【メルボルン/会議室】-Side:九条-
映像が流れていた。
部屋の中央にある大きなモニターには、決勝戦の記録映像。
再生されていたのは、第3セット。
あの“異常な”時間帯だった。
誰も声を発さない。
その時のSlack記録がほとんど残っていないことを、全員が理解していた。
唖然として、何も言えなかった。
ただ録画だけが、無言で真実を繰り返している。
最初に口を開いたのは、蓮見だった。
「……この時の記憶、あるか?」
九条はしばらく黙っていた。
そして、映像から視線を逸らさぬまま答えた。
「無い。……正確には、見ていたが、意識して動いていなかった。再現できない」
「……だろうな」
蓮見は苦笑すら浮かべなかった。
「意識してできるもんじゃない。けどな、あれは偶然じゃない」
画面を一時停止した。
跳ねないドロップショットが、コートのネット際で停止している。
「お前がこれまで積み上げてきたすべてが、あの状態を生んだ。
身体の制御を手放した瞬間、入ったんだ。あの場所に」
「医師としては、まったく薦められません」
神崎の声は、静かに場の温度を下げた。
「関節と神経系に大きな負荷がかかっている。
あの状態を意図的に繰り返せば、近いうちにどこかが壊れます」
「脳には支障はなかった」
九条は淡々と返す。
「長時間の試合でなければ、耐えられる。身体の損傷は問題だと思っていない」
「いや、あったよ」
志水が声を乗せた。
「表情筋、手首、膝。
筋肉の反射が遅れてる。見た目は平静でも、内部は確実に疲労してた。
勝利の代償、デカいよ。あれ、連戦でやるもんじゃない」
それでも九条は言った。
「今年、あと3大会持てばそれでいい。
この状態に入りやすく、維持できる方法を考えている。
メンタルは自分でやる。お前たちは“体を作る方法”を探せ」
そして――
「トレーニングの負荷は度外視しろ」
空気が、微かにざわついた。
静かに、しかし確実に緊張が走る。
「……度外視って」
早瀬が、つぶやくように言った。
「試合の前にトレーニングで壊れたらどうするんですか?」
「耐えられないなら、それまでだ」
九条は一切、迷わずにそう返した。
言葉に温度はなかった。
ただ、決定事項としての重みだけが残った。
静寂。
誰も反論しなかった。
その意味を、全員が理解していた。
彼は、そういう人間だ。
自分で決めた目標に対しては、引かない。変えない。
できるかどうかではない。
「どうすればできるか」を考える男。
彼が命を懸けるなら――
自分たちも、それを支えるだけだ。
それが、チーム九条だった。
【会議後】-Side:九条-
チームとの会議を終えた後、氷川の運転でホテルへ戻った。
会議中、氷川は一言も発さなかった。
言いたいことはあったはずだが、俺がそれを求めないことを理解している。
そういう男だ。だから、マネージャーを任せていられる。
「明日の朝、迎えに来ます」
「ああ」
短く返事をして車を降りた。
“全豪オープン優勝者”。
その肩書きに飛びつくメディアは多い。
すでにスポンサー関係者を通じて、複数の対応予定が組まれていた。
スポーツ選手がなぜメディアに出なければならないのか。
それが成績と何の関係があるのか。
理解に苦しむ。
だが無視すれば、契約に支障が出る。
それもまた現実の一部だ。
ドアの前まで付き添ってきた藤代は、俺が鍵をかざすと黙って引き下がった。
何も言わず、何も求めず。
明日の予定は氷川と共有済み。
必要な指示も最低限だけ伝えてある。
いらぬ口を挟まず、ただ黙って任務を全うする。
必要な機能だけに特化し、他の要素は介在させない。
俺の周囲は、そういう人間で構成されている。
部屋に入ると、ポケットからスマートフォンを取り出し、
背面にワイヤレス充電器を装着して机に伏せた。
夜は画面を見ない。そう決めている。
重要な連絡は氷川に入る。
通知があろうがなかろうが、見るのは自分が“見たいとき”でいい。
時間と意識は、極力自分の管理下に置く。
そういう生活をしてきた。
シャワーを浴び、髪を適当に乾かしてベッドに入る。
やるべきことは、やった。
あとは整えるだけだ。
次は、全仏。
あの状態――試合中に入ったあの集中の極限に、また到達できるように。
そして、入ったうえで身体が持つように、備えておく。
あれに入れれば、どんな相手でも勝てる。
勝つために、身体の故障など問題ではない。
全米オープンまで持てば、それでいい。
最優先は、年間四大会制覇。
そして、十一月のATPファイナルズで勝つこと。
目を閉じて、呼吸を深くする。
意識が、眠りの底へゆっくりと沈んでいく。
そのときだった。
ふと、“見た覚えのない記憶”が浮かんだ。
綾瀬 澪――
その名前を、どこかで見た気がする。
下に文章が添えられた通知を。
最近、やり取りした覚えはない。
いつ、見た?
気になって、ベッドから体を起こす。
机の上に置いたスマホの画面を開いた。
メッセージアプリを開くと、未読のメッセージが一件。
送信者:綾瀬 澪
受信時刻は、決勝が終わった直後。
おそらく、表彰式を終えた頃。二日前の夜。
一気に記憶が蘇る。
見たことがある。
控室で、一度だけ画面に映ったこの文面を。
それが、今まで頭から抜け落ちていた。
――俺がオーストラリアにいることを、知っている。
このタイミング。
中継を見ていたのだろう。
ヨット購入のやり取りを重ねた二年間。
最後の納品連絡のとき、初めて“九条雅臣”と漢字で署名をつけた。
もう、知られても構わないと思った。
彼女は検索しないタイプの人間だ。
知りたくなければ、それでもいい。
何も言わない確信があった。
それは、あの女の“性質”だった。
けれど今、どこかで偶然見たのか。
あるいは何かで気づいたのか。
――たどり着いたのだ。
そしてこの、「不躾でしたら申し訳ございません」。
俺を知ったことを叱責されることを、恐れている。
いや――
拒絶されることを、だ。
怒られたくないのではない。
切られたくないのだ。
俺が怒れば、もう連絡してこないだろう。
それがわかっていて、探るように送ってきた。
許されるかどうかを、試している。
日本との時差は二時間。
そのまま、返した。
会えるか?
これで充分だ。
起きていれば、見るだろう。
間もなく、返信が届いた。
あまりにも、シンプルな文面だった。
だが、“知っている”ことを示すには、それで十分だった。
そう送って、アプリを閉じた。
これ以上、彼女は返信してこないだろう。
俺が終わりたいときに終われる。
――そういう関係を、二年続けてきた。
画面を切り替え、氷川に電話をかける。
2コールで出た。
「はい。どうされました?」
この時間に俺が電話をかけることなど、まずない。
夜は睡眠の質を下げないために、電子機器には触れない。
でも――今は、例外だった。
「明日以降のメディア対応はすべてキャンセルしろ。明日だけは対応する。
それとジェットを用意しろ。日本に帰る」
「……わかりました」
それだけで、氷川は理解した。
余計な詮索も、言葉も要らない。
電話を切って、画面を伏せる。
――二年、寝かせたやり取りが。
ようやく、動き出した。
決勝から二日後 -Side:澪-
あの夜、私は、なんとか戻ってきてほしくて、あのメッセージを打った。
でも――
本当のところ、私は恐怖に勝てなかった。
最初に九条さんと電話で話した時の、冷たすぎる声を、今でも覚えている。
言葉は丁寧だった。
でもその奥にある“意図”ははっきりしていた。
――業務に関係ないことは話すな。
――必要なことでも、無駄に繰り返すな。
――最短で、結論に辿り着け。
そう言われたわけじゃない。
でも、そう聞こえた。
初めて連絡を受けた時、
名前の表示は記号のようなアルファベットだった。
それが、徐々にフルネームになっていっても――
本名とは、綴りが微妙に違っていた。
あとで彼がプロテニス選手だと知った時、
綴りを変えていた理由が、ようやく理解できた。
彼は、最初から自分を隠していた。
“お前は知る必要がない”――
そう言われているようだった。
でも、私は仕事だったから、従った。
私は販売担当。
求められる職務を全うするだけ。
でも、私は気づいていた。
彼が言葉にしないぶん、
求められている期待値は高い。
だからこそ、
私は言われなくても読み取ろうとした。
想像を先回りして、答えを出し続けようとした。
たぶん――それが正解だった。
私はSunreefの販売を任された。
それが、誇りだった。
なのに――
私は彼の職業に気づいてしまった。
偶然だった。
でも、知ってしまった。
それなのに、
言及するような文面を送ってしまった。
すぐに後悔した。
しばらく返事が来なくて、
メッセージを取り消そうか、本気で悩んだ。
でも――なぜか、それはしてはいけない気がした。
理由はわからなかった。
ただ、消したらいけない、と
どこかで“何か”に止められた気がした。
でも翌日になっても、返信はなかった。
だんだん、不安が大きくなった。
もし、
「担当を変えろ」と上司に言われていたら。
もし、
もう私が信用を失っていたら。
そう考え出すと、頭の中が真っ白になった。
“叱責されたらどうしよう”じゃない。
“担当を外されたらどうしよう”だった。
2年間――
やっと積み上げた信頼を、自分のミスで壊したくなかった。
本当は、
“信用されていた”と思っていたのも私だけだったかもしれない。
彼は最初から、
私をプライバシーの外に置いていた。
その現実が、怖かった。
――二日後の夜。
仕事が終わって帰宅した時。
スマホが震えた。
反射的に画面を見て――思考が止まった。
息が止まった。
何かが、体の奥からぶわっと溢れてきた。
それが、言葉になる前に、
もう返事を打っていた。
「会いたい」――
なぜか、その一言だけは素直に出てきた。
どんなに怖かったはずなのに。
そう打てた自分に、一番驚いていた。
明日の便。
行動が早い人だな、と思いながら。
会えるという事実に、心臓がドキドキして仕方なかった。
彼は、私に会うために行動している、と思うのは自惚れだろうか。
少しだけ、自惚れていたかった。
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