救世主到来
開場前の会場は、まだ少しざわついていた。
ヨットのデッキを磨くスタッフ、パンフレットを並べる手、行き交う声。
「……あれ? 綾瀬さん、Apple Watchのバンド替えた?」
女性スタッフのひとりが気付いて声を掛けてきた。
マジ天使。救世主。――澪は心の中で合掌する。
「彼氏がドバイ来てて、新しいの買ってくれたんです」
口に出した瞬間、昨夜のスパルタ練習を思い出して若干うんざりした。
けれど、声色は自然で、演技っぽさはない。
「え、これエルメスじゃない? 見たことある」
「昨日、ドバイモールに行ったので、そこで買ってくれました」
その会話を、準備作業をしていた例の先輩も耳にしていた。
澪の声色が曇らず、クールに響くのを聞いて――彼の表情が、わずかに変わった。
「……彼氏、いるんだ?」
例の先輩が、すぐ隣に歩み寄ってきた。
思わず心臓が跳ねる。ドキッとしたが、澪は顔色を変えない。
「ええ」
否定はしなかった。
短く答えると、それ以上の説明はせず、手元の資料を整え続ける。
先輩の視線がじりじりと突き刺さるのを感じたが、澪の横顔は冷静そのものだった。
――今までのように曖昧に笑って逃げたりはしない。
「彼氏」というひと言をはっきり肯定しただけで、空気は一変していた。
「どんな人?」
先輩が軽い調子で問いかけてくる。
澪は一瞬だけ、指先のApple Watchに視線を落とした。
「……そうですね。優しくはないですけど、欲しいものは全部買ってくれます」
さらりと告げる声には、淡々とした冷たさがあった。
「優しくなくても、お金出してくれる人がいいの?」
先輩の表情がわずかに歪む。
澪は微笑んだ。だがそれは営業用の笑顔ではない。
「私、お金大好きなので。一時的な優しさよりも、経済力がある方が好きなんです。そういう人がそばにいると、安心できます」
わざと“金で人を選ぶ”ことを、隠さず強調した。
――嫌われることが目的だから。
「……そう」
先輩は引きつった笑顔を浮かべるしかなかった。
澪はその横顔を一瞥しただけで、視線をすぐに手元の資料へ落とす。
もう、そこに“動揺する男”を見る必要はなかった。
自己嫌悪
控室に戻って、一人になった途端。
「…………はぁぁぁあああ」
澪は椅子に突っ伏した。
「なにあれ……私、完全に感じ悪い女じゃん……」
頭の中でさっきの会話がリフレインする。
――『欲しいものは全部買ってくれるんです』
うわぁぁぁぁ!!言っちゃったよ!
「絶対“金で選んでる女”って思われた…………違うのに……」
床に足をバタつかせながら、心の中で転げ回る。
けれど――。
思い出すのは、あの佐藤の顔。
“女の子は優しくすれば懐く”とでも思っていたような、あの余裕めいた顔が、一瞬だけ固まった。
「……効いたんだ」
口に出した瞬間、頬が熱くなる。
恥ずかしさと、ほんの少しの達成感。
「もう、やるしかないんだよね」
澪は顔を両手で覆いながら、小さくつぶやいた。
報告
『よくやった』
電話の向こうから返ってきたのは、予想外に低く、肯定的な声だった。
「ううう……」
褒められたはずなのに、澪の胸は重く沈んだ。
「一緒にいた女性スタッフ、絶対引いてた……。なんか“金で選んでる女”って思われたって……」
『何か言われたのか?』
「いや、言われてはないけど……顔に出てた気がする」
『……その程度で“嫌な女”だと思ってるのか?』
「へ?」
九条の声音は淡々としていた。
『俺がこれまで付き合ってきた女は、おねだりなど当然のようにしてきた。愛されているなら与えられて当たり前、という顔でな』
不快な過去、というよりは事実そうだったことを報告するような声音だった。彼女達の人生と価値観の中ではそうだった、というだけのこと。
「………え」
澪は言葉を失った。
自分が自己嫌悪で胃を痛めていた“嫌な女のセリフ”が、九条にとってはごく普通の恋愛の光景らしい。
『……それを思えば、今のお前は可愛げがあり過ぎるくらいだ』
「………なにそれ……」
目元が熱くなって、澪は受話器を握りしめた。
『“嫌な女”になると言っていたから、もっと暴れてくるかと予想していた』
「……暴れるってなによ」
『何なら、買ってもらった物に不満を言うくらいはやってくるかと』
「するわけないでしょそんなこと!! どんな性悪よ」
『今からでもいい。“これだけじゃなくバッグも買ってほしかった”と愚痴ってこい』
「嫌過ぎるんですけど!!!!」
澪は電話口で両手で顔を覆っていた。見えるはずもないのに、全力で否定する仕草までついてしまう。
『……それぐらいで“嫌な女”か』
「そうだよ! 私にとっては大問題なんだから!」
『ならお前はまだ甘い。もっと振り切れ』
「甘いってなに!!じゃあ聞いててよ!私、最大限“嫌な女”やるから!」
電話口から唐突に声色が変わった。澪がドラマの悪役を真似ている。
「ねえ、このバンドだけ? 本当はバッグ欲しかったのに。どうして分かってくれないの?」
『……』
「他の人の彼氏はみんな買ってくれるんだよ? 私ばっかり損してる!」
『……』
「ねえ、もっと私のこと大事にしてよ。私が一番でしょ?」
息を切らしながら畳みかけるように“嫌な女”を演じきった澪。
電話口の向こうで返事を待つ。
数秒の沈黙。
『……くだらない』
九条の返答は、冷たく短かった。
「えーーー!? めっちゃ頑張ったのに!!こういうことじゃないの!?」
『ドラマか何かで見たものだろう』
「ちょっと! それ言わないでよ!せっかく練習したのに!」
『俺の知っている女は、もっと現実的だ』
「これの現実的ってなに!? どんなの!?」
最大限の努力
スタッフ通用口の奥、誰もいない廊下で澪はスマホを耳に当てたまま、声を潜めていた。
「バンドだけじゃなくて……バーキンも欲しいの。分かってる? ドバイのエルメスはノルマあるから、最低でも380万円以上は買ってね?」
声色まで芝居がかっていて、九条からしたら茶番にしか聞こえない。
電話の向こうで、淡々とした低い声が返る。
『バーキン以外の、知っているバッグは?』
「えっ……えーっと……」
澪はスマホの画面を慌てて操作する。
「ちょっと待って検索するから」
『失格』
「ひどっ!! 努力は認めてよ!」
廊下で小さくジタバタする澪。
九条は受話口の向こうで微動だにしない声色のまま、わずかに息を吐いた。
「――何してるの?」
例の先輩ー佐藤だった。
澪の心臓が一瞬止まった。さっきまで芝居がかった声で「バーキンが欲しいの」などと口走っていたのを、どこから聞かれていたのか。
「彼氏に電話して……おねだり?」
わざとらしく口角を上げる先輩。
「……仕事の休憩中です。失礼します」
澪は即座に表情を殺し、声を冷やし切った。
通話の向こうで九条が沈黙を保っているのを、耳の奥で感じながら。
「……贅沢な彼氏なんだな」
先輩は一歩近付き、探るような目で澪の腕時計を見やった。HERMÈSのベルトが、蛍光灯にきらりと光る。
澪は反射的に手首をスーツの袖口で隠した。
「――業務に戻ります」
短く言い捨て、踵を返す。
「…今のやりとり聞かれた?」
澪が顔を引き攣らせて小声で言う。
通話の向こうで、九条の低い声が返ってきた。
『ちょうどいい。付き合えば数百万単位の物を強請られると思わせろ』
「ええ!?……が、頑張る」
澪は深呼吸し、急に声色を変えて芝居がかった調子で続けた。
「ねー、やっぱり昨日見た財布とバッグも欲しいの。今日もドバイモール行こうよ。――え、本当に!? 買ってくれるの!? ダーリン、愛してる♡」
横を通り過ぎるスタッフの足音に、澪の背筋は冷えるばかり。
『……お前の中の“嫌な女”のイメージどうなってる』
九条のぼそっとした声がイヤホンの奥で響き、澪は耐えきれず口元を押さえた。
笑いを必死でこらえながら、澪は廊下の隅でスマホを握りしめた。
「GUCCIとPRADAも見に行きたいの。そこで欲しいものあったら買ってくれる? ……え、買ってくれないの? じゃあ私のこと愛してないんだ!!」
わざとらしく声を張った瞬間、通話の向こうから低い声が落ちてきた。
『極端過ぎる』
澪はぷるぷると肩を震わせ、笑いを堪えるのに必死だった。
意外な後輩の一面
佐藤から見れば、電話の向こうから聞こえる低い声は聞き取れなかったが、澪は苛立ったように声を上げていた。
――控えめで、何があっても文句ひとつ言わない。
そう思っていた後輩が、ブランド名を並べては感情をぶつけている。
(……意外だな。てっきり大人しくて、我慢ばかりするタイプだと思っていたのに)
先輩の表情には、軽い引きと混乱が混じっていた。
“扱いやすい”と心のどこかで思っていた相手が、遠く感じられる。
「買ってくれないとやだ!」
廊下に澪の声が響いた。スマホを耳に当て、眉を寄せ、声を荒げている。
「なんでよ!昨日だって一個しか買ってくれなかったじゃん!私のこと本当に好きなら、もっと欲しいもの全部買ってよ!」
電話口の相手の声は聞こえない。
だが、澪が一方的に怒って、甘えて、感情をぶつけているようにしか見えなかった。
(……大人しくて従順だと思ってたのに。まさか、こんな我儘だったなんて)
佐藤の胸に、妙なざらつきが広がる。
扱いやすいと思っていた相手が、急に遠ざかる。
それは軽い引きと混乱、そしてわずかな苛立ちだった。
女性の噂話
「綾瀬さんって、あんなキャラだったっけ?」
「おねだり電話とか、ちょっと引くよね」
そんな囁きに、澪は耳が熱くなる。
そこで声を上げたのは、落ち着いた雰囲気の女性スタッフーー榊原という人物だった。
「……いや、あれ演技だよ。あのオッサンに線引きしてるんでしょ。そろそろ“彼氏います”って見せないとヤバいと思ったんじゃない?」
「え、そうなの?」
「言われてみれば、確かに。下心丸出しだったもんね」
場の空気が一気に変わった。
女性スタッフは、それ以上深追いせず淡々と資料に目を落とす。
その自然な振る舞いが、同性の後輩たちから密かに“かっこいい”と慕われている理由でもあった。
澪はスタッフ通用口の休憩エリアで、ペットボトルの水を開けながら内心で呻いた。
(……やばい、榊原さんマジ救世主……!)
(泣きそう。いやもう惚れそう……!)
同性にモテるタイプの榊原は、澪が何も言わなくても空気を読んで一言サラッと助け舟を出してくれる。
それが「わざとらしい優しさ」じゃないから、余計に沁みる。
仕事の合間、たまたま二人きりになったタイミングで、澪は小声で頭を下げた。
「……先ほどは、ありがとうございました。惚れそうです」
榊原はペンを止めて、呆れたように目を細める。
「あんた彼氏いるでしょ」
澪は笑って肩をすくめた。
「別腹で」
「…別腹て」
思わず吹き出す榊原さん。その自然なツッコミに、澪もつられて笑った。
片付けの手を止めて、澪が冗談半分に笑った。
「榊原さん、結婚してください」
「日本では同性婚できないから」
即答。しかも顔色一つ変えない。
澪は思わず目を瞬いた。
「……え、真面目に返された」
榊原さんは淡々と資料を揃えながら肩をすくめる。
「冗談で言うな。こっちは仕事中」
澪は堪えきれず吹き出した。
コートの上では別人
昼間、澪と電話越しにくだらないやり取りをしていた男と、今コートに立つ九条は別人だった。
短く指示を飛ばす声は鋭く、ラリーに入れば一打一打が苛烈で、息を呑むほどの緊張感を纏っている。
「……だいぶ、試合の顔になってきましたね」
コート脇で氷川が呟く。
「まあ、昨日までの余裕は消えましたな」
蓮見が腕を組み、じっとその姿を見つめていた。
汗を飛ばしながら全力で打ち込む九条は、澪と電話でふざけていた柔らかさの欠片もなく、ただ“世界一”の選手としての顔だけを晒していた。
打球音が乾いた空気を裂く。
九条は相変わらず、一球ごとに勝負を懸けるような全力でラリーを続けていた。
「……あいつ、優勝しなくていいから怪我すんなって言ったの、分かってんのかなー」
蓮見がぼそりと漏らす。
「分かっていて、やってるんでしょう」
志水が淡々と返す。
「そういう人ですよね」
早瀬までが無感情な調子で同意する。
コートの中の九条は、誰の声も届かない場所で自分を追い込み続けていた。
練習を終えた九条は、無言のままタオルで汗を拭き、ロッカールームに消えた。
シャワーの音が響く間、蓮見や志水はそれ以上言葉を交わさない。いつものことだ。
冷たい水を浴びて火照った身体を鎮め、短時間で身支度を整える。
ホテルに戻れば、また“日常”が待っている。
澪のいる部屋――そこは、コートとはまるで別の空気が流れている場所だった。
さあ帰ろう
ボートショーが終わり、撤収作業を済ませた澪は、大きく伸びをした。
(よし、今日も張り切って一人で帰ろう!雅臣さんの部屋へ!!)
心の中で気合いを入れ、携帯を耳にあてた。
「今から帰るねー」
『……一人か?』
「うん。私は毎日一人でご飯を食べに行く“ぼっち”ってことになってるので」
『迎えに行く』
「残念。もうロビーに着きます」
『もっと早く連絡してこい』
電話口から響く低い声に、澪は思わず小さく笑った。
澪がロビーに着き、エレベーターに乗り込んだ。
ボタンを押し、上昇する箱の中で思わず独り言をこぼす。
「……あー疲れた。はやく会いたい」
やがて階数表示が目的のフロアを示し、扉が開いた。
そこに、腕を組んで立っている九条の姿があった。
「……!」
「遅い」
いつもと変わらぬ低い声。
澪は苦笑いしながらバッグを持ち直した。
「わざわざ迎えに出なくてもいいのに」
「迎えに出るのは当然だ。……お前が“残念”などと言うから」
小さく眉を寄せる九条を見上げ、澪は思わず吹き出した。
「ただいま!」
そのまま勢いよく駆け出し、九条の胸に飛び込む。
「……」
九条は抱き止めるでも拒むでもなく、一瞬、本気で絶句した。
滅多に崩れない無表情が、わずかに揺らぐ。
「びっくりした?」
「……ああ」
短く答えただけなのに、声が僅かに遅れた。
その反応が可笑しくて、澪は子供のように笑って彼の胸に顔を埋めた。
「今日頑張って嫌な女やってきたから、褒めて──なぐさめて」
澪は九条の胸に顔を埋めたまま、子供みたいに甘える。
「……何か、悪く言われたのか?」
九条の声は低い。警戒の色が混じっていた。
「ううん。なんなら──えっと、榊原さんっていう女性のスタッフがいて、その人が『おつかれ』ってコーヒー奢ってくれたの」
「……」
「私、ちょっと疲れてきてたのに気付いてくれて。すっごく救われた」
澪はそう言いながら、笑った。
泣きそうな顔をしながら笑うその姿に、九条は黙って彼女の頭を撫でるしかなかった。
「……よくやった」
九条の声は短く、低い。
それだけで終わるはずだったのに、珍しく大きな手が澪の髪を撫でた。
「……」
澪は驚いたように一瞬目を見開き、それからくすぐったそうに笑った。
「褒められた。やった」
夕食
「さすがにちょっと胃が痛くなってきたから、胃に優しいやつ食べたい」
澪がそう言うと、九条はすぐに受話器を取り上げた。
「……スープと白身魚の蒸し物を。塩分は控えめで。あとはカモミールティーを」
英語で淡々と注文する声が、澪にはやけに頼もしく聞こえた。
「なんか……お医者さんみたい」
「胃が荒れている時に油物を食う馬鹿はいない」
「おお、正論」
ほどなくして運ばれてきたトレイには、透き通るコンソメスープと、ふっくら蒸された白身魚、そして温かいハーブティー。
「……ありがたや〜」
澪は小さく合掌してからスプーンを手に取った。
澪はスープを口に運び、ほっと息を吐いた。
「……しみる。優しい味って、こういうことなんだね」
九条は椅子に座ったまま、腕を組んで見ている。
「足りるか」
「うん、今日はこれぐらいで十分」
「ならいい」
窓の外のドバイの夜景を見下ろしながら、澪がふと呟く。
「…なんか、急に温泉行きたくなってきた。夜景が見える露天風呂」
澪がぽつりとこぼす。
ここ数日、ロンドンのホテルやボートショー、そしてハイブランドに囲まれた洋の世界。
気付けば、一気に和の景色に浸りたくなるのは、日本人の性なのか。
九条は短く「……行くか」とだけ返す。
澪はフォークを止めて、目を丸くした。
「え、今すぐ!?」
「今すぐは流石に無理だ。大会が近い。だが、どこかで時間を作れば行ける」
九条の声は淡々としているのに、不思議と約束のように響いた。
「びっくりした。いつも急に“すぐ行く”って言うから」
「大会をすっぽかして温泉に行くアスリートはいない」
「少なくとも、そんな人は1位じゃないわ」
言いながら、澪はクスクス笑った。
九条の真顔に冗談をぶつけると、返ってくるのは真顔の正論。
でもそれが、いちばん安心する。
「雅臣さんも温泉行く時あるの?」
「あまり行かないが、治療に使える手段ではある」
「出た。合理主義」
「当然だ。温泉は筋肉疲労の回復に効果がある。血流が促進され、乳酸の排出も早まる」
「……急に理科の先生みたいなこと言い出した」
「水中の浮力は関節の負担を軽減する。リハビリにも使える」
「温泉をそんな“研究対象”みたいに語る人いる!?」
「副交感神経を優位にし、睡眠の質を高める効果もある」
「それはちょっと魅力的」
澪は肩をすくめて笑った。
「温泉ってそういうんじゃなくて、癒やしとか情緒とかでしょ」
「効果があるなら、理由はどうでもいい」
「いや、理由大事でしょ。旅番組とかで『あ〜極楽〜』ってやるのが醍醐味なのに」
九条は小さく息を吐いた。
「……お前は俺に『極楽』と言わせたいのか」
「聞きたい!」
「言わない。…が、春に少し時間が作れる。三月の大会を終えてからになるが、そこで一度帰国できるはずだ」
九条の声は落ち着いているのに、どこか断言めいていて。
「え、ほんとに?温泉行けるの?」
「ああ。ただし一泊だけだ」
「短っ!」
「それ以上はコンディションに響く」
「……はいはい、合理主義」
澪は笑いながらも、ちょっとだけ楽しみになってきていた。
「春の温泉だったら、桜が見えるお宿がいいなぁ。夜景が見える露天風呂とか、桜が咲いてるの眺めながらぽや〜って……」
九条は淡々と返す。
「泉質によって効果が違う。炭酸泉は血流を促進する。塩化物泉は保温効果が高い。硫黄泉は炎症を抑える」
「……温泉ってそんなデータで語るもの?」
「当たり前だ。四十度で十五分。温冷交互浴を取り入れればリカバリー効果は高い。遊びではない、身体を戻す手段だ」
「私の“ぽや〜”が完全に壊れたんですけど!」
「その“ぽや〜”が副交感神経を優位にする」
「言い方が色気なさすぎ!」
枝垂れ桜
笑いながら、澪はスマホを立ち上げた。
「じゃあさ、春に帰国できるなら、桜が見える旅館探すよ」
「……桜は、枝垂れ桜がいい」
思わぬ即答に、澪がぱちくりと瞬いた。
「珍し!好み言った!」
「別に珍しくはない」
「いや珍しいよ。しかも枝垂れ桜が好きって、なんで?」
澪が身を乗り出すと、九条は少し間を置いて答えた。
「華やか過ぎないのが良い。控えめで、夜が似合う。……風で揺れるのが美しい」
「……めっちゃ詩人じゃん」
思わず吹き出した澪に、九条は小さく眉を寄せた。
「事実を言っただけだ」
「じゃあ、空港からアクセスしやすいところで温泉ピックアップしとくよ」
「日程が決まり次第連絡するが、まだ不確定だ。あまり先走るな」
「期待しすぎないで、ってことね。でも調べるだけ調べとくよ。私、結構リサーチ能力高いんだから」
澪は、九条がまだ“客”だった頃を思い出していた。
無理難題や、言葉にしない要求を察して資料を揃えた日々。
ときには通話中に即座に調べ、調整して返答したこともあった。
「それは承知している」
九条は短くそう答えただけだが、声色にはわずかな温度があった。
「でしょ?」
澪は得意げに笑った。
リサーチ
澪は少し笑って、ふと九条を見上げた。
「じゃ、今はドバイのお風呂入ってくるね。あとで温泉の好み聞かせて」
軽く手を振るようにして、澪はバスルームへと歩いていった。
残された九条は小さく息を吐く。
――温泉の好み。
合理主義者の彼にとって“好み”など考えたこともない。
だが、澪が聞きたいのはきっと、効能や条件ではなく“どこで一緒に過ごしたいか”という答えなのだろう。
胃にやさしい料理よりも、よっぽど澪の心を温める時間だった。
バスルームから戻った澪は、パジャマ姿で九条の前に腰を下ろす。
タオルで軽く拭いた後、九条がドライヤーを持ち上げると、澪は素直に背を向けた。
「セキュリティーとか守秘義務が厳しそうなところが良いけど……」
スマホをいじりながら、澪はため息をつく。
「今どこ選んでも正味信用できないんだよね。帝国ホテルだって、バイトの子が情報SNSに載せたりしてたし」
温風がさらさらと髪を撫でる。
「もう、名前出さない方が良いんだろうな」
ぽつりと零した声は、愚痴というより“結論”。
九条は何も返さず、髪を丁寧に乾かし続けた。
その無言の時間が、澪には一番安心できる答えに思えた。
髪を乾かしてもらいながら、澪はスマホを片手に検索結果を並べていた。
「…どう?この中でピンとくるのある?」
画面には、枝垂れ桜が庭に広がる旅館の写真がいくつも並んでいる。
「こことか、夜桜ライトアップがすごいんだって。あとは、高台から桜を見下ろせる旅館もあるよ。で、食事も栄養バランスが良いって――」
澪が説明を重ねる間もなく、九条は画面を一瞥しただけで、短く答えた。
「……京都」
たった一言なのに、迷いのなさがあった。
澪は思わず笑ってしまう。
「即答!? やっぱりそういう雰囲気似合うよね。枝垂れ桜に川のせせらぎ……空気が雅臣さんっぽい」
九条は眉ひとつ動かさずに、乾かしていたドライヤーの風を止める。
「空気が俺っぽいとは、どういう意味だ」
「見た目の問題!」
「……空気の見た目、か」
澪は声を立てて笑いながら、スマホの画面をスワイプしていた。
「でも、嵐山の道は通るから、途中の道は混んでるよ」
澪が画面をスクロールしながら説明すると、九条は迷いなく返した。
「……ギリギリまで車で送らせる」
「はあ!?あの黒塗りのレクサスで!? ……絶対目立つって!」
澪は思わず声を上げた。観光客でぎゅうぎゅうの桜シーズンに、いかにもな高級車で乗り付けるなんて。
「……便利だろう」
「そりゃ便利だけど、雅臣さんは変装必須かも。予約が取れるかどうかによるけど……二ヶ月しか無いからなぁ……ちょっと今調べよ」
澪がスマホを操作して、星のや京都の予約サイトを覗き込む。
九条が短く制す。
「まだ日程が不確定だ」
「でも、確定した時には取れないかもしれないじゃん?」
澪は画面から目を離さずに言った。
「雅臣さん行けなかったら、私一人で行くから」
九条の眉がわずかに動く。
「……お前が予約するのか?」
「そうだよ?そしたら、あなたが行けなくても旅館に迷惑かからないし?」
さらりと言ってのける澪。
九条はしばし黙り、眉間に皺を寄せた。
(俺抜きで行くつもりか……)
「もし、仮に雅臣さんが行けなかったら一人で行くってだけだよ。来れたら二人で行けるじゃん」
澪はスマホをいじりながら、あっけらかんとした口調で言った。
九条の視線が一瞬だけ鋭くなる。
「……勝手に行くな」
「なんで私が一人で行ったらムッとするのよ。いつも一人で行動してるよ?」
澪が笑いながら突っ込む。
九条はほんの一拍置いてから、低く短く返した。
「……なんとなく」
「えー、理由になってない!」
「説明できるものじゃない」
澪は「もしかしてヤキモチ?」とさらにからかおうとして、けれど九条の横顔を見て、思わず口をつぐんだ。
その表情は、冗談にできないくらい真剣だったから。
「…俺も行く」
九条が短く言い切る。
「うん。じゃあ二人分で予約取るよ」
澪はスマホを操作しながら、ふと顔を上げる。
「空港からの距離、大丈夫?関西空港とか、神戸空港とかになるのかな?着陸場所」
「空港から、氷川が車で送る」
まるで当たり前のように淡々。
「………改めて考えると、氷川さんの仕事大変だなぁ」
澪は小さく笑って首をかしげた。
「じゃあ、嵐山で現地集合する?その方がそっち動きやすいよね」
九条は澪を見やり、わずかに眉を寄せる。
「……現地集合などあり得ない」
「え、現地集合しないの?」
澪が首を傾げる。
九条は少しだけ目を細め、淡々と答えた。
「一緒に行くに決まっている」
「でも私、横浜だよ?そこから京都行くの大変じゃない?」
「……ヘリを飛ばせばいい」
「いやいやいや!ヘリ!?そんなの移動時間もコストもどうなってんの!?」
「お前を迎えに行くのに、理由が必要か?」
「………」
呆れと一緒に、頬が熱くなるのを澪はごまかせなかった。
合理主義者のはずの男が、一番非効率な方法で自分を最優先にする。
それが理不尽で、でもどうしようもなく嬉しかった。
「関東に降りる。そこから一緒に飛ぶ」
「……効率悪すぎでしょ」
「効率より優先することがある」
「………じゃ、じゃあ関東の空港で待ち合わせは?」
澪はスマホを持ったまま、少し声を裏返らせた。
九条は淡々と頷く。
「それでいい。そこから一緒に行く」
「私別に…新幹線で京都まで行くのに……」
澪が当然のように言うと、九条は淡々と「許可しない」と返した。
「お前が人混みに紛れるのが嫌だ」
「いつも紛れてますけど!?通勤とか」
思わずツッコむ澪に、九条は一切表情を崩さずに言い切る。
「だから嫌なんだ」
「理由めちゃくちゃだし!」
思わず抗議しながらも、澪は頬が熱くなる。
自分を効率無視で最優先にする九条のやり方に、呆れつつも嬉しさが隠しきれなかった。
「効率とか合理性とか追求するのに、そこなんでそんな非効率なの」
澪は呆れ顔で問いかけた。
九条は一瞬も迷わず、低く淡々と返す。
「優先事項の問題だ」
「……優先事項?」
「お前を最優先にすれば、他は後回しでいい」
言い切るその横顔があまりにも真剣で、澪は言葉を失った。
胸の奥がじんわり熱くなって、結局は顔を伏せて笑うしかなかった。
過去の存在
澪はソファの上でクッションを抱えながら、背中を背もたれに預けていた。
「雅臣さん、付き合ってる人できたらいつもそんな感じ?」
天井を見つめる澪は、表面上は何も感じていないように見える。
「そんな感じ、とは?」
「わざわざ遠いのに迎えに行ってあげたりとか、高くてもプレゼント贈ったりとか」
九条は少しだけ息を吸い込む間を置いた。
「……強請られれば物は買っていたが、迎えは……相手が専属の運転手を持っていたら、していない」
澪は「へぇ」と口にしたが、心の中はちょっとざわつく。
「……ああ。向こうもお金持ち……」
九条は眉一つ動かさずに短く返す。
「そうだ」
一言だけの返答が、過去と現在の境界線をくっきりと浮かび上がらせた。
「あの、もしかしてだけど……私みたいな一般人と付き合うの、初めてだったりする?」
九条は視線を横に逸らし、短い沈黙を落とした。
「…………」
澪はその反応だけで、答えを悟ってしまう。
「あー……やっぱり。前の彼女、お嬢様ばっかりだったのね……」
唇を尖らせながらも、声には拗ねと自虐が入り混じる。
九条はしばし澪を見つめた後、淡々と、だが低く落ち着いた声で言った。
「……“お嬢様”と一緒に暮らせると思うか?」
澪は瞬きをして、一瞬呆ける。
「え……」
「肩書きや家柄はあっても、生活が伴わなければ無意味だ。お前は違う」
言葉は淡々としているのに、真意がずっしりと伝わる。
澪は頬を赤くして、思わず枕に顔を埋めた。
「でも雅臣さんはセレブじゃん。お金持ちじゃん」
澪がそう言うと、九条はしばし黙り、視線を伏せた。
「私は一般人だから出来てるだけで、普通のことしてるだけだよ」
そこで九条は淡々と口を開く。
「……俺は、自分がやらないことを金で解決してるだけだ」
「え?」
澪は思わず聞き返す。
「家事も、生活も、雑務も。俺がやらないことを他人に任せ、金を払っているだけだ。お前は自分でやっている」
その声音には、卑下でも誇張でもない、ただの事実認識が滲んでいた。
澪は目を瞬かせて、じんわりと胸が熱くなる。
「……なんか、そう言われると、私の方がすごい人みたいじゃん」
九条は小さく首を振った。
「事実だ」
「……ありがと」
澪は照れくさそうに、自分の立てた膝に顎を乗せた。
震える指先
「……予約しとく。来れるとしたら、何日になりそうかわかる?まだわかんない?」
澪がスマホのカレンダーを開きながら尋ねた。
「四月の初めの時期だ」
九条は迷いなく答える。
「四月五日は?土曜日だから、混んでるかもだけど……」
澪は少し不安げに画面を覗き込み、声が弱まった。
「平日は仕事だろう」
「……うん」
九条は一呼吸置いて、淡々と結論を下す。
「なら、そこにしておけ」
「わかった。ここ、聞いたことはあったけど、実際行くの初めてだから、楽しみ。だって船で旅館まで行くんだよ?ワクワク感すごい」
澪がスマホの画面を見ながら目を輝かせる。
「移動手段に過ぎない」
九条は淡々と答える。
「え〜、夢ないなぁ!舟で宿に入るなんて、もう時代劇のお姫様気分でしょ」
「姫ではない」
「……でも迎えに来るのは王子様ってことでしょ?」
にやにや笑う澪に、九条は一瞬だけ眉をひそめ、反論もせずに視線を逸らした。
「食事は夕食もルームサービスにしとくね。レストラン行かないでしょ?」
澪が画面をスクロールしながら言う。
「……正解だ」
「やっぱり」
「お前は行きたいのか?」
「ううん。部屋で食べる方が落ち着くし、2人ならそれで充分だよ。部屋は……スイートルームがいい?」
澪がスマホを覗き込みながら首を傾げた。
「露天風呂付きのお部屋だと、桜が見えるって。枝垂れ桜もあるみたい」
「……見える部屋にしろ」
「やっぱり!分かりやすいなぁ」
澪は小さく笑い、画面をスクロールする。
「でもスイート、すっごい高いよ?」
「……」
「……黙るの反則」
「お前が桜を見たいと言ったんだ」
「いや、確かにそうだけど!私レベルじゃ一生泊まらない額だよ?」
「だから泊まる」
「あ、ねえねえ。花桜テラスだって。1日1組限定。これ見たい?」
スマホの画面を差し出す澪の声は、すでに少し上ずっていた。
画面には、しだれ桜の枝が覆いかぶさるウッドデッキと、贅沢すぎる説明文。
「真上に桜があって、ソファでご飯食べながら見れるんだって!夜はライトアップで、朝はお茶室で朝食……って、なにこれ夢みたい」
「……予約しろ」
即答に、澪は思わず笑ってしまう。
「ちょ、早っ!一秒で決めたね!?」
「一日一組なら、迷う理由はない」
「いやまあ……そうなんだけどさ」
「土曜日だから、もう埋まってるかな……」
澪はスマホを抱え込むようにして、恐る恐る検索をかける。
指先が落ち着かず、画面をスクロールする動きにも焦りがにじむ。
「空いてた!奇跡!」
澪は思わず声を上げ、そのまま予約画面へ進む。
隣の九条が、無言で立ち上がり、カードケースから自分のクレジットカードを差し出してきた。
「いや!これ私が予約するから!!」
慌てて両手を振る澪。
「なぜ」
「だって、私が温泉行きたいって言ったんだよ!?だからこれは私が払う!」
「関係ない」
「あるよ!これぐらい払うってば!」
九条は眉一つ動かさず、カードを差し出してくる。
「くだらん意地を張るな」
「うぐっ……っ」
澪はタブレットを抱え込んで、子供みたいに小さく丸まった。
「……お前が予約するのは構わない」
九条は淡々と返す。
「えっ……じゃあ――」
一瞬だけ希望が差す澪。
だがその次の言葉で、あっさりと打ち砕かれた。
「だが、支払いは俺だ」
「トドメ刺してきたぁ……!」
澪はタブレットを抱えたまま、声にならない悲鳴を上げる。
九条は横目でちらりと見るだけで、表情一つ動かさない。
「……え?」
画面に表示された料金を見た瞬間、澪は固まった。
「一名利用15万……二名利用で17万……宿泊料別……」
口の中で繰り返すうちに、背筋に冷たいものが走る。
「な、なんで桜見てご飯食べるだけでこんな高いの!?しかも“宿泊料別”って……これプラスなの!?プラスなの!?」
タブレットを持つ手が小刻みに震える。
横で九条は眉一つ動かさず、ただカードを澪から見える位置に置いた。
「……払えるの?」
「問題ない」
即答。
「いやいやいやいや、ちょっと待って!?これ、普通のOLが一人で予約したら一ヶ月分の生活費吹っ飛ぶやつだよ!?」
「だからお前が払う必要はない」
「……っ」
澪はタブレットを胸に抱え込み、半泣きで呻いた。
「なにこの“非日常価格”……庶民の胃が持たない……」
九条は無言でカードをテーブルに置き、言い切る。
「……え、スイートルーム……」
澪は恐る恐るページをスクロールした。
「……にじゅ……にじゅうさんまんえん……?」
額にじわりと汗が浮く。
「一泊23万円って……一人あたり116000円……!?しかも食事別!?え、さっきの“花桜テラス”と合わせたら……え、もう計算できない……」
九条が横目でちらりと見る。
「数字に弱いのか」
「強いとか弱いとかの問題じゃないから!桁がおかしいの!!」
タブレットを抱きしめて、澪はベッドにごろりと倒れ込んだ。
「……温泉って、癒されに行くんだよね……?金額がもう胃に悪い……」
「何ならコンシェルジュに頼むが」
九条が淡々と言い、手元のカードを指先で軽く弾いた。
「こ、コンシェルジュ!?……そのカードってそういうのが付いてるやつ?」
「専属だ。要望を伝えれば、日程も調整も済む」
「え、ええぇぇ……!?それもう予約するっていうより、お金で未来を捻じ曲げてる感じじゃない!?」
九条は無表情のまま。
「……お前が戸惑う必要はない」
「戸惑うわ!!」
澪は両手でタブレットを抱え込み、勢いよく宣言した。
「予約します!!」
「……任せる」
懐事情
「雅臣さん、私と知り合ってからすっごいお金使っちゃってない?無理してない?」
ベッドの中で、澪がシーツに頬を埋めながら不安そうに尋ねた。
「お前に懐事情の心配をされるとは、心外だ」
九条は本気とも冗談ともつかない声音で返す。
「いや、だって……私いなかったらもっとお金使わないで済んでるじゃん。まだ一ヶ月も経ってないのに……」
澪の日々の食事代に加え、急遽仕立てたオーダーメイドの執事服。
ロンドンまで飛ばしたプライベートジェットの燃料代。
滞在中のスイートルームの宿泊費。
正確な金額は見当もつかないが、数百万単位で消えているのは間違いなかった。
澪にとっては、想像するだけで胃が縮むほど恐ろしい額だ。
九条は澪の髪を指で梳きながら、淡々と告げる。
「人の財布の心配などしなくていい。自分のことを考えて早く寝ろ」
澪は「……はい」と蚊の鳴くような声で返し、布団に潜り込んだ。
胸の奥が少しムッとするのに、不思議と安心もするのだった。
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