日曜日の朝
シーツの中、肌と肌の境目に、まだ夜の余韻が微かに残っていた。
九条は仰向けのまま目を閉じている。呼吸は静かで、でも完全に眠っているわけじゃない。
澪は彼の右腕に軽くもたれながら、ぼんやりと天井を見ていた。
起きる必要は――ない。
そう思った瞬間、身体の奥から「ぐぅ」と鈍い音が鳴った。
……あ。
反射的に息を止めたけど、遅い。
九条のまぶたが、ゆっくりと開いた。
澪はそっと顔を逸らす。
「……鳴ったな」
低く、眠たげな声が頭の上から降ってくる。
「気のせいです」
「二回目も鳴ったら、認めろ」
それだけ言って、彼はまた目を閉じる。
どこか満足そうな顔をしてるのが、ちょっとだけ悔しい。
お腹が空いた。でも、起きたくない。
シーツにくるまったまま、澪は枕に顔を押しつけて呟いた。
「お腹空いたけど起きたくない。どうしたらいいですか」
九条は目を閉じたまま、ほんの少しだけ間を置いて答える。
「……答えが欲しいなら、まず起きろ」
「それじゃ意味ないじゃん……」
「じゃあ、鳴ってろ」
「ひどい」
「鳴ってたのは、お前の腹だ」
「それを言わないでって思ったのに……」
そう言いながらも、澪は結局、彼の胸元に滑るように寄りかかった。
九条は何も言わず、その頭を静かに撫でた。
起きる気配は、まだない。
それでいい。
もう少し、もう少しだけ、このままで。
「……冷蔵庫にある。レオンが用意してった」
「レオン……?」
……誰?
「昨日、食事を作ったやつだ」
「ああ…え、外人さん?」
「日本人だ。五百旗頭玲央」
「……いおきべ? 初めて聞いた。すごい苗字」
「苗字が呼びにくいから、レオンで通ってる」
「なるほど。……いおきべって、どんな漢字?」
「五百、旗、頭」
「日本語難解すぎる……」
笑いながら身体を丸める。けれどやっぱりお腹は空いたし、ベッドのぬくもりも離れがたい。
「……起きたくない、か」
「……うん」
「じゃあ、食うな」
「ぐぅぅ……」
絶妙なタイミングで鳴る腹の音に、澪は顔を覆った。
「今のは私じゃないから……勝手に鳴っただけだから」
「違うな。確実に“中のお前”だ」
ふてくされたように、彼の胸に顔を押しつける。
ほんの数秒、部屋が静かになる。
澪は、しばらく黙っていた。
肌に触れる温度も、呼吸のリズムも、全部、心地よかった。
でも、それだけに怖くなる。
この時間が、いつまで続くのか。
だから、言った。小さく。
「……いつまで日本にいられる?」
九条は、すぐには答えなかった。
「……」
「別に……引き止めるとか、そういうんじゃなくて。
ちゃんと……スケジュール、考えなきゃって。
私も……覚悟とか、決めときたいから」
恐る恐る、でも離れたくないという気持ちだけは、明確にあった。
「ドバイの大会が2月24日から。三日前には現地入りする。それまでは日本にいる。昼は練習、夜は戻る」
「……じゃあ、けっこう一緒にいられるってこと?」
「そうだ」
「そっか」
胸の奥にあった“覚悟”が、少しだけ緩んだ気がした。呼吸が深くなった。
だからこそ、こんなことも言ってしまった。
「あー………現実に戻りたくなーーーい……明日の仕事が嫌すぎる………行くけど」
普段なら絶対に口にしない。仕事は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。でも今だけは、今があまりに幸せで、名残惜しかった。
永遠に日曜日ならいいのに。
「……仕事が嫌なんじゃない」
九条の声は、すぐに返ってきた。
「今が、幸せなだけだ」
「……うん。そう。……正解」
目を閉じて、彼の声をそのまま胸に収める。ほんの少しだけ泣きそうになる。
「でも……お腹は空くし……トイレも行きたい……」
「生きてる証拠だ」
「……まじでそう」
身体の現実に引き戻されて、仕方なくベッドからのそのそ抜け出した。
「……じゃあ、行ってくる」
「気をつけて」
まるで長距離旅行にでも出るようなその一言に、澪は思わず笑って、後ろを振り返った。
「ただのトイレだから」
「無事に帰れ」
「はい」
ベッドの上の彼と、ベッドの外の自分。
境界はほんの少しだけ越えたけど、
ちゃんと「戻る場所」があることを、澪は知っていた。
床には、九条が昨夜脱ぎ捨てた黒のTシャツが落ちていた。
拾い上げて椅子にかけようとしたが、ふと手が止まる。
――あ、ついでにランドリーに持って行こう。
裾を持ち直したとき、タグが目に入った。
UNIQLO。
「……は?」
思わず二度見した。
これ、ユニクロ……?
てっきり高級ブランドかと思ってた。生地の落ち感、光の反射、全部それっぽかったのに。
「全然見えないんですけど……」
小声で呟いて、ため息交じりに笑う。
九条が着てると、ユニクロがユニクロに見えない。
「機能的だから、着てる」
背後から聞こえた声に、びくりと振り返る。いつの間にか起きていた九条が、髪をかき上げながらベッドに寄りかかっている。
「……そっか。そういうとこ、らしいな」
値段でも、ブランドでもない。ただ使えるかどうかだけで選ぶ。それでも“高く”見えてしまうのは、たぶん――。
服が映えるんじゃない。
着る人間が、服を変えるんだ。
「……そういえば、氷川さんは? 下の名前、なんて言うの?」
「尚登」
即答だった。九条の口から下の名前が出てくるのが、少しだけ意外で、澪は目を瞬かせた。
この人が、誰かを下の名前で呼ぶのって――新鮮だな。
……あ。
思い出した。私も――名前で呼ばれてた。
唐突に胸の奥があたたかくなる。
あの夜、命令のように、でもどこまでも静かに「澪」と呼ばれた声が、ふっと蘇った。
澪はシャツを抱えながら、そっと洗面所へ向かった。
朝食
シャワーを浴び終えた澪がキッチンに入ると、冷蔵庫の中にはラップのかかった皿が整然と並んでいた。
「2月2日(日) 朝食セット」
小さく書かれたメモが貼られていて、
その下には、丁寧な手書きで中身の内容が記されていた。
✅ オートミール(ナッツ・ドライフルーツ入り、蜂蜜・ミルク別添え)
✅ カットフルーツ盛り(キウイ、オレンジ、ブルーベリー)
✅ ヨーグルト(ハニー&ナッツソース付き)
✅ ハーブティー or ブラックコーヒー
「……すご」
澪は思わず声に出していた。
まるでホテルの朝食。いや、それ以上に気遣いが行き届いている。
レオン――五百旗頭さんって、いったい何者なんだろう。
氷川さんといい、気が利き過ぎて震える。
九条雅臣の周りってどんな人間で構成されてるの。
オートミールの器にミルクを注ぎ、蜂蜜をかける。
フルーツを並べ、ヨーグルトのソースも開けて、小さなテーブルにゆっくり並べた。
ちょうどそこへ、九条が静かにキッチンに入ってくる。
「……何か手伝うか?」
「ううん、大丈夫。っていうか、全部できてる。ありがたいことに。五百旗頭さん、素晴らし過ぎる」
「レオンでいい」
「…じゃあレオンさんで」
コーヒーとハーブティーの湯気がふわりと立ち上り、テーブルの上をゆっくり包む。
二人は向かい合って席につき、しばらく無言で朝食を食べ始めた。
オートミールのナッツの食感と、フルーツの甘酸っぱさが、静かな朝にやさしく溶けていく。
フルーツもヨーグルトも、空腹の胃にありがたかった。
カップに注がれたハーブティーの湯気をぼんやり眺めながら、澪はふと思った。
“やらなきゃいけないこと”が、何ひとつ浮かばない。
洗濯もしなくていい。掃除も、朝から頑張らなくていい。
普段の休みの日は、むしろ「動くための日」みたいになっていて、
どこかしら緊張感がついてまわる。
でも今日は違う。
ここでは、「しなきゃいけないこと」が一つもない。
全部、誰かがやってくれる。
ただ、“したいこと”だけに時間を使ってもいい。
そんな贅沢、今までどれだけあっただろう。
「……今日は、いい日だね」
ぽつりと零した言葉に、九条は視線を上げる。
「そうか」
ただそれだけの返事だったけど、
否定されなかったことで、十分だった。
「普段、休みの日って洗濯したり掃除したり、買い出し行ったりしてたんだけど、ここそういうの全部しなくていいから、ほんとに何もしなくていいっていうのが新鮮。………なにしよ」
九条も、普段オフの日は、空白の時間を過ごしてる。今のような空白じゃないオフは新鮮だった。
2人とも”この時間”に戸惑っていた。
そこで、澪からの提案。
「じゃあ……したいことをしよう」
澪は、ほんの少しだけおどけた調子で言った。
「雅臣さん、なにしたい?」
その言葉に、九条はわずかに眉を動かした。
したいこと。
言われて、すぐに答えが出なかった。
今までの人生は、“するべきこと”で埋め尽くされていたから。
勝つために練習する。
コンディションを整えるために休む。
次の遠征のために準備する。
“したい”という主語を持って、何かを選ぶことがーー思い浮かばない。
彼は少しだけ視線を外して、それから静かに口を開いた。
「……わからない」
それは正直な答えだった。
澪は驚きもせず、ふっと笑った。
九条はそう答えた。
その声に迷いはなかった。むしろ、言い慣れていない正直さが滲んでいた。
澪は、その答えに驚きもしなかった。
知っている。
彼が“やりたいこと”を知らないことは、なんとなく感じていた。
不快なものを排除することは早いし躊躇いがないけど、したいことを選ぶのが苦手だ。
彼の人生の中に“選んできた”という感覚が希薄なのは、わかっていた。
だから、笑いながら、少しだけおどけた口調で言う。
「じゃあ、選択肢」
澪は指を一本ずつ折りながら、ゆっくりと数える。
「外に出掛ける……は、あまり現実的じゃないかな。あ、でも個室のお店とかなら行ける?」
「……可能だ」
「じゃあ、選択肢
①:どこかに出掛ける
②:家で過ごす
ちなみに、隠し選択肢で
③:ベッドに戻る
……というのもございます。今の気分は?」
少しだけ茶化した口調で言いながら、でも心のどこかでは、彼が何を選ぶかをちゃんと待っていた。
九条は短く視線を伏せて、それから――ぽつりと尋ねた。
「お前は?」
「②か③」
すぐに答えた澪は、少し笑って言葉を継いだ。
「出掛けたかったら、全然付き合うよ? でも、そうじゃないなら……家でのんびりでもいいし。
意見が合えば、③も」
最後の言葉は、少しだけ口の端に笑みを乗せて。
九条は一瞬、目を細めて澪を見た。
何かを見透かしたような、あるいは確認したような目だった。
そして、静かに言った。
「……②だな」
「了解です、選択肢②」
澪は頷いて、ようやくハーブティーをひと口飲んだ。
ほんのりした香りが、舌よりも先に胸に染みていく。
今日は、**“何かをしなくてもいい”**日。
そして、“何をしようかを一緒に考えてもいい”日。
「さてと……じゃあ、室内で過ごすなら、なにする?」
そう言いながら、澪は指を折っていく。
「選択肢いきます。
①:映画見る。私Netflix入ってるから、ログインすればここでも見れると思う」
九条は黙って頷く。TVの操作は、氷川に全部設定されている。
「②:話す。……聞きたいこと、けっこうあるの。もちろん、たくさん話すのがしんどかったら、静かに過ごすのもあり」
「…2」
「②、了解です」
澪はテーブルに肘をつきながら九条を見た。
「聞きたいこと、あるの。今さらだけど……。
こうなってるのに、私、あなたのことあんまり知らないから」
九条は、その“こうなってる”という言い方に、わずかに目を細める。
でも何も言わず、黙ってうなずいた。
「全部いっぺんにじゃなくていいから。疲れたら止めて。……私、一人でも勝手に話すし」
「……わかった」
静かな返事だった。
けれどその短い言葉に、拒絶の気配はどこにもなかった。
澪は少しほっとして、姿勢を起こした。
「じゃあ――まず一番気になってること」
澪は指を一本立てる。
「九条雅臣って、どこに住んでるの?」
「……ここだ」
「いや、そうなんだけど……“本拠地”っていうか、何をもって“家”って言ってるのかなって」
九条は一瞬考え込んでから、ぽつりと答える。
「モナコ」
「……モナコ?」
「ヨットを置いてある。Sunreef 50。
去年納品されたのがあそこだ。
動き回る生活だからこそ、港に係留されてるそれが、“ある”場所になる」
「あー、モナコに納品してたね、あれ」
九条のヨット購入の際、担当者だった澪は思い出していた。
納艇場所をモナコの港に指定されていた。
海外の、きらびやかな港町。だけど九条が言うと、それは“優雅な拠点”じゃなく、“どこにも縛られない場所”の象徴に思えた。
「……じゃあ、なんでSunreef買ったの?」
ハーブティーのカップを持ち上げながら、澪はふと思い出したように問いかけた。
九条は手元のコーヒーのカップを置いてから、わずかに首を傾けた。
「雅臣さんって……プライベートでやりたいこととか、あんまりなさそうに見えるんだよね」
「……」
「なのに、Sunreefでしょ。最高ランクのカスタムで。そこまでコストかけて、どうして買ったのかなって」
九条は言葉を選ぶように少しだけ黙り、それから静かに答えた。
「――陸から離れたかった」
「……え?」
「どこにも繋がらない場所。電波も、音も、届かない。世界と距離を置いて、ただ海に浮かんでるだけの時間が欲しかった」
その声は、いつになく真っ直ぐで、少しだけ寂しかった。
世界中どこでも仕事場で、どこでも”戦う場所”になってしまうというのは、世界中どこでも”休まる場所”ではなくなるのかもしれない。
「でも、不便なのは嫌なんだ。快適じゃないと、頭が止まらない。だから、妥協せずに作った。……必要最低限、でも最高の快適さで」
「一人で乗るの?」
「基本はそうするつもりだった。スタッフも乗せるとしても最低限だけ。
……でも、今は違う」
「……違うの?」
「“いつか誰かを乗せる未来”を、想像してる」
その言葉に、澪は一瞬だけ息をのんだ。
そして、ふっと小さく笑った。
「じゃあ……いつか、乗せて」
それが叶うかどうかはわからない。
でも、言うだけなら、自由だ。
九条も、黙ったまま頷いた。
それだけで、ほんの少し、未来が近づいた気がした。
「………変なこと聞くけど……」
コーヒーの香りに紛れて、小さく澪が呟いた。
「他に……恋人とか、いたりする……?」
一瞬、静かになる。
目の前の九条は、コーヒーをひと口飲んでから、ゆっくりとカップを置いた。
「いない」
それだけだった。
でも、その声には余計な感情も、演技もなかった。
嘘のない声だった。
安心したように息を吐くと、澪は慌てて続ける。
「ほんとに変なこと聞いてごめん。疑ってたわけじゃない。ただ…そういうひとが世の中にいる、ってだけ。確認したかっただけ。ほんとごめん」
「……だから、聞いた?」
「うん」
正直すぎる言葉に、九条は眉をひとつ、わずかに動かしただけだった。
その言葉に、ほんの少しだけ、胸の奥が静かに揺れた。
澪は、疑ってるわけじゃない。
でも、信じきれるほど、強くもない。
それは彼女が“弱い”からじゃない。
ただ――“現実を知ってる”からだ。
「……いない。……ただの遊びなら、家で何日も過ごさせたりしない」
それは、少しだけ澪の胸を打った。
「……そっか。それもそうだよね」
コーヒーの湯気が、ゆらりと揺れる。
澪は黙ったまま、その湯気を見つめた。
「逆に、私に聞きたいことある?体重以外で。何でも答えるよ」
「じゃあ……好きな時間は?」
「……え?」
「一日の中で。どの時間帯が、一番好き?」
澪は、飲んでいたハーブティーを一度置いて、ふと考え込んだ。
「一日の中で好きなのは……今は仕事してる時間が長いから、正直夜しかないかな。
昔は夕方の、夕焼け見てる時間が好きだった。
あとは……早く起きちゃった日の早朝とか。
バタバタしてない、静かな時間が、なんか好きで」
「……俺と過ごしてて一番嬉しかった時間は?」
少しだけ言葉に迷って、でも笑いながら答える。
「……現在更新中、かな。
アプリのアップデートって、今が一番“最新”でしょ?
でも未来に、もっと良くなる。そんな感じ。初めて会った時より、今の方が嬉しいし、でも未来でもっと嬉しくなると思う」
そう答える澪は、少し頬に赤みが差していた。
九条は何も言わず、ただ静かに彼女を見つめていた。
ふと、唐突に九条が言った。
「……俺の、どこが好き?」
「ぶっ――」
動揺を鎮めようと飲みかけていたハーブティーで、見事にむせた。
「ちょ、なに急に!聞き方ずるい!!」
「答えろ」
「聞き方ってもんがあるでしょうが!!」
「お前が“なんでも答える”って言ったんだろ」
「……っ……可愛くない、この人……!」
むくれながら、でも、頬が緩んでた。
「………どこっていうか、全部」
「具体的に」
返しが早かった。
けれど、その目は、どこか期待しているようで。
「……昨日の夜思ったのは、目が好き。綺麗。体型も好き。腹筋好き。あ、でも、ものの考え方とか、性格も好き。落ち着いてて静かなとこも好き。頭良いとこも好き。あと、声も好き。……まだ言う?」
九条は答えなかった。
けれど――
その目だけが、すべてを肯定するように澪を見つめていた。
ほんの少しだけ、空気があたたかくなる。
コーヒーの香りと、陽だまりと、静かな日曜日の朝。
心を寄せ合った2人が、そこにいた。
「まだ言えるけど、聞く?」
「…聞いておく」
「肌スベスベしてるの好き。絶対何もしてないよね、なんで?睫毛長くて多い。羨ましい。あ、食べ方綺麗なの好き。あと…嘘つかないところ。嘘つかれると会話してて意味ないって感じちゃう。あと、言う事を前もって考えずに、その時に考えてから話すとこも好き。これ言おうって台本作ってから話してないとこ好き」
「それは褒めてるのか?」
「うん」
一拍置いて、九条がぽつりと口にする。
「………ありがとう」
「どういたしまして」
少しの沈黙。
「……お前の好きなところも言うか?」
「絶対照れる予感しかしないから、せっかくですが」
「……じゃあ、今はやめておく」
九条は、口元だけで小さく笑う。
「えっ」
「言ったら、お前、顔真っ赤になる」
「……それは、まぁ……なるけど。今も顔熱いし」
「だから、後にする。楽しみは取っておく」
その笑みは、どこか余裕のある少年のようで。
けれど、そこに含まれるやさしさが、なぜか胸にじんと染みた。
仕事モードON
「あ、そうだ」
澪は、ふと思い出したことがあった。
2月の後半まで九条が日本にいると聞いて、それなら、と考えていたことがあった。
「午前中の間に、一回家帰ってきてもいい?すぐ戻る」
「…構わないが、忘れ物か?」
「いや、電気使わないからブレーカー落としてきたくて。あとガスの元栓とか閉めてくる」
「…」
九条は少し黙って、考え込むように視線を落とした。
「…庶民なもので。待機電力とか気になるんです。あと万が一の火災防止」
肩をすくめるように言った澪に、九条が静かに応じる。
「…俺も行きたい」
「えっ!?」
驚きで声が裏返った。思わず椅子の背にもたれそうになる。
「駄目か?」
「駄目じゃないけど…うち普通の庶民の一人暮らしの家だから、全然広くないよ?この家の1部屋分くらいしかスペースないよ?」
言いながらも、どこか気恥ずかしさが滲んでいた。
「いい。お前がどんなところで暮らしてるのか見たい」
言葉に余計な色はない。ただの事実を述べるような声音。
けれど、それは“知りたい”という九条なりの感情の表れだった。
「…そっちも変わってるじゃん…」
「普通の感覚ならこの立場にいない」
少しだけ笑って返す九条に、澪も苦笑する。
「…確かに。私の部屋、全然女の子っぽくないよ?」
「ああ」
「じゃあ、一緒に行こうか」
返事をする彼の目は、どこまでも真っ直ぐだった。
そして澪は、少しだけ頬を染めながら、小さく笑った。
澪がそう言うと、九条は短く頷いた。
「氷川に連絡する。車を出させる」
「えっ……氷川さんも来るの?」
「送りだけだ。お前の家の前までは俺と一緒に行く」
「……わかった。じゃあ、今から?」
「10分で準備しろ」
「うっ……は、はい」
澪が慌てて立ち上がり、バッグの中身を確認しながら支度を始めると、
九条はスマートフォンを耳に当てて、簡潔に言った。
「今から外出する。15分以内に車を回せ。行き先は後で伝える」
通話は、それだけで終わった。
やがて、レジデンスの地下駐車場に滑り込んできた黒い車。
運転席からは、氷川尚人がいつもの無表情で降りてきた。
ドアを開けると、軽く会釈だけして澪を見る。
「……おはようございます」
「あっ……おはようございます」
氷川の挨拶はあくまで丁寧だったが、どこか探るような視線も混じっていた。
澪は思った。
――氷川さん、ちょっとだけ目つきが優しくなった…かも?いや気のせいか?私が慣れただけかも。まだ良く思われてないよね。
だけど、それも当然かもしれない。
九条のそばにいる人なら、そう簡単に“誰か”を信用したりはしないだろうから。
澪が車に乗り込むと、九条もその隣に静かに腰を下ろした。
車内はしばらく、穏やかな静寂に包まれていた。
その瞬間、車内の空気が切り替わる。
まるでスイッチの入ったような、張り詰めた沈黙。
澪は目を伏せながら、そっと思った。
――なんだろう。
ここでは、九条がちょっとだけ“遠く”なる。
でも、それも彼の一部なんだ。
静かにエンジンがかかり、車はゆっくりと地下を出ていった。
「行き先、私の家なんですけど、住所…」
澪がスマホの画面を見せようとしたら、氷川が遮った。
「以前、一度送らせていただいたので、把握しております」
「え、一回で覚えたんですか?」
澪が驚いて尋ねると、運転席から返ってきた声は淡々としていた。
「仕事ですので」
それ以上でも以下でもない、割り切られたような言い方だった。
だが、澪はそこに妙な誠実さを感じた。
――やっぱり、プロだなぁ。
なんか、すごい人が九条さんの隣にいるんだなって思う。
それは怖さではなく、むしろ安心感に近い。
自分の知らない世界で生きてきた人たち。
その世界に、今、自分が少しだけ足を踏み入れていることを実感する。
「ご迷惑でなければ、車は近くに停めて待機します。滞在時間の目安を教えていただけると助かります」
「え、えっと……30分くらいあれば全部見て回れると思います…!」
「了解しました」
氷川はそれだけを短く告げると、再び視線を前に戻した。
澪はそっと隣を見た。
九条は、変わらぬ無表情で黙って前を向いている。
けれど、どこか優しさがあった。
それは澪にしか分からない、わずかな気配の違い。
――九条さん、きっとここでは“仕事モード”なんだ。
彼の世界では、こうして感情を切り替えるのが当たり前なのかもしれない。
でも、ちゃんと隣にいてくれる。
それだけで、澪は少しだけ安心した。
やがて、車は澪の住むアパートの近くに静かに停車した。
ドアが開き、外気と共に、少し肌寒い空気が流れ込む。
「……じゃあ、行こうか」
「うん」
九条は何も言わず、黙って澪のあとを歩き出した。
彼が“来る”と言ったこと。
その意味を、澪はまだ完全には理解していなかったけれど――
心の奥に、じんわりとあたたかさが広がっていた。
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