31.【Australian Open 2025】モノクロームの王を見た夜:澪が全豪オープンを見た記録

選ばなかったのに、見てしまった

家に帰ってから、あの試合のことがずっと気になっていた。

結局、カフェでの食事が終わってからも、試合が終わるまで見ていた。

最後は畳み掛けるように、すごいスピードで終わってしまった。

まるで最初から決められていたシナリオのように。

試合の最後の方でもあのスピードで動けるのなら、最初からそうだったのではないだろうか。

スポーツの試合って、あんな予定調和みたいに進行するものなのだろうか。

彼は、ずっとあんな風に戦ってきたのだろうか。

私の家にあるのはチューナレスTVだ。

地上波の騒がしい番組は好きじゃない。

動画配信や、ネットでのサブスクが見られれば十分だ。

見たいものを見たい時に見る。

選んでいないものを垂れ流しにするのは好きじゃない。

空間が、雑音で汚されるのが嫌だ。

ネットで調べたら、今やっている大会は全豪オープン。

4大会の一つ。グランドスラム。

私が見たのは準々決勝だった。

4大会だけなら、1つのサブスクに登録して課金すれば、それだけで見られるらしい。

「………」

ちょっと迷った。

ストーカーみたいだろうか。

相手には言わなければ、バレない。

一方的に見るだけなら、迷惑はかけない。

ーーー名前やクレジットカード情報を入力して、登録した。

見るだけ。

2年関わった顧客だから、ちょっと気になっただけ。

誰に言い訳をしてるのか、心の中で呟きながら家のテレビ画面で再生できるように整えていた。

予定調和の一回戦

お風呂から上がって、髪を乾かしてから、再生し始めた。

全豪オープン。1回戦から。

オーストラリアは今は真夏だ。

日本とは全く気温が違う。熱気で、空気が歪んで見える。

その中で、汗もかかずに淡々と戦っていた。

もはや戦ってすらいなかった。

進行しているだけ。

やるべきことをただ遂行している、そんな様子だった。

目の前の相手、いや相手というよりもただ飛んでくるボールを、飛ばすべき場所に送っている。

ここに送れば終わることが最初から分かっているみたいに。

打ち合いにならない。

大人と子供の勝負みたいだった。

お風呂上がりに肌を整えながら見ていたら、あっという間に進行していき、すぐ終わってしまった。

1時間経ってない。

もう、知識がない私には何が何だかわからなかった。

テニスって、こういうもの…?

こんな、何事も起きずに終わってしまうもの?

1回戦の印象は、それだった。

“起こした”違和感

1回戦が早く終わったから、2回戦も続け様に見た。

前と同じ、速いテンポで畳み掛けるように進行していく。

対戦相手の選手は、疲弊していた。

精神的に崩されて、何が起きてるのか分からない様子だった。

自分は一体何と戦ってるのか分からない。

そう見えた。

「………」

黙って食い入るように見ていた。

途中、試合の展開が変わったように見えた。

またすぐ元に戻ったけど、あれは何かが起きた、というよりも”起こした”ように見えた。

意図的なのか、とくに何も無いのか、真実はわからない。

ネットで、全豪オープンの全日程を調べた。

決勝は、日曜日。

見れる。

今日が水曜日だから、木曜、金曜、土曜の3日間。

日曜日までに、すべての試合を見れるだろうか。

寝不足確定の週になる。

確信した。

無彩色の世界で暮らす人

翌日、仕事を終えて帰宅してから、即テレビをつけた。

電源ボタンを押さずにいきなりサブスクのボタンを押すと、TVがつく。

テニスの試合のアーカイブ配信。

スポーツ番組なんて全く興味がなかったくせに、我ながら現金なものだ。

でも、試合というよりも、人間が気になって見ている。

九条さんからヨットのアフターサービスのメッセージを受け取った日が3回戦の時だった。

彼は2年間のやりとりの間も、世界を転々としながら私とやりとりをしていたみたいだ。

世界中を移動している様子は見てとれたけど、あのクラスの船の購入者にはそういう生活をする人は珍しくはない。

職業に関しては上司しか知らなかったし、全く気付かなかった。

上司からは詮索しないように言われていたから、今やってることも違反になるのだろうか。

職場には内緒にしておこう。

3回戦。

まるで、機械同士が戦っているようだった。

でも、スペックが違うマシンの戦い、という感じ。

似ているようで、違う2人。

九条さんの様子を1回戦から見てるけど、彼は恐らく相手を人間として認識していない。

休憩の時間も一度も相手の方を見ない。気にしない。

なのに認識してる。

場の環境まるごとインストールして取り込んでるみたいだ。

ポイントを取っても取られても、揺れない。何も感じていないように見えた。

内側が「無」の人。

マシン同士の対決は、スペックが高い方が勝つ。

それだけ。

しかも、終われば中のデータを圧縮してしまいこんでしまう。

中身を軽くするために。

必要なデータをその時だけ引っ張り出してきて使う。

あとは、不必要。

彼の中にある世界は、船のカスタムの仕方と同じで、たぶん無彩色だ。

モノクロ世界の中に住んでいる。

何も聞こえない不動の王

4回戦。

相手は、まるで少年漫画の主人公のようだった。


テイラー・リバース。

それも現代的なクールで影が濃くない主人公じゃなくて、ちょっと昔の王道少年漫画。


皆がテイラーと彼の名前を呼び鼓舞する。

人に愛される。

場を盛り上げる。

みんなが彼を応援する。

完全アウェー空間。

それでも九条さんは何も聞こえていない様子。

メンタルが強いんじゃない。

“聞こえない”。

アスリートは、必要な音だけを拾い、雑音を排除できるように脳が変化していると、何かのネット記事で見たことがある。

音が遠く聞こえる程度なのかと思ってたけど、彼は多分、本当に無音になってるんじゃないか。

ボールの音、ラケットに当たる音、足音、風の音、そういう「拾うべき情報」だけが入ってくる。

高性能なフィルター機能が搭載されてるんじゃないか。

そう見えるくらい、どんなに観客席から声が飛んでも何も反応が無い。

眉ひとつ動かない。

ただ淡々と試合を進行していく。

巨大な壁のように。

相手が先に進むことを拒む。

最初から決まっていた未来を辿るように。

その姿は“不動の王”だった。

こんな人でも、興味がない人のところには情報が入らないんだから、本当に個人の世界というものは狭い。

人は見たいものしか見ない。

聞きたいものしか聞かない。

世界はこういうものだと思ったら、その人の中ではそうなのだ。

でも私は知ってしまった。

こういう人がいることを。

こんな世界があることを。

それが良いことなのか、悪いことなのか、分からない。

壁の向こうに向かって

1月24日。

今日は、全豪オープンの男子準決勝。

九条さんはデイセッションに出るから、リアルタイムではちゃんと見れない。

お昼休みに見れなくもないけど、見たら仕事に集中しづらくなりそうで、あえて見なかった。

実際、午前中から時計を気にしてしまって、ちょっとそわそわしていた。

勝手に認識しているだけの相手なのに、ここまで気にして、変な奴だと我ながら思う。

九条さんは、どうなったんだろうか。勝ったんだろうか。

仕事が終わってから、いけないと思いつつ、ネットで結果を検索した。

勝っていた。

ほっとした自分がいた。

彼女でもあるまいし、何をそこまで気にしてるのか。

自分でも笑ってしまう。

帰ってから、ちゃんと通して見よう。

まだ準々決勝も見てないし。

順番に見たい。

歩んできた軌跡を見るために。

準々決勝、日本人同士の対決。

これはとても珍しいことらしい。

相手は時雨悠人という選手。

この人も知らない人だった。

私は本当に世の中の著名人に興味がないと改めて実感した。

でも、この人の試合での姿は、感動的だった。

負けても、ただの敗者じゃなかった。人の記憶に残る戦いだった。

4回戦の選手もそうだったけど、人それぞれ異なる個性を持った選手がいる。

真剣に、九条雅臣という”何も感じない壁”に向かって挑んでいる。

彼よりも向こう側にボールを通す為に、試行錯誤してる。

最後まで、その気持ちは折れず、決して諦めない。もう無理だと考えない。

最後の一球まで、試すことをやめなかった。

とても美しいと思える時間だった。

終わらせに来た男 vs 抗い続ける男

次の日が休みだったから、続けて昼間の準決勝のアーカイブを見た。

日曜日が決勝だから、土曜日はたくさん寝て、ゆっくりリアルタイムで決勝が見れる。

準決勝の相手はドイツの選手。

セバスチャン・ヴェレル。

なんとなく九条さんと似てる。

ドイツ人らしい、真面目で硬い印象。

高身長で、サーブが速い。

冷静で、自分を乱さない。

似た選手同士の戦いになるのかな?と思って見ていた。

やっぱり、九条雅臣という不動の壁は分厚く高いらしい。

試合の未来がわかるプログラムでも組まれてるのか?と思うくらい、ボールが向かう先にいる。

動きが大きくないのに、飛ぶボールも、本人の移動も速い。

最短時間で、最小の労力で、最大の結果を生み出してる。

どれほどの経験を積めばこうなれるのか。

試合の終盤。

もうこのまま終わりを迎えるのか、という空気が流れていた。

この全豪オープンで何度も流れたこの空気。

九条さんが出てる試合には「感動の逆転劇」なんてものは無い。

でも、観客の一人が何か叫んだ。

ドイツ語だったから何を言ってるのか分からなかったけど、野次を飛ばしている風じゃない。

応援だ。

励ましている。

動かぬ壁に向かって挑む者を讃えている。

一人叫んだら、次々といろんな人がその選手に向かって声を送っていた。

諦めるな、と言っているように聞こえた。

実際、相手選手は諦めなかった。

最後の最後まで足掻き、抗った。

皆、三者三様に努力し、試行錯誤してる。

それは、九条雅臣という選手だって同じはずなのに、それを想像できないほどに圧倒的存在だった。

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