74.旅への準備

私怨

コートの端で、蓮見がぜえぜえと肩で息をしながら倒れ込んでいた。

一方、ボールを打ち尽くしてもなお険しい表情のまま、九条はラケットを肩に担ぐ。

「……くだらないことを言ってないで、練習再開だ」

その声は低く、まったく熱を帯びていない。

けれど、ピリッと空気が締まった。

「蓮見は縛って、その辺に転がしておけ」

真顔だった。

誰も笑わない。いや、笑えない。

レオンすら小さく肩をすくめただけで、何も言わなかった。

蓮見は倒れたまま片手を上げて抗議する。

「いやいやいや、せめて冷たいタオルくらい……」

「要らない」

「優しさも!?人権も!?!?」

「練習の邪魔になる」

「それはあなたの私怨では!?!?」

「違いがあるか?」

冷酷に言い捨てて、九条はサーブ位置に戻っていった。

人間らしさ

ボールが一定のテンポで飛び交う。

打球音とシューズが床を擦る音だけが、静かな室内に響いていた。

そのリズムの中で、時雨がふいに言った。

「……先週、イギリスに行ってたのって、このためだったんだな」

声に揶揄いはなかった。

問いというより、ただの確認。

彼なりの理解を込めた、静かな言葉だった。

九条は何も言わずに、次のボールを返す。

時雨も、それを追って淡々とラリーを続ける。

無言の時間が数往復。

ようやく九条が、短く返した。

「……ああ」

それだけだった。

けれど、その一言に、

“無意味なことに時間は使わない男が、わざわざ飛んだ”という

確かな温度が滲んでいた。

時雨はそれ以上何も言わない。

ただ、一つだけ小さくうなずいて、再び構え直す。

そして、ラリーの速度が少しだけ上がった。

それは“からかい”ではなく、

“理解したうえでの、敬意をこめた本気”だった。

九条も、何も言わずにそれを受けた。

テンポの上がったラリーの中で、

時雨がふいに、ほんの少しだけ声を緩めた。

「……お前、人間らしいとこ、ちゃんとあるじゃん」

ボールを返しながらの言葉だったが、

その声音は不思議とあたたかく、笑っているようで、笑っていない。

九条は一拍遅れて、ボールを打ち返す。

わずかに視線が交わる。

返事はない。

でも、言葉の代わりに――

そのラリーが、ほんの少しだけ優しくなった気がした。

時雨は何も追及しない。

ただ、目の前のボールに集中する。

それが彼なりの“踏み込まない配慮”であり、

九条もまた、それに応えるように、強すぎない球を打ち続けた。

そこに言葉は要らなかった。

ただ一つ、確かなのは――

この時間だけは、世界ランカーも、支配者も、誰かの執事でもなく。

“ただの人間・九条雅臣”だったということ。

いい感じの空気

しばらく続いた静かなラリーに、

唐突に入り込んだのは、あの男だった。

「うわ……空気いい感じじゃん」

コートの隅で復活した蓮見が、

タオル片手にのそのそと近づいてくる。

「もう怒ってない?俺、そろそろ許されてる感じするよね?」

その軽口に、

九条は振り返りもせず、ボールを構えたまま一言。

「……黙ってろ。ボールが無駄になる」

時雨が肩を震わせる。笑いを堪えてる。

「おい!なんで俺だけずっとボコられてんの!?

 お前らちゃんと心の距離縮めてんじゃねえか!!ずるくない!?」

「黙れ。酸素も無駄になる」

「殺意変わってないどころか増してない!?!?」

ラケットを構えたままの九条から、

ふたたび放たれた一球は――

明らかに“トドメ”の速度だった。

昔は可愛かった

ボールが蓮見の足元すれすれをかすめて、壁にぶつかって跳ね返る。

「うおっ、危ねっ……」

タオルで顔を拭きながら、蓮見はため息交じりにぼやいた。

「……昔はあんなに可愛かったのにな」

誰に言うでもなく、独り言みたいに。

近くにいた氷川がちらりと横目を向ける。

「初めて会った時、まだ十代だったな。

 感情のない目してて、冷たかったけど……礼儀だけはちゃんとしててさ。

 “ありがとうございました”とか、“よろしくお願いします”とか、

 マニュアル通りにしか言えないロボットみたいな奴だった」

そう言いながら、どこか懐かしそうに笑う。

「でも、試合になったら怖いくらい強くてな。

 こりゃあ、世界行くかもな、って……思ったよ」

少し離れたところで、それを聞いていた神崎がぽつり。

「……だからこそ、誰も踏み込めなかったんでしょうね。

 無理に感情を引き出しても、壊れてしまいそうで」

蓮見はうなずいた。

「今も変わったわけじゃねーよ。

 ただ……あいつは、“何か”を手に入れたんだろうな。

 自分の意思で、執事服なんて罰ゲームに付き合うくらいには」

「……それが、成長ってやつですか」

と、早瀬。

「うん。あと、誰かの影響ってやつだな。でなきゃ、こんなアホなこと本気でやらん」

蓮見が遠くのコートを見る。

そこには、ラリーを続ける九条と時雨。

表情は相変わらず無機質で冷静。けれど――

「アホなのはお前だけだ」

打球音に混じって、九条の低い声が返ってきた。

びしりと刺さる、容赦ないツッコミ。

蓮見は嬉しそうに笑った。

「ほらな?こういうツッコミ入れるとこも変わったのよな~。

 前だったら聞こえててもスルーだったし。

 “言うだけ無駄”って顔してたもんよ、完全に」

めげる様子はまったくない。むしろ誇らしげ。

「成長だよ、成長。

 俺の愛ある教育の成果かなー。感情って、ちゃんと育つんだなー」

「……教育された覚えはない」

再び飛んできた球が、足元を正確に狙ってきた。

「うおっ、今のちょっとコントロール良すぎんだろ!!?」

九条は相変わらず淡々と構えているだけだったが、

わずかに口角が上がったようにも見えた。

蓮見はそれを見逃さない。

「お前な、そういうのバレてんのよ。

 ちょっと機嫌良くなってんの、分かるからな。

 やっぱり愛のパワーは偉大だわ」

次の瞬間。

ラケットを握る九条の手に、わずかに力が入ったのが分かった。

「待って待って待って!今の取り消すから!!打つな!!絶対打つなよ!!」

無情にも――ボールは放たれた。

都合の良い耳

再びラリーが始まる。

ボールを打ちながら、時雨がふと口を開いた。

「お前、この距離で蓮見の声よく聞こえるな。

 俺、全然聞こえなかったぞ。何言ってたかも分かんねえ」

九条は一球、軽く返してから答える。

「……聞いた方がいいことは、聞こえる」

「都合のいい耳だな」

時雨はあっけらかんと笑い、ボールを強めに返す。

「でも、そういうとこ、嫌いじゃないよ」

その言葉に対しては、九条は何も言わなかったが――

ボールのテンポがわずかに早まった。

会話の代わりに、打球の速度で返す。

(ちゃんと“返してくる”ようになった)

時雨の中にも、そんな感慨があった。

昔の九条なら、こんな言葉も、球の変化も返さなかった。

まるで機械のように淡々と勝つだけだった彼が、

今はこうして、誰かの言葉に反応している。

それが嬉しいとも、面白いとも思った。

コートの中央で交わる音だけが、確かにそれを物語っていた。

旅支度

その日の夜。

レジデンスのキッチンには、レオンの作った夕食の香りが漂っていた。

落ち着いた明かりのもと、九条はリビングのソファでタブレットを見ていた。

明日の移動に備えてスケジュールや必要物資を確認している、いつも通りの夜。

そこに、玄関側のエレベーターが開く音。

「ただいまー!」

明るい声と共に、澪が大きなスーツケースを引いて入ってきた。

「家からスーツケース持ってきた!おっきいやつ!」

嬉しそうに言いながら、ソファの前でスーツケースを開け始める。

明日の夜からイギリス、そしてそのままドバイ。長期の移動に備えて、しっかり荷造りするために自宅からわざわざ持ってきたのだ。

「夏物もいるよね?向こう暑いし、ドバイって何着ればいいんだろ…仕事だから服装気使う…。紫外線も強いって言ってたし…」

何も知らず、ただ明日の移動に備えてワクワクと準備をしているその姿に、

九条はタブレットを置いて、そっと視線を向けた。

少しだけ、肩の力が抜けたように、静かに息をつく。

昼間、チームの練習場が半ば戦場だったとは、澪は知る由もない。

その原因が、何気ない“罰ゲームの一言”だったことも。

レオンは何も言わず、二人の様子を横目にテーブルのセッティングを整える。

まるで何も起きていなかったかのように、穏やかな夜が始まる。

スーツケースを広げながら、澪は楽しげに話し続けた。

「週末にイギリスで、そのまま火曜日にはドバイに着いてないといけないから、月曜日は有給取った!残しといて良かった〜」

そう言って、手帳アプリを指でなぞりながら、自分のスケジュールを確認している。

「あと変換プラグと日焼け止め、あ、あれも持ってかなきゃ……」

まるで修学旅行の前夜のような、どこか浮かれた空気。

それが悪いわけではない。ただ、あまりに平和で、何も知らない。

九条は静かにその様子を見つめながら、水の入ったグラスを傾けた。

部屋の照明が揺れるグラスに反射し、わずかに彼の表情を照らす。

澪は荷物を詰めながら、ふと思い出したように顔を上げた。

「あ、ねえねえ。アフタヌーンティーのお店、ドレスコードあるよね?」

九条がグラスを置く音に気づかず、澪は畳みかけるように続ける。

「ワンピースとブーツで入れる?ブーツ邪魔かなー。ドバイには絶対暑いよね。でもスニーカー駄目だよね?やっぱ靴、ちゃんとしたのにするべきかなあ……」

スーツケースの中に広げた靴袋を前に、しゃがみ込んで悩んでいる。

九条はソファから軽く上体を起こし、少しだけ声を落として言った。

「ブーツで構わない」

「ほんと?ドレスコードなんて初めてだし、信じるからね?」

驚きながらも安心したように澪は笑った。

その笑顔を見て、九条はそれ以上何も言わず、また視線を手元に戻す。

澪は悩むのをやめて、再び服を畳み直す。

「あ、ブーツ履いて行って、ドバイ用の靴持って行こ。パンプスもいるんだよなぁ……」

スーツケースの隅に詰めた靴袋を見下ろして、小さくため息。

「革靴だけで全部行けたらいいのに。さすがにドバイでブーツは死ぬしなあ……」

そうぼやきながら、パンプスを一足取り出して慎重に包む。

九条は黙ってそれを見ていた。

けれど、その「死ぬしなあ」の一言にだけ、わずかに口元が緩む。

白い武器

「ねえねえ、あ!そうだ!」

澪が突然、スーツケースの前からくるっと振り返った。

「ねえねえねえ!あのドライヤー持って行ったらだめ?あの白い武器みたいなやつ!!」

「……武器?」

レオンが思わず眉をひそめる。

キッチンカウンターから顔を出しながら、「?」が顔に浮かんでいた。

「あれだよ、バスルームに置いてあるやつ。白くて、先がちょっとごついやつ。風強いけど、乾かすとまとまるやつ!」

九条は顔を上げずに答えた。

「ああ。何ならそのまま持って帰れ」

「……え、いやいやいや。さすがに良いよ。あれ、たしか17万するんでしょ?高すぎるって……」

「値段は知らない。遠征には邪魔になる。返さなくていい」

「ええええええー……」

澪は半笑いでドライヤーをバスルームから1つ持ってくる。このドライヤーは、ここのレジデンスに3つある。

「たしかに、大きいし邪魔だよね。スーツケースに入れるのもちょっと躊躇するサイズ……しかし髪のまとまりは大事」

レオンは静かに笑いながら言った。

「ドライヤーを武器って言う人、初めて見ました」

「だってこれ銃みたいじゃないですか?近未来の武器」

「確かにレーザー打てそうです」

「しかし出てくるのは神の風!!」

澪が「神の風!!」と親指を立ててドヤ顔してる横で、九条は静かに水を飲んでいる。

何も言わない。けれど――

ドライヤーどころか、彼は今、澪のために“住む場所”そのものを整えようとしていた。

一人で暮らすには少し贅沢な、家具家電付きのサービスアパートメントを。

渡すつもりも、感謝を求めるつもりもなく、ただ、彼女が安心して暮らせる場所として。

返されたところで、そっちに送りつけるだけだ。

「……ドライヤーから神風か」

九条がぼそっと呟くと、レオンが笑った。

「大丈夫です。あのドライヤー、旅先でも“守り風”になりますよ」

命を賭して

「大体さー、何でシャンプーにもトリートメントにも気を使わず、スキンケアに命かけずに生きてる人がここまで整ってるの!?おかしくない!?」

「命をかけたら本末転倒だろ」

「それぐらい気合い入れてるって意味!」

「食事に命をかけろ」

「う……それは言い返せない……気を付けます……」

口には出さないけど、澪の家賃負担がなくなれば、その分のお金を食事に回せる。

高いからやめておこう、が理由にならなくなる。

月数万円の金額が浮けば、命を作る食べ物を全力で選べるようになる。

今はまだ伝えないけど、そういう意図もあった。

「神様って不公平だ~~~!」

澪は、スーツケースを開きながら、ブラウスを畳んで詰め込んでいた。

「なんでさ、スキンケアもがんばって、髪もケアして、パックして、日焼け止めも塗ってるのに、雅臣さんみたいな人がすっぴんであの肌なの!?意味わかんない!」

ぐだぐだ文句を言いながらも、動きは止まらない。靴を袋に入れ、コテとポーチを並べ、念のための常備薬もジッパーに詰めて――そんな姿を、九条はリビングのカウンターにもたれて、静かに水を飲みながら眺めていた。

ツヤのある髪。揺れるたびに柔らかさが伝わってくる。

肌も白く、なめらかで、触れれば温かい。

歯並びも綺麗で、笑ったときの横顔は、ときどき目を奪われるほどだった。

体毛もほとんど目立たず、体型は細すぎず、締まっていて、柔らかく、強い。

すべてが、彼女自身の努力でつくられたもの――そう理解していた。

「……お前は充分綺麗だ」

そう言葉にしたのは、思考よりも先に口が動いたからだった。

「……え?」

驚いたように顔を上げた澪に視線を戻さず、九条はただグラスを置く。

「思ったことを言っただけだ」

「え、でも……照れたりとか、ないの?」

「ない。気にするな」

本音だった。

“作られたもの”でも構わない。努力していることそのものが、美しいと思った。

それに気づいてから、彼女の見え方は変わった。外見だけじゃない。意志と過程が、姿に現れている。そういう人間は、強い。

澪が再び荷物に向かう。耳まで赤くなって。

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URB製作室

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