1.その人は、風を連れて現れた

高級ヨット販売店のショールーム。

澪は制服姿で、フロアに立っていた。

その日、事前予約のあった「特別なお客様」が静かに現れる。

黒のジャケットに無地のカットソー。クセのない髪型、表情も目立たず、歩き方も静かだった。

名前も名乗られず、肩書きも分からない。

けれど、上司からは「詮索しないように」とだけ伝えられていた。

澪は礼儀正しく微笑みながら、数ある展示艇の中から、最新のカタログモデルを案内する。

最初はリーズナブルなモデルを紹介しようとしたが、その客は、たった一言「もっと上のクラスを」と告げた。

気圧されたわけではない。

ただ、その声には曖昧さがなかった。

彼の指示に従い、澪は上位モデルを案内する。

広々とした室内。外光を取り込む設計。重厚な造りと、風を感じる開放性。

彼は、ほとんど何も言わずにすべてを見てまわった。

「ご友人や、パートナーの方とご一緒でも快適に——」

澪が説明の一部として口にした瞬間、彼は小さく首を横に振った。

「一人で乗る」

その語尾に余白はなかった。

澪は少しだけ言葉を失い、「失礼しました」と控えめに頭を下げた。

そして最後に、たった一言。

「これを買う」

サインを求められた瞬間、彼は左手で名前を書き入れる。

その筆跡を見ても、澪は特に反応しない。

名刺を求められ、彼女はお辞儀して手渡す。

「また必要があれば」とだけ言い残して、彼は静かに背を向けていった。

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URB製作室

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