37.現実への回帰

【全豪オープン 決勝戦終了|澪 視点】

九条さんの動きは、もう――

人間のものじゃなかった。

物理さえ無視していた。

跳ねない球。

吹き飛ぶラケット。

速すぎて視線が追いつかないショット。

ロッド・レーバー・アリーナは、静まり返っていた。

観客の歓声も、実況の声も消えた。

ただ、ボールがコートに当たる音と、

弾き飛ばされたラケットが地面を打つ音だけが響いていた。

 

九条さんの表情は、変わらなかった。

苦しみも、焦りも、なかった。

むしろ――解き放たれているようにさえ見えた。

でも、その目だけは――

氷のように冷たかった。

あんなショットばかり打っていたら、

絶対に身体のあちこちに負担がかかっているはずなのに、

彼はまるで痛みも、疲労も、感じていないようだった。

汗すら、出ていない。

 

このままずっと、あの状態で動き続けたら、

九条さんは――どうなってしまうんだろう。

もし、相手の選手にボールが直撃したら?

ラケットが、顔に当たったら?

 

怖かった。

見ているだけなのに、息ができなかった。

肩がこわばって、胸が苦しくて、

指先から何かが抜け落ちていくような、そんな感覚。

 

決着がついた瞬間も、よくわからなかった。

最後の一球が二度、コートに弾んで――

そのあとも、世界は“沈黙”したままだった。

 

気づいたら、握りしめていた手が震えていた。

手のひらに、じっとりと汗をかいていた。

 

ゆっくりと画面に視線を戻した。

すると、相手の選手が――一瞬、笑ったように見えた。

ほんのわずかに、口角が上がった気がした。

この異常な空間の中で、

九条さんにラケットを吹き飛ばされ、身体ごと押し返されてもなお、

彼は、心を手放さなかった。

 

その笑みに、私は――

ほんの少し、救われた気がした。

目を逸らせなかった。

 

試合は終わった。

でも、私はしばらく画面を見たまま、動けなかった。

優勝のアナウンスも、スコアの表示も、どこか遠くの出来事のようで――

心に、入ってこなかった。

 

九条さんは、ネットの前に立っていた。

表情はない。

手を差し出すでもなく、握手を待つでもなく、

ただ、そこにいた。

“勝者”の姿じゃなかった。

それは、まるで――執行を終えた者の背中だった。

観客がようやく拍手を始めた。

波のように、ざわざわと音が広がる。

けれど私は、まだ息が浅いまま、

画面を見つめ続けていた。

 

何かが、引っかかっていた。

怖かったのに。

息ができなかったのに。

どうして、目を逸らせなかったんだろう。

あの空気に触れていたくないのに。

あの冷たさに、指先が凍えそうだったのに。

 

それでも――

美しかったからだと思う。

冷たくて、残酷で、

人間の限界を簡単に踏み越えていく姿が、

息を呑むほどに、整っていた。

何もかもが正確で、静かで、揺るがなくて――

そのくせ、どこか壊れそうだった。

 

だから私は、まだ目を逸らせなかった。

 

画面の中で、カメラがズームアウトしていく。

コートの全景が映り込んで、

観客の波が広がっていく。

その片隅に、

ラケットを手にしたまま立ち尽くすルカの姿が小さく映っていた。

彼の手元はブレていたけれど、

姿勢は崩れていなかった。

それが――唯一の救いに思えた。

戻ってきて

九条雅臣という選手は、

2025年の全豪オープンで、優勝した。

 

でも――

彼は、何も感じていなかった。

何も、理解していなかった。

 

ただ、形式として決められた動作を、

そのまま続けているだけだった。

視線は定まらず、

どこも、見ていなかった。

 

表彰式の間も、それは変わらなかった。

賞状を受け取り、トロフィーを掲げ、

整えられた動作をなぞっているだけ。

動きがぎこちないのではなく、

意志が、そこに無い。

 

――帰ってこられないんだ。

そう思った。

 

彼は今も、あの“領域”にいる。

試合が終わっても、抜け出す気配がない。

戻ろうという意志が、見えなかった。

 

私は、画面の前でじっと立ち尽くしていた。

少し震える手で、スマホを手に取る。

少し前に彼から届いていた、

アフターサービスに関するメール。

すでに返信は済ませていた。

業務として、それは完了していた。

 

通常、業務に関することは、

彼から連絡が来て、それに私が答えるだけ。

それ以外で、こちらから連絡をすることは――

この二年間、一度もなかった。

 

……それでも。

 

画面の中で、彼はまだ、戻ってきていない。

何か、きっかけにならないか。

ほんの少しでもいい。

小さくてもいい。

“こちら側”に、戻ってきてくれたら。

 

私は、必死で文面を考えた。

読んでくれるだろうか。

無視されるかもしれない。

そもそも、気づかれないかもしれない。

 

でも、やってみるしかなかった。

綾瀬 澪 今日 20:33
今、オーストラリアにいらっしゃいますか?
不躾でしたら、申し訳ございません。
配信済み

 

言葉が浮かばなかった。

思い浮かぶのは、

格式ばったビジネス文面だけだった。

自分の“言葉”で書けない自分が、歯痒かった。

 

でも、それでも。

震える指で、送信ボタンを押した。

 

お願いだから、

何かひとつでも、反応して。

ほんの一瞬でも、こっちに気づいて。

現実回帰への通知

【九条雅臣 視点】

控室は静かだった。

椅子の背もたれにもたれかかることなく、

ただ、真っ直ぐ座っていた。

ペットボトルのキャップは、開けられていない。

タオルは、膝の上に置かれたままだった。

 

汗は乾いていた。

けれど、身体の内側では、まだ何かが“終わっていなかった”。

思考は曖昧で、時間の流れが鈍い。

頭の中で、どこか遠くで拍手が続いている。

音が響いているのに、輪郭がない。

 

人の気配がしても、視線を動かさない。

声をかけられても、返事をしない。

まだ“外”に出ていない。

試合は終わったが――「完了」はしていない。

 

手元で、スマホが震えた。

視線は、そちらに向かわない。

すぐには見ない。

ただ、しばらくしてから、ゆっくりと画面に目を落とした。

通知は、一通だけ。

iMessage
22:33
綾瀬 澪
今、オーストラリアにいらっしゃいますか? 不躾でしたら…

 

しばらく、その文面を見つめていた。

読んでいたのかも、わからない。

でも、画面は閉じなかった。

言葉の温度も、言い回しも、何も変わっていない。

“いつもの彼女”のままだった。

でも――

その文面が、“今”ここに届いた意味だけは、

身体の奥で、何かが理解していた。

 

指は動かない。

何も返せない。

けれど、手だけがスマホを離さなかった。

 

そのまま、動かなかった。

何分、何十秒、そうしていたかもわからない。

ただ、彼の中で――

何かが「止まらずに、保たれていた」。

崩れていない。

戻ってきたわけでもない。

でも、たった一つだけ、

「切れていない」ものが、そこにあった。

 

それは、

たった一通のメッセージ。

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URB製作室

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