53.帰宅後 心理戦をやる

澪がソファに腰掛けると、九条は黙って冷蔵庫の方へ向かう。

冷蔵庫の扉を開ける音。中から取り出した保存容器が、カウンターに置かれる。

「……レオンさんの作り置き?」

澪が立ち上がって、そっと隣に並ぶ。整然と並べられたガラス容器の中には、バランスのとれた料理が美しく詰められていた。

冷蔵庫の中を見た澪は、ひとつひとつに貼られた付箋に気付く。

• 「レンジ600w × 1分30秒」

• 「冷たいままでOK」

• 「このスープは明日の朝に」

• 「このサラダ、彼は食べないかも。あなたへ。」

澪は思わず小さく笑った。

「……これ、私宛だよね?」

「レオンが勝手に貼った」

「そっか、でも……優しいね」

九条は黙って鶏のハーブソテーを取り出し、無言で電子レンジにセットする。

容器のフタに、こう書かれていた。

『翌日から練習再開なので、栄養バランス優先してます。MCTオイルは控えめにしてます。』

「……ねえ、レオンさんって何者なの?」

「栄養士。ツアーも帯同する。俺の身体、把握してる」

「把握されてる……」

「日ごとの体重と食事量と運動量、全部記録してる」

「……プロって、やっぱりすごいなあ」

澪はスープとサラダだけを取り分け、自分用のプレートを用意する。

九条は全種類を、迷わず順に温めて並べていく。

その様子は、慣れきった日常の一部だった。

「お前は、普段の食事は?」

「私? うーん、自炊はするけど、ここまで本格的なのはしないかな……。だいたい1品に食材色々入れて終わり。サラダとか、スープに野菜とかドカドカ入れて終わり」

「……栄養失調になる」

「アスリートの運動量じゃないから、ならないです」

笑いながら箸を運ぶ澪。九条の目は、ふと優しくなる。

澪は九条の背中を見ながら、静かに思った。

(この人、自分の身体に強い執着があるタイプじゃないのに、食事や体調管理は完璧なんだ……)

それは、健康志向とか、自己愛からくるものではない。

ただ――

「勝つための道具」として、身体を整備している。

まるで、職人が自分の道具を磨くように。

少しでも鈍れば勝機を逃す世界で、勝ち続けるために、淡々とやっているだけ。

(もしこの人が、別の仕事をしてたら……)

整った体型も、均整のとれた筋肉も、正確な食事も――

きっと、どうでもいいと思ってたかもしれない。

彼にとって、“整える”のは勝つためだけ

ただそれだけ。

それが、どこまでもプロの生き方なのだと思った。

《澪目線》

一口食べて、飲み込んで。

そのあと、ふと聞いてみた。

「……ねえ、もし、テニスプレーヤーじゃなかったら、どんな仕事してたと思う?」

唐突だったかもしれない。

でも、ずっと前から少し気になっていたこと。

雅臣さんは、少しだけ手を止めて、目を伏せた。

「……考えたことないな」

やっぱり、という感じだった。

「そうか……そっか。

ずっとこの道だけ見てきたんだもんね」

「…そうだな。子供の頃から、他に選択肢なんてなかった。いや、選ばなかった」

「うん……でも、たとえばさ。もし高校生くらいで、ふとやめてたら? プロにならない道を選んでたら、何してたと思う?」

九条は少しだけ考えてから、

言葉というより、答えにならない“音”を吐いた。

「……さあな。想像がつかない。たぶん、どこにいても何かで勝とうとしてたと思う」

「うん……うん、そんな気はする」

勝つことにしか興味がないわけじゃない。

でも、“勝ち続ける自分”を生きるのが、彼の生き方だったんだと思う。

(きっと、勝ち方を探すのが好きなんだ)

そんな気がした。

ゲーム開始

昼食を食べ終えて、ソファに座ったまま、2人とも、なんとなく無言になった。

テレビもつけず、音楽もかかっていない。

無音の空間。

ふと、思いついたように口を開く。

「この家って、トランプとかあるの?」

九条が少しだけ眉を動かした。

「……いるのか?」

澪、少し笑って――

「ちょっと面白いゲーム、知ってる。心理戦ができるの。……やる?」

九条の目が細くなる。

「勝負か?」

「うん。勝つことが好きなら、多分、楽しいと思うよ」

少しだけ、含み笑い。

まるで――今度は自分が九条を“試す側”だということを、わざと知らせるように。

「もしトランプなかったら……手書きの紙でもできるよ。カード5枚しか使わないから」

「手書きでやるゲーム?」

「うん、紙に“記号”を書いて、裏向きで出すだけ。簡単。……でも、心理戦できる」

「……(電話する)氷川」

(すでに理解していたように)「買い置きの新品、あります。お持ちします」

澪、ぽかんとする。

「あるんだ……」

「何にでも備えているのが、うちの氷川だ」

超能力者か、と澪は内心思っていた。

「…じゃあ、試しにやってみる?トランプあるなら、ちょっと面白いの知ってる」

「どんなゲームだ」

「使うのは、たった5枚。ジョーカー1枚と、1〜4の数字カード」

九条は興味がなさそうでいて、手元のカードを何気なく指で弾いた。だが、耳はちゃんと澪の方を向いている。

澪はカードを軽くシャッフルしながら、続けた。

「カードを伏せて並べるの。どこかにジョーカーがある。相手は引いたら負け。ジョーカーを避けて、残り4枚を全部開けたら勝ち」

「……運ゲーか?」

「違う。面白いのは、並べる人と引く人の性格が、すっごく出るとこ

九条の視線が、わずかに鋭くなる。

「たとえば、4枚をくっつけて並べて、1枚だけ外した位置に置いたとする。見る人は考える。 ‘これは誘いか、それとも囮か’って。性格によって、先に引く場所が変わる」

「……つまり、お前ならどこに置くかを読む、ってことか」

「そう。で、私は**“あなたならどこを引くか”**を読む」

一瞬、テニスコートでは絶対に見せない、九条の小さな笑みが浮かぶ。

「……なるほど。いいゲームだ」

「じゃ、まずはやってみよ。私並べる側ね」

澪がにこにこしながらカードを並べている。

ふと尋ねてきた。

「このゲームに名前つけるなら、何て名前にする?」

九条は数秒黙ったあと、カードの並びを一瞥する。

指先で、まだ裏返されていないカードの端を軽く押すように触れながら、

「……Fifth Draw」

静かに、短くそう答える。

「5枚のうち、最後の1枚まで引けるかどうか。それがすべてだろ」

「それ、かっこいいけど……めちゃくちゃ緊張感あるね。ちなみに、私これ友達とやった時、2回連続でジョーカーを1発で引かせた。私は最後まで引かなかった。その子は素直な子だったし、考えが読みやすかった。そして私は意地悪な並べ方をする。…ちょっとやる気出た?」

九条はカードに視線を落としたまま、目だけで彼女を見る。

口角が、わずかに上がる。

「……お前、性格悪いな」

「褒め言葉として受け取っておく」

1ターン目

【澪の配置(内心)】

(初手は様子見。まだ勝ちにいかない。均等に並べて、ジョーカーはいちばん左端に置こう)

(これで、引き方の性格を見る。ど真ん中を突っ切るか、一番端を行くか、王道の端から一つ隣を捲るか)

(それを見てから、“クセ”をつかむ)

カードの配置:

🂠🂠🂠🂠🂠

↑ 九条から見て左端にジョーカー。あとは全部セーフ。

【九条目線】

カードを見つめる九条。沈黙数秒。

そして――

「……均等に並べたな」

「ってことは、どこにでも置ける。どこにも置いてない可能性もある。……が、見せてくるとしたら、端か中央だ」

静かに、右から2枚目に手を伸ばす。

セーフ。

澪、

(端からいかないんだ)

九条もまた、澪の顔を見ずに、手札だけを見ている。

(誘導か。となると、次は……)

2枚目、右から4枚目もセーフ。

【澪の内心】

(……セーフ。予想通り)

(右から2枚目。最初は真ん中も端も避けた。安全策)

(ってことは――彼、“負けるのが嫌”なんだ)

(……ふふっ)

澪は自分の頬がわずかに緩んだのを感じる。

けど、それを見られないようにすぐに口元を押さえる。

(ダメダメ。こういうの、見抜かれるんだから)

九条雅臣って人は、相手の一瞬のノイズを拾う天才だ。絶対に油断できない)

澪が言う。

「これ、実は雅臣さん有利なゲームなの」

「カードはね、触るだけで捲らなくてもいいの。どのカードに触れた時に、相手の表情が動くかを見る――そういう勝ち方もある」

「……でもそれをやるかどうかは、任せるよ」

にこっと笑って、最後にこう続ける。

ポーカーフェイスが上手いほど有利だから。……自信、あるでしょ?」

九条は一瞬だけ澪を見たあと、視線をカードに戻して、

「……ゲームのルール説明に、相手の性格を組み込むやつ、初めて見た」

でも、口角がわずかに上がっている。

これは「のってきた」サイン。

(あ、ちょっとやる気出してくれた?)

(勝ち負けはどうでもいいけど――“読まれる”のは、ちょっと悔しいかも)

【九条目線】

指先だけでカードに触れ、慎重に捲る。

視線はカードに落ちたまま――でも、澪の反応はすべて見えている

1枚目、2枚目……ともにセーフ。

だが、3枚目にはすぐ手を伸ばさない。

ほんの少し、視線を逸らす。

「……初手で誘導してきたな」

呟くように言って、わずかに口角が上がる。

「左端。そこがジョーカーだ」

――と、口では言いながら、中央に手を伸ばした。

【澪・内心】

(……なにそれ)

(そうやって口ではフェイントかけておいて、真ん中を引く?)

(え、なに?読んでるの?それとも“撹乱”してるだけ?)

中央――セーフ。

4枚目。

右端――セーフ。

残ったのは1枚。左端だけ。ジョーカー。

九条は最後まで視線を逸らさず、カードに触れる。

しかし、捲らない。

そして、無言でカードを澪の方へ滑らせる。

「この1枚。……俺は捲らない」

【澪・心の声】

(“全部見破った”アピール…!?)

(……絶対、全部分かってたわけじゃない。でも、分かってる“ふり”が上手すぎる

(これ、試合だったら完全に主導権取られてるやつ)

九条は言う。

「1ゲーム目、こっちのサービスゲーム。キープ」

笑うしかない澪。

「あーもう……感じ悪いなぁ!!」

けど、それすらも楽しくて。

“ただの遊び”なのに、こんなに本気で心が動くことがあるなんて。

2ターン目

【九条目線】

1ゲーム目で見えた。

澪の配置は整っていた。きれいな均等、でも外した場所にジョーカー。慎重に見せかけて、実は揺さぶるタイプ

あえて均等にして、「どこにでもあるよ?」という罠。

今度は、逆をつく番だ。

【九条・内心】

(こいつは、人の“性格”を読むのがうまい)

(だったら――性格を捨てた並べ方をすればいい)

(法則も意図も見えない並べ方。それが最も嫌う“ノイズ”になる)

九条はカードを手に取り、まったく意味のない順番で置く

均等でも不均等でもなく、一見整ってるけど、どこかバラバラ

しかも、わずかに右に重心が寄っているような並べ方。

【澪目線】

(……は? なにこの並べ方)

(わざと? いや、わざと“整ってない”ふりをしてるだけ?)

(でも、これ…なんかすごい嫌な並べ方。考える時間が増える……)

(迷わせようとしてる。絶対)

澪は指を浮かせたまま、1枚目に触れようとして、やめる。

それを見た九条が、ぼそっと呟く。

「触るだけで、ヒントが出ることもある。……だったよな?」

思わず、心の中で(うるさい)って思った。

【澪・内心】

(どこを捲っても、なんか“引っかかり”がある)

(これってつまり……全部が怪しいってことじゃん)

(いや、違う。どれも怪しくない“ふり”をしてるけど、1つだけ本物がある

(さっきの試合のリプレイみたいに、もう読まれてる気がする)

でも――澪は決める。

真ん中を捲る。

「……真正面から行く」

セーフ。

九条、目を細める。

「……変えてきたな」

澪、2枚目。

右端を捲る。

セーフ。

(……! いけるかも)

(もしかして、中央の“外”にジョーカーを置いてる?)

(いや、それは逆に考えすぎ?)

残り3枚。

左端、右から2枚目、左から2枚目。

澪は少しだけ、九条の表情を盗み見る

「……どうしても分からない時って、どうする?」

そう問いかけると、九条はあっさり言う。

確率より、直感。 外したら運が悪かったと割り切る。俺は、運も実力のうちだとは思わない」

その言葉に、澪の中の“何か”がピリッと反応する。

(運じゃない。実力で引く)

澪は、左端を捲る――

セーフ。

残り2枚。ジョーカーはまだ生きてる。

どっち?

澪の指先が、右から2枚目と左から2枚目を迷い、止まる。

(ここまで来たら、勝ちたい――)

そう思った瞬間、

「止めるか?」

と、九条の声。

でも澪は――

「……止めない。あと一手」

指を伸ばす――

【澪・内心】

(たぶんこの並べ方は、“崩したように見せた”上級者の配置)

(ちょっとだけ右に重心を寄せてた。わざとだ)

(私だったら、そっちに視線を誘導して、そっちにジョーカー置かない。彼も、意地悪なことする性格)

(――いや、そうじゃない)

(彼は、端にも中央にもジョーカーを置かない。素直じゃないけど、ひねくれ方が理性的。性格は直線的じゃないけど、感情的でもない)

(最も自然な場所にジョーカーを置いてくる)

(ってことは――わざと右に誘導しておいて、本命は左側

(それを確かめるなら――)

澪は左手で、左から2枚目のカードを無言で捲る

ジョーカー。

──引いた。

【九条、反応なし】

(それを見ても、驚かないのが彼らしい)

(たぶん、“引くならそこ”って分かってた

(むしろ、そこまで読まれることまで計算に入れてたのかも)

澪、カードを伏せ直しながら、小さく笑う。

「……あー、やられた…」

「右に手を出させたかったけど、置いたのは逆サイド。心理戦の基本中の基本」

九条、ほんのわずかだけ、口元をゆるめる。

「最初に右側を避けた時点で、“読んでる”と思った」

「なら、左を選ばせた方がいい。あえて」

澪、手を止めたまま。

(ああ、こういうところだ。だから、こっちも素直に楽しめなくなる

(勝ち負けじゃなくて、“どう読むか、どう読まれるか”

(そうやって、彼はスポーツをしてきたんだ)

「ねぇ、雅臣さんさ――意外と、私より素直だよね。捲る場所が」

九条は、何も言わない。

けど、少しだけ視線が逸れた。

(図星だったか)

3ターン目

澪は手元のトランプを静かに混ぜながら、ちらりと九条の表情を盗み見た。

相変わらず無表情のまま、彼は微動だにしない。

「……勝ったら、罰ゲームでも決める?」

探るように仕掛けた言葉。

わずかでも彼の反応を引き出せるか――澪の中に、そんな淡い期待があった。

だが九条は、ゆっくりと澪の顔を見つめ返しただけだった。

その視線に、軽い緊張が走る。

「何にする」

低く、静かに返される問いかけ。言葉は少ないが、すべてを計るような眼差しだった。

澪は、わざと少し悩むそぶりを見せた。だが心の奥では、彼がどこまで乗ってくるかを計算している。

「うーん……じゃあ。負けた方は、勝った方の質問に答える。どうしても答えたくないなら答えなくていい。でも、基本は答えた方が……いいよね?」

一歩踏み込むような、少しだけ挑発めいた笑みを浮かべる。

その瞬間、九条の目がわずかに細まった。

「わかった」

その短い返事の裏側に、静かな承諾と、同時に“受けて立つ”という宣言が滲んでいた。

部屋に残ったのは、再びカードが擦れる小さな音だけだった。

【澪の配置(内心)】

(前回は均等に並べた。今回は、“クセ”をつかませない並べ方にする)

(3枚と2枚に分けて、でも偏りがありすぎても不自然になる)

(2枚側――九条さんの目線から見て“左側”にジョーカーを置こう)

(自分側に置いたら「守った」ように見える。逆に“攻め”の姿勢でいく)

カード配置:

🂠🂠(←ジョーカー)  🂠🂠🂠

 ↑九条視点:左       右→

【九条の思考(静かな視線)】

カードを見下ろす。

目は伏せられたままの5枚をゆっくりと追う。

「今回は、均等じゃないな。3枚と2枚。……真ん中を“消して”きた」

視線が、分かれた“2枚”の方にいく。

けれど、すぐには手を伸ばさない。

(この並べ方……挑発か。それとも、ブラフか)

指がゆっくりと、“3枚”の列に触れる。

澪の内心に緊張が走る。

(……そっちいく? そっち、捲る?)

しかし九条、カードには触れたが――

「……反応を見たい、って顔してるな」

「だったら、見せない」

と、小さく言って、九条、いきなり“2枚”の方――しかもジョーカーじゃない方に手を伸ばす。

セーフ。

【澪、内心】

(……っ、うまい。やっぱ見破ってる)

(3枚側を先に触って、でも開けなかったのは誘いだった)

次の手は?

九条、今度は澪の視線を無視して、わざと目を逸らしながらもう1枚に手を伸ばす――

ドン。

ジョーカー。

「……やられたな」

九条、小さく笑って言う。

「2枚に分けて“選ばせる”配置。自分の方に引き寄せるようで、実際は遠ざける」

「勝負どころで“左利き”の反応を読んだな」

澪、してやったりの顔で、にんまり。

「はい、質問、いただきました。質問考えとくから、その間に今度はカード並べて。私がジョーカー引いたら、それぞれ一回ずつ質問できる、ってことで」

【九条、小さくうなずく】

「……了解。じゃあ、並べる」

4ターン目

【九条の配置(内心)】

(勝ち負けのゲームじゃない)

(けど――“質問を得る”という報酬があるなら、それはそれで燃える)

今回は“完全なランダム”に見せかけて、実は1か所だけ、ほんのわずかにカードの間隔を広くしておく。

そこにジョーカーを置く。

人間の視線は「わずかな違和感」に引き寄せられる。

だが、それに気づいたかどうかで、性格が見える。

カードの配置:

🂠 🂠 🂠 🂠 🂠

(中央から左寄りの2枚目と3枚目の間隔だけ、わずかに広い)

【澪、目を細めてカードを見る】

(……やってきたな)

(どれも同じに見える……いや、違う)

(……ちょっとだけ、間隔がズレてる。見せかけ? 誘導?)

澪、真剣な顔。

でも、ほんの少しだけ、口元が笑ってる。

(これはたぶん、見せてきてる)

(さて、“乗るか、乗らないか”)

澪、わざとその間隔の広い2枚目を指先で軽く撫でる。

九条、無反応。

(……こっちを捲ったら、“素直”って思われるな)

(でも、あえて――)

「えいっ」と声に出して、4枚目を捲る。

セーフ。

九条、少しだけ眉を上げる。

【九条内心】

(読みを外したか――いや、“逆を取った”か)

(やるな)

【澪】

(やっぱ違った。でも、あの反応……間違ってなかった)

(ってことは、間隔の開いたとこにあるな)

「うーん、どうしようかな〜」とわざとらしく言ってから、わざと時間をかけて、間隔が広がった3枚目のカードに手を伸ばす――

指が触れる直前に、ピタッと止めて、

その横の5枚目を捲る。

セーフ。

【九条】

「……引かないのか。そこ」

【澪】

「そこがいちばん怪しいから。怪しすぎて、捲れない」

(間隔が開いてる――たぶん、わざと。あの人が“無意識でミスる”なんて絶対にない)

(見せてきてる。これは“挑発”だ。あえてわかるように仕掛けてきてる)

(でも、それに乗ったら、負けた気がする)

(問題はそこを“避けた”場合)

(私がビビって避けたと読むか、それとも“読んだ上であえて外した”と読むか)

(……でも、そんな駆け引き、彼なら絶対わかってる)

(じゃあ、むしろこの次が勝負)

指先が3枚目のカードに触れそうになる。

一瞬の沈黙。

(そこじゃない。今は、まだ。あそこは、次に引く。今は揺さぶるだけ)

指先をすっと横に滑らせて、1枚目をめくる。

その動き、すべて九条に見られている。

けれど、澪はあえて表情を見せない。

(“感じ取ってくれたらいい”くらいで、ちょうどいい)

(……だって私たち、まだ全部を見せ合ってないから)

(残り2枚……もう“勝ち”でも“負け”でもなくて、“どっちに転んでも呑み込まれる”って感覚)

(……これ、絶対わざと)

(わざと残り2枚になるように、あえてセーフのカードから捲らせてる)

(ジョーカーの場所も見せてないし、示してもいない。でも、あの人なら“ここを残すだろう”って計算してる)

(もう、カードが喋ってるみたい)

視線を残り2枚の間で揺らしながら、

でも手はどちらにも伸びない。

(あえて言うなら、“どっちでもいい”って思ってるときのほうが、怖い)

(だって、私の手の動きより先に、気持ちを読まれてる気がする)

一方で九条は、ほとんどまばたきもせずに静かに待ってる。

(“待つ”のも、この人の戦略なんだ)

(……ほんと、伊達に世界ランク1位やってないな)

【九条雅臣・内心】

(……迷ってる)

(左か、右か。指先が微かに浮いて――でも、どちらにも触れない)

(……手を止めるとき、人は考えていない。考えてるふりをしているだけだ)

(今、彼女の頭の中は静かじゃない。声にならないノイズが詰まってる)

(正解も不正解も存在しないゲームで、“相手の意図”を探ってる)

(……だから、ここまで誘導してやった)

 

(選ばせることは、コントロールだ)

(2枚残しは、思考を絡ませるための罠。答えを引き出すのではなく、過程を揺らす)

(どちらを選んでも、どちらでもない理由が残る)

(それが、面白い)

 

(俺は、彼女の目線を見ない)

(見る必要がない。“触れ方”にすべてが出る)

(手の動き、躊躇、呼吸の詰まり――情報はすでに出ている)

(答えを知っている者にとって、これは遊戯ではない。“観察”だ)

 

(さあ、どちらを選ぶ)

(俺が“負け”として用意した罠を、君は自分の意思で踏むのか)

 (……それとも、回避するのか)

澪が、わずかに首を傾げながら口を開く。

「……これ、カードの配置、変える? このままにする?」

わざと曖昧に揺さぶるような声音だった。

九条は、一瞬だけ視線をカードに落としたが、迷いはしない。

「君が決めろ」

その声には、わずかな強さが混じっていた。

選択権は与える――だが、決断するのはお前だ。そう告げるように。

再び、微かな静寂。

カードの並ぶテーブルを挟んで、ふたりの静かな駆け引きは続いていた。

【九条・内心】

(“正解を知ってる人”に決めてほしくなったか)

(でも、俺は決めない)

(これは君のターンだ。責任を持って、選べ)

《澪・内心》

(あの問題みたいなものだ。

 ABCの3択で、最初に1つ選んで、

 残りのうち1つが“外れ”だって分かったとき――

 じゃあ最初の選択を変えるかどうか)

(確率的には、変えた方が有利。

 だって、最初の選択の当たり確率は3分の1。

 残りの2つのうち、1つのハズレが公開されると、

 もう一方に当たりの確率が集まる。つまり、3分の2)

(でも……それって、考えた上で変えるなら“正解”だけど、

 ただ“怖いから変える”のは、違う)

(今の私は、怖いから変えたくなってるだけじゃない?)

(――じゃあ聞いてみた。「変える?」って)

2枚。

左と右。

どちらかがジョーカー。

(……分かってる。統計的には、変えた方が良いって。

 でも、怖い。変えて“引いたら”、絶対に後悔する。

 だったら……最初の選択を信じた方が、まだ自分に納得できる)

指先が震える。

でも、それでも――捲る。

「……」

(お願い、来ないで)

カードが裏返る。

──白。

セーフ。

(……っ)

思わず、息を詰めて、心の中で拳を握る。

ほんの小さな勝利。でも、確かな実感。

【九条目線】

(予想通り。彼女は、まだ“素直”になれない。

 怖いことからは、目を逸らす。

 でも、自分で向き合おうとはしてる)

(なら、“素直な選択肢”こそが、生き残る道)

(少しずつでいい)

(……ただし、俺は“結果”しか見ない)

表情には出さないけど、内心では“良し”と静かに頷いている。

休憩

【澪目線(描写案)】

「……ちょっと飲み物入れてくる」

そう言いながらキッチンへ。

冷蔵庫を開けると、スポーツドリンクとミネラルウォーター、あと、レオンが用意してくれたらしい、冷たい麦茶。

(どれがいいかな……。いや、たぶん彼は水でいいって言う)

グラスに水を注ぎながら、ちらりとリビングを振り返る。

九条はカードを見つめたまま、微動だにしない。

(あれで絶対、頭の中で色々考えてる)

(……さて、何を聞こうか)

朝もいろんな話をした。聞けば意外と答えてくれる。

でも、このゲームで勝ち取った“特別な一問”だと思うと、何でもいいってわけにはいかない。

わざわざジョーカー引かせる勝負をしておいて、「好きな食べ物は?」なんて聞くのも間が抜けてる。

かといって、重すぎてもダメ。

今の空気のまま、自然に、でもちょっとだけ彼の内側を照らす質問。

(うーん……)

水を注ぎ終えて、リビングに戻る。

彼の前にグラスを置いたあと、自分の席に戻ってから、ふと思いついたように聞いた。

「……質問、してもいい?」

九条は、少しだけ視線を動かして、頷いた。

「私にしてほしいことって、ある?」

そう聞いたあと、すぐに付け加える。

「べつに、勝負のご褒美ってわけじゃなくて。……これは“質問”だから」

そう言って笑うけど、自分でもちょっと緊張してるのが分かる。

心を差し出す時って、いつだって少し怖い。

【九条目線|内心】

「私にしてほしいことって、ある?」

その問いは、思っていたものと違った。

欲しがるでも、媚びるでもない。

ただ、確かめるように。

まるで“許可”を求めるみたいに、慎重に投げられた言葉だった。

——ご褒美じゃなくて。これは質問。

その補足に、少しだけ目を細める。

本当に、澪らしい。

問いの形をしてるけど、それは“差し出してる”に近い。

自分から明け渡すようなその姿勢に、ほんの一瞬だけ、胸が静かに熱を帯びた。

こんな問いをされるとは思っていなかった。

してほしいこと、なんて——

そんなものは、いくらでもある。

けど、それを言葉にした瞬間、どこかが崩れてしまうような気もした。

まだ壊したくない。

まだ試していたい。

彼女が、どこまで“来る”のか。

だから答えない。

今は、沈黙だけを選ぶ。

視線をそらさず、ただまっすぐ見返す。

その奥にあるものが、彼女に届けば、それでいい。

グラスの水に口をつけ、少し間を置いてから、もう一つだけ尋ねてみた。

「ねえ、もうひとつ。今まで、人にもらったもので――一番嬉しくて、記憶に残ってるものって、ある?」

今度は、少し柔らかく。

さっきよりは気楽な問いのつもりだった。

けれど、内心はまた少しだけ緊張している。

彼が、過去のどんな場面を思い出すのか――それを聞くのは、やっぱり少しだけ怖いから。

【九条目線|内心・追加】

「今まで、人にもらったもので、一番嬉しくて、記憶に残ってるものって、ある?」

柔らかく投げられたその問いに、ほんのわずかに呼吸が揺れた。

何気ない質問のようでいて、意外と鋭い。

そういうところが、彼女らしいとも思う。

……記憶に残っているもの。嬉しかったもの。

ずっと前に、誰かから差し出されたもの。

そして、最近になってから、彼女が差し出してくれたもの。

答えは複数浮かぶ。けれど、どれも今は言葉にしたくなかった。

もし口に出せば、きっとまた彼女は何かを差し出そうとする。

今は、まだそれを求めたくない。

ほんの一瞬、視線を伏せてから再び澪を見つめた。

そして、また沈黙を選ぶ。

――それでも、この沈黙が答えになっているなら。

今は、それでいいと思えた。

5ターン目

指先でグラスの縁をトンと叩きながら、九条の目を見る。

「……さて、続きやる?」

「……やるか」

テーブルに手を伸ばす。

【澪・内心】

(今回は、わかりやすい配置にしよう)

(捲る側が、自然に「読めた」と思えるように。だから、クセが出る)

(私の狙いは“勝つこと”じゃない。“見たい”だけ)

カードの配置:

🂠🂠🂠🂠🂠

均等に横一列。

ジョーカーは、2枚目。(九条から見て左から数えて2番目)

(もし彼が“素直に考えた通りに捲る”なら、ジョーカーを引く可能性は高い)

(逆に、それを避けるような思考なら――彼の中に“疑う習性”があるってこと)

「並べたよ」

目線はカードに落としたまま。口調はあくまでフラットに。

【九条・内心】

(均等に並べた)

(前回もそうだった)

(なら――)

視線を落としたまま、澪の顔は一切見ない。

(意図がある)

(誘っている。どうぞ引いてください、という“罠”に近い配置)

手が――前回と同じ、中央の隣に伸びる。

(あの時、俺はこの位置を選んだ)

(今回も、同じ場所を選ぶと“そういう人間”だと判断される)

(逆に、変えたらどう思う? 警戒したと見なされるか。疑り深いと思われるか)

(……いや)

「変えない」

口には出さず、思考で決める。

再び、中央の右隣を捲る。

セーフ。

【澪・内心】

(……同じとこ行くんだ)

(前回とまったく同じ場所)

(罠かもしれないのに、そこ捲るのすごいな)

それって、もしかして――

読まれてることに気づいた上で、あえて変えてこなかったってこと?

(素直っていうより、自信がある)

(しかもそれで、引き当てないんだもんな……)

「持ってるな、ほんと……」

思わずポツリと口に出た言葉に、九条は顔も上げずにカードを捲り続ける。

(クセを見せてくれてる。私に“読ませてる”)

でも、それを見抜いたところで勝てるかは別。

(……勝たせてくれる気、ないな)

(……やばい)

(この並べ方、たぶん当てられた)

(しかも、**“こっちが何を見たいか”**まで読まれてる)

(クセを見るためにわざと単純な配置にした。それを見抜いた上で、そのクセを“なぞって”見せてきた)

(……あの人、もう私の考え方を逆算してる)

(あーあ、これたぶん、場所バレてるわ)

(このままじゃ、全部引かれる)

【九条・内心】

(また同じ型か)

(この配置、たぶん“見せてる”な。わざと読みやすくしてる)

(……確認しようか)

2枚目。

ゆっくりと、中央の隣――つまり**ジョーカーのある“危険地帯”**に、まっすぐ手を伸ばす。

その瞬間、澪の中で何かが凍る。

けれど九条は、捲る直前で一拍、止める。

「……お前は“勝ちたい”わけじゃない。確認したいだけだ」

そのまま、カードをひとつ捲った。

ジョーカーを、引き当てる。

澪、思わず叫ぶ。

「なんでジョーカーの方引くのよ!めんどくさがりか!!」

九条、わずかに目を細めて、

「……当てにいったんじゃない。“確認”しただけだ」

「いやいや!確認ってなに!そっち選んだら終わるってわかってたでしょ!」

「わかってた。だから、“そっち”を選ぶタイプかどうか、見たかった」

「で、私の性格は?」

「……引かせたがってた」

「うっわ~~~~、もう……! わざとジョーカー引いたでしょ!」

九条、静かに水を飲んでる。ノーコメント。

澪、くしゃくしゃの顔でうつむく。

「もう…負けたってことは、質問……されるんだよね……?」

「そういうルールだったな」

ちょっとだけ、目を逸らしてから。

「じゃあ――訊こうか」

九条は静かにカードを片付けながら、

目を伏せたまま、少しだけ間を置いて──

「……どうして、あの時。俺を避けなかった?」

水を飲んだときの無機質な顔とは違って、わずかに、ほんのわずかに、熱が混じっていた。

でも、声のトーンは相変わらず静か。

“訊くべきではない”とわかっていながら、それでも、聞かずにはいられなかった。

あの時、とは最初にここで会った夜のことだ。

澪はきょとんとした顔で答えた。

「なんで避けるの?私、最初の夜に関しては優しかったって認識してるけど。まあ、あの時にあなたが帰るなって言わなかったら帰ってたと思う。でも、言ったから、残った」

九条は、澪が「怖くなかった」と言うとは思っていなかった。

しかも「優しかった」なんて言われたら、息が詰まる。

彼の中で、あの夜は“支配”だった。

淡々と命令して、限界まで追い詰めた。

優しさなんてものは、少なくとも自分の中にはなかった。

でも、澪にとっては――

「帰るな」と言われて、そこにいたことがすべてだった。

九条は、その言葉を聞いたあと、一拍置いて、

「……お前、やっぱり強いな」と小さく。

皮肉でもなんでもなく、本心で

「いや弱いよ。謙遜じゃなくて、ほんとに弱い。普通の人よりも弱い。でも弱いから、無理しないようにはしてる…つもり。でももしかしたら、弱いことは受け入れて理解してるから、選んでることが強く見えるのかもしれない。無理なものは無理って分けてるだけなんだけど」

九条は、それ以上なにも言わなかった。

ただ、水を一口、飲んだ。

カップを置くときに、かすかに音が鳴る。

そのあと、静かに――

「……そうか」

その一言だけだった。

納得の音とも、敬意とも、敗北宣言とも、どれにも聞こえて、どれでもない。

でも、澪には分かる。

(……ちゃんと、届いた)

心が触れたような気がして、少しだけ胸の奥があたたかくなる。

それから、彼がふっと口角を緩めた。

「じゃあ、次は――俺が並べる番だな」

口調は変わらないのに、どこか空気が変わっていた。

少しだけ、優しくなった気がした。

6ターン目

九条がカードを手に取る。

指先の動きは無駄がなく、静かで正確だ。

伏せたカードを一枚ずつテーブルに並べながら、その視線は一度も私を見ない。

けれど、私は彼の横顔を見ていた。

(私から見たら、あなたのほうが強いけどな)

そう思っていることを、彼はたぶん知らない。

誰よりも結果を出して、誰よりも孤独で、それでも前に進み続けてきた人。

“それしかなかった”と彼が思っていたとしても、澪はその強さを知っている。

カードがすべて並び終わる。

伏せられた5枚が、また無言の戦いの始まりを告げている。

「……並べた。好きなところからどうぞ」

彼の声に、少しだけ、さっきとは違う柔らかさが混じっていた。

彼は、まず中央のスペースに、ひとつ間を空けながらカードを並べていった。

1枚、2枚、3枚……中央を中心に左右に振り分けるように、全体がバランスよく見える配置。

だが、ほんのわずかに――右側に重心が寄っている。

整然と並んだ5枚。ぱっと見では均等だが、観察すればすぐ気づく。

(また“右に寄せて”きた)

澪は思う。

彼は以前もそうしていた。性格が出ているのか、それとも試しているのか。

――重心を右に寄せると、人の視線は自然とそちらに流れる。

でも彼は、ジョーカーをそこに置くような単純さではない(と信じたい)。

(それとも、その“信じたい”心理を利用してくる?)

澪は、カードの並びだけで、また読まれている気がしていた。

(また右に寄せてきたか)

心の中で小さくつぶやく。やっぱり彼はこの配置が“落ち着く”のかもしれない。

あるいは、私がこの偏りに“気づく”と知っていて、あえて繰り返しているのか。

(……なら)

澪は、迷わず手を伸ばした。

右端の1枚目。

セーフ。

小さく息を吐く。九条は反応を見ていない。けれど、絶対に聞いてる。息づかいも、気配も、全部。

右から2枚目。

セーフ。

(このまま右から捲っていくってことは、“寄せ”に乗るってこと)

(……それでジョーカー引いたら、それも受け入れる)

3枚目。手を伸ばす瞬間、わずかに九条の視線が揺れた気がした。

……セーフ。

(あと2枚)

この時点で、澪はもうカードじゃなく、**彼の沈黙の中にある“気配”**を読んでる気がしていた。

4枚目。

(素直に、順番に)

澪は迷いなく、右から4枚目のカードに指をかける。

澪の目線はカードにあるけれど、九条の視線は、彼女の**“その素直さ”**を見ていた。

(お前は、やっぱり素直な方がいい)

(そうやって、まっすぐに捲る方が……俺は、好きだ)

パタン。

セーフ。

静かな空気の中、4枚目のカードが裏返る音だけが響いた。

勝利確定。でも、手は止めなかった。

澪は息を止めたまま、九条の方を見ずに、最後の1枚へと指を伸ばす。

右から5枚目、最後のカード。

(順番に捲った。それだけ)

カードにそっと触れ、澪は一呼吸だけ置いた。

その横顔を、九条は静かに見ていた。

パタン。

ジョーカー。

勝負は――澪の勝ち。

一瞬の沈黙。

そして澪、声を出さずに、小さくふっと笑う。

「……やった」

嬉しさを見せすぎないようにしてるけど、目の奥にはしっかりとした自信。

九条は水をひと口飲む。

グラスを置いて、短く。

「お前……やっぱり強いな」

(でもそれは、俺が思ってた“強さ”じゃない)

(捨てることで、守る。手放すことで、選び取る)

(そんな強さ……俺は、知らなかった)

素直に捲るって、それが一番心理的にキツいんですが! 心臓に悪い!

澪はそう言いながら、笑った。

声には明るさがあったけど――その笑顔の奥にあるのは、「それでも信じたい」という決意だった。

九条は、その笑顔を見ていた。

(……信じるのは、怖いことだ)

(でもそれを選んだ。自分で)

(……やっぱり、お前は強い)

それは「勝ち負け」への言葉じゃない。

選び続けてきた彼女の人生に対する、敬意だった。

「じゃあ、質問。まだ先だけど…日本を離れた後、また会える?」

一瞬、返事が遅れる。

九条は水を口に含んで、しばらく沈黙してから、カップを置く。

そして――

「……お前が、会いたいと思ってるうちは、会える」

淡々と。

でも、それはすごく誠実で、嘘のない言葉。

「じゃあ、また会いたい。時々でいいから。あと電話しよ。これは質問じゃなくてお願い」

「………回数制限、なしでいいか」

「もちろん。あ、時差は考慮してください」

「善処する」

ヨットの購入やりとりの2年の間でも、一度も九条は変な時間に電話をしてきたことはなかったから、その心配はしていなかった。

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URB製作室

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