1月31日(金) 朝〜夜
目を覚ました瞬間、見慣れない天井が視界に広がった。
ほんの一瞬、ここがどこなのか分からず、まばたきを繰り返す。
家と違い、冷えてない空気。静まり返った空間。
――ああ、そうだ。九条さんのレジデンス。
昨日の夜、結局、彼の寝室で寝てしまったんだった。
今、何時なのか分からない。でもなんとなく、いつも起きる時間よりも早い気がする。
環境が変わって、寝具も変わったことで緊張して睡眠が浅かった。
自分のゲストルームに置きっぱなしになっているスマホを取りに行きたい。
体を起こそうとして、ふと気付く。
私、パジャマ着てる。
昨日、裸のままベッドに入って寝てしまったはずだ。
隣を見ると、九条さんが寝てた。
裸で。
なんで!?昨日の夜、服着たまま終わったじゃん!!
なんで今裸なの!?裸で寝る人!?!?
なんで私は裸で寝たのにパジャマ着てるの!?
え、まさか着せてくれた?そういう優しさある人なの?てか、そんなことしてくれた人、今まで一人もいなかったけど!?
で、自分は裸で寝るのかよ。確かにこの家、全然寒くないけどさ。
する時は服着てたのに、終わってから寝る時に服脱ぐって信じらんない。
いつも寝る時裸なのかな。だからお風呂上がりなのにシャツ着てたのか。
てか、もしかして全裸?
セレブは裸で寝るものなの?
一瞬だけ、布団をめくって確認してみようか考えて、すぐ振り払うように消した。
馬鹿なこと考えてないで、出勤準備しよ。
実は遅刻確定な時間だったらどうしよ。
昨夜とは違って安らかな寝顔で眠る九条さんを起こさないように、そーっとベッドから抜け出して、寝室のドアも静かに潜った。
この家には時計が1つもない。
自分のスマホを見ないと時間が分からない。
ゲストルームに戻って、ドアを閉めたら、ほっと一息つけた。
なんか、変な緊張とか、動揺とか、色々な感情がずっと混ざっていた数時間だった。
嫌な時間ではなかった。ただ心が忙しかった。
昨日の退勤後は本当にいろんなことを考えた時間だった。
今日が休みだったらよかったのに、残念ながら仕事だ。
まだ月曜日じゃないだけマシか。
机の上に置きっぱなしになっていたスマホを見たら、朝の5:30。
これは今日、昼間に眠くなるやつだ。
昨夜は何時に寝たのか分からない。多分、そんなに遅い時間ではなかったと思う。なんなら私が言った「2時間」という言葉をきっちり守ったんじゃないだろうか。
ってことは、約2時間焦らされてたってこと?そりゃきついわ。おかしくもなる。
せっかく買ってきた避妊具は、使わないまま終わってしまった。どうして彼、最後までしなかったんだろ。最初はする気あったみたいだけど…。
結局、私だけが満足して終わってしまった。寝ろと言われて、言われるがままに眠ってしまった。
そして今日、仕事が終わってから、私はここに来ても良いんだろうか。
昨日、九条さんに言われた言葉。明日も明後日も、いられるならいてほしいという言葉。
本当にここに帰ってきて、やっぱり自分の家に戻れ、なんて言われたりするのかな。
でも荷物があるし、仕事が終わってからか、昼休みにでも九条さんに連絡してみよう。
二度寝したら絶対に起きられないから、朝早いけど顔を洗って着替えて、メイクの準備を始めた。
睡眠時間が短い割に、化粧乗りは良かった。
スッキリしたのかな?私欲求不満だったのかな。それか、久しぶりにして満足した、とか?
セックスしたら綺麗になるなんて、そんな極端には変わらないって思ってたけど、昨日のは多少効果あったのか…?
昨夜の「自分ではない誰か」の声を思い出す。キスした唇と舌の感触、唾液の味、肌に触れられた手や指、懇願するまで焦らされた中心。
全部を思い返して、メイクの手が止まる。
…今日は仕事にならない予感がする。
でも、またしたい。今度はもっと深いところまでしたいって願ってしまう。
私だけ満足しちゃったから、怒られたり嫌がられたりするかな。
九条さんが、冷静じゃなくなることってあるんだろうか。今のところは全然想像できない。
着替えとメイクが終わってから、まだちょっと早かったけど、出発することにした。
駅までちょっと歩く必要があったし、ここは人の家だから、あんまり好き勝手するわけに行かない。
九条さんは寝室から出てこなかったし、寝てたら物音で起こすのは申し訳ないので、寝室に近寄らなかった。
キッチンのテーブルにメモ用紙で「仕事に行ってきます」の書き置きを残して、エレベーターで1階まで降りた。
1階のエレベーターホールに降り立った瞬間、空気が変わった気がした。
地下駐車場の殺風景な灰色の世界とは違い、ここは柔らかく光が回る空間。
全面ガラス張りの壁から、冬の朝の薄曇りの光が入っている。
高い天井。磨き上げられた大理石の床に、ヒールの音がコツ、コツ、と響く。
黒革のソファセット、ダークブラウンのシンプルなテーブル、シンボリックな観葉植物。
控えめな香りが漂い、くどくない、ホテルのロビーみたいな清潔感。
無意識に背筋を伸ばして歩く。
一歩一歩、自分の存在が場違いなんじゃないかという不安がよぎる。
でも、受付の奥に控えるコンシェルジュはちらりともこちらを見ない。
――九条雅臣のゲスト。
それだけで、何も言わずに通れる立場になっているのが分かった。
玄関横のオートロックドアの近くに立ち、深呼吸をした。
ポケットからスマホを取り出して、もう一度時間を確認する。
朝の6:30。ちょっと早いけど、準備して出社するにはちょうどいい。
ガラスドアの向こうは冬の街だ。
冷たい外気が入り込むと、一気に頬が冷たくなる。
「……冬だな」
思わず、口の中でつぶやいた。
たった一晩の間に、すごくいろんな世界を見てきた気がする。
背後にある非日常と、これから向かう日常。
その境界線に立って、もう一度だけ深呼吸する。
「よし、行こう」
そう心の中で言って、澪はドアの外へと歩き出した。
出勤途中、オフィスの近くのカフェで朝食を食べた。サンドイッチと、温かいコーヒー。普段は家で朝食を済ませてるんだけど、流石に何か食べないと仕事中辛い。
食事と睡眠に手を抜くときっちり肌や髪にサインが出るから、ここはちゃんとする。最大のスキンケアは化粧品より、食事と睡眠とストレスケアだ。
どれかが疎かになると、数日、ひどければ2日でサインが出る。吹き出物が出来たりしてテンションが駄々下がりになる。
ちょっと脳内に血が巡ってない感覚を引き摺りつつ、でもなんか体だけは妙な満足感を抱えているという不思議な状態で午前中は働いた。
お昼休みに九条さんに「今日、仕事終わってからそっちに直接行っていいですか?」ってiMessage送った。
これで「来るな」って言われたらどうしよ。荷物だけ回収させてほしい。
お昼を食べている間、なんか視線感じるなーと思ったら、以前私の中で最悪の過去を生み出した人間が遠巻きにこっち見てた。
一瞬視線があったけど、気付かないフリをした。
同じ会社の人間じゃなかったら即縁切ってる。
私の中では「二度と関わりたくない人間」の一人だ。
大丈夫、あいつは2人きりじゃなかったら話し掛けてこない。人がたくさんいる場所で、私に騒がれると面倒だから。
心の中に黒いものが広がっていくのを感じながら食事していたら、スマホが震えた。
通知には
「いい」
だけ書いてあった。
それだけかい。今省エネモードなんだな。
そう思いながらも笑ってしまうのをこらえるのが大変だった。
午後、デスクに戻る途中で直属の上司に会った。
「お疲れ様です」
この人は上司としてすごく好き。
会うと自然と笑顔になれる。
「お疲れー。ねえ今下がってる銘柄ってチェックしてる?」
「え、最近全然見てないです。めんどくさがりだからタイミング投資向いてないですよね、私」
「アメリカのETF下がってるやつあるよ。確かいくつか買ってたよね?よかったら見てみて」
「後で見ます。買い増ししようかな」
この人は私が唯一投資の話が出来る相手だ。しかも上から目線で知識のひけらかしを一切やらない。
私が体調を崩した時もまず心配してくれて、顧客の対応まで引き受けてくれたこともある。好感度高いから代役で出てもまず嫌がられないし、引き継ぎも完璧過ぎた。
「こっちの事は気にしないでいいから、ゆっくり休んでね」という声を今でも覚えてる。
何より好きなのは、どんなに親しくなっても一切「その先」を求めてこない。
食事に行くとしても複数人を連れて行って、しかも全額出してくれる。上司と部下の線引きを超えない。
安心して接することが出来る数少ない異性の1人だ。
仕事を定時でさっさと切り上げて、オフィスのエレベーターに乗った。
トラブルが無くて良かった。今日は残業したくない。
スマホに「今から電車で向かいます」ってフリック入力してたら、ドアが閉まり切る直前、手を挟んで無理やりドアを開ける人がいた。
例のあいつだった。もう名前すら呼びたくない。
頭から記憶ごと消したい。
スマホの入力画面を見られたくなくて、体に押し付けて隠した。
宛先の「九条雅臣」の字を見られたくない。
エレベーターの中、密室。2人きり。条件が揃ったから乗ってきた。
最悪。
「いつも残ってるのに、今日珍しく早いじゃん」
「ええ、まあ」
自分からこんな冷たい声が出るのかと内心びっくりする。
エレベーターのドアに映る顔は、雪女かよってくらい氷のよう。表情がない。
なんでこんなに嫌がってるのに気付かないんだろう。
気付いてるけど、私の気持ちなんてどうでもよくて、自分がどうしたいかが最優先なのか。
どちらにせよ大っ嫌い。
男同士の友情を傘に着て”応援”してもらってるところも嫌い。
来るなら一人で正々堂々と来い。
でももう手遅れ。話しかけるな。
九条さんみたいに全く音が聞こえなくなればいいのに。残念ながら私は聞こえてしまう。聞きたくない声も。にやついた顔も見えてしまう。
心に鉄のシャッターをおろしても、全てをシャットアウトはできない。
一階についたらこいつは無視してとっとと帰ろ。
って思ってるのに、エレベーターを降りた後もついてくる。
私、すごい素っ気ない返事しかしてないのに、めげずに話し掛けてくるし。どんなメンタルだよ。他の事に使え。
会社を出て、駅に向かう間も横について歩いてくる。
まさか駅まで一緒に来る気?
私家まで帰るわけじゃないから困る。乗る方向を知られたくない。
iMessageもまだ送ってないし。
送りたいけど、送信先をこの人に見られたくない。
マジでついてこないで。
走ってもヒールだし、振り切れない。
結局、職場の最寄駅まで来てしまい、家とは反対方向のホームに向かう。
「あれ、家こっちじゃないの?」
言うと思った。
「今日は用事があるので」
「買い物?付き合うよ」
………マジでなんなの、この人。
なんでこんなに嫌がってるのに何も思わないの?
あんなことがあって、2人で出掛けるなんてするわけない。夜に2人きりになんて絶対にならない。
なんで分からない?
どうしてそんな鈍くて生きていられる?
「いいです。一人でいたいので」
「えー寂しいじゃん。なんならご飯も行こうよ」
死んでも嫌。
でも、どこに行くか見られたくない。歩いたらこいつはついてくる。
どうしよう。
一回帰ってから改めて向かうか?
ほんとやだこの人。
前もそうだった。私の負担とか都合とか一切考えずに「自分がしたいこと」だけを最優先にした。
本人の中ではグイグイいってるつもりなんだろうか。ここで引いたら負けとでも?
一回「押して駄目なら引く」ってことを覚えろ。
まあ、引いたら一生関わらないけど。
目が乾く。顔が死んでいく。
時間をゴミ箱に捨ててる気分。
「頼むからついてこないで。一人にして。ついてきたら通報する」
こんな低い声出せたのかってくらい、腹の底から声が出た。
返事を聞かず、踵を返した。
本当にこっそりついてきてないか、後ろや付近は確認した。
あんな高級なレジデンスに入るところを見られたら、何を言いふらされるか分かったもんじゃない。
念の為に、遠回りした方がいいか?
電車の中で送り掛けのiMessageを送信した。返事は無かったけど、たぶん読んでる。
レジデンスの最寄駅に着いてから、念の為に真っ直ぐ向かわず、駅の周りをぐるっと回った。
尾行されてないか確かめるために。
何やってんだろ、ほんと。これで30分以上ロスした。
…疲れた。
せっかく定時で上がったのに、全部無駄。
週末の疲れてる時に勘弁してほしい。
思い描いてた予定が崩れて、それに大きなストレスを感じる。
そこまで考えて気付いた。
…週末だから追いかけてきたんだ。
明日休みだから。
また何か不穏なことを考えて声をかけてきたのかと想像してしまって、全身に寒気が走る。
お腹すいてるはずなのに、気分悪過ぎて食欲が失せた。
今日、ご飯用意してもらえる…んだろうか。
そんな何日も用意してもらえると思ったら大間違い?
いやでも、あのスタッフの人は「ここにいていいという意味を考えろ」って言ってたしな。
レジデンスの前に立った。
高級感のあるガラス張りのオートロックの前で、ポケットからスマホを取り出し、九条さんにiMessageを送る。
「着きました。エレベーター動かせません」
指先が少し震えている。返事はすぐ来た。
「行く」
それだけ。短く、九条さんらしい。
やっぱり省エネモードだ。
しばらくして、エントランス内からスーツ姿の男性が現れた。
料理を運んだり、私を車で送迎してくれた人。さすがにもう顔は覚えた。
私の前で立ち止まり、小さく会釈する。
「ついてきてください」――言葉にはしないけれど、そう伝わる視線。
「ありがとうございます」
そう言って、あとをついていった。声の低さは戻ってたけど、ちょっと元気なかった。
この人は余計なことは言わない。聞いてこない。2人きりになるのも、この人は嫌じゃない。冷たい雰囲気だけど、少なくとも嫌な事は絶対してこない。
ガラスドアが開き、冷えた冬の外気が一瞬だけ流れ込む。
でもエントランス内は、外の空気なんて全く感じない温度に調節されてる。
彼のあとを歩きながら、澪は小さく深呼吸した。
もう話しかける気力もないほど疲れてる。
なんで嫌な人ってこんなにエネルギーを吸い取るんだろ、無自覚に。
スタッフの彼が認証操作を済ませると、静かにエレベーターが開く。
無言のまま、二人で中に乗り込んだ。
名前をそろそろ聞いたら教えてくれるんだろうか。
でも今日はもう寝てしまいたいくらい疲れた。
精神的に。
仕事終わったとこまでは順調だったんだけどな。あいつの破壊力すごいわ、そこだけはほんと尊敬する。悪い意味で。
エレベーターが最上階について、ちょっとだけ見慣れた玄関ホール?が現れる。
この空間のことをなんで呼ぶのかわからん。
ヒールを脱いで、シューズクロークに入れるのは家人がやって良いことだと思うから、なんとなく床の隅っこに揃えて置いておく。
ストッキングで室内に入ろうとしたら、ふかふかのマットの上に黒のスリッパが揃えて置いてあった。
お掃除の方が入ったのかな?
スリッパを履いてリビングの方へ向かった。
大きなソファがある部屋に向かうと、昨日の夜と同じように九条さんはソファに座ってた。
またスマホもテレビも見てない。本も読んでない。
この人、待機時間はいつもこんな感じなのか?待機することがないから、慣れなくてこんな感じなのか?
私が帰ってきたことに気付いて、ゆっくりこっちを見た。
「えっと…ただいま?お邪魔します」
「ああ」
短い返事。スイッチ切ってるとほんと別人みたいにおとなしい。
人の家でただいまはおかしいか、と思いながら、でも仕事終わって泊まりに来ることってないから、なんかよく分からない。しかもいられるならずっといて良いっていう状況がまた。
「荷物、置いてきますね」
とりあえず、持ってるハンドバッグをゲストルームに置きに行った。
コートをクローゼットにかけて、鏡でちょっとだけ身だしなみチェック。
なんか、急に疲れた顔をしてた。
精神的に疲れた。
駄目だ、切り替えよう。
息を吐いて、気持ちを落ち着ける努力をする。
起きた嫌な出来事はなかなか忘れられないけど、せめて気持ちを少しだけ浮上させる努力をする。
「嫌なことがあった」「つらかった」という自分の心の反応だけはちゃんと受け入れて。
そこを否定してはいけない。殺してはいけない。
人に話す必要はなくても、自分だけは聞いてあげる。
落ち着いてからリビングに戻ると、九条さんの姿がなかった。
さっきまでソファに座っていたのに。
「……あれ?」
小さく声が漏れたけど、返事はない。
足音を立てないようにそっと奥へ進むと、キッチンの方から微かに音が聞こえてきた。
金属と陶器が触れ合うような、控えめな音。
(まさか……準備、してくれてる?)
覗き込むと、九条さんがキッチンのカウンター越しに、ケータリングの包みを開けていた。
ラップを剥がす手つきは驚くほど丁寧で、見慣れないはずなのに迷いがない。
冷蔵スペースから白ワインのボトルを取り出し、ラベルを確認して、ゆっくりグラスを2つ出している。
なんだか意外だった。
家主が自分のために、準備をしている。
しかも、昨日まではしなかったことを、今日はしている。
一日で驚くほどレベルアップしてる。いやもともとあったスペックを眠らせてたのか?どちらにせよ”変化”だ。
「……すごい」
思わず小さくつぶやいてしまった。
九条さんは振り返らなかったけど、きっと気付いている。
それでも何も言わない。
黙々と準備を続けるその後ろ姿は、
『君が戻ってくるのを前提に動いてる』
と、物語っていた。
胸の奥が、じんわり熱くなった。
疲れてるのに、嫌なことがあったのに、
こういうところで救われるなんて思わなかった。
「……ただいま」
もう一度、小さくつぶやく。
返事はなかったけれど、聞こえてるんだろうな。
(食べないで待っててくれたんだ)
そう思っただけで、少し泣きそうになる自分がいた。
帰り道、駅の周りをぐるっと遠回りして帰ってきたから、その分待たせたはずだ。
「待ってた」とか「一緒に食べよう」とか一切言わないけど、行動で示してる。
その姿にすごくほっとしてる自分がいた。
そしてあのワイン、なんだろ?
銘柄はたぶん見ても分からない。
「手伝いましょうか」
昨日、自分が食べる分は自分で用意しろと言った手前、やらないわけにはいかない。
でも、なんか視線で止められた。目が合ってから、視線がテーブルの方向に動いた。
「座ってろ」ってことかな。
…なんか、無言のコミュニケーションに慣れてきてる自分がいる。
小さく息を吐き、そっとダイニングテーブルの椅子を引いて座った。
テーブルの上は、昨日とは違う料理の詰まった箱が2つ並んでいる。
一方は深い藍色、一方は淡い灰白色。
どちらも品よく包装されていて、食べ物というより高級な贈答品みたいに見える。
「どちらがいい?」
九条さんがふと顔を上げ、短くそう言った。
(え、選ばせてくれるんだ…)
昨日は彼が先にお肉を選んで、私は残りだったのに。
今日は、私に先に選ばせてくれる。それだけで少し胸があたたかくなる。
「じゃあ……こっち、いいですか?」
恐る恐る、灰白色の箱に手を伸ばした。
なんとなく明るい色の方があっさりしてそうな気がしたから。
九条さんは無言で頷き、残った藍色の箱を手元に引き寄せる。
(こういうの、ちょっと慣れてきたな……)
ふと、ワインの栓が抜かれる音がして、視線を上げると、九条さんが白ワインをグラスに注いでいた。
緩やかに注ぐ手つき。視線は落ち着いていて、特別な感情を見せないけど、どこか優しい。
「飲みすぎないようにしろ」
低く短い声。
視線が一瞬だけこちらをかすめた。
「わかってます」
この人は、アルコールを飲ませても手は出さない。そんな事する必要もないし、単純に食事を楽しむためのワインだ。
首筋に少し手を当てた。
アルコールが回ると、すぐに首元が赤くなる自分を知っているから。
(今日は……ちゃんと、心を休めて食べよう)
昨日よりもっと、リラックスして食べられる気がした。
箱をそっと開けると、ふわっと湯気と香りが立ち上がった。
(わぁ……美味しそう)
今日はちゃんと、落ち着いて味わおうと思った。
🍽 澪の料理(灰白色の箱)
【先付】帆立と蕪の柚子香和え
ふわっと柚子の香りが鼻先をかすめ、箸をつけた瞬間、帆立の繊細な弾力と蕪のシャキシャキ感が口の中で交錯する。
ひと噛みすれば、帆立の甘さと柚子の酸味が舌の上でじゅわっと溶け、思わず目を細めた。
(おいしい……!口が目を覚ます……)
【椀物】蟹真丈の清汁仕立て
蓋をそっと取ったとき、ふわりと広がる出汁の香り。
蟹真丈を口に含むと、柔らかくほぐれ、ほのかな甘さがじんわりと広がる。
(ああ、これ、疲れてる身体に染みる……)
気付けば、肩の力が少し抜けている。
【焼物】鰆の幽庵焼き
柑橘の皮を軽く炙ったような香ばしさが鼻をくすぐり、皮はパリッと、身はふっくらジューシー。
噛むたびにほんのりした柑橘の風味が鼻に抜け、(もっと食べたい……)と舌が自然に求めてくる。
【強肴】海老芋と鶏の煮物
箸を入れただけで崩れそうな海老芋はとろりとした舌触り、鶏はしっとりジューシーで、噛むとじわっと旨みが溢れる。
煮汁は甘さ控えめで、素材の味を引き立てる。
(はぁ……癒される……こんな優しい味、久しぶりかも……)
【御飯】しらすと青菜の炊き込みご飯
蓋を開けた瞬間、しらすの香ばしさがふわっと立ち上り、青菜のさわやかさが後を引く。
ひと口目で米の甘み、しらすの塩気、青菜の香りが一気に広がり、(おかわりしたい……!)と心が叫ぶ。
【止椀】赤出汁(豆腐・わかめ)
熱々の赤出汁を啜ると、豆腐がふわっと口の中で溶け、わかめのほのかな磯の香りが鼻に抜ける。
山椒の香りが最後に舌先をチリリと刺激し、全身が「生き返った」ような感覚に包まれた。
⸻
🍽 九条の料理(藍色の箱)
藍色の方にもこっそり目線を向ける。
九条さんは、無言で箸を動かし、淡々と食べている——けれど、よく観察してて分かった。
肉料理を食べるとき、ほんのわずかに、眉の奥が緩む。
刺身を噛むとき、喉がゆっくり上下し、心なしか呼吸が深くなる。
(あ、この人……今、ちゃんと「美味しい」って感じてる……)
昨日までの彼なら、こういう食事はただの「作業」だった気がする。
でも今は少し違う。目の前に人がいる、その空間を感じながら食べている気がした。
箸の持ち方、皿を持つ指先、飲み込むときの一瞬の静止——どれも完璧に無駄がないけれど、
よく見ると、ほんの少し、頬の筋肉が緩んでいた。
胸の奥がちょっと喜ぶ音がした。
(可愛い……)
食欲だけじゃなく、心までほぐされていく。
それが、目の前にいる人の存在そのものから伝わってくる。
「今日は昼間、何してたの?」
アスリートの人って、お休みの時なにしてるんだろ?
九条さんはワインを口に運んでいた。白ワインの冷たさがグラスを曇らせる。
一瞬視線を上げ、淡々と答える。
「眠った。昼過ぎまで。」
意外。
そんなに寝ないイメージだった。
あ、でもアスリートって疲労すごいし、体が資本だもんね、そりゃ寝るか。
私が送ったiMessageで起きたのかな?
私の内心を察したのか、九条さんは追加で、短くつぶやいた。
「休養日だ。オフは取る。」
「オフ……どんなことしてるの?趣味とか…」
一瞬黙り、ワインを置いて視線を流す。
「……無いな。」
彼の声は、どこか空虚さをはらんでいた。
(無い……?全く…?)
胸が、ほんの少しだけ締めつけられる。
この人は、勝つ事だけを考えて生きてきたのか。
勝負の世界だから、それぐらいしないと勝てないっていうことなのかもしれないけど、あまりに人生に色が無いように感じた。
次の瞬間、九条さんがふ、とこっちを見た。
「お前は?」
(え……聞いてくれるの!?)
不意を突かれて、目を丸くする。
「あ、えっと……私は……えーっと、本読むのが好き。あとYouTube見てる、というか音だけ聞いて理解できる動画を家では流してます。投資とか、法律とか税金の話とか、好きです。あとは、心理学とか」
こういう話すると大体「意外」とか「そんなの見てるの?」って引かれるんだけど、もしくは自分の方が詳しいって上から知識を被せられる。
でもこの人は、じっと聞いている。反応は薄いけれど、ちゃんと耳を傾けているのが分かる。
ちょっと照れくさくて笑ってしまう。
「なんか、変わってるよね……」
よく言われるから、先に自分から言っちゃう。
「……普通だ」
短いその一言。
一瞬ぽかんとしたけど、すぐに胸の奥がじわっと温かくなる感覚が広がった。
(普通……って言ってくれるんだ……)
彼にとって“普通”は、きっと貴重なものだ。
自分にとって当たり前のことが、彼には新鮮に映っているのかもしれない。
「ありがとう……」
つい小さな声で呟いてしまった。
九条さんは箸を置き、私の方を見て言った。
「今日は疲れてるだろう。食べたら、風呂に入って休め。」
その言葉に、胸がまた少し熱くなる。
(……優しいな、ほんと……)
思わず笑みがこぼれた。
「はい、分かりました。……九条さんは?お風呂、先入る?」
「後でいい。」
相変わらずの短い答え。でも、その「後で」の響きに、どこか“譲る”気配があった。
この人は、少しずつ、私を受け入れてくれてるのかもしれない。
残りの料理をしっかり味わい、心を落ち着けるように深呼吸した。
さっきまでの職場の嫌なこと、ぐるぐる回った頭の中の疲労感が、薄らいでいく。
ここは、今だけの場所じゃないのかも……ちゃんと、私が戻ってこれる場所なのかもしれない。
食後、そっと九条さんに目を向けた。
「ごちそうさまでした。……美味しかったです」
わずかに頷き、目線をテーブルから外さずに、
「足りないものがあれば言え」
とだけ告げた。
その言葉がどこかくすぐったくて、思わずまた笑ってしまった。
「大丈夫です。……ありがとう」
一日で彼は変わってきた。
少しは私に対して気を許してくれたってことだろうか。
だとしたら嬉しい。
あ、そうだ。
「この家って、お風呂いくつあるんですか?種類とかある?」
この家は何m2あるのか、間取りがどうなってるのか分からないほど広過ぎる。
「三つだ。ゲスト用、メイン、奥にジャグジー付き。」
淡々と、けれど質問にはきっちり答える。
(え、三つ!?)
心の中で驚きが跳ねた。
自分の家は普通にお風呂一つなのに、ここは浴室だけで三つもある。
というか、三つのうち一つがある部屋を私に使わせてくれてたのか…。
「メインとジャグジー、どっちでも使っていい。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、小さくない高鳴りが生まれた。
ジャグジーなんて、今までホテルでしか入ったことない。
メインのバスルームもきっと広いだろうけど、どうせなら――。
「じゃあ……ジャグジー、使っていい…?」
少しおそるおそる聞いてみると、彼はほんのわずかに眉を動かした。
驚きとか呆れとかじゃない、ただ「確認してきたのか」って感じの反応。
「好きにしろ」
それだけを残し、手元のワインに戻った。
…うわ、許可もらっちゃった……!
胸の中で、じわじわと嬉しさとドキドキが広がる。
ジャグジーの泡風呂に沈んで、疲れを溶かす自分の姿を思い浮かべただけで、
気分がちょっと明るくなる。
贅沢なバスタイムなんて幸せ過ぎる。
背筋を伸ばし、改めて九条さんに笑顔を向けた。
「ありがとうございます」
彼は黙って、グラス越しにじっと澪を見た。
九条さんはどこのお風呂使うんだろ?
私が使った後でもジャグジー使うのかな?
ってことは泡風呂したら、泡残っちゃう?
「……泡風呂したら、怒る…?」
一瞬、グラスを置いた指を止めた。
顔を上げ、じっと私を見つめる。
「……詰まらないのか?」
低く落ち着いた声。
まともな問いだった。
あ、そっか。詰まるかも…いや液体だし…?
「待って、調べてきます」
自分のスマホを取りにゲストルームに戻って、検索した。
機械の内部に詰まるので、基本的には推奨されません、って書いてある。
バスミルクなら良いのか?と思って検索したら、基本的にミルク成分やオイルが入ってるものは推奨されませんって書いてある。
ジャグジーをとるか、入浴剤をとるか。
こ、ここはジャグジーは普通のお湯でいって、ボディソープやシャンプーで香りを楽しむことにする…!!
苦渋の決断だ。
戻ってから、
「入浴剤系は使ったら駄目って書いてあったから、普通のお湯にします。ボディーソープで楽しむことにします…」
ってちょっとしょんぼりしながら報告した。
私の言葉に、九条さんはほんのわずか、口元を緩めた。
(あ、笑った……!)
「……好きにしろ。」
それだけ言って、また視線をワインに戻す。
心の中で小さくガッツポーズした。
一つ、笑顔を引き出せた。
スキンケア用品を持って、ジャグジーがあるバスルームに向かった。
大きなガラス窓があって、美しい夜景が見下ろせる。
昼間に清掃の人が入ってくれたみたいで、磨き上げられてピカピカだった。
備え付けのアメニティー類を見ていくと、SABON、Kneipp、Aesop、Aromatherapy Associates…
錚々たる面々が勢揃いだった。
これなら入浴剤を使えなくても何も問題ない。
しかもアロマオイルもあって、香りを楽しむアイテムが充実していた。
九条さん、こういうの使うのかな?
香りが残って嫌な思いする?そもそも違うバスルーム使う?
なんかいちいちそういうことを考えてしまう。
でもメインのお風呂があるんだったら、香りが嫌ならそっち使うか。
好きにしろ、って言われたし、好きにさせてもらおう。
ここで思い出したのが、パジャマをクリーニングに出し忘れたこと。
一回着たパジャマは洗わないと着たくない。
家だと洗濯乾燥機回しちゃうから、それでサイクルできてるんだけど、クリーニングに出すという作業を忘れた。というか、九条さん寝てたし、どこに頼んだらいいのかわからなかった。
バスローブが置いてある場所を探したら、2つあった。色違い。
黒?ネイビー?は九条さんが使うんだろうな。
それとベージュっぽい色のがある。
ベージュはあの人が着るイメージないし、小さくまとまってる大きさが、ベージュの方がちょっと小さい。サイズが違う。
ということは女性用?
ていうか、昨日ゲストルームのお風呂使った時こんなの無かった。
普通にタオル類があっただけ。なんで今日こんなに物がいろいろ揃ってるの?
ジャグジーだから?
こっちは物がたくさんあるの?
「…」
ふと思い当たることがあった。
ジャグジーにお湯を貯めるために給湯ボタンを押して浴槽の栓をする。
お湯が貯まるのを待ってる間、ゲストルームに行ってみた。
さっき荷物を置きに来たときはバスルームまで見なかった。
荷物は綺麗にまとめておいたし、なんとなく部屋の清掃が入った気配は感じてた。
ゲストルームのバスルームも、ジャグジーのバスルームと同じものがあった。でもこっちは私の為と分かるものだけが様々置いてあった。
アメニティー類、ベージュだけのバスローブ。タオル類が昨日と違うものに変わっていた。ふかふかの今治タオル。
私が家から持ってきたスキンケア用品はきちんとまとめられていた。
そしてその横に、新品の化粧品が増やされていた。
コスメデコルテの美容液とクリーム。これは私が家から持ってきたものじゃない。
思えば、玄関にスリッパが揃えて置いてあった時から違和感があった。
昨日と違い、「私が帰ってくること前提」で、部屋が整えられている。
昨日は私はただ外からやってきただけの部外者。それでも食事は用意された。
翌日の今日。私がこの先もいる前提で、この家の中を変えてくれている。
たぶん、清掃したりセッティングしたのは業者の人だろうけど、これを用意しろって考えて指示を出したのは九条さんだ。
勝手にはここまで用意されない。
アメニティー類の種類がやたら多い上に高級品ばっかりなのは、何を用意したら良いかわからなかったから、一通り高級ラインを全部揃えたんだ。有名どころのメーカーを。
お金は潤沢にある人だから、無印良品でいいなんて考えはなかったんだろう。
シャネルとかじゃなくて、ちゃんとバス用品に強いメーカーを揃えてるあたり強い。
いや実はスタッフの人が超優秀とか?
それもありえるけど、最初の指示出しは九条さんだ。そこは間違いない。
…なんにしても、ここまで全てを用意してもらって、私が何もしなくて良いように気遣われているという事実に泣きそうになった。
というかちょっと泣いてた。
嬉しい!って無邪気に喜ぶんじゃなくて涙が出るあたり、私相当疲れてるんだな。色々なことに。
仕事だけじゃなくて、人生の全てに。
男の人に気遣われて泣くほど感動するとは思わなかった。
ここまで出来るのは彼の経済力あってのことだから、こんなこと誰でもやるのは無理だ。そんな事は分かってる。
ただ、それ以前にあまりにもしんどい事が多過ぎた。
これは、危ない。
この日常に慣れたら、私は彼に依存する。
行かないでほしいとか、ずっと一緒にいてほしいとか、縋るような女になったらどうしよう。
自立した凛とした女性でいたい。
一人で生きていける人でいたい。
今までは一人で良いと思って生きてた。
誰もいらない。たまに短期的に関わればそれで満足。それ以上は不必要。
そう思って生きてたのに。
この待遇に感動と嬉しさを覚える反面、これが永久に続くわけじゃないことを知ってる。
“部外者”はいつか外に出されることを知ってる。
ここに依存したら、外に出された時がつらい。
飼われていた動物が野生では生きていけないように。
せっかく甘やかしてもらえるんだから、思いっきりその時間を堪能しておけばいいのに、失った時のことを恐れて踏み込むことを怖がるなんて、ほんと可愛げがない。
我ながら面倒な女。
鏡で、顔を正常に戻して、ジャグジーバスのところに戻った。
水圧が高くてお湯が貯まるのが早い。
アメニティーの中から、今の気分で香りが好きなものを選んだ。
よく眠れそうなリラックス効果が高いもの。
とりあえずラベンダーは鉄板。オレンジの香りも良い。
バス用品だとハチミツとかミルクの香りも好き。
空気に舞うタイプだとサンダルウッドも好きだけど、あれはバス用品にはあんまり。
寝室に向いてる香りだと思う。でもサンダルウッドは、リラックス効果もあるけど、催淫作用もある。リラックスと催淫が一緒にやってくる香り。「香りのバイアグラ」とも呼ばれている。後で知ったんだけど。
その香りが好きなあたり、私は結構スキモノだと思う。
浴槽から見えるのは、壁一面の大きなガラス窓。東京の夜景が、宝石みたいに瞬いている。
外が見える空間で、裸になるって変な感じだ。
本当に外から見えないのかな。実はマジックミラーとか?
馬鹿なことを考えながら、洗面台の鏡の前に立った。
先にメイクを落とす。家からクレンジングは持ってきたけど、ゲストルームにあったアメニティーの中に異色なものがあった。
カバーマークの箱。これはバス用品のメーカーじゃない。化粧品のメーカー。箱の裏を見るとクレンジングミルク。
これはもう絶対九条さんの選定じゃない。これ選ぶ知識あったらもっと女慣れしててチャラいはず。
だとしたらスタッフの人?どうやってこれに辿り着いたんだろ。
気が利きすぎてもう怖い。何も言わなくても全てを揃えてくれるんだろうな。そりゃあ自分のご飯も自分で用意しない人になってても無理はない。
ありがたくクレンジングミルクでメイクを落とさせてもらった。そんな濃いメイクしてなくて良かった。
クレンジングミルクは洗浄力が肌に優しい。
…まさか私のメイクの濃さまで見て、ミルクで落とせると踏んでこれを買ってきた…?
察し力高すぎて怖い。あの人絶対リサーチ力が鬼のように高い。
顔を洗い終えてから、一日中後ろで結んでいた髪をほどいた。
解くと頭皮に開放感が生まれ、髪が顔の方に降りてくる。
楽しみにしてたジャグジーだ。
足先からゆっくりお湯に入れると、熱すぎない絶妙な温度が肌を包む。
ぴりっとした感覚に、思わず小さく肩が跳ねた。
「っ、あ……気持ちいい……」
手を縁につき、ゆっくりと腰を落とし、胸元までお湯に沈んだ。
瞬間、全身がふわっと軽くなる。
身体が浮いている感覚に、息をひとつ吐いた。
天井を見上げると、柔らかい間接照明の光が水面に影を落とし、きらきらと揺れている。
ジャグジーのスイッチを押すと、ぶわっと小さな泡が身体を撫で始めた。
「……ふ、わ……」
思わず笑ってしまう。
お腹、腰、背中、ふくらはぎ。
それぞれに泡が当たって、くすぐったいような、でも心地いい刺激が広がる。
肩までお湯に沈め、手をそっと湯面に浮かべた。
湯気の中で、指先が白く霞んで見える。
ゆっくりと、深呼吸をした。
アメニティーのボトルを開けておいたから、爽やかなラベンダーの香りが湯気に乗って、かすかに鼻先をくすぐった。
ボディーソープ、どれにしようかな。よりどりみどり、選びたい放題だ。いい香りのバス用品は沈みやすい私の気持ちを、少しでも明るくさせてくれる。
耳元では、モーターの低い振動音が響いているけれど、不思議とそれが心を落ち着ける。
まるで、何かに守られているような感覚だった。
「……はぁ……」
息を吐いた。
手足が、指先までじんわりと温かい。
呼吸がゆっくりになって、心臓の音が、少しずつ穏やかになるのが分かる。
目を閉じた。
泡が肌をすべっていく感覚。小さな粒が、頬や肩を撫でていく。
首の後ろ、鎖骨の下、胸の横、膝の裏。
普段は意識しないところまで、ちゃんと存在感を持ってそこにある。
普段、私はこんなふうに自分の身体を感じることなんか、なかなかない。
ただの「乗り物」みたいに扱って、動かして、仕事をして、我慢して、消耗させて。
でも今は、全身が「生きてる」って、ちゃんと分かる。
ああ、こういう時間が、私には足りなかったんだな。
湯の中で指を少し動かすと、水流が生まれて、泡が肌に沿って移動していく。
心をほぐして、自分を癒すためのお風呂。
もう一度、深く息を吐いた。
静かに目を開けると、窓の向こうに東京の夜景が滲んで見えた。綺麗だ、と思えた。
この後に九条さんがこのお風呂には入らないなら、あんまりお湯が汚れるのを気にしなくて済む。
たぶん、香りが残るお風呂には入らない。
車も部屋も、彼が使う空間は完全な無臭だった。
なのに、香りが出るバス用品を置いてるということは、これらは私の為に揃えてくれたものだ。
メインのお風呂にも同じものがあるのかもしれない。
私が使ったお風呂とは違う場所を使えば、残り香を気にしなくて済む。
視界にノイズが入ることを嫌うあの人が、ここまでしてくれたことは、大きな変化だ。
バス用品のボトルは、モノトーンじゃない。鮮やかな深い青とか、目が覚めるようなカラフルな色もある。あんなにたくさん並べたらそれだけで賑やかだ。
どうしてここまでしてくれるのかは分からない。いつもそうしてるのかもしれない。
私は彼が接してきた女性の中の一人でしかないのかも。
でも、それでもよかった。
私があの人に好感を持ってるのに変わりはないから。
昨日、彼が言っていた言葉が脳内に残ってる。
ー俺は、お前に何も与えてない。
何も与えなくて良い。
って言ったけど、与えずにはいられなかったのか、そうするしか表現の仕方が分からなかったのか。
単なる親切か。
最後のは多分違うな。
物質的な愛情しか分からないんだ、多分。
彼自身がそれしか与えてもらえなかったか、他の方法を知らない、か。
過去の女性が物質的な幸せに喜ぶ人だったから、今回もそうしたか。
確かに、物を買ってもらえるのは嬉しい。それは本音だ。無いよりあると嬉しい。
私のために時間や労力や経済力を使ってくれたという気持ちが嬉しい。
でも、過剰なまでに“物”を与えるところが気に掛かる。その割に全く見返りを求めないし、これだけの事をやったというアピールもない。
ただ無言で淡々と用意する。
嬉しい。嬉しいけど、彼の生育環境が気になる。多くの人はここまでしないし、出来ない。
考えても仕方ないから、ひとまずお風呂を出たらお礼を言おう。
用意してもらってすごく助かったことは事実だから。
案外照れて「知らん」とか言いかねない。知らないわけないのに。
言ってるところが想像でき過ぎて笑ってしまった。
九条さんを思い浮かべると笑っちゃう癖がつきかけてる。仕事中気を付けよう。
浴槽から上がって、ボディソープの選定に入った。
ガラスのボトルが可愛いサボンのシャワーオイルにした。バニラの香り。
泡立てるともこもこの泡ができて、シャワールームに甘い香りが広がる。洗い上がりも肌がしっとり滑らかで気持ちいい。
シャンプーとトリートメントは家から持ってきたバイカルテを使う。ヘアケアは備え付けのやつは使えない。たとえサボンやロクシタンやイソップがあっても、合わなかったら髪が軋む。
香りは好きだけどね。
お風呂上がり、配慮に甘えてバスローブを着させてもらった。サイズいい感じ。やっぱり女性用だった。
髪をタオルで拭きながらスキンケア。コスメデコルテの美容液とクリームしっかり使わせてもらう。使えるものは使わせていただく庶民根性です。
これどうやって調べたのか聞いてみようかな、いややっぱりやめよ。ろくなことがない。
洗面の隅に、初めて見るドライヤーが置いてあった。よくあるダイソンじゃない。
昨日のゲストルームにもドライヤーはあったけど、それともまたちょっと違う。
本体を見たら英語でTIARALEENと書いてあった。
そういえば、ドライヤーのこと聞こうと思ってて、忘れてた。昨夜はそれどころじゃなかった。
髪が濡れたまま自分をスマホを取りに行って、バスルームに戻った。検索してみる。
「…たっか!!!17万!?!?」
声が出た。
レプロナイザー107Dという商品名だった。別名「時空の風」。見た目が近未来の銃みたいでかっこいい。価格167,200円。
ドライヤーにこの金額ってばかじゃないのか。私もそこそこ高いドライヤー使ってるつもりだったけど、桁が違った。
いや性能は確かに良いけど。ここまでの金額出す価値あるか?
九条さん絶対、選んでなさそう。この部屋の備え付けか?
髪を乾かし始めると、すごい強風で乾かしてくれるのに、髪がしっとりまとまる。
ドライヤーってほんとどういう仕組み?って思う。なぜこんなに仕上がりが違うのか。
いい感じに乾いた髪に手櫛を通してまとめる。
うん、いい感じ。
リビングに戻ったら、九条さんがワイン飲んでた。
やっと何か手に持ってるの見れた。また何も持たずにスタンバイモードになってるかと。
九条さんもお風呂済ませたみたいで、着替えてた。
赤ワイン持ってソファーに座ってる姿が無駄に絵になる。
「お風呂、ありがとうございました」
視線をグラスの中に落とし、ひと呼吸おいてから——
「……ああ」
それだけ。声は低く、淡々として、感情の色はほとんど見えない。
でも、もうそれが彼なりの「どういたしまして」だと分かってきていた。
「ワイン、何飲んでるの?」
尋ねると、ちらりとラベルを見やるだけで、
「……ピノ」
短い。
説明ゼロ。
銘柄や産地を語る気なんて、最初からない。
小さく笑って、心の中でツッコミを入れる。
(いや、ピノって。せめて国くらい教えてよ……アイスの名前かと思うじゃん)
けど、それ以上の情報が出る気配はない。
でも、何年ものの赤とか白とか詳しく語られたところで、結局飲んで美味しいかどうかだ。
夜ご飯の時もちょっとだけワイン飲んだし、これ以上はやめておく。アルコールで睡眠が浅くなったら嫌だ。
ソファの隣、ちょっとだけ間隔を空けて、近過ぎない距離に座らせてもらう。
多分、質問してもあんまり詳しくは語らないだろうから、私からの一方的な言葉になる。
「今日、お気遣いありがとうございました。ちょっと嫌なことがあって、疲れて帰ってきたけど、癒されました。でもそれは、ものだけじゃなくて、あなたの心遣いに癒された。本当にありがとう。今日は疲れを取りたいから、早めに休むね。週末だから、いっぱい寝ちゃうかもしれないけど、寝たら元気になるから、また明日お話しましょう。ちょっと相談したいことあるし、明日話すね。おやすみなさい」
そこまで一気に話して、ソファから立ち上がった。
返事はいい。聞いてさえいてくれれば、それでいい。
ゲストルームのドアを静かに閉めて、一息ついた。
昨日はこの部屋に荷物だけ置いて、九条さんの寝室で寝てしまった。
でも今日は、こっちの部屋で寝るって決めた。朝多分起きられないから。彼の生活を侵害しなくて済むし、私も物音で起きなくて済む。お互いに気を遣わなくて済むように。
ベッドの脇に置かれたナイトスタンドには、
柔らかな光を灯す間接照明。
ベージュのバスローブを脱いで、用意されていたパジャマに袖を通す。
肌触りの良い素材で出来ている。着ると肌に当たる感触が気持ちいい。
ベッドに入って、ふかふかの布団を引き寄せた。
まるで人を包むためだけに作られたみたいな寝具。
体が沈み込む感覚に、思わず溜息が漏れた。
天井を見上げると、うっすらとした影が、
間接照明の明かりに滲んで揺れている。
昼間の疲れ、職場での嫌な出来事、全部……
今は、思い出すのをやめよう。
心の中で、そっと区切りをつける。
「明日また、考えよう」
「明日また、話そう」
そう決めて、布団に顔を埋め、そっと目を閉じた。
身体が、じんわりと温まっていく。
心臓の鼓動がゆっくりと穏やかになり、
呼吸が深くなっていくのが分かる。
疲れた。ちょっとアルコールが入っているのもあって、すぐ眠くなってくる。
「……おやすみなさい、九条さん……」
明日、相談の内容を聞いてくれるか。それに対して彼がどう答えるか。
その未来はまだ不確定だけど、明日も会えることが嬉しい。
また明日。
Side:九条
――ソファに座り、グラスの底に残った赤ワインを揺らす。
耳に残っているのは、澪の言葉。
『今日、お気遣いありがとうございました。癒されました』
癒し。
自分が人にそんなものを与えられると、彼は一度も思ったことがなかった。
用意したのは、物と空間と、時間だけ。
心は与えていない。
与え方を知らない。
なのに彼女は、勝手にそれを「癒し」だと受け取ってくる。
それを否定する気も、肯定する気も起きなかった。
ただ、奇妙だ、と思った。
言葉も説明もないものを、なぜ彼女はそんなふうに受け止められるのか。
理解できない。
けれど、嫌ではない。
視線をグラスの奥に落とし、ゆっくりと立ち上がる。
自室のドアを閉じるとき、ふと耳を澪の部屋の方に向けた。
静かだ。
彼女はもう、寝たのだろう。
「……おやすみ」
小さく、声にならない言葉を落とし、
九条は自分の部屋へと消えていった。
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