高級ヨット販売店のショールーム。
澪は制服姿で、フロアに立っていた。
その日、事前予約のあった「特別なお客様」が静かに現れる。
黒のジャケットに無地のカットソー。クセのない髪型、表情も目立たず、歩き方も静かだった。
名前も名乗られず、肩書きも分からない。
けれど、上司からは「詮索しないように」とだけ伝えられていた。
澪は礼儀正しく微笑みながら、数ある展示艇の中から、最新のカタログモデルを案内する。
最初はリーズナブルなモデルを紹介しようとしたが、その客は、たった一言「もっと上のクラスを」と告げた。
気圧されたわけではない。
ただ、その声には曖昧さがなかった。
彼の指示に従い、澪は上位モデルを案内する。
広々とした室内。外光を取り込む設計。重厚な造りと、風を感じる開放性。
彼は、ほとんど何も言わずにすべてを見てまわった。
「ご友人や、パートナーの方とご一緒でも快適に——」
澪が説明の一部として口にした瞬間、彼は小さく首を横に振った。
「一人で乗る」
その語尾に余白はなかった。
澪は少しだけ言葉を失い、「失礼しました」と控えめに頭を下げた。
そして最後に、たった一言。
「これを買う」
サインを求められた瞬間、彼は左手で名前を書き入れる。
その筆跡を見ても、澪は特に反応しない。
名刺を求められ、彼女はお辞儀して手渡す。
「また必要があれば」とだけ言い残して、彼は静かに背を向けていった。
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