23.「ロッカールームで流れた音は、拍手じゃなかった」— Australian Open 2025, Round of 16 / Taylor Rivers Side Story

ロッカー室の中は、乾いた空気に包まれていた。

拍手も、音楽もない。ただ、水の落ちる音が聞こえる。

テイラー・リバースは、壁に背を預けていた。

ラケットバッグはまだ開いたまま。着替えにも手をつけていない。

「……やっぱ速ぇよ、あの人」

誰にでもない言葉が、かすかに落ちる。

スタッフが、そっと水を置く。

「ありがとう」

それだけ言って、テイラーは一口だけ飲んだ。

ラケットの破片が、まだ床に転がっていた。

試合中、感情の爆発で叩きつけた一本。

けれど彼は、それを見ても顔を歪めなかった。

ただ、タオルで顔を覆って、深く、静かに息を吐いた。

通路の照明はやや暗く、足元だけがやけに明るい。

背中に汗が残る。

彼の手にはまだ、さっきまで使っていたラケットがあった。

テイラー・リバースは、

そのラケットを——まるで「何かを確かめるように」——ずっと握りしめていた。

左手のひらには、グリップテープの編み目がはっきりと刻まれている。

握りすぎて、少し皮膚が浮いていた。

「……負けたな」

ようやく言葉になったのは、控室前の廊下だった。

誰に向けた言葉でもない。

ただ、自分の中で認める必要があった。

けれど——

顔は、下を向いていなかった。

「彼、立ってたよな。最後まで。膝、折れなかったよな」

「声、出してたよな。ずっと」

「テイラー、マジでいい試合したって」

会場から帰っていく観客たちの、

そんな声が、出口の方から少しずつ聞こえてきた。

九条の勝利は、演算として完結した。

だが、

テイラーの敗北は、物語になった。

廊下の奥、カーテンの影から誰かが近づいてくる気配がした。

「……テイラー」

静かな声だった。

コーチでもスタッフでもない。

もっと若い声。

振り返ると、ユースチームの後輩だった。

今大会は帯同していないはずの少年が、目を潤ませて立っていた。

「……観てた。ずっと」

テイラーは何も言わなかった。

ただ、ラケットを左手から右手に持ち替える。

握った跡の残る手のひらを、ゆっくり開いた。

赤くなった皮膚に、

何も刻まれていないように見えて——

でも、彼自身には、ちゃんと“形”が残っていた。

「……まだ、終わってないから」

それだけ言って、肩を軽く叩く。

少年は、一瞬きょとんとした顔で、

そのまま何も言わずに小さくうなずいた。

——そのラケットは、ただの道具じゃなかった。

彼がまだ、“手放していないもの”だった。

観客の声援が、またどこかで聞こえた。

でも、それはもうコートの中の話じゃなかった。

テイラー・リバースは、静かに、でも確かに歩き出す。

物語は終わっていない。

この夜が、その証拠になった。

――             

「なあ……泣いたか?」

「泣いてねえよ」

ユニフォームの肩口で顔をぬぐったスタッフが、鼻を鳴らす。

通路の先で、まだ息が整わないテイラーがラケットを握っているのが見えた。

「……あの九条相手に、ここまでやれるって思ってた?」

「……思ってねえ。でも、信じてた」

「結果は負けでも、見せたものは——」

「勝ってたよ、あいつは」

静かに、その言葉を口にしたスタッフの目が、少しだけ潤んでいた。

――

ロッカー前、静まり返った空気の中。

スタッフの一人が、無言でタオルを差し出した。

テイラーはそれを受け取り、汗も拭かずに、じっと立っている。

目線の先には、閉じたドア。

その向こうには、たったいま試合を終えた九条の控室。

声はかけない。

何も言うべき言葉がなかった。

「……なあ、ほんとに機械みたいだったか?」

後ろから、コーチがぽつりと呟いた。

テイラーは、首を横に振る。

「……違う。途中、一瞬だけ——感じた」

「何を?」

「……人間ってのは、もっと、壊れるもんだろ?」

そしてテイラーは、やっと小さく笑った。

「あれは人間だった。たぶん、俺とは、別の種だけどな」

誰も返事をしなかった。

その代わりに、誰もがテイラーの背中を見ていた。

敗者の背中ではなく、“最後まで走った者の背中”として。

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