最終確認通話
FaceTimeの画面が切り替わる。
相手のカメラは、今回もオフのまま。
澪の映像だけが、そこに映っていた。
いつもの通り。何も変わらないはずの時間。
「こんばんは。綾瀬です。本日は最終仕様のご確認を――」
「画面、見えてる」
九条の声は、いつもの調子だった。
無機質なようでいて、確実に反応する温度。
それは“人間的”とは言えないけれど、“不快”ではない不思議な距離感だった。
澪は資料を共有しながら、必要項目を順に読み上げていった。
ギャレーのレイアウト、照明の軸可動、AVシステムのスライド設置。
「照明、変更は必要か?」
「こちらは角度調整が可能です。固定ではありません」
「……了解」
ページをめくる指先に、相手の反応がぴたりと追いついてくる。
記憶して、判別して、判断する。
まるでAIが応答しているような、整った会話だった。
最後の確認ページに差しかかる。
「以上となります。追加のご要望があれば――」
「――ない」
その返答に、0.5秒の間があった。
たったそれだけだった。
だが澪は、画面の奥で彼の思考が“言語化されるまでの一瞬”を感じ取っていた。
冷たいわけじゃない。
けれど、あえて温度は出さない。
これがこの人の“仕様”なのだと、澪はこの2年で知っていた。
「では、設計案はこの形で確定とさせていただきます。ありがとうございました」
「送信確認したら、引き続き進行してくれ」
「承知しました」
通話が終了する。
澪の画面に「通話終了」の文字が浮かんだ。
ただの業務連絡。
そのはずだった。
だが、澪の胸には、少しだけ言葉が残っていた。
(“送信確認したら、引き続き進行”か……)
それは、ただの進行指示でもあり。
それだけではない“何か”が、あったような気がした。
「ありがとう」だけが残った夜
FaceTimeの通話が終わった翌朝。
澪のもとに届いたのは、短いメッセージだった。
この内容で進めてくれ。
ありがとう。
それだけ。
メールの中で、彼がこうした感情のある文を入れるのは、珍しいことだった。
資料はすべて受領済み。レイアウトも確定。
あとは工場と製造ラインが動き出すのを待つだけ。
船体完成までは、長い無音が続くことになる。
そう分かっていても、澪は送信済みフォルダを何度か開き直してしまった。
(……終わった、んだよね)
工程は完了。案件は進行中。
もう次の仕事に移っていい。そう頭では理解していた。
けれど、メールの最後の文章が、胸に引っかかっていた。
ビジネスの礼儀かもしれない。
無難な締めの言葉として、深い意味はないのかもしれない。
だが、FaceTimeでの通話では、九条は“ありがとう”を一度も言わなかった。
あのときは、あくまで会話の中のやり取りに徹していた。
言葉を尽くすことに意味がある相手ではない。
そう澪自身、理解していたはずだった。
でも、ふと思う。
(……あの一言、何に対してだったんだろう)
画面の向こうで、何かが揺れていた気がした。
たとえそれが誤解だとしても、
澪は少しだけ――“人間としての彼”を考えた。
だがその夜以降、彼からの連絡はぴたりと止まった。
それはまるで、
「プロジェクトが完了したから、もう話す必要はない」
そう言われたかのような、完璧な“沈黙”だった。
一片の“余韻”
Sunreef社から届いた、最終の製造完了報告。
澪の受信ボックスに入っていたのは、定型のPDFファイルと、物流部門からの出荷準備通知。
すべてがスケジュール通りだった。
遅れもなく、逸脱もなく。
最初の問い合わせから、丸二年。
それは、正確に終わるべきものが、正確に終わったというだけの報告だった。
報告書に異常はなかった。
レイアウト図、仕上げ画像、サプライヤーからの納入証明書。
確認項目は全てチェック済み。
澪はそれらを一つひとつ開き、処理フォルダへ流し込んでいく。
頭の中では、次の案件のスケジュールがすでに動いていた。
なのに――
ひとつの添付ファイルだけが、彼女の手を止めさせた。
それは、彼から届いたメール。
件名はただ「確認済み」。
本文も短く、三行で終わっていた。
書類は内容通り進行で。
Thanks.
顧客とのやりとりが終わった。それだけのこと。
本来なら、ただ処理すれば済む連絡。
けれど、そうやって片付けるには、心に引っかかった。
たぶん、これは“余韻”なのだと思った。
仕事の終わりに、ほんの数ミリだけ残った、誰かの温度。
終わったはずなのに、削ぎ落とされなかった何か。
そのメッセージを長押しして、ピンで固定した。
もうやりとりをすることは、恐らく多くはないはずなのに。
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