合点
「……ってことは、執事服の仮縫いのためにイギリスに行くと。そのままドバイ入りするから、移動の回数を減らすために全員移動する、と」
志水は、淡々と状況を整理するように呟いた。
氷川は何も言わなかったが、それが“正解”であることは、否定しない沈黙が証明していた。
志水の顔には納得の色こそなかったが、とりあえず“合点”は入った。
そのとき――
いつの間にか、すぐ隣に早瀬が立っていた。
彼は、志水と氷川の会話を途中から聞いていたらしい。
「女性が同行するのって、それが関わってるってことだよね」
その問いに、氷川はついに小さく眉を動かした。
それは、この件で初めて表に出た、明確な“動揺”だった。
早瀬はそれに気づいていたが、追及するでもなく、ただ静かに待った。
志水も黙ったまま、その返答を見守っている。
そして――氷川は、観念したように目を伏せて言った。
「……はい」
簡潔に。
それだけ。
説明も言い訳もなかったが、逆にその“短さ”が、どこまでも真実だった。
「……なるほど」
早瀬はそれ以上は言わず、少しだけ視線をコートの中央に移す。
そこでは、蓮見がまだ逃げ回っていた。
九条は一歩も動かずに、狙いすましたボールを、寸分狂いなく送り出し続けている。
その横で、時雨がスピード計測アプリを開いているのが見えた。
「……九条さん、怒ってるっていうより、“恥ずかしい”のかな」
早瀬の何気ない一言に、志水がぽつりと返す。
「なるほど。なら、余計にややこしいな」
氷川は、それ以上何も言わなかった。
ただ、どこか遠くを見ながら小さく息を吐いた。
(……これを彼女が知ったら、どんな顔をするんでしょうね)
そう思っても、口に出すことはしなかった。
この沈黙が、最も効果的な“情報管理”なのだから。
うちの執事
「ドバイ入りするの、予定より早いですけど、それは何でですか?」
早瀬の問いかけは、淡々としていた。
事実の確認。感情は挟まない。
氷川は少しだけ間を置いて、答える。
「同行する女性が、ドバイで開催されるボートショーに関係者として出席されるためです。
送り届けるんですよ」
氷川はiPadで、澪が出席するボートショーの案内ページを見せた。
「……あー……」
志水が、小さく納得するような声を漏らした。
そのとき、どこからともなくレオンがにこやかに現れる。
エプロン姿のまま、手にはボトル入りの自家製レモンウォーター。
この騒がしい空気の中でも、まるで何事もないような自然体だった。
「レオンさん、毎日食事作りに行ってましたよね?九条さんとこに」
早瀬が訊ねると、レオンは頷いた。
「ん? うん」
志水が、何気なく重ねる。
「その女性、会いました?」
レオンは、少し首を傾けるようにして、あっさりと答えた。
「うん、毎日」
その一言に、空気がピタリと止まる。
毎日。
九条の家に、毎日いる女性。
もう、「もしかしなくても」――そういうことだ。
志水が、うんうんと頷いた。
「……だから、隠したかったんだね。九条さん」
今までの不可解な反応のすべてが、線で繋がったような気がした。
執事服。仮縫い。イギリス。女性の同行。
どれもひとつの事象だった。ひとりの女性を中心に回っていた。
早瀬は、とりあえずの理解に達していた。
(……振り回される疲労はあるが、訳も分からず振り回されるわけじゃない)
それは、大きな違いだ。
理解してしまえば、対処はできる。
対応も組める。個人の感情は横に置けばいい。
氷川は静かに息を吐き、やや遠くのコートを見やった。
そこでは、まだ蓮見が逃げていた。
一歩も動かない九条の、完璧すぎるコントロールのもとで。
「……それでも彼は、口にはしないでしょうけどね」
氷川がぽつりと漏らす。
それに志水が返す。
「言葉じゃなくて、ボールで語ってますからね。今」
「殺意のこもった言語体系……」
レオンだけが、のんびりした口調で締めくくった。
「うちの執事様、感情表現は不器用だからねぇ」
らしからぬ行動
レオンが去ったあとも、しばらくその場に静寂が残った。
早瀬はコートを見ながら、無言で何かを考えていた。
そしてぽつりと、呟くように言った。
「……彼女が現地にいることで、九条さんが本番に影響を受ける可能性は?」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
だが、早瀬の声には焦りも怒りもなかった。
ただ、**職業柄の冷静な“観察と予測”**だった。
氷川がわずかに目線を向けた。
「大会と、ボートショーの日程は被っていません。
綺麗に前後しています。……直接的な影響は少ないと判断しています」
「……うん、それは理解してます」
早瀬は短く頷いた。
確かに、スケジュールだけ見れば無理はない。むしろ、完璧に整っている。
けれど、それでも――
「ただ、一人の女性のために、ここまでスケジュールを変えて、全員を振り回すなんて。
ちょっと……九条さんらしくないですよね」
その言葉には、非難ではなく、**単純な“違和感”**が滲んでいた。
九条雅臣。
合理主義の塊で、無駄を嫌い、感情で動くことのなかった男。
その彼が、チーム全体を巻き込んでまで、誰かを“守ろう”としている。
それは、選手として良い変化なのか。悪い兆候なのか。
まだ、誰にもわからない。
志水が、ぽつりと続けた。
「……けど、彼がそうしたってことは、“そうしてまで守りたい”相手ってことなんでしょう」
誰も返さなかったが、その言葉だけは、全員に響いていた。
氷川は視線を落とし、そっと小さく呟いた。
「……でしょうね」
コートでは、九条が再び打球のフォームに戻っていた。
その目は、余計な感情を全て遮断しているかのように、鋭かった。
まるで、自分自身に「揺らぐな」と言い聞かせているように。
揺らぎ
ラリーの合間、ふと呼吸を整えながら、九条はわずかに天井を見上げた。
高い天井、整った照明、反響音の少ない静かな空間。
あらゆるものが“整備された環境”だった。
だが、自分の内側だけが整わない。
今日は、集中が乱れているわけではない。
むしろ感覚は鋭く、動きも速い。
それなのに――どこかで、自分が余計な力を使っている感覚があった。
(……判断として、間違っていたか?)
チーム全員を帯同させてまで、イギリスを経由するスケジュールを組んだ。
しかも、その理由は一人の女性のため。
澪の予定と、自分の動線を自然に重ねるために、動いた。
氷川が計画を整えたとはいえ、判断したのは自分だ。
誰も責めてはこない。だが、全員の沈黙が、むしろ重い。
本来なら、自分はこういう“感情によるスケジュールの調整”を最も嫌っていたはずだった。
それを今、自分がやっている。
理由は分かっている。
どうしても、澪を一人で送る気にはなれなかった。
あの人は、何も言わない。
いつも黙って耐えて、どこまでも周囲に気を遣って、最後まで誰のせいにもせずに一人で立っている。
だからこそ、今度は自分が“誰にも説明せずに”動いた。
守るために、理由は語らない。
語れば、澪の立場を弱くするだけだから。
(……わかっている)
それでも――
自分の選択が、“揺らぎ”と見なされることくらい、わかっている。
(それでも、俺はこの選択をした)
ラケットを握る手に、わずかに力がこもる。
視線の先では、蓮見が何か叫びながら走っていた。
おそらくまた、余計なことを言ったのだろう。
それを打ち抜いた直後の自分の感覚すら、いまは鮮明に覚えている。
――それは、怒りではなかった。
ただの“過剰な反応”だった。
(……俺らしくない)
自分でも、それは自覚している。
だが、誰かを守ろうとするとき、人は「自分らしさ」だけでは済まなくなる。
そういうものだと――今、ようやく理解してきている。
そろそろ止めよう
「じゃ、そろそろ止めましょうか。蓮見さん、もう若くないし、そろそろ倒れそうです」
志水が、コートの端からそう言った。
声のトーンは変わらず冷静。
気遣いのようにも聞こえるが、内容は割と非情だった。
それでいて、全く急ぐ様子はない。
ラケットを持ったまま、のんびりと歩き出す。
「……うっ……ぜぇ、はぁ……っ、なぁ……志水ぅ……!」
蓮見は息も絶え絶え。
フェンスの影に隠れ、汗だくで半分しゃがみ込んでいる。
その横を通りながら、時雨が淡々とプロテインシェイカーを振っていた。
「……飲みます?」
「それ飲んでる場合かよ!!助けろよ!!プロテインじゃ命守れねぇよ!!」
「いや、筋肉守るのはだいたいプロテインですから」
「理屈としては正しいけども!!」
九条は、志水が声をかけてきたのを見て、ようやくラケットを下ろした。
そのまま、無言でボールを拾いながら、呼吸を整える。
志水が九条の近くまで来て、さらっと言う。
「反応速度、全体的に良好でした。フォームのバランスも問題なしです」
「……ゲームじゃない」
「でも、良いコントロール練習になりましたよね。動く標的付きで」
「誰が標的だ誰が!!」
蓮見の声は、もう半分泣きが入っていた。
藤代が黙って蓮見にタオルを差し出す。
それを受け取った蓮見は、顔を拭きながら、地面に倒れ込んだ。
「……もう……俺、明日起き上がれないかも……」
その声を聞いて、遠くから氷川が静かに言った。
「では、ようやく通常練習に戻れますね」
そうして、ようやくコートには本来の静けさが戻った――
のは、束の間だった。
時雨がシェイカーを振りながら、ぽつりと一言。
「ところで、仮縫いって、いつ?」
「誰かもう黙らせてくれぇぇぇぇえ!!!!!」
事情説明
蓮見が水をがぶ飲みしてゼェゼェと酸素を吸い込んでいる横で、
他のメンバーたちは徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
そんな中、氷川が資料用のタブレットを閉じて、ふと全員に向けて口を開いた。
「……ここまで騒ぎになってしまった以上、改めて説明します。
九条さんが今週金曜の夜にイギリスへ立つ理由は、**“執事服の仮縫い”**のためです。
場所はロンドンのサヴィル・ロウ。
素材選びと採寸はすでに済んでおり、訪問は次が二度目。
この工程を逃すと、以降の遠征スケジュールが詰まっているため、どうしても二月中に行く必要がありました」
「それだけのために……?」
誰かが小さく呟いた。
「それだけ、ではありませんが、それがメインです」
氷川は一瞬だけ言葉を区切り、目線を落とす。
「……この仮縫いは、綾瀬澪さんの希望によって組まれたものであり、
九条さんはそれを“罰ゲーム”として受け入れました」
室内が静かになる。
「彼女は、これが夢だったと仰っていたそうです。
九条さんはそれを聞いて、すぐ彼女と共にイギリスに行きました。彼女はそこまでしなくても良いとおっしゃってましたが、九条さんは本物しか身につけないので。そして今回、自らのスケジュールを調整し、全員の動線を動かしてまで、それをなるべく早く実現させようとしている」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「その後、綾瀬さんは19日からドバイで開催されるボートショーに、企業の関係者として参加します。ヨットの営業販売職なので。
そのため、ロンドンからそのままドバイへ。九条さんと動線が一致したこともあり、同行となりました」
氷川の声は、ただ静かだった。
しかしその中には、どこか“理解してくれ”という微かな願いも滲んでいた。
「以上が、今回の事情です。
九条さんが語らないのは、“彼女を守るため”であると、私は理解しています」
沈黙の中、志水が呟いた。
「……なるほど。“九条さんらしくない”けど、だからこそ、真剣なんだな」
早瀬も、小さく頷いた。
「それなら、納得しました。……振り回されても、理由があるなら、動ける」
蓮見だけが、ペットボトル片手に小声でつぶやいた。
「……いやでも、やっぱ罰ゲームでサヴィル・ロウはおかしいだろ……」
誰も聞いていなかった。
エンタメの精神
一通りの事情説明が終わったあとも、まだコート周辺には微妙な空気が漂っていた。
志水が、深く息をついて、呆れたように言った。
「……で、それの写真を蓮見さんは撮りたがってるわけね」
その一言に、蓮見が胸を張るようにして言い返す。
「だって! 考えてみろよ!?
世界ランカーの九条雅臣がだぞ!? サヴィル・ロウ仕立ての執事服を着て、
仮縫い中にミシンの前で直立不動してるんだぞ!?
そんな面白い場面、この先一生起きねーだろ!!写真くらい撮らせろよ!!」
その瞬間――空気が一変した。
ぴたりと、誰もが動きを止める。
まるで、“何か”の到来を予感していたかのように。
静かに、だが確実に、九条の気配が変わった。
「……そんなに死にたいのか?」
低く、張り詰めた声。
その声に含まれる殺意が、もはや“圧”として場を支配した。
蓮見が一歩下がりながら、手をひらひらさせる。
「ままま、待て、待て九条さん!ノリだって!場を和ませようと思ってだな!エンタメ!エンタメの精神!!」
「お前が言う“エンタメ”は、だいたい誰かを死に追いやる」
蓮見は汗だくのまま、必死で言い返していた。
「既に何人か死んでるみたいな言い方するな!! 一応まだ誰も死んでねーから!!
クビは何人もなってるけど!!」
その声に、練習の合間にストレッチと時雨のメンテナンスに入っていたチーム時雨の空気が、微妙にざわつく。
九条が、ラケットのガットを調整しながら、ぼそりと呟いた。
「よかったな。お前が一人目だ」
「やめろ!!!即死判定やめろ!!」
「言い残すことはあるか?遺言は聞いてやる」
「言ってる事完全に悪役なんだよ!!」
澪は、淡々とPC画面をスクロールさせながら、資料の確認を進めていた。
オフィスの空調は少し冷たくて、膝にブランケットをかけている。
近くの席では同僚が電話対応中。いつもの日常。変わらない職場の風景。
でも、澪の心の中だけは、少しだけソワソワしていた。
(明日の夜からイギリスか……)
そこから、すぐにドバイへ。
仕事とプライベートがごちゃ混ぜになったような旅。
こういうスケジュールも、たぶん今だけだろう。
(ロンドンの気温ってどれくらいだっけ?夜は冷えるかな……)
ふと手帳を開いて、持ち物リストをチェックする。
- パスポート
- アフタヌーンティー用のきちんとした服(ワンピース+ブーツ)
- ボートショーの名刺と資料
- ドバイ用の軽装・UV対策
- クレジットカード、有効期限OK
- 化粧品、シャンプー、変換プラグ…
(……完璧では?)
自分なりにきちんと準備しているつもりだった。
澪はまさかこの瞬間、遠く離れた練習会場で、
自分が発した「執事服を着てほしい」という一言を発端に、
世界ランカーがラケットでコーチを追い回し、命の危機が笑い話として語られているなどとは、露ほども思っていなかった。
ただ静かに、澄ました顔で、
「紅茶、何の茶葉買って帰ろうかなー」などとスマホを眺めているだけだった。
「綾瀬さん、ドバイの出張って来週からでしたっけ?」
「はい、19からボートショー本番なので。前日入りする予定です」
事務的な受け答えをしながら、澪は笑顔を崩さず、うまく“本当のことだけ”を話した。
実際、ドバイ出張はその通り。
でも――その前に寄る国のことは、誰にも言っていない。
(本当は…明日の夜の便で、まずイギリス入り)
心の中だけで小さく呟く。
出張ではない。あくまで、プライベートな用事。
だからこそ、会社にわざわざ伝える必要もない。
それに――内容が内容だ。
(“執事服の仮縫い”なんて、誰にも説明できない……)
澪の口元に、ふっと小さな笑みが浮かんだ。
デザインも、素材も、彼の体に合わせた寸法も、すでに仕上がっている。
あとは、あの人がそれを実際に着るだけ――なのだけれど。
澪は、隣の席の誰かに見られていないことを確認しながら、PCのカレンダーに書かれた予定をそっと確認した。
2月15日(土)午前:Savile Row 仮縫い(ロンドン)
午後:アフタヌーンティー(The Savoy)
誰にも言っていない。
言えるような予定でもない。
でも、この数週間でいちばん楽しみな時間だった。
(さすがに仮縫い中の写真とかは無理かな……)
誰にも見せるつもりはないけれど――
記憶よりも、ちゃんと“形”に残したいと思った。
ただ一人で、静かに。
誰にも知られずに。
九条雅臣という人が、“誰かのために形を変える”その瞬間を、
密かに、そっと見届けたかった。
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