93.大会前日

周期チェック

翌朝。

ホテルのロビーを出て、一人になった瞬間、澪は鞄からスマホを取り出した。

アプリを開く。

カレンダーには、小さな赤いマークが並んでいる。

「……あ、やっぱり」

生理周期を管理するアプリ。

仕事の予定と照らし合わせながら、次のタイミングを確認するのはもう習慣になっていた。

――九条の横にいると、桁外れの金額や非日常に巻き込まれて、自分まで浮つきそうになる。

でも、こうして画面を見ていると「私は私の日常を抱えているんだ」と、少しだけ地に足がつく気がした。

前回の生理が終わったのは――九条と初めて会った、一月末。

アプリの記録をなぞれば、一月二十二日から始まっている。

画面をスクロールして、今の日付に視線を止めた。

二月二十三日。そろそろ来る頃だが、まだ来ていない。

「……もし、来なかったら」

思わず、息を詰めた。

心当たりがあるからこそ、不安になる。

――九条なら、万が一そういうことになっても責任から逃げる人じゃない。

でも、望まないタイミングで起きてほしいことでもない。

避妊はしている。けれど、百パーセントではない。

画面の小さなマークを見つめながら、澪は一人、胸の奥に冷たい波が立つのを感じていた。

服を汚さないように、備えはしてある。

痛み止めの薬もポーチに忍ばせている。

来れば来たで、体調は最悪になる。頭痛と腹痛、倦怠感――まともに仕事をこなすだけでも大変だ。

それでも。

もし来なかったら――不安で仕方がなくなる。

九条と出会う前は、こんなふうに考えたことはなかった。

ただ「そろそろかな」「またしんどい時期が来るな」――その程度の感覚でやり過ごしてきた。

けれど今は違う。

確率は高くなくても、可能性はある。

一度でも、そういう関係を持った以上。

画面に表示される小さな丸印を見つめながら、澪は自分の身体の現実を改めて思い知らされていた。

立場の違い

 公式練習コート。

 観客席には、すでに数十人の見物客がちらほら集まっていた。試合ではなく練習を見に来ている。それだけでも、この大会が特別である証だった。

 九条は、まるで試合のような緊張感でラリーを繰り返していた。

 コーチの蓮見がサーブのコースを指示し、九条は一拍の迷いもなく従う。

 打球音がハードコートに鋭く響き、空気を震わせる。

 志水がフォームを観察し、神崎が身体の動きと呼吸をチェックする。

 氷川は腕時計を見て、練習時間を秒単位で管理していた。

 周囲の観客は思わず息を呑む。

 ――これは練習なのか。いや、すでに試合そのものだ。

 ミスをすればただちに修正、疲労を見せれば即座に調整。無駄のないルーティンの積み重ねに、素人目でも圧倒されるものがあった。

 (ここから、さらに上げていく)

 九条の表情は変わらない。ただ淡々と、完璧に、当たり前のように。

 その姿は、既に明日の勝利を前提として動いているかのようだった。

安心と憂鬱

 トイレの個室で、生理が来たことを確認する。

 ――来た。

 澪は深く息を吐いた。

 (……よかった。よかったけど……)

 心の底から安堵する。けれど、それは同時に――自分はまだ妊娠を望んでいないという証でもあった。

 九条と一緒にいる未来を考えていても、“今ではない”と、身体が先に答えを出していた。

 だが、安心と同時に一日が憂鬱になる。

 腹の奥に鈍い痛みが広がり、冷や汗が浮く。立ちっぱなしで接客するには、あまりに厳しい。

 ポーチから痛み止めを取り出し、水と一緒に流し込む。

 (……これで少しは楽になるはず)

 スマホを取り出し、検索窓に指を走らせる。

 「女性 避妊 主体的にできる方法」

 「IUS IUD 子宮内避妊具 病院」

検索窓デモ
Google

Google 検索


Google 検索

 仕事の合間、こっそりと病院の情報を探す。

 (私が決めなきゃ。彼に任せきりにしちゃ駄目だ。……自分の身体だもん)

 画面に並ぶ文字が、現実の重みを増して胸に沈んでいった。

春の約束

 春には、温泉に行く約束をしている。

 あの人と並んで、枝垂れ桜を眺めたい。

 ……なのに、この不安を抱えたまま毎月を繰り返すなんて、正直耐えられない。

 互いに仕事がある。相手の未来を邪魔したくない。

 だから、自分で選ぶしかない。

 九条はもし万が一、そういうことになったとしても責任を逃れる人じゃない。

 だからこそ、怖い。

 望まないタイミングでそれが起きたら、彼は放置はしない。何かしらの対策をとる。キャリアの途中でも。

 そんなこと、させたくない。

 ――もし。

 もし「妊娠した」と伝えて、万が一でも彼に「今は諦めろ」と言われたら。

 そんなことは、九条の性格を知っていれば現実にはあり得ないと分かっている。

 けれど、想像するだけで胸が冷たくなる。

 「……怖い」

 心の底で、小さく零れる。

 信頼しているはずなのに、不安が消えない。

 それは、彼を信じていないからではなく――

 彼の未来を大切に思えばこそ、余計に怖かった。

違う未来の築き方

 同じ頃。

 九条はコートに立ち、硬質な音を響かせていた。

 観客席には、すでにちらほらと見物人の姿。大会前日、公開された練習を見に来ているのだ。

 打球音。

 バウンド音。

 シューズがハードコートを擦る低い音。

 九条の意識は、そのすべてを数値のように刻み取り、合理的に積み上げていた。

 「回転が甘い。もう一度」

 蓮見の声に即座に反応し、サーブを打ち込む。

 ボールの回転、体重移動、足の入り――。

 一球一球に未来が繋がっている。そう信じているから、今の一点に集中できる。

 彼は未来のために今を積み上げ、

 彼女は未来を守るために今を隠している。

 同じ時間、二人の視線は決して交わらない。

 けれど――確かに隣に、互いの存在を知っていた。

ちょっと元気ない報告

 昼休み、いつものように着信があった。

 だが。

 「……もしもし」

 澪の声は、妙に落ち着いていた。

 ここ数日は、開口一番に「もっしもーし!」と弾んだ声が飛んできていたのに。

 今日はまるで別人みたいに、低く、静かだった。

 九条は無言で、ほんのわずか眉をひそめた。

「大丈夫か?」

「え?」

「声のトーンが普段より低い」

「ああ……さっき生理来ちゃって。薬飲んだけど、体が重くて」

 その一言で、九条は合点がいった。

 ――そうか。

 彼女が急に声を落とした理由も、妙に落ち着いた調子で話すのも。

 理由さえ分かれば、余計な詮索をする必要はない。

「なら、無理はするな」

「……うん。今日はボートショーの最終日だから、踏ん張る。あ、でも良いお知らせがあるよ」

「なんだ」

「私、ドバイに出張来てて、そのまま帰国したら休みなくなるから……振替休日もらった」

 電話口の九条が、わずかに息を吐く音がした。

「それは、良い」

「でしょ? これでちょっとは休めるし。雅臣さんともいられる」

 澪の声にはまだ疲れが残っている。けれど、それでも前向きな話題を出そうとするあたりが彼女らしい。

 九条は余計なことは言わず、ただ淡々と返した。

「……なら、ショーが終わってからゆっくりしろ」

「ありがと。でね……ここからはお願いになるんだけど」

「ああ」

「明日、大会初日じゃない?」

「そうだな」

「……見に行ったら駄目?」

 短い沈黙。

 九条は表情を崩さないまま、ほんのわずかに目を細めた。

 彼にとって大会前日の澪の“お願い”は、応えたい気持ちと、集中を乱したくない気持ちのせめぎ合いになる。

「……来てもいいが、条件付きだ」

「条件って?」

「俺は、大会の時、人と話さない。話し掛けさせない」

「一言も?」

「ああ。当日の朝もお前と話せない。本当に“見る”だけになる。それで良ければ手配はする」

 九条の声は冷静で、そこに迷いはなかった。

 澪は小さく息を呑み、それからゆっくり頷いた。

「……うん、それでいい。見るだけでいい」

「ならお前の分のチケットを取っておく」

「そんな急にどうにかできるものなの?」

「関係者席だ」

「…私、関係者?」

 その響きが、胸の奥をくすぐってくる。

 ――自分は彼の“外”じゃないんだ。

 思わず口元が緩むのを隠せなかった。

「一般席がいいのか?」

「やだやだ、関係者がいい!」

 子どもみたいに即答してしまって、澪は自分で照れ笑いする。

 九条はわずかに眉を動かしただけで、特に何も言わない。

 けれど口元がほんの少し綻んでいた。

実物発見

 ボートショー最終日の午後。

 澪は展示ブースを飛び回りながら、営業スマイルを崩さずに対応していた。VIP客の前では姿勢も声色も自然に切り替わる。まさに「Sunreefの顔」として立っている自覚があった。

 ――けれど。

 合間にショーの会場を移動していて、ふと覗いた「Supercar Avenue」で、澪は完全に油断した。

 そこにあったのは、眩しいほどの金色スーパーカー

「……なにこれ! まぶしっ!実物あった!!」

 思わずスマホを取り出し、パシャリと撮って九条に送る。

雅臣さんの次の愛車、決定です

 送信した瞬間、自分でも吹き出してしまった。

 制服姿で真剣に接客していたさっきの自分とは別人のように。

不要だ

返信の速さに思わず笑った次の瞬間、通知が鳴り止まない。

続けて第二通が届いた。

金色の車など論外だ。
まず、無駄に目立つ車体は外出のたびに視線を集め、盗撮や記事化の原因となる。スポンサーにも「軽率」と見なされる可能性が高い。
さらに金属光沢は日射反射が強く、運転中の視覚負担は大きい。
洗車・メンテナンスの手間も増え、合理性がない。
加えて、選手として試合に集中する上で、周囲の雑音を最小限にすることは不可欠だ。
車は移動の道具であり、注目を集めるための装飾ではない。
移動手段が主役になってどうする。
そもそも合理的なアスリートなら「速く静かに移動できること」以外に価値を置くべきではない。
以上の理由から、その選択肢は根拠を欠く。

「なっが…!!」

澪は肩を震わせながらスマホを見つめ、指で画面をスクロールした。

「……これ、小論文じゃん。タイトル付けるなら……」

真剣な顔で考えるふりをしてから、ニヤリと笑う。

『金色の車が合理的でない理由 ― 九条雅臣』

脳内で想像した瞬間、また堪えきれず吹き出した。

「だめだ、雅臣さんがゼミで発表してる姿が浮かぶ……っ絶対大真面目にやってる…っ」

澪は返信を素早く打ち込んだ。

この長文どうやって打ち込んだの?打つの早過ぎない?

澪がスマホを掲げて首を傾げる。

九条は一拍置いて、淡々と返してきた。

音声入力

「いやいやいや!あの小論文を無表情で音声入力してるとか……想像したらお腹痛い!」

九条は眉間に皺を寄せただけで、何も言わない。

だがその沈黙が、余計に澪の笑いを誘った。

「……もう、ただでさえお腹痛いのに笑わせないでよ!!」

澪はボートショーの会場で笑いを堪えながら、内心そう叫んでいた。

でも、笑っているうちに不思議と少し元気が出る。

生理痛と薬で重たい体は変わらないのに、心の方だけ軽くなるのを感じて――。

音声入力してるところ想像したら元気出た

澪はそう打って送信した。

きっと無表情のまま、淡々とスマホに向かって長文を口にしている。

その姿を思い浮かべるだけで、痛みで沈んでいた心が少し浮上する。

「……」

開封済みの表示だけが残った画面を見つめ、澪はふっと口元を緩めた。

(やっぱり無表情でスルーしてるんだろうなぁ……でも、それ想像したら余計に笑えるんだってば)

わざとお腹を押さえて、息を整える。まだ痛みは残っているけど、少し元気が戻っていた。

すぐ近くでは、来場客の声と海風のざわめき。

澪はスマホをバッグにしまい、深呼吸をひとつ。

――もう切り替えないと。

次の瞬間には、にこやかな営業スマイルを浮かべ、足早に展示ブースへと戻っていった。

伝えない気遣い

 澪との電話を切ったあと、九条はすぐにレオンへ直通で連絡を入れた。

夕食は、体を冷やさない食事を用意しろ

 氷川を介さないのは珍しい。いつもならマネージャーを通じて全体のスケジュールに組み込むのが常だ。

 メッセージを受け取ったレオンから、即座に軽い返事が返ってきた。

珍しいね?この暑さで“体を冷やさない”ってことは……
彼女の体調のための食事って認識でOK?

 画面を見つめる九条の指先が、一瞬だけ止まった。

 余計な説明はしない。

 ただレオンからの返信に、九条は「頼む」とだけ返した。

レオンのお買い物

 レオンはすでに頭の中で買い出しリストを組み立てていた。

 QKOアジアンマーケットで豆腐や枝豆を仕入れ、Deans Fujiyaで日本米と鮭の切り身を確保。

 Carrefourでは根菜と果物を選び、体を温めるスープやおかゆに仕立てられるようにする。

 「ほうれん草のおひたしに、お味噌汁。白身魚を軽く蒸して……あとデザートはザクロを添えれば完璧かな」

 レオンの頭の中で、もう献立は完成していた。

 九条が言葉少なく指示を出せば、彼は余計な詮索もせず、ただ確実に整えてみせる。

 そういう関係だった。

和夕食

「2人とも、そろそろ和食が恋しい頃かなーと思って、頑張って日本の食材ゲットしてきたよ」

にっこり笑って、レオンがテーブルに並べたのは、サバの塩焼きに大根おろし、豆腐とわかめの味噌汁、かぼちゃの煮物、ひじきとほうれん草の胡麻和え、小鉢にプルーン。

澪は思わず目を丸くした。

「……え、これ全部……ドバイで買えたの?」

「探せばあるもんだよ」

軽く肩をすくめるレオンの仕草は、あまりに自然で。

澪が生理中なのは“知らないフリ”。

でも、鉄分もマグネシウムもビタミンも――全部ちゃんと揃っている。

澪はスプーンを握ったまま、じんわり笑った。

「親鳥様、今日も美味しい餌をありがとうございます」

澪が両手を合わせて拝むように言うと、レオンは苦笑した。

「餌って言わないで」

横でそのやり取りを見ていた九条が、淡々とひとこと。

「……喜んでるぞ」

レオンは肩をすくめる。

「見れば分かるよ」

澪は、二人の温度差にまた笑って、湯気の立つ味噌汁をすすった。

澪は九条の声音に、ほんのわずかな不穏さを感じて箸を止めかけたが、理由は分からなかった。

(外暑くてバテてるとか?それとも大会前でピリピリしてるのかも)

そう思い直し、湯気の立つ味噌汁をひと口。

「ん〜、あったかいご飯美味しい〜!」

結局、笑顔で無邪気に食べ進めた。

作ったのはレオン。けれどその献立が「今の自分に必要なもの」になっていたのは、九条が裏で一言、伝えてくれていたからだった。

澪はその事実を知らない。けれど、安心して食べられること自体が、確かに九条の気遣いの成果だった。

九条の言葉は澪に安心させるための一言でもあり、レオンに対する小さな牽制でもあった。

本格的な料理を自分は作れない。自分も同じ食卓でその恩恵を受けている以上、否定はできない。

だからこそ、澪が「レオンさんのご飯最高!」と心底懐いているのを目の当たりにすると――ほんの少しだけ、面白くない。

レオンはそんな九条の様子を横目で見て、苦笑した。

(ほんと恋愛のことになると急にIQ下がるんだから……)

デザートの話題

「じゃーん!」

食後、トレーを掲げながら、レオンが笑顔で運んできた。

「ボートショーお疲れ様〜! そして明日からの大会も頑張りましょうデザートー!!」

皿の上には、淡いクリーム色のパンナコッタ。

その上に鮮やかなザクロのソースがかかり、宝石のような実が散らされている。

「うわ、綺麗……!」

澪の目が一気に輝く。

「ザクロは鉄分も多いし、美容にもいい。甘酸っぱいから疲れてる時でも食べやすいよ」

「……神……!」

両手を合わせて拝む澪に、レオンは苦笑い。

スプーンですくってひと口食べた瞬間、澪は思わず目を細めた。

「ん〜〜幸せ。甘酸っぱいのが体に染み渡る」

ザクロの粒を一つ一つ嬉しそうに味わう澪の姿に、レオンは心の中で(やれやれ…)とため息をついた。

――彼女がこんな笑顔になるのなら、嫉妬されても作る価値はある。

「デザートってさ、別腹だよね!」

澪はにこにこしながらスプーンを最後まで運び、きれいに食べ切った。

「……別腹だとしても、吸収する体は一つだ」

「えー!? ロマンないこと言わないでよ!」

「現実だ」

「情緒ってものが無いんだから……!」

口を尖らせる澪を横目に、九条は淡々と水を飲む。

「ところで澪ちゃん、飛行機いつのやつに乗るの?」

レオンがデザート皿を下げながら、何気なく訊いてきた。

「あ、振替休日もらったから、1日後ろにずらして変更したんです。明日の大会観に行きたくて」

「……へぇ。じゃあ九条さん、余計に負けられないね」

「いつもと変わらない」

九条はナイフで果実を切り分けるように淡々と答える。その横顔に、レオンは「ほんとブレないなぁ」と肩をすくめた。

澪は思わず吹き出す。自分にとっては一大イベントなのに、この人にとっては“いつも通り”。そのギャップが、逆に安心させてくれる。

おすすめされても使わない

「雅臣さん、明日大会初日だから、先にお風呂入る?」

澪がリビングで声をかける。

「もう済ませた」

淡々と返す声。

「あ、そうだったんだ」

軽く返しながら、澪は一瞬きょとんとする。

「……雅臣さん、共用のシャワーとか使うの嫌そうなのに」

澪が目を丸くして言う。

「汗かいたまま車に乗る方が嫌だから、秒速でシャワー浴びて出てくるよ」

レオンが横からさらりと補足した。

「あ、なるほど」

澪はようやく腑に落ちて頷いた。

「潔癖がぶつかり合って、やむを得ずシャワー浴びて帰ってるのね」

澪が納得顔でそう言うと、レオンは吹き出しそうになりながら咳払いで誤魔化した。

「メンズ用のサラサラパウダーシート使ったら? 応急処置で」

澪が真顔で差し出すと、九条は一瞥しただけで無言。

「え、何その反応。便利なんだよ? コンビニでも売ってるし」

「……その一枚で汗と菌が消えるなら、誰も風呂に入らない」

「いやそうなんだけど! でもさ、車に乗るまでの応急処置とか!」

「応急処置のために、まず全身を清潔にする」

「……それ、応急処置って言わない」

レオンは肩を揺らして笑いを堪えていた。

「……俺は使わない」

九条はきっぱりと言い切った。

「えー! 便利なのに!」

「風呂に勝るものはない」

「そういう問題じゃなくて、ほら、電車の中とか急ぎのときとか!」

「電車には乗らない」

「そうだけど、ちょっと使ってみようって気にならないかなぁ。ちなみに私もメンズ用使ってる」

「なんでメンズ用なの?」とレオンが首をかしげる。

「シートが大きくて丈夫だから」

「……なるほど」

九条は無言のまま、わずかに眉を動かした。

「ちょっと騙されたと思って腕に使ってみて」

「騙されたくはない」

「例えだから!」

「例えでも、不必要なものは使わない」

澪は「も〜〜っ」と声を漏らし、腕を組んでふてくされる。

レオンが横で小さく吹き出し、「便利そうなのにね」とだけフォローを入れた。

「拭いた後めっちゃサラサラして気持ちいいから!」

「……別に求めていない」

「いや求めてなくても気持ちいいから!体験してみてよ!」

「体験した結果、必要なかったとなれば無駄だ」

「ぐぬぬ……」

澪が言葉を詰まらせて唇を尖らせると、レオンが隣で肩を震わせて笑っていた。

唐突な変態発言

「でも澪ちゃんの使用済みシートなら使いたくなるんじゃないの?」

唐突にレオンが変態発言を投下した。

「ちょっ…な、何言ってるんですか!!」

澪は耳まで真っ赤になってシートを慌てて握りしめる。

「……」九条の眉間に深い皺が寄る。

「レオン」

「はいはい、冗談ですって」

「冗談でも言うな」低い声が突き刺さる。

「ごめんごめん。つい試したくなって」

レオンは肩をすくめて苦笑したが、澪の心臓はまだバクバクしていた。

「好きな人が使ったものとかって萌えない?……これ僕、引かれるやつ?」

レオンは首を傾げながらもニヤッと笑ってみせた。

「めっちゃ引きます!!」

澪が即答で突っ込み、顔を覆った。

「……」九条は低い視線を横に流すだけ。

「あ、やっぱり怒ってますね九条さん」

「当たり前だ」

「冗談ですよ冗談!」

レオンは両手を上げて降参ポーズをしたが、九条の眉間の皺は簡単には消えなかった。

「えー、割とあるあるだと思ってたんだけどなぁ。僕、匂いフェチなのかなぁ」

レオンは顎に手を当てて、真剣に自分を分析し始める。

「自己申告いらないから!」

澪は吹き出しながらも慌てて遮った。

九条は無言。だがその沈黙が一番怖い。

「……九条さん、目が氷点下なんですけど」

「黙れ」

謎の共感

「あ、でも……恋愛ゲームとかでキャラがそれやってるのは萌えるよ」

澪がぽつりと口にした瞬間、九条とレオンの視線が同時に向いた。

「………それ、とは?」

九条の低い声に、澪は一瞬で赤面する。

「……い、言えません」

枕をぎゅっと抱えて転がり込む澪。

レオンはニヤニヤしながら小声で「僕、だいたい想像ついちゃったなぁ」と呟いた。

「雅臣さん、匂いで萌えたことないの?」

澪が思い切って聞くと、九条は淡々と「ない」と即答した。

「え、じゃあ……匂いより映像派?」

悪ノリ気味に身を乗り出す澪。

「……おい」

低く一言で切り捨てられて、澪は「ひいっ」と後退りした。

レオンは隣で吹き出しそうになりながら、「これ以上は命が危ないからやめときなよ」と肩を揺らしていた。

説明させられる

レオンが笑いながら手を振って「また明日ね」と出て行った後。

部屋に残った九条は、無言で水のグラスを置いた。

「……」

「……なに?」

「さっきの“匂いでどうこう”は、どういう意味だ」

澪は「あ〜〜やっぱりマジで気づいてなかった!」と頭を抱える。

「いや…あのね?引かないでね?」

 澪はソファの上でごろごろしながら、勇気を振り絞るように言った。

「ゲームとかでさ、男性キャラが、好きな人……つまり主人公の女の子の匂いがするもので、その……一人でするシーンとかがあるのよ。そういうシーンに萌えるっていう……」

 九条は静かに瞬きをした。

「……お前は何を見ているんだ」

「ちょ、ちょっと!その引いた反応やめて!!」

 澪が慌てて手を振る。

「だって仕方ないじゃん!“好きな女の子の匂いで思い出してしてる”っていうのが、なんか……萌えちゃうんだもん!切ない想いを抱えてるって感じで!」

 九条はしばし無言で澪を見下ろし、低く吐き捨てるように言った。

「……現実でされたらお前も引くだろう」

「いや、相手による!」

 即答する澪。

九条の眉間の皺がさらに深くなり、澪は慌ててクッションを抱えてバタバタした。

「だって匂いって記憶に残るって言うじゃん!」

 澪は力説するように身を乗り出した。

「叶わぬ恋を想いながら、こう……」

「詳しく説明するな」

 九条が即座に遮る。

 澪は「うわ、めっちゃ嫌そう!」とクッションに顔を埋めてバタバタした。

「お前と話してると、大会前日だということを忘れそうになる」

 低い声が落ちてきて、澪の胸がひやりとした。

「……申し訳ない……」

 思わず小さく縮こまる。

 けれど九条は、黙ったまま彼女の髪を撫でた。

匂いを覚える

お風呂を終えてから、一緒にベッドの中で寝る前の時間、布団の中で抱き合ってじっとしていた。

九条の手が澪の髪を梳いたかと思うと、ふっと鼻先が触れた。

「……何?」

すんすんと匂いを嗅がれて、澪は思わず身を引いて、目を丸くする。

「お前が匂いがどうこう言うから……覚えてる」

「犬か!」

思わず突っ込む澪に、九条は平然とした顔のまま。

「……体調はどうだ」

ベッドの中で抱きしめたまま、髪に顔を埋める九条。

「ちょっと具合悪いけど、薬飲んでるし、大丈夫。やたらと眠いし、食欲すごいけど」

「食欲はいつもと変わらない」

「ひどっ!!そんなことない!」

「なら今は食欲を我慢しているのか?」

「……してないけど!」

むっとした顔で睨み返す澪に、九条はわずかに目尻を緩めた。

「お前が食べられるならそれでいい。無理するな」

「…………」

静かに告げられた一言に、澪は肩の力が抜けて、布団に顔を埋めた。

「ねえねえ、訊いてもいい?」

「なんだ」

「大会前は、キスは駄目?」

一瞬の沈黙。

九条の眼差しが澪をとらえ、低く落ち着いた声が返る。

「……駄目だとは言っていない」

「えっ、いいの?」

「睡眠に支障がなければ、な」

澪は吹き出しそうになりながら、布団を握りしめる。

「条件つき!?」

「当然だ」

「……でも禁止じゃないからいいや」

そう言って、そっと顔を近づけた。

「じゃあ――何回してもいいってことだよね?」

「……」

「だって“睡眠に支障がなければ”なんでしょ? だったら一回だけなんて縛りないし!」

九条は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと視線を落とした。

「……解釈が都合よすぎる」

「ふふっ、都合よく解釈するのが彼女の特権!」

澪が得意げに笑うと、九条は無言で抱き寄せ――仕方なさそうにその唇を塞いだ。

▶ 続き(BOOTHへ)

 全身の力が抜けて、澪は九条にしがみついたまま小さく震えていた。

 押し殺していた声も、最後には堪えきれず零れてしまった。

 九条は何も言わず、ただ強く抱き寄せた。

 熱い呼吸を落としながら、背中を大きな手で撫でる。

 「……よく耐えた」

 短い一言。

 責められて、追い詰められて、どうしようもなくなって――それでも最後まで拒まず受け止めたことを、確かに認めてもらえた気がして。

 澪は、泣きそうに笑った。

「……想像でいったのなんて初めて。びっくりした」

 肩で息をしながら、澪は小さく笑った。

「……でも、本当は……触ってほしかった」

 九条は短く息を吐き、澪の髪を撫で下ろした。

「お互い、耐える一週間だ」

 それ以上の慰めも、甘やかしもない。

 けれどその一言が、彼も同じように耐えているのだと伝えてくる。

 澪は胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、そっと九条の胸に額を預けた。

「じゃあ、ご褒美ね」

 澪はそっと顔を寄せ、九条の唇に自分から触れた。

 軽く、甘えるようなキス。

「……ところで、雅臣さんは」

 唇を離して、小首をかしげる。

「その……中途半端な状態で、平気なの?」

 九条は視線を落とし、わずかに眉をひそめる。

「平気なわけがない」

 低く、かすかに熱のこもった声だった。

「だが——自分で決めたことだ。守る」

 胸の奥にまだ熱が残っているのが分かる。けれど、その理性を崩す気配はなかった。

「ほんとに意思決定力強いね」

 澪はそう言って、そっと九条の頭に手を伸ばした。

 指先で髪を梳きながら、まるで子供を褒めるみたいに、なでなで。

 九条は眉をひそめ、視線をそらす。

「……頭を撫でられるのは、慣れていない」

「…そうなの?」

「当たり前だ」

「じゃあいっぱいなでなでするね」

 澪がさらに手を伸ばすと、九条はわずかに肩を強張らせた。

 けれど拒絶はしない。

 ただ、無言のまま受け入れている。

「……なぜ撫でられている」

「ん? ちゃんと自分で決めたこと守れて、我慢して偉いねって」

「子供か」

「いいじゃん。大人でも出来ない人はたくさんいるんだよ? すごいことだよ」

 九条はしばし黙ったまま。

 撫でられることへの慣れなさに戸惑いつつも、拒絶はしない。

 ただ、理由を知ってもなお「評価」として頭を撫でられるのが、妙に落ち着かないだけだった。

「……そろそろ寝ろ」

九条が低く言う。

「んー? 一緒に寝よ」

 澪はそのまま撫でる手を首の後ろに回して、ぎゅっと抱き締めて離さない。

 九条は一瞬だけ息を止める。

 普段なら「離れろ」と冷静に言いそうな場面なのに、今夜はただ困惑したまま受け入れていた。

 なぜ彼女に撫でられ、抱きつかれているのか――理由は分からない。

 だが嫌悪も拒絶もなく、むしろ妙に体の力が抜けていく。

 やがて澪は、小さな寝息を立て始めた。

 手はそのまま、九条の首にまわされている。

「……甘やかされるのは、慣れない」

 小さく吐き出した声は、誰にも届かない。

 けれど腕の中の温もりが、静かにその違和感を溶かしていった。

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