38.全豪オープン 決勝から二日後

【メルボルン/会議室】-Side:九条-

映像が流れていた。

部屋の中央にある大きなモニターには、決勝戦の記録映像。

再生されていたのは、第3セット。

あの“異常な”時間帯だった。

誰も声を発さない。

その時のSlack記録がほとんど残っていないことを、全員が理解していた。

唖然として、何も言えなかった。

ただ録画だけが、無言で真実を繰り返している。

 

最初に口を開いたのは、蓮見だった。

「……この時の記憶、あるか?」

九条はしばらく黙っていた。

そして、映像から視線を逸らさぬまま答えた。

「無い。……正確には、見ていたが、意識して動いていなかった。再現できない」

「……だろうな」

蓮見は苦笑すら浮かべなかった。

「意識してできるもんじゃない。けどな、あれは偶然じゃない」

画面を一時停止した。

跳ねないドロップショットが、コートのネット際で停止している。

「お前がこれまで積み上げてきたすべてが、あの状態を生んだ。

身体の制御を手放した瞬間、入ったんだ。あの場所に」

 

「医師としては、まったく薦められません」

神崎の声は、静かに場の温度を下げた。

「関節と神経系に大きな負荷がかかっている。

あの状態を意図的に繰り返せば、近いうちにどこかが壊れます」

 

「脳には支障はなかった」

九条は淡々と返す。

「長時間の試合でなければ、耐えられる。身体の損傷は問題だと思っていない」

「いや、あったよ」

志水が声を乗せた。

「表情筋、手首、膝。

筋肉の反射が遅れてる。見た目は平静でも、内部は確実に疲労してた。

勝利の代償、デカいよ。あれ、連戦でやるもんじゃない」

 

それでも九条は言った。

「今年、あと3大会持てばそれでいい。

この状態に入りやすく、維持できる方法を考えている。

メンタルは自分でやる。お前たちは“体を作る方法”を探せ」

そして――

「トレーニングの負荷は度外視しろ」

 

空気が、微かにざわついた。

静かに、しかし確実に緊張が走る。

「……度外視って」

早瀬が、つぶやくように言った。

「試合の前にトレーニングで壊れたらどうするんですか?」

「耐えられないなら、それまでだ」

九条は一切、迷わずにそう返した。

言葉に温度はなかった。

ただ、決定事項としての重みだけが残った。

 

静寂。

誰も反論しなかった。

その意味を、全員が理解していた。

 

彼は、そういう人間だ。

自分で決めた目標に対しては、引かない。変えない。

できるかどうかではない。

「どうすればできるか」を考える男。

彼が命を懸けるなら――

自分たちも、それを支えるだけだ。

それが、チーム九条だった。

【会議後】-Side:九条-

チームとの会議を終えた後、氷川の運転でホテルへ戻った。

会議中、氷川は一言も発さなかった。

言いたいことはあったはずだが、俺がそれを求めないことを理解している。

そういう男だ。だから、マネージャーを任せていられる。

「明日の朝、迎えに来ます」

「ああ」

短く返事をして車を降りた。

 

“全豪オープン優勝者”。

その肩書きに飛びつくメディアは多い。

すでにスポンサー関係者を通じて、複数の対応予定が組まれていた。

スポーツ選手がなぜメディアに出なければならないのか。

それが成績と何の関係があるのか。

理解に苦しむ。

だが無視すれば、契約に支障が出る。

それもまた現実の一部だ。

 

ドアの前まで付き添ってきた藤代は、俺が鍵をかざすと黙って引き下がった。

何も言わず、何も求めず。

明日の予定は氷川と共有済み。

必要な指示も最低限だけ伝えてある。

いらぬ口を挟まず、ただ黙って任務を全うする。

必要な機能だけに特化し、他の要素は介在させない。

俺の周囲は、そういう人間で構成されている。

 

部屋に入ると、ポケットからスマートフォンを取り出し、

背面にワイヤレス充電器を装着して机に伏せた。

夜は画面を見ない。そう決めている。

重要な連絡は氷川に入る。

通知があろうがなかろうが、見るのは自分が“見たいとき”でいい。

時間と意識は、極力自分の管理下に置く。

そういう生活をしてきた。

 

シャワーを浴び、髪を適当に乾かしてベッドに入る。

やるべきことは、やった。

あとは整えるだけだ。

次は、全仏。

あの状態――試合中に入ったあの集中の極限に、また到達できるように。

そして、入ったうえで身体が持つように、備えておく。

あれに入れれば、どんな相手でも勝てる。

勝つために、身体の故障など問題ではない。

全米オープンまで持てば、それでいい。

最優先は、年間四大会制覇。

そして、十一月のATPファイナルズで勝つこと。

 

目を閉じて、呼吸を深くする。

意識が、眠りの底へゆっくりと沈んでいく。

そのときだった。

 

ふと、“見た覚えのない記憶”が浮かんだ。

綾瀬 澪――

その名前を、どこかで見た気がする。

下に文章が添えられた通知を。

最近、やり取りした覚えはない。

いつ、見た?

 

気になって、ベッドから体を起こす。

机の上に置いたスマホの画面を開いた。

メッセージアプリを開くと、未読のメッセージが一件。

送信者:綾瀬 澪

受信時刻は、決勝が終わった直後。

おそらく、表彰式を終えた頃。二日前の夜。

iMessage風(枠なし1バブル)
2025/01/26 22:30
今、オーストラリアにいらっしゃいますか? 不躾でしたら申し訳ございません。

 

一気に記憶が蘇る。

見たことがある。

控室で、一度だけ画面に映ったこの文面を。

それが、今まで頭から抜け落ちていた。

 

――俺がオーストラリアにいることを、知っている。

このタイミング。

中継を見ていたのだろう。

 

ヨット購入のやり取りを重ねた二年間。

最後の納品連絡のとき、初めて“九条雅臣”と漢字で署名をつけた。

もう、知られても構わないと思った。

彼女は検索しないタイプの人間だ。

知りたくなければ、それでもいい。

何も言わない確信があった。

それは、あの女の“性質”だった。

 

けれど今、どこかで偶然見たのか。

あるいは何かで気づいたのか。

――たどり着いたのだ。

 

そしてこの、「不躾でしたら申し訳ございません」。

俺を知ったことを叱責されることを、恐れている。

いや――

拒絶されることを、だ。

怒られたくないのではない。

切られたくないのだ。

俺が怒れば、もう連絡してこないだろう。

それがわかっていて、探るように送ってきた。

許されるかどうかを、試している。

 

日本との時差は二時間。

そのまま、返した。

iMessage風(位置調整)
今、オーストラリアにいらっしゃいますか?
不躾でしたら申し訳ございません。
日本に帰る。
会えるか?

これで充分だ。

起きていれば、見るだろう。

 

間もなく、返信が届いた。

iMessage風(3バブル)
今、オーストラリアにいらっしゃいますか?
不躾でしたら申し訳ございません。
日本に帰る。
会えるか?
会いたいです。
優勝、おめでとうございます。

あまりにも、シンプルな文面だった。

だが、“知っている”ことを示すには、それで十分だった。

iMessage風(4バブル)
今、オーストラリアにいらっしゃいますか?
不躾でしたら申し訳ございません。
日本に帰る。
会えるか?
会いたいです。
優勝、おめでとうございます。
明日の便で日本に帰る。
また連絡する。

 

そう送って、アプリを閉じた。

これ以上、彼女は返信してこないだろう。

俺が終わりたいときに終われる。

――そういう関係を、二年続けてきた。

 

画面を切り替え、氷川に電話をかける。

2コールで出た。

「はい。どうされました?」

この時間に俺が電話をかけることなど、まずない。

夜は睡眠の質を下げないために、電子機器には触れない。

でも――今は、例外だった。

 

「明日以降のメディア対応はすべてキャンセルしろ。明日だけは対応する。

それとジェットを用意しろ。日本に帰る」

 

「……わかりました」

それだけで、氷川は理解した。

余計な詮索も、言葉も要らない。

 

電話を切って、画面を伏せる。

 

――二年、寝かせたやり取りが。

ようやく、動き出した。

決勝から二日後 -Side:澪-

あの夜、私は、なんとか戻ってきてほしくて、あのメッセージを打った。

でも――

本当のところ、私は恐怖に勝てなかった。

 

最初に九条さんと電話で話した時の、冷たすぎる声を、今でも覚えている。

言葉は丁寧だった。

でもその奥にある“意図”ははっきりしていた。

――業務に関係ないことは話すな。

――必要なことでも、無駄に繰り返すな。

――最短で、結論に辿り着け。

そう言われたわけじゃない。

でも、そう聞こえた。

 

初めて連絡を受けた時、

名前の表示は記号のようなアルファベットだった。

それが、徐々にフルネームになっていっても――

本名とは、綴りが微妙に違っていた。

あとで彼がプロテニス選手だと知った時

綴りを変えていた理由が、ようやく理解できた。

 

彼は、最初から自分を隠していた。

“お前は知る必要がない”――

そう言われているようだった。

でも、私は仕事だったから、従った。

私は販売担当。

求められる職務を全うするだけ。

 

でも、私は気づいていた。

彼が言葉にしないぶん、

求められている期待値は高い。

だからこそ、

私は言われなくても読み取ろうとした。

想像を先回りして、答えを出し続けようとした。

たぶん――それが正解だった。

私はSunreefの販売を任された。

それが、誇りだった。

 

なのに――

私は彼の職業に気づいてしまった。

偶然だった。

でも、知ってしまった。

それなのに、

言及するような文面を送ってしまった。

 

すぐに後悔した。

しばらく返事が来なくて、

メッセージを取り消そうか、本気で悩んだ。

でも――なぜか、それはしてはいけない気がした。

理由はわからなかった。

ただ、消したらいけない、と

どこかで“何か”に止められた気がした。

 

でも翌日になっても、返信はなかった。

だんだん、不安が大きくなった。

もし、

「担当を変えろ」と上司に言われていたら。

もし、

もう私が信用を失っていたら。

そう考え出すと、頭の中が真っ白になった。

 

“叱責されたらどうしよう”じゃない。

“担当を外されたらどうしよう”だった。

2年間――

やっと積み上げた信頼を、自分のミスで壊したくなかった。

本当は、

“信用されていた”と思っていたのも私だけだったかもしれない。

彼は最初から、

私をプライバシーの外に置いていた。

その現実が、怖かった。

 

――二日後の夜。

仕事が終わって帰宅した時。

スマホが震えた。

反射的に画面を見て――思考が止まった。

iMessage風(左寄せ・調整済み)
日本に帰る。
会えるか?

 

息が止まった。

何かが、体の奥からぶわっと溢れてきた。

それが、言葉になる前に、

もう返事を打っていた。

iMessage風(左右バブル)
日本に帰る。
会えるか?
会いたいです。
優勝、おめでとうございます。

 「会いたい」――

なぜか、その一言だけは素直に出てきた。

どんなに怖かったはずなのに。

そう打てた自分に、一番驚いていた。

iMessage風(九条→澪→九条)
日本に帰る。
会えるか?
会いたいです。
優勝、おめでとうございます。
明日の便で日本に帰る。
また連絡する。

明日の便。

行動が早い人だな、と思いながら。

会えるという事実に、心臓がドキドキして仕方なかった。

彼は、私に会うために行動している、と思うのは自惚れだろうか。

少しだけ、自惚れていたかった。

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URB製作室

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