同時に、澪はもう、ほとんど意識を手放しかけていた。

「……ありがと……」

そんな言葉すら曖昧なまま、立ち上がって、

モソモソとベッドへ向かい――そのまま、もぐり込む。

何も言わずにシーツを引き上げ、背中を丸めた姿が、大きなベッドの端で小さくなる。

かろうじて、シーツの中から声が漏れた。

「……おやすみなさい……」

九条は少しの間だけ、その寝姿を見下ろしていた。

そして静かに照明を落とす。

「おやすみ」

それだけを告げ、

ゆっくりとバスルームへと向かった。

ドアが閉まる音だけが、深夜の静けさに吸い込まれていった。

ロンドンの朝、記憶の回収

まぶたの内側が、ぼんやりと明るい。

ゆっくりと目を開けると、天井が見えた。

……どこだ、ここ。

澪は一瞬、思考が停止する。

ベッドの感触はふかふかすぎるし、

カーテンの隙間から差し込む光が、なんだかいつもと違う。

横を見ると、九条がいる。

静かに眠っている――というより、目を閉じて、体を休めているような、

あの人らしい“眠り方”。

……え?なんで?なんで横に雅臣さん?

……ていうかここどこ?いつもの部屋じゃない。出張?ホテル?いや違う、えーと、えーと……

「…………」

思考がぐるぐる回ったあと、ようやく脳の奥で“情報”が引っかかる。

「…………ああ、イギリス……」

声に出して、ようやく納得する。

そうだった。

まさかのプライベートジェットで、

“執事服作りにロンドン”っていう意味不明すぎる行動のせいで、

現実味がまだ戻らないだけだ。

深くため息をつきながら、澪はもう一度、天井を見つめた。

「……夢じゃないのかぁ……」

そう呟いて、寝返りを打つと――

隣の九条の気配が、微かに動いた気がした。

隣の気配は、微かに呼吸の音だけを残して、静かに眠っていた。

九条は珍しく、ぐっすりと寝ているらしい。

――こういう時、妙に貴重なものを見た気がする。

澪はそっとベッドを抜け出した。

できるだけ音を立てずに、まるで“猫足”のつもりでカーペットを歩く。

洗面台に向かい、鏡に映った自分を見て、思わず眉をひそめる。

「……やばい、飛行機の乾燥、えぐい……」

小声でぼやきながら、スキンケアのボトルを取り出す。

旅行用に急いで詰め替えたミストとクリーム。

そして、うっすら色づく程度のメイク。

「今日、行くの“テーラー”だし……スッピンで『どちらのご令嬢ですか?』みたいに思われたら気まずいしね……」

ぼやきながらも、手はテキパキと動いている。

メイクも、ヘアセットも、完璧じゃないけど、

“人様に見せて恥ずかしくない顔”くらいには整える。

「よし……“お嬢様”の仮面、完了っと」

“お嬢様”の朝は、誰にも見られないところで支度される。

澪はその役割を、ちゃんと果たしているつもりだった。

――たとえ、隣に本物の“支配者”が眠っていようとも。

お目覚めの執事さま

後ろから、わずかな気配がした。

「……」

支度中の澪がふと振り返ると、

九条がベッドの中で目を開けていた。

髪は少しだけ乱れ、表情はまだ眠気を引きずっている。

けれど、どこかの瞬間でスイッチが入れば、すぐに“いつもの九条”になるのだろうと分かる顔だった。

澪はブラシを持ったまま、にやっと笑って言う。

「……あ、執事さん起きました?」

からかうような口調。

けれどどこか、気恥ずかしさも混ざっている。

お嬢様と執事が、同じベッドで朝を迎える――

その事実だけで、ちょっとした背徳感がある。

「『お嬢様の隣で眠ってた執事』って、倫理的にセーフ……?いや、アウトだよね……でも起きた瞬間メイクしてるお嬢様って、ちょっとプロっぽくない?」

九条は低く、寝起きの声でひと言。

「……朝からよく喋るな」

「ふふ、眠ってるところ見られるの慣れてない?」

「“お嬢様”に先に起きられるとは、不覚だった」

「フライト時間長かったし、寝てください」

そんな何気ないやりとりさえ、

この部屋の空気をゆるやかに温めていく。

それがイギリスの朝――

“お嬢様と執事の旅”の、はじまりの朝だった。

The Savoyの朝食

窓の外に淡く差し込むロンドンの光。

The Savoyの朝食会場は、深いベルベットの椅子と、シャンデリアの煌めきに包まれていた。

席に着くとすぐ、白い手袋のスタッフが銀のポットを置いていく。

九条は当然のようにロイヤルブレックファストティーを選び、

ティーカップにゆっくりとミルクを注ぐ。

澪はその手つきをぼんやり眺めながら、

自分の皿に並ぶ“英国式”の料理に、やや引き気味の声を漏らした。

「……朝から豆と血のソーセージって、ちょっと戦いじゃない?」

皿には、定番の構成。

• カリッと焼かれたベーコン

• 丸ごとのグリルトマト

• 香辛料の効いたカンバーランドソーセージ

• そして、見た目に反して味は素朴なブラックプディング

焼きマッシュルームに、濃厚なベイクドビーンズ

• トーストにはクロテッドクリームレモンカード

紅茶を一口含んで、九条が何気なく答える。

「“英国式の誇り”だ。戦うか、受け入れるかは自由だがな」

「言い方……!」

澪は苦笑しながら、スクランブルエッグだけを慎重に口に運ぶ。

香ばしさとバターの香りが広がり、意外と美味しい。

(……あ、でも悪くない……)

ふと九条の方を見ると、すでにナプキンを静かに畳み、時計を確認していた。

「あと30分で車が来る。支度は済ませておけ。」

「……朝ごはんの余韻とか、そういうの……ないの?」

九条のまなざしは静かで、しかし容赦なかった。

サヴィル・ロウへ

石畳をゆっくりと滑るように走るロールスロイスの車内は、驚くほど静かだった。

車を操るのは氷川。

助手席には、無言のまま外に目をやる九条の専属ボディーガードの藤代。

スーツに身を包み、黒いコートの襟を立てたその姿は、まるで物語に出てくる秘密結社の護衛のようだった。

機内でも口数はなく、ただ黙って近くにいる。

その後部座席。

澪は落ち着かない気持ちを胸の奥で宙ぶらりんにしたまま、視線を窓の外に彷徨わせていた。

ロンドンの街並みは、絵画のように重厚で、異国の香りがした。

けれど、いま自分が座っている場所のほうが、ずっと現実味がなかった。

車内に響くのは、タイヤが舗道を舐める音と、時折、氷川の抑制された声だけ。

「目的地まで、あと十五分ほどです。

ルートは確保済み。渋滞を避けて進行中です。

テーラーには、9:30到着の旨を伝えてあります」

「……ありがとう」と九条が短く応じた。

それだけで、もうすべてが動いていく。

命令ではなく、ただの“決定事項”として。

澪は、九条の横顔をちらりと盗み見て、小さなため息をひとつ。

「……なんか、これ誰かに見られたら完全にお姫様の護衛付き移動って感じじゃない?」

ぼそっと呟いた声は、車内の静けさの中で意外と響いた。

九条は画面から視線を上げずに、淡々と応える。

「お前が“執事が欲しい”と口にしたからだろう」

「“執事が欲しい”じゃなくて、“執事服を着てほしい”です。お帰りなさいませは言ってほしいけど」

澪の目に映るのは、すれ違うダブルデッカー、石造りの建物の連なり、重く曇った空。

日常の延長線には、到底見えなかった。

それでも、車の速度に合わせるように、少しずつ彼女の呼吸は整っていく。

落ち着くというより、“受け入れる準備”ができていく感覚だった。

こんな現実の形があるなんて、知らなかった。

けれど――

窓の向こう、通りの一角に見えたプレートに、

彼女は思わず息を飲む。

《Savile Row》

いよいよ、本当に来てしまったのだ。

「……ほんとに作るんだ、執事服」

自分でもわからない声色で呟いたその言葉は、

なぜか、心の奥で微かに弾んでいた。

Henry Poole & Co.

ロンドンの中心部を抜け、石畳の路地に入ったあたりで、車は静かに停まった。

後部座席に座る澪は、緊張で足先に力が入っているのを自覚していた。

ドアが開く前から、空気が違うのがわかる。

ここはただの買い物する店ではない。世界中の紳士から“選ばれる場所”だ。


運転席から氷川が小さく振り返る。

「到着しました。15番地、ヘンリー・プールです」

助手席にいた藤代も降りて、後部ドアを開けた。


九条は先に出る。何の迷いもなく、無言で立ち上がり、

サヴィル・ロウの空気を吸い込むように一歩、外に出た。

澪がその後に続こうとしたとき、藤代が声をかける。

「付き添いますか?」

澪が何か言う前に、九条が短く言った。

「いい。車で待ってろ」

それだけだった。まるで「この場所に藤代はいらない」と決めつけるような、

でもその裏に“ここは澪の役目”という無言の意志があった。

藤代は一瞬、言葉を飲み込んで──

「……かしこまりました」と静かに頭を下げた。


車がゆっくりと離れていく。

九条は澪の方を振り向きもせずに、歩き出す。

一言だけ、短く。

「来い」


澪は深く息を吸って、降り立つ。

ヒールの音が、石畳にカツンと響いた。

目の前には、黒い扉。

たかが扉。されど扉。

触れるだけで、手のひらが試されるような気がする。

ドアには金色の控えめな文字でこう刻まれている。

“Henry Poole & Co.”

言葉では知っていた。

1806年創業、燕尾服の発祥地、チャーチルもナポレオン三世も通ったという老舗。

でも、こうして実際に“その扉の前”に立つと──

「……これ、本当に入っていいの?」

声には出していない。けど、心の中で澪は何度もそう呟いた。

そこにあるのは“高級店”じゃない。“格式”だった。


横に立つ九条は、何の躊躇もなくドアノブに手をかける。

まるで、この空間に空気の違いなど存在しないかのように。

そして開かれる、重く静かな音のするドア。

澪の背中にひやりとした風が流れる。


──世界が切り替わった。


中に入ってすぐ、目に飛び込んできたのは、想像以上に静かな空間。

色も、音も、すべてが落ち着いている。

華やかさではなく、“自信”で作られた空間だった。

壁一面に並ぶ生地サンプル。

シルエットの異なるトルソー。

年季の入った木製の棚とカウンター、磨き上げられた鏡面テーブル。

案内の言葉はまだない。

それでも澪は、ここが“見られる側の空間”であることを直感的に悟る。

「たぶんこの空間では、私の呼吸音すら浮く。

それでも、九条はまっすぐ歩く。

執事を従える覚悟とは

重厚なドアが開かれ、クラシックな木の香りがふわりと漂ってきた。

ロンドンの名門、サヴィル・ロウ。そこにある最古のテーラー、ヘンリー・プール。

時刻はまだ朝だというのに、空気はすでに背筋を伸ばすような緊張感で満たされている。

澪は一歩、九条の後ろについて店内に足を踏み入れる。

品格と静けさに包まれた空間――まるで、時間さえゆっくりと流れているような錯覚を覚える。

奥から現れたグレーヘアの紳士が、柔らかく声をかけてきた。

「Good morning. Welcome to Henry Poole. You must be Mr. Kujou.」

出迎えたのは控えめな笑顔の中年の紳士だった。

彼のネームプレートには「Mr. Holland」とある。

九条は静かに頷き、ほんの少しだけ頭を下げる。

「Thank you for having us. I appreciate your time.」

完璧な発音。

その自然すぎるやり取りに、澪は一瞬「えっ」となった。

(英語ペラペラなの知ってたけど……普通に現地の人みたいじゃない?)

ぽかんとしている間に、紳士が続ける。

「We’ve prepared the swatches and designs as per your email. Shall we begin with measurements?」

九条はうなずくだけで、「行こう」と澪に目線を送る。

(着いていくけど、心の準備が……!)

それでも格式高いこの空間と、これから本物の“執事服”が仕立てられるという現実に、澪は妙な高揚感を隠せなかった。

ハリーポッターの世界みたいなこの街並みと、九条の隣を歩いている自分。

ありえないはずの景色なのに、今はここに確かにいる――

そんな中、ふと紳士が訊ねてきた。

「May I ask—just for tailoring reference—will this uniform be used in a performance, or for private service?」

九条はすぐに答える。

「Private service. As requested.」

即答だった。

その返答に、澪は思わず首をすくめた。

「ちょっと……“命令”とか、あんまり言わないでよ。なんか、根に持ってる?」

声はかすかに震えていた。

言葉の温度差がじわじわと肌に伝わってくる。

九条は特に否定もしなかった。

ただ、軽く視線を逸らしながら――ほんのわずかに、口の端だけを動かす。

笑ったのかもしれないし、呆れただけかもしれない。

でも澪には、それがちょっとだけ嬉しく思えた。

(うわ、これ……ほんとに始まっちゃったやつじゃん)

そのまま歩きながら、澪はぼそぼそと呟く。

「だって……執事服着てほしいって言ったら、まさかオーダーメイドで仕立てるとは思わないじゃん……」

誰に聞かせるでもなくこぼした言葉に、九条の背中が少しだけ揺れた気がした。

たぶん、気のせいだ。

きっと、そういうことにしておく。

誰に聞かせるでもなくこぼした言葉に、九条の背中が少しだけ揺れた気がした。

たぶん、気のせいだ。

きっと、そういうことにしておく。

だが――。

「中途半端な覚悟で、俺に執事服を着せたいなんて口に出すな」

その一言で、澪はぴたりと足を止めた。

言い返したかったけど、何も言えなくなってしまった。

だって、図星だったから。

「……言ってみただけなのに」

それ以上は、言わなかった。

言えなかった。

執事が着る服の違い

シンプルな応接室に通されたあと、

出された紅茶を一口飲んで緊張を紛らわせた澪に、九条が突然切り出す。

「で、作るのは執事服なのか燕尾服なのか、どっちだ?」

間髪入れずに問われて、思わず口をついた。

「違いがわからないです。執事が着てる服ってどれ?」

沈黙。

Mr. Hollandが穏やかに微笑んでいるのが逆にプレッシャー。

九条が眉ひとつ動かさずに、低く呟く。

「……お前……」

「私の知識はダウントンアビーで見た執事服です。でもあれも説明してくれないから。違いとか使い方がわかんない」

九条、ため息をついて、

「そこから説明がいるのか…」

「そんな呆れないでよ。オーダーメイドで作る予定なんて無かったんだもん」

九条、英語でテーラーに話しかけた。

「彼女に執事が着る服装について、説明する資料はあるか?あれば助かる」

Mr. Hollandは、九条の英語に少し笑みを深め、控えめに頷いた。

“Certainly. We do have some visual references for first-time clients. I shall return in a moment.”

(かしこまりました。初めてのお客様向けの図解資料がございます。少々お待ちください)

そう言って、部屋の奥へと静かに下がる。

澪は紅茶のカップを両手で包みながら、小声でつぶやいた。

「……あの声、寝る前に聴きたいレベル……」

「何?」

「ううん、なんでもない」

静かになった室内で、しばし沈黙。九条はソファに深く腰をかけたまま、澪をじっと見つめている。

「さっきの答え、お前なりに言葉を尽くしたつもりか?」

「だって知らないものは知らないもん……でも、ちゃんと学ぶ気はあるよ?」

「最低限の前提は押さえて来い。ここは遊びじゃない」

「はいはい、庶民ですいませんでしたー」

ぶっきらぼうに返しつつも、内心では反省している。

本気で「ここは場違いだ」と感じていたし、同時に、**“九条と並んで恥をかきたくない”**というプライドもあった。

そこへ、Mr. Hollandがファイルと資料を手に戻ってくる。

中にはモノクロとカラー両方の図解、燕尾服、モーニング、そして執事服のバリエーションが丁寧に並んでいる。

“These are the classic styles. Tailcoat for evening white tie events, morning coat for daytime formality, and butler’s uniform… well, it blends dignity with function.”

(こちらが伝統的なスタイルです。燕尾服は夜のホワイトタイ用、モーニングコートは昼間の正式な場用、そして執事服は…そうですね、威厳と実用性の融合です)

澪がそれを見つめながら、思わずポツリ。

「…ほんとだ、全然違うんだ。ベストの形も、襟の角度も」

「見る目があるなら、次からは黙って観察しろ」

「観察はしてたよ。ただ、記憶に残るのは雰囲気だけだったんだもん」

九条は冷静なまま、通訳のようにスムーズに補足を入れる。

Mr. Hollandも澪の反応を見て、少し柔らかく言葉を継ぐ。

“You are not expected to know everything, madam. That’s what we are here for.”

(すべてをご存じである必要はありませんよ、お嬢様。それが我々の仕事ですから)

澪が少し肩の力を抜いて、「あっ……ありがとうございます」と英語で返す。

英語の発音は正確で、Mr. Hollandが小さく「なるほど」という表情を見せる。

意見の相違

澪が資料をパラパラめくりながら、ポツリと呟いた。

「ってことは、これ全部作ったら、何着も作らないといけないってことになっちゃうよね……通常業務用の執事服にする?普通のスーツっぽくなっちゃうけど」

その一言に、九条が鋭く返す。

「お前はそれが望みか?」

「いや、望んでるのは燕尾服とかモーニングコートだけど……でも、これ大袈裟じゃん。舞踏会にも行かないし、執事じゃないのに。他の場面で使わない服じゃん」

九条の視線がじわりと重くなる。

「……俺はお前に、望みを口にしろと言ったはずだが」

「な、なんでそんな説教っぽいの!?ここで喧嘩したくないからやめて!」

さすがに声が少し大きくなり、澪は慌てて口を押さえる。

Mr. Hollandが静かに紅茶を差し出しながら、微笑んだ。

“It is quite common for couples to disagree here. You are not the first, nor will you be the last.”

(ご安心ください。ご意見の食い違いはよくあることです。お二人が初めてではありませんし、最後でもありません)

「……Thanks…」

恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら、澪は紅茶を受け取った。

「喧嘩っていうか、議論です、議論」

九条は口元をわずかに引き締めたまま、黙っている。

でもその横顔は、わずかに――ほんのわずかに、楽しんでいるようにも見えた。

澪は悩んだ末に、紅茶を置き、小声で呟いた。

「じゃあ……燕尾服とモーニングコート、作っちゃう?……いや、でも予算上がるじゃん。24時間執事やるだけなのに、2着も作るって……」

九条が言葉を挟もうとしたが、その前に澪の脳内は暴走モードに突入していた。

「あ、でもタキシードも素敵。蝶ネクタイか……あれってクラシックすぎるかな……」

ちらっと九条を見て――ふと思いついたように訊ねた。

「ねえ、ディレクターズスーツって持ってる?」

不意打ちだったのか、九条が一瞬だけ眉を上げる。

「……俺に、映画監督のコスプレをさせたいのか?」

「違う違う、そうじゃなくて!グレースーツに黒ベストと黒ネクタイって、あれめちゃくちゃお洒落で…ああいうのもアリかなって思っただけ!」

完全に浮かれてる。でも、それも悪くなかった。

澪が生地のサンプルをめくりながら、ぱたぱたと声を弾ませる姿に、九条は紅茶に口をつけながら静かに呟いた。

「……もう好きにしろ」

“If I may suggest,”

(もしよろしければご提案ですが)

と、Mr. Hollandが上品に口を開いた。

“We could create one formal set with slight variations—tailcoat, morning coat, and dinner jacket—all with interchangeable waistcoats and accessories. That way, you have elegance and versatility without needing a separate suit for each.”

(燕尾服、モーニングコート、ディナージャケットを共通の基本パターンで設計し、ベストや小物の組み替えで変化をつけることも可能です。優雅さと実用性を兼ね備えた提案です)

澪が「すご……そういうのもあるんだ……」と呆気に取られたように言うと、

「同じ型紙で複数の正装を兼ねる設計。費用はやや下がる。が、最低でも二着分は見ておけ、ということだな」

「………つまり、お金かかるってことじゃん!」

「望みを口にした結果だ」

採寸

Mr. Hollandが立ち上がり、やわらかい声で告げた。

“Very well, madam. If you would kindly follow me to the fitting room.”

(よろしければ、フィッティングルームへご案内いたします)

クラシックな英国紳士の口調。緊張感がふたたび室内に差し込んだ気がする。

澪は小さく息を呑み、そっと紅茶のカップをソーサーに戻す。

「……まさか、コスプレのための“執事服の採寸”に来るなんて思わなかった…」

誰にというわけでもなく、つぶやくように。

そんな澪に、九条が静かに目を向ける。口元は動かさず、けれど確かに笑っていた。

“Chin up. You asked for it.”

(顔を上げろ。お前が望んだことだ)

「言ったけどさ……こんなガチだと思わなかったし……」

ぶつぶつと抗議しながらも立ち上がる澪。その肩に、ふわりと緊張の糸が重なる。

採寸室は、まるで時間が止まったような静寂に包まれていた。

深いグリーンの壁紙、木製の重厚な姿見、整然と並んだメジャーとサンプル帳。何百年もの歴史が積み重なっているはずなのに、どこにも埃一つ見当たらない。

澪は一瞬で“観光”から“客”に変わった自分を意識する。

Mr. Hollandが別のスタッフに手を振り、寸法担当と思しき年配の職人が姿を現す。

九条は、静かに両腕を広げた。

テーラーが身体の寸法を取るたび、澪は隣で黙って見つめていた。

肩幅、ウエスト、袖丈――そのどれにも、迷いなく受け答えし、微動だにしない姿勢で応じる。

まるで、何度も経験してきたような手慣れた仕草。

「……なんか、慣れてるね。オーダーメイドの服とか、何着も持ってるの?」

九条は答えず、ただ少し視線を横に向けただけだった。

「そっか」と澪は自分で自分に答えを出して、うなずく。

(そりゃそうか。私みたいに、セール品のタグ見てから買う生活とは違うんだよね)

別に責めたいわけじゃないし、引け目を感じたいわけでもない。

ただ――生きてきた“景色”が違うんだな、って思っただけ。

その思いは声に出さず、飲み込んだ。

生地選び

広げられたファブリックブックの前で、澪は小さく唸っていた。

「え、これ全部ウールなんですか……?触っていいの?どれが高いやつ……?」

「全部高いやつだ」

即答する九条に、澪は思わず眉をひそめる。

「そういうのじゃなくて……なんか、ほら、値段がヤバいやつあるでしょ?隠しボスみたいな生地……」

横で静かに微笑んでいたMr. Hollandが、気を利かせたように数種類の生地サンプルを取り出した。

“This one is a Super 180s wool. Very light, very elegant. And this is a barathea weave—more traditional, slightly heavier.”

(こちらはSuper 180sのウール。とても軽くて上品です。そしてこちらがバラシア織。より伝統的で、やや重めです)

澪は目を丸くして、生地を指で挟んで撫でた。

目の前にずらりと並べられた生地サンプル――

ウール、シルク、カシミヤ、モヘアの混紡。

伝統的なブラックやミッドナイトブルーから、深いグリーン、控えめなバーガンディまで。

「これ、どう思う?」

そう言って見せたのは、深いチャコールグレーのベスト地。

「全身ブラックに近いけど、ベストだけこれにしたら、ちょっとだけ奥行き出ないかなって」

九条は一瞥し、少しだけ口元を緩めた。

「悪くない。センスがいい」

「え、嬉しい……なんかすごく嬉しい……」

素直な反応に、横でMr. Hollandが穏やかに微笑む。

“You have a good eye for contrast. That vest will give just enough relief under the tailcoat.”

(コントラストのセンスがおありですね。燕尾服の下にそのベストなら、程よい奥行きが出ますよ)


「じゃあさ、燕尾服のベストはこのグレーにして、モーニングのベストは……あえて黒のシルクってどう?」

「フォーマルの中に艶を出すつもりか」

「うん。だって、どうせ一日執事するなら、途中で“夜の執事”にチェンジするっていうストーリー作った方が面白いでしょ」

「お前は何の演出家だ」

「自宅劇場の監督です!」


そんなふうにして、生地は次々と決まっていった。

澪の“現実的な審美眼”と、九条の“無駄を削ぎ落とす美意識”が絶妙にぶつかり、混ざり合い、Henry Pooleの職人たちは一切口を挟まず、ただ静かに微笑んで見守っていた。

そのやり取りこそが、ビスポークの醍醐味だった。


澪も隣で、何度も何度も生地を触り、顔を近づけてじっと見る。

「ねえ、こっちの黒とこっちの黒、微妙に違うよね?どっちが“威圧感ある”と思う?」

「……“威圧感”がテーマなのか?」

「なんか、執事って優しいだけじゃダメな気がして……主を守る強さみたいな。しかも着る人が人だからな。優しくて上品っていうのは違う気がする」

九条はふっと笑った。

「選び方に覚悟があるのは、いいことだ」

澪は少し誇らしげに胸を張った。

「初めて言われた!」

澪は、一枚の艶のある黒地を手に取ったあと、しばし無言になった。

そして唐突に、目をキラキラさせながら口を開いた。

「……やっぱりこの世界観ってさ。スーツじゃダメなの。燕尾服とか、立ち襟とか、グローブとか――」

九条は目を細める。

「お前、思ったより真剣だな」

「真剣ですよ!?執事フェチ舐めないで!

私ね、“現実にはいないかもしれないけど、こうあってほしい”っていう理想があるの。

完璧な立ち居振る舞いと、絶対に動じない知性と、どんな命令でも忠実に遂行する強さと……あと何より――」

一拍、置いて。

「見た目が完璧じゃないと成立しない」

九条は微かに息を吐く。笑いとも、呆れともつかない表情。

「お前がどこまで本気で言っているのか、時々わからなくなる」

「私も本物の執事なんて知らないけど、でも――」

言葉を切って、生地に視線を落とす。

その手は、本当に大切なものを選ぶときの手つきだった。

「でも、理想だけはずっと持ってる。どうせやるならこだわりたいし、妥協したくない」

その言葉に、九条は目を伏せて一言。

「……なら、すべてに本気で答えるまでだ」

白を着る時

「ベストの色どうする?燕尾服の時はベスト白らしいけど、雅臣さん白着てるイメージあんまりないな。しかもこれ、真っ白に近いじゃん」

澪はサンプルの中から、ピケ織りの純白のベスト生地を指先でつまむ。

九条はわずかに眉を寄せ、その色を見つめた。

「……確かに、落ち着かないな」

「でしょ?なんか…“雅臣さんが主役”って感じがする。私のイメージだと、脇に立ってる側なんだよね、こういう場面では」

「燕尾服は元々、主役が着るものではない。だが、白が強すぎるなら、少しだけ生成りに寄せた方が馴染む」

そう言って、九条は隣に並べられていたクリームがかったホワイトを選び直した。

「これくらいなら、俺が着ていても違和感はないだろう」

「うん、なんか柔らかくなるね。その方が“夜の儀礼”って感じ」

澪の指が、ベストの裏地に添えられていたシルクのパイピングに触れる。

「ちなみにこれ、見えないところの色も変えられるんだって。……やる?」

「それは任せる。どうせ、お前が気に入るようにするだろう」

「うん、する。だからちゃんと着てね」

「俺も一応、白は着る」

「え、嘘。見たことない。どこで着るの?」

「ウィンブルドンに出る時はドレスコードがある。全体のほとんどを白で固める義務がある」

「……それ、好み関係なく義務だから着てるだけじゃん」

「その通りだ」

「なんでそこでドヤ顔すんの」

「事実を述べただけだ」

「それが煽ってるって言うの!!」

澪がむくれる横で、九条は平然と生地サンプルをめくっていく。裏地のボルドー、ベストの生成り、シャツの白――。

ドレスコードが無ければ白を選ばないくせに、それでも「似合う」のがずるい。

シャツのディテール

テーブルに新しいサンプル帳が置かれた。Mr. Hollandが静かに表紙を開く。

「Now, let us discuss the shirt. Collar, cuffs, pleats—any preferences?」

(さて、シャツについてです。襟、カフス、プリーツなど、ご希望はございますか?)

九条は資料に目を落としながら「ウィングカラーだ。プリーツ入り、ダブルカフス」と即答する。

「はいはい、出た即決」

澪が苦笑しながら横から口を挟む。

「じゃあカフリンクスも選ぶってことだよね?袖口にキラキラしたの付けるなんて、ちょっと新鮮かも。普段アクセサリーとか興味ないのに」

「服に合わせるだけだ。必要なものは選ぶ」

「でもちょっとは悩もうよ。遊びじゃないんだよ?……いや、遊びだったわ」

ため息混じりに呟いてから、澪はMr. Hollandに尋ねた。

「Can I choose the pleats design? Something classic, but not too flashy.」

(プリーツのデザイン、選べますか?クラシックで、でも派手すぎないものがいいです)

「Of course. We have traditional vertical pleats, and more subtle piqué textures as well.」

(もちろんです。縦プリーツの伝統的なスタイルや、より控えめなピケ織りの生地もございます)

九条は横から静かに補足する。

「ピケにしろ。プリーツはアイロンが面倒だ」

即答する九条に、澪がすかさず突っ込む。

「アイロンなんて、どうせ自分で絶対しないじゃん。クリーニングに出すんでしょ。そこ、好みと機能性で選んでください」

「……」

言い返せないのか、九条が一瞬だけ黙る。

Mr. Hollandが、静かに喉を鳴らして笑ったような気がした。

「She does have a point.」

(ごもっともでございます)

「だってさ」

得意げに澪がにんまり笑うと、九条は軽く鼻を鳴らして目を逸らした。

「……それでもピケだ」

「じゃあ、着る人の意見を尊重して決定。てか、シャツは即決なんだね。なんで?」

澪が不思議そうに首を傾げる。

九条は紅茶を一口飲んでから、何でもないように答えた。

「シャツに迷う理由がない。必要なのは、肌と生地の間で邪魔にならないもの。それだけだ」

「え……いや、もっとさ、ボタンの感じとか…ステッチとか…」

「縫製はプロが見れば分かる。素人に見せびらかす趣味はない」

「………」

「あと、俺はシャツを脱いだときに肌に線が残るのが嫌いだ。プリーツは邪魔だし、乾きも悪い。そういうのを、“最初に決まっている”と言う」


澪、ちょっと黙ってから。

「……なんか、今の話だけで“プロアスリートです”って感じしたわ」

「事実だろ」

ボタン選び

ボタンのトレイが静かに差し出された。

艶消しの黒、深みのある銀、光を弾く金。無地にエンボス、金属、布巻き。小さな円の中に、選択肢は無限に広がっている。

澪はしばらく無言で並んだボタンを眺めたあと、ひとつ、艶のない黒のボタンを手に取った九条に視線をやる。

「……絶対それ選ぶと思った」

「悪いか」

「悪くはないけどさ。“執事服”っていうか、“軍服”みたいにならない?」

「そもそも俺に“華やかさ”を求めるのが間違いだ」

「ちょっとは華やかさ出そうよ〜。私の執事さんなんだから」

九条はわずかに視線を上げたが、反論せずに黙ってボタンを置いた。代わりに、澪が指さす別のトレイに目を向ける。

「これ、どう?黒に近いけど、ちょっと艶がある。濃いグレーの金属製。角度でほんのり光るやつ」

「ベストにだけなら許容範囲だ」

「ほら、ちゃんと選べば合うのあるじゃん。全部真っ黒にしたら“厳しすぎる”って思われるよ。執事じゃなくて殺し屋になっちゃうかも」

「職務に忠実だと解釈してもらえればいい」

「言ってること怖いから」


「で、ジャケットのボタンは?」

「黒の布巻きでいい」

「ほんとに?もうちょっと光沢あっても……」

「それ以上足すと、ベストとぶつかる」

「なるほど。……でもネクタイや蝶ネクタイは黒にするんでしょ?」

「当然だ」

澪はふっと笑って、小声でぼそりと呟く。

「どんなにパーツこだわっても、完成したら“九条雅臣”ってなるんだよね。素材も仕様も、全部呑まれていく感じ」

「だからこそ、選ぶ意味がある」

澪はきょとんとした顔で見上げる。

「……今の、ちょっとかっこいい」

「わかっている」

「ちょっとだけって言ってんのに」

靴選び

澪は革靴の棚を前にして、眉をひそめた。

「え、黒ってこんなに種類あるの?見た目ほぼ同じに見えるんだけど……」

「見分けるのは履く側だ」

九条が手に取ったのは、つま先に一本のラインが入ったストレートチップ。

「黒以外はNG。装飾も不要。これが最低限の礼儀だ」

「いやいや、そんな“靴に礼儀”みたいな世界あんの?」

「ある。執事というのは、靴のつま先で信用を問われる職業だ」

「なにその世界線……」

澪は苦笑しながらも、九条の指が一瞬だけ止まったプレーントウに目をやった。飾り気が一切なく、ただ真面目で誠実な一足だった。

「それもいいな。シンプルだ」

「やっぱストレートチップにしようよ。なんか“きちんとしてます”感あるし。私が依頼した執事が、ラフなUチップだったらちょっと困るかも」

「俺は雇われた覚えはない」

「そこはそういう設定だから!」

応接室の隅に運び込まれたトレイには、ドレッシーな革靴と蝶ネクタイ、ネクタイ、そしてリネンのハンカチが整然と並んでいた。

Mr. Hollandが説明を始める。

“For formal evening wear such as tailcoats, we recommend patent leather oxfords. These are traditional, yet always appropriate.”

(燕尾服には、エナメル仕上げのオックスフォードシューズを推奨しております。伝統的かつ常に正統です)

澪がすぐにうなずく。

「うん、それ。絶対それで正解。雅臣さん、靴は何でもいいって言いそうだけど、これは譲れない」

「何でもいいとは言っていない。走れない靴は嫌いだ」

「それ言うかと思った!」

タイ選び

澪は革靴を選び終えたあと、陳列棚の横に掛かったネクタイ類を見上げて首をかしげた。

「……え、こんなにあるの?どれも黒かグレーで、正直違いがわからないんだけど……」

「それでいい。わかる必要はない。選ぶのは俺だ」

九条は無表情のまま、無地の黒ネクタイに目をとめた。

「これが基本だ。日常業務やスーツに合わせるなら黒の無地。それ以外は余計だ」

「じゃあ、燕尾服なら?」

「白の蝶ネクタイ。それ以外は許されない。格式が違う」

「えっ、じゃあグレーは?」

「モーニングコート。日中の式典用だ」

「……ちゃんとルールあるんだね」

澪は感心したように、白い蝶ネクタイを手に取ってそっと首元に当てる。

「じゃあ、これを着けて、私の紅茶を注いでくれるわけだ」

「……誰が?」

「あなたが」

「それはお前が俺を雇っていた場合だ」

「設定の話だよ!空気読んで!」

九条は澪の言葉には応えず、シルバーグレーのタイを棚に戻した。

「格式を崩さず、遊びも入れず、目立たず。執事服の装いは、すべてその原則に従う」

「……私よりよっぽど乙女ゲー向きだよね、そのストイックさ」

「聞かなかったことにしておく」

「でもさ、黒の無地ネクタイなんて既に持ってるんじゃない?ネクタイって何本持ってる?白の蝶ネクタイ以外は合わせられるやつありそう」

澪が無造作に棚を指差しながらそう言うと、九条は一拍置いて答えた。

「用途ごとに十数本。黒無地だけで三本ある」

「三本も?そんなに違うの?」

「幅と素材が違う。シルクとウール、あと深夜のテレビ収録用に光沢を抑えた一本。照明で映りすぎないように」

「プロすぎない!?」

驚きながらも、澪は思わず笑ってしまう。

「てことは、執事服に合わせられそうなのもあるんじゃ……?」

「ある。ただし、それは“スーツ”に合わせるためのものだ。執事服に合わせるなら、長さも結び目の厚みも最適化されていなければ意味がない」

「……そこまで気にする?」

「気にする」

即答だった。

「ネクタイの素材とか幅とか、そこまでこだわるのに……なんで色選びだけあんな適当っていうか、無彩色ばっかり選ぶの?」

澪は、少し首をかしげながら尋ねた。

「ヨットの内装も白と黒とグレーとか、あってもベージュばっかりだったよ。もっとこう……青とか、赤とか、洒落た色選ばないの?」

九条は棚の奥から黒のネクタイを取り出しながら、わずかに視線を動かす。

「無彩色は、その人間の色を消さない」

「……は?」

「色は主張する。赤は強さを、青は冷静さを、黄色は明るさを。だが、白と黒は何も語らない。だから、どんな相手の前に出ても、俺自身が“主”でいられる」

澪は思わず、手に持っていたスマホを置いた。

「あの、それさ……」

少し言い淀んでから、澪は言葉を選ぶように続けた。

「主役じゃなくて司会者の考え方なのよ。あなた、TVとか出るときって司会者じゃなくて主役でしょ?」

九条はネクタイを手にしたまま、視線だけを向けてくる。何も言わないが、“それで?”とでも言いたげだった。

「ほら、トランプも赤いネクタイつけてたじゃない。あれって強さとか存在感を見せるためでしょ?ああいうふうに、むしろ色を“使う”べきじゃないの?」

そう言いながら、澪は身振りで服の前を指差した。

「ていうか、あなたレベルになったらスタイリストとかつかないの?勝手にモノトーンばっか選んでる感じなんだけど…」

九条は軽く息を吐いた。呆れているのか、笑っているのか、どちらともつかない表情。

「必要ない」

「……出た。自分で完結型」

「他人のセンスで装った色は、自分の言葉じゃない」

「いやいやいや、衣装って言葉なの!?それってもう美術家の領域だよ?」

澪のつっこみも、すでに半ば諦めモードだ。だが、彼の“色を使わない”という美学の背景に、ただの無彩色主義以上の意味があることだけは、ひしひしと伝わってくる。

澪は小さくため息をつきながら、ぼそりとこぼした。

「こだわりがないように見えて、めっちゃあるし……。なんでこんなめんどくさいんだろ。絶対スタイリストさん困ってるよ」

九条は何も言わず、無表情でネクタイを持ったまま。返事を待っているふうでもなく、ただ“理解されないことには慣れている”という顔をしている。

「……あ、でもメイクは楽そう」

不意に視線を上げた澪は、わずかに口元をゆるめる。

「元々整ってるし。肌も綺麗だし」

そう言いながら、自分で言っておいて少しだけ恥ずかしそうに視線を外した。呆れてるのに、最後は結局褒めてしまう自分が、なんだか悔しい。

九条はそんな澪の変化に気づいているのかいないのか、ただ一言だけ返した。

「楽ではない。撮影がある日は、早く起きてる」

「……そういうとこはちゃんとしてるんだよね……」

ほんの一瞬、澪の胸の中で「もうちょっと雑でも良いのに」という気持ちがよぎった。

「わかった。神が何物も与えすぎちゃったから、色のセンスっていうの引いてちょっとだけマイナスにしといたんだよ。…それでも全然帳尻合ってないけど」

澪がそんなふうに勝手な理屈をこねていると、九条はあっさり言った。

「…なら、色はお前が選べばいい」

「いや、合算して最強になっちゃうじゃんそれ。バランス崩れるでしょ。でもさ、私が選んだ色、なんでも着るわけじゃないでしょ?」

「似合わない色ならお前は選ばない。むしろ徹底して選ぶ色を吟味する人間だ」

真顔で返されて、澪は一瞬言葉を失った。

(あ、めっちゃ見てる…)

この日、澪は採寸から素材選び、裏地のトーンに至るまで、徹底的に九条に合わせて最適解を探し出していた。本人が一番こだわってるようでいて、実は一番熱量を注いでいたのは彼女の方だった。

「……じゃあ、試合の時の服も選んでいい?」

「スポンサーがある」

「ですよねー。でもプライベートの服ならどう?今度私に選ばせてよ。着せ替え人形遊びリアル版、やってみたい」

「人形って言ったな」

「うん、言った。でもこの顔でちゃんと合わせたら、どんな服でも大体生える。イケメンずるいよねーほんと…」

澪の言葉には冗談半分、うらやましさ半分、そしてちょっとだけ誇らしさが混じっていた。

「元の素材がいいからさ、着せたい服いっぱいあるんだよねー」

澪は楽しそうに指を折りながら、脳内コーディネートを始めた。

「顔がいいから、あんまり派手じゃないシンプルな服が良いんだけど……ちょっとだけ柄も試してみたいんだよね。ストライプとかさ。でも肩幅大きいから、ボーダーはイマイチかもなぁ。太く見えるし。あと絶対買わないでしょ、そういうの」

九条は黙って聞いていたが、否定もしない。それがまた彼女の妄想を加速させる。

「せめてさ、モノトーン以外のシンプルな服、試してみない?青系とかさ。白黒グレーだけじゃなくて、ちょっと色味あるやつ。私、モノトーンに逃げないで生きてる人間だから、たまには巻き込まれてほしいんだけどな〜」

「……似合えば、着る」

「ほんと!?やった!じゃあ、まずそれの第一弾として――」

澪が一歩身を乗り出して、ほんの少し声のトーンを落とす。まるで高級ヨットの商談をまとめにかかるときのように。

「モーニングコート用のネクタイ、シルバーに挑戦してみませんか?

九条は目を細めて澪を見つめる。

「そんな派手に光るやつじゃなくて。落ち着いた上品なやつ。…ちょっとだけ、フォーマルの中に華やかさを足したいの」

「……光らないなら、いい」

「やった!」

澪、こぶしを握る。

「……このお店ってネクタイも扱ってるんでしょ?」

そう言いながら澪はふと立ち上がる。

目線の先には、棚に整然と並べられたシルクのタイコレクション

「せっかくだし、何本か見せてもらおうよ。せっかくの“本場”なんだから」

スタッフに軽く声をかけると、数本のシルバー系ネクタイがトレイに乗って戻ってくる。

光沢のあるサテン、織り柄の入ったもの、控えめなマット仕上げ――どれも上品で重みがある。

「こっちはクラシックだけど、光の当たり方で印象変わるね」

「これ、シャツと合わせると顔が立体的に見えるかも」

「……これも良いなぁ。でも日本でこのクオリティはなかなか無い」

九条は黙っている。

けれど、澪が次々とネクタイを手に取り、自分の首元にあてがっている姿をじっと見ていた。

まるで自分より真剣に選んでくれていることに、言葉にできないものを感じながら。

「――これにする?」

「お前がそう言うなら、それが正解なんだろう」

生地感、色味、幅、結びやすさ。手に取って、光に透かして、九条の顔や首元にあてがって――

澪の顔がどんどん真剣になっていく。

「……ダメだ、こっちは青白すぎる。顔が負ける」

「これも素材は良いけど、シャツと合わせるとちょっと沈むかも」

「これは……あ、これ良いかも」

パッと目を見開いて、九条の首元に一番映える一本を決める。

「それでいい」

「まだ候補あるから。今“それでいい”って言ったでしょ?“それがいい”とは言ってないでしょ?」

「……」

澪の営業モード、全開。

でもその目は、ただの仕事じゃない。

世界ランク1位の男を、一番きれいに見せたい。

その一心だけで、動いている。

「素材はやっぱりシルク素材だな。一番品があって高級感がある……」

澪は手元のネクタイを1本1本、指先で滑らせるようにして確かめていく。

光沢、織り、質感――まるで宝石でも選んでいるかのような目線。

「斜めストライプ素敵だけど……フォーマルな場では駄目なんだよね……」

「チェック模様可愛いけど……ちょっとキャラと合わないか。イギリスっぽくて好きだけどな……」

ブツブツとつぶやきながらも、その手は止まらない。

彼女の脳内では、九条がそのネクタイを着けて立っている姿が次々にシミュレーションされている。

「……これはどう?シャドーストライプ、遠目には無地に見えるけど、よく見ると奥行きが出る。顔に立体感も出るし、フォーマル感もキープできる」

横で黙って見ていた九条が、わずかに口角を上げる。

「……よく見てるな」

「え? あ、うん……こういうの好きなの」

照れたように澪は首をすくめる。けれど手は止まらない。

「あと、このあたりも気になる。ほら、こっちは完全に無地だけど、素材の織りが綺麗。写真映えするタイプ。シンプルに勝つやつ」

「……どっちでもいい」

「どっちでも良くない!!」

即答でツッコまれて、九条は小さく咳払いして視線をそらした。

澪は棚に並んだネクタイのタグをひとつずつめくりながら、無言で吟味していた。

 シルク素材。ツイル。幅は8センチ。サテンは光りすぎるし、チェック柄はキャラと合わない。斜めストライプは素敵だけど、フォーマルな場には向かない。執事という設定に合わない。

「……顔立ちが強いから、ネクタイまで主張させると存在感が出すぎるんだよね。上品で控えめにした方が良い。ツイルなら光りすぎず、立体感も出るし──」

 そんな風に、プロの顔でブツブツ呟いていた澪の横で、九条がぼそりと呟いた。

「幅まで見てるのか」

「見るよ?だってスーツの襟とバランス取らないと浮くじゃん。作るのラペル8センチでしょ?なら、ネクタイも7.5〜8.5の間がベスト。ナローはチャラくなるし、太すぎると政治家コスプレになる」

「……よく見てるな」

「営業で毎日スーツ見てるからね。あと、あなたが目立つ人だからこそ、引き算のバランス大事なの」

 棚から一本、シルバーグレーの無地ネクタイを手に取って、光にかざした。ツイルの織りが角度によって控えめに艶めいて、ただの「グレー」ではない表情を持っている。

 澪が無言で九条の方に向けてみると、彼は視線を少しだけ逸らしてから言った。

「嫌なものは着ない。だが、お前が“似合う”と言うなら試す」

「……もうちょっと自分の好みも言ってくれたら助かるんだけどなぁ。でもまあ、私が決めた方が早いか」

 苦笑しながら澪が続けて何本か持ってきては、色味と素材、触り心地、巻いた時の落ち感を確認する。本人に試させながら、首元との距離感、シャツとの色の馴染み、光の当たり方すら気にして選ぶその姿は、完全にスタイリストそのものだった。

 ふと、九条がぽつりと呟いた。

「好みより、“整って見える”方が優先だ」

「なるほどね、さすが“見られる側のプロ”。……でもさ、そろそろ“誰にどう見られるか”じゃなくて、“誰にどう見せたいか”も考えてもいいと思うよ」

 その言葉に、九条は一瞬だけ視線を澪に向け、それから言った。

「……お前以外に見せたい相手はいない」

 その言葉を聞いた澪は、言葉も返せず、手に持っていたネクタイをそっと棚に戻した。

「じゃあ、シルバーのシルク素材。ツイルで決定」

 澪がきゅっとネクタイを握って頷くと、隣に立つ九条が小さく息を吐いた。

「……ネクタイ1本選ぶのに、えらく時間がかかったな」

「ねー。靴なんて秒で決めたのにね。でも、ネクタイって顔の近くにくるじゃない? 面積は小さいけど、印象への影響が大きいんだよ。だからこそ、こだわる余地もあるってこと」

 そう言って、澪は選び終えたネクタイを慎重に専用ケースへ戻した。

「しかも今回は、あんたが“主役”でしょ。間違えても司会者コーデにはできないからね」

 ふっと笑った九条は、澪のその言葉には何も言わずに、視線をネクタイに落とした。

「……で、これで俺の“見せ方”は完璧か?」

「うん、私のセンスが正しければ、ね」

 そう言いながらも、澪の目には満足げな光が宿っていた。

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URB製作室

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