123.勝利のたびに、戻らなくなる男

戻る気のない朝

夜。

試合後に食事とシャワーを済ませ、志水と早瀬が交代で体をほぐし続け、神崎が深度のチェックを続け、レオンが栄養補給を管理した。

九条は眠っている間でさえ、筋肉の収縮が均一か、呼吸が乱れていないか、何度も確認されていた。

そして翌朝。

意外なほど、九条はすっきりしていた。

目を開け、一瞬だけぼんやり視線を漂わせるものの、すぐに“いつもの朝”の動きに戻る。

ベッドから起きる動作はスムーズ。

頭の重さも、精神の揺れもない。

シャワーを浴び、レオンの用意した試合用の朝食を食べる。

驚くほど事務的だった。

余計な迷いが一切ない。

ただ、神崎は気づいていた。

九条の瞳の奥に“昨夜の影”が薄く残っていることに。

完全には戻り切っていない。

だが、戦うには十分。

普通という異常値

控室に入ると、神崎が最終チェックに入った。

ライトで瞳孔の反応を確認し、肩・首・腰の緊張、左右差、呼吸の深さ、重心移動の癖、ふらつき、目線の安定。

あらゆるチェックを、慎重すぎるほど慎重に。

志水と早瀬も横でメモを取り、九条の動きの一つ一つを記録していく。

最後に神崎が九条に向き直った。

「気分はどうだ?」

九条は短く答える。

「……普通」

「頭の重さは?」

「無い」

「視界は?」

「……問題ない」

嘘ではない。

ただ、“強がりでもない”。

本当に問題は無い。

だが神崎は、なおも慎重だった。

「昨日の深さを考えれば、この回復は異常だ。だが――九条、お前は大丈夫か?」

九条は一瞬だけ考え、言葉を選ばずに答えた。

「……やる。それだけ」

神崎はため息をつき、蓮見は苦笑し、氷川は一言皮肉のように呟いた。

「準備完了」

ただし全員、同じことを思っていた。

今日の相手は、昨日のようにはいかない。

そして九条も、昨日のようにはいかせないほうがいい。

それでも試合は来る。

準々決勝、開始まで数時間。

九条はテーピングを巻き直し、静かにラケットバッグを担いだ。

その背中は、どこまでも静かで、それでいて、またどこか“深いところ”に沈もうとしている気配を帯びていた。

勢いの名を持つ敵

準々決勝の相手は、フランスの選手アレクサンドル・フィオル。

・身長186cm、体重82kg

・右利き/両手バック

・強烈な初速のフォアと、ライン際を狙い続ける高精度の攻撃

・ジュニア全仏準優勝、ダブルス優勝

・18歳でプロ転向

・21歳にしてツアー優勝3回、現在ATPランキング18位

・コーチはセバスチャン・グロージャンとセルジ・ブルゲラの二人体制

・まだ荒削りだが、爆発力はツアー随一

プレースタイルは、攻撃が止まらない“アグレッシブ・ベースライナー”

サービスの初速は190km台後半、フォアの展開力は他の若手の中でも図抜けている。

ただし、メンタルはまだ若い。

熱くなると荒くなる。

冷静になると手がつけられない。

クレーとの相性も悪くなく、何より“若い勢い”がある。

リベラとは違い、粘りではなく「点を取りにくる強者」だった。

蓮見は資料を見ながら言った。

「若手で勢いあるやつか……。まあ、当たるよな」

氷川が冷静に返す。

「爆発力は危険ですが、安定感はまだ未成熟です。九条さんが今日“普通”なら問題ありません」

蓮見は九条の顔をちらりと見る。

「普通ならな」

選手の情報を一通り整理しながら、蓮見はほっとしたように息を吐いた。

「ここに来て粘り型じゃないのは助かるな。クレーとの相性も最良ってほど良くはないし、しかも若い。九条との相性としては悪くない」

氷川が淡々と補足する。

「昨日のことを思えば、あまり長時間化する相手は避けたいところですからね」

その言葉に、神崎の表情が初めて崩れた。

普段は冷静な医師の顔。

だが今日は、笑ってごまかす余裕がない。

「……正直、昨日の深さは限界に近かった。戻っただけでも奇跡だ。今日が粘り型だったら、どうなっていたか分からない」

そう言う神崎の口調は固く、言葉の端々に“医者としての不安”が滲んでいた。

蓮見が腕を組む。

「でもフィオルのタイプなら、一気に持っていける可能性もある。ハードが得意な相手だ。赤土で暴れようとすりゃ、多少は雑にもなる」

「爆発力は怖いですが、長期戦にはなりにくいでしょうね」

氷川が頷いた。

レオンが食事の準備を整えながら言う。

「九条さんが普通でいられれば、ね」

一瞬、控室に静けさが落ちた。

“普通でいられれば”。

その一言が、このチームの誰もが抱えている恐怖を正確に突いていた。

昨日のように深く入り込めば勝てる。

勝てるが、そのたびに戻すのがどんどん難しくなる。

戻れなくなる日が来るかもしれない。

それでも試合は待ってくれない。

準々決勝は数時間後だ。

神崎は深く息を吐き、九条の方に向き直った。

「……よし。何かあったらすぐ言え。無理をするな。今日は絶対に“戦い方を間違えるなよ”」

九条は短く答える。

「分かってる」

声は落ち着いていた。

ゆらぎはない。

ただ、それが安心材料になるかは誰にも分からない。

蓮見がラケットバッグを肩にかける。

「じゃ、行くか。準々だ」

控室の空気が、少しだけ引き締まった。

今日の相手は若く、強く、勢いもある。

だが、昨日のような“消耗戦”にはならない。

なるべくなら、ならないでほしい。

九条は淡々と歩き出す。

その背中に、昨日の影はほんの薄く残ったままだった。

若き強者の自信と警戒

フィオル陣営は、選手ラウンジの奥で輪になっていた。

コーチのグロージャン、ブルゲラ、そしてフィオル本人。

フィオルはヘッドホンを首に下げたまま、軽く肩を回しながら笑っていた。

「昨日もフルパワーだったみたいだな、九条。でも、俺は引かねぇぞ」

若さ特有のまっすぐな自信。

しかし、それだけではない。

九条という存在には、確かに“警戒”が宿っている。

グロージャンが言う。

「いいか、アレックス。九条は昨日の試合で深い集中に入っていた。あれを今日も出されたら厄介だ」

ブルゲラが淡々と続ける。

「だが、彼の疲労は確実に残っている。お前の攻撃力で最初に主導権を握れ。何より……長いラリーに付き合うな」

フィオルは頷き、笑った。

「分かってるよ。昨日の粘り合いをもう一度やれる体じゃないはずだろ?俺は最初からぶっ叩く」

軽く聞こえるが、内容は正しい。

フィオルは若い反面、分析能力が高い。

そして、勢いがある。

勢いがある若手は、クレーでも危険だ。

フィオルは立ち上がり、ラケットバッグを担いだ。

「よし。フランスにいいニュースを持って帰るぞ」

若さの熱と自信が、その背中に満ちていた。

二つの温度が並ぶ場所

通路。

片側にはフィオル陣営の熱気。

片側には九条陣営の無音。

対照的だった。

フィオルは表情が明るく、肩の力も抜けている。

隣のスタッフと軽く笑い合っている。

一方で九条は、呼吸を静かに整えながら前を向いていた。

動きはスムーズ。

昨日の影はほとんど消えている。

ただその静けさは、異様なほど深かった。

蓮見がぼそりとつぶやく。

「……落ち着きすぎじゃね?」

氷川は真顔のまま返した。

「通常運転です」

「いや、昨日の今日だぞ……」

レオンが苦笑する。

「ここまで平然とできるのが、怖いんだよね」

神崎は視線を九条から離さない。

「入ってはいない。ただ、いつでも入れる“手前”だ」

警戒の色が濃い。

入口のカーテンが開き、センターコートの光が差し込む。

二人のシルエットが並んだ瞬間、観客席がざわめきに変わる。

アナウンスが響き、フィオルは拳を軽く突き上げ、九条はただ一歩前に踏み出した。

温度差が、そのまま勝負の構図になっていた。

荒れる前提の試合

● 第1ゲーム

フィオルのサーブで始まる。

初球。

193kmのフラットサーブがセンターに刺さる。

九条、反応はするが返せない。

フィオルは迷わず畳み掛ける。

フォアのクロス。

バックのライン際。

前に入り、再びフォア。

蓮見がうなった。

「うわ……本気で“短期決戦”狙ってるな」

氷川は画面を見て即座に言う。

「攻撃の質は高い。ただ、精度にムラがあります」

そして実際、フィオルは3ポイントを一気に取り、40-0まで持っていった。

若さの勢い、爆発力。

昨日とはまったく違うタイプだ。

しかし。

九条は、全く焦っていなかった。

● 第2ゲーム

九条のサーブ。

初球は、大きな力は入れず――

ひどく“深い”一本だった。

スピードより、精度。

あえてフィオルに打たせる球。

フィオルは迷いなく叩く。

強烈なフォア。

だが、アウト。

蓮見は腕を組む。

「九条、相手の勢いを利用してるな……」

氷川が頷く。

「フィオルの攻撃テンポを計っていますね。昨日のように粘る必要はない。流れを見ている段階です」

九条は淡々と深い球を続け、フィオルは強打を混ぜるがミスも増える。

スコアは40-30。

最後は九条がワイドへサーブを流してキープ。

互いに“入りの形”を作った。

● 第3ゲーム

フィオルは、さらに攻撃に振る。

フォアを叩き、バックをラインに通し、躊躇なく前に入る。

九条は受ける。

しかし、受けながらも球質を変えていた。

昨日のような深すぎる球ではない。

ただ、フィオルの強打の“逆を突く”球。

蓮見が小声で言う。

「これ、どっちに転ぶか読めねぇな……」

氷川は目を細める。

「フィオルの勢いが本物であれば、九条でも押されます。ただ、九条の読みが当たれば……一気に流れが傾く」

二人の打球が赤土を滑り、スタンドは呼吸を止めて見守る。

昨日の粘りとは違う。

今日は“鋭さ”と“勢い”の衝突だった。

最初の三ゲームで、観客はすでに理解していた。

この試合、長引けば荒れる。

短くても荒れる。

九条の静、フィオルの熱。

どちらが先に音を上げるか。

勝負はそこにあった。

読み合いの火蓋

第3ゲームあたりを境に、フィオルの目つきが変わった。

単なる勢いだけではなく、「読む」方へシフトした。

強打一辺倒では勝てないと悟ったのだ。

次のラリー。

フィオルは意図的にテンポをずらした。

・強打

・強打

・突然のスライス

・そしてショートクロス

若いくせに、間の取り方が上手い。

蓮見が舌打ち混じりに言う。

「コイツ、勢いだけじゃねーわ……ちゃんと“九条用”に修正してきてる」

氷川が冷静に答える。

「若さに似合わず、対応力がありますね」

九条は走る。

走って、走って、追いつく。

ただ、一本だけ返球が浅くなる。

そこでフィオルが前へ。

バックのダウンザラインを沈める。

会場が沸き、

フィオルは拳を握る。

(最初に崩れるのはお前だ、九条)

そんな気配がにじむ。

しかし、九条は崩れない。

崩れないどころか――動きが静かになった。

熱ではなく、冷たさが増す。

蓮見が小さくつぶやく。

「……あれ、やべーぞ」

レオンが横目で見た。

「昨日と同じ前兆?」

「まだ一歩手前だ。でもあの“静けさ”は、深く潜る寸前の顔だ」

九条の視線は、ボールそのものではなく、“軌道の未来”を追っているようだった。

フィオルが強打すると、九条はその次の強打の位置に立つ。

フィオルがテンポを落とすと、九条はさらに落とす。

“読む”のが早い。

フィオルの速度と九条の読みが噛み合い始める。

会場の空気がひたひたと緊張していく。

(あぁ……入るなよ。ここで深く入るな)

蓮見の心の声が、表情にありありと出ていた。

迷いが生まれる瞬間

スコアは接戦。

互いに攻撃的で、互いにミスも出る。

でも、その裏で“質”が変わっていた。

● 4-3(九条)

フィオルのサーブゲーム。

3本めのフォアを叩いたところで、九条のバックが完璧なタイミングで逆クロスへ。

フィオルが止まる。

(読まれてる……?)

若い選手にとって、“読まれている実感”ほど怖いものはない。

 

● 4-4(フィオル)

次のゲームは、九条があえて浅い球を混ぜ、フィオルの強打を誘う。

フィオルは迷わず叩き、そのまま押し切ってキープ。

エネルギーと自信で取り返す。

 

● 5-4(九条)

ここで流れが動いた。

九条のリターン。

ただ深いだけの球なのに、フィオルの足が一瞬だけ止まる。

迷ったのだ。

迷った瞬間、ミスが出る。

それも若さ。

蓮見が息を飲む。

「これ……どっちが若手だよ」

氷川は短くつぶやく。

「九条さん、入りかけています」

昨日と同じ深さ。

ゾーンの縁に指先が触れている。

 

● 5-5(フィオル)

だが、フィオルは折れない。

サービスゲームに全力を注ぎ、強打で流れを断ち切る。

ラケットを握る手が震えていたが、それを隠さない。

(怖い。でも、攻めるしかない)

その若さと熱だけは揺るがない。

 

● 6-5(九条)

九条のサーブ。

テンポを遅くし、角度を変え、また深さを取り戻す。

フィオルのミスが増える。

ただ、フィオルのミスは“強さゆえのミス”。

蓮見は頭を押さえた。

「……あぶねーなこれ。二人ともバカみてぇに強い」

 

● 6-6 タイブレークへ

フィオルの最後のポイントは、渾身のラインショットで取った。

若さゆえの無鉄砲さと、若さゆえの才能が詰まった一打。

九条は表情を動かさず、静かにベンチに戻る。

フィオルは息を弾ませながら笑う。

(来いよ、九条。こういう勝負がしたくて俺はここに来た)

観客席が一斉に立ち上がる。

緊張、熱、静寂。

すべてが混ざり、センターコートが震えた。

――タイブレークへ。

深さが試合を変える

6−6。

コートには、不思議な緊張が漂い始めていた。

蓮見が腕を組んだまま、ぼそりと漏らす。

「おいおい……この試合、長引かないはずじゃなかったか?」

誰も視線を動かさない中で、氷川だけがいつもの無表情で答える。

「さぁ。未来は誰にも読めませんから」

「お前は読めるんだろ、多少は……」

「九条さんの行動は読めません。過去の傾向からも」

蓮見が肩を落とした瞬間、反対隣でレオンが口を挟む。

「わざと長引かせてるんじゃなくて?」

蓮見が思わず振り返る。

「わざと?」

「攻撃型を崩すなら、最初に“長くなるぞ”って匂わせるだけでメンタルに来るよ。テンポ狂わせて、生殺しにする感じ。……単純かな?」

蓮見は眉をひそめる。

「アグレッシブな攻めがクレーで長引くことはあるが、わざと長引かせるのは九条の状態だと危険だぞ」

その会話を聞きながら、

神崎が九条の顔をじっと見つめていた。

瞳孔、目線の動き、呼吸の深度、汗の量。

「……もし、わざとなら」

神崎の声が低く落ちる。

「俺は怒らざるを得ない」

普段穏やかな医師が、ここまで言うのは珍しい。

レオンがぽつりとこぼした。

「九条さん、自分の身体とか健康とか……度外視じゃん。勝つためなら“使い捨て”でもいいって顔してる」

その言葉に、蓮見も、氷川も、志水も、早瀬も、一瞬黙った。

否定できなかった。

そしてコートでは――

● タイブレーク 3-3

フィオルの強打。

九条の深い返球。

フィオルのショートクロス。

九条のライジング。

球質が噛み合いすぎて、観客の息が止まる。

フィオルの目つきが鋭くなる。

(崩れねぇ……こいつ、本当に昨日あれだけ戦ったのか)

● 5-4 九条

九条が一つ、リターンで逆を取る。

小さくも鮮やかな一打。

蓮見が舌打ちする。

「……完全に入る寸前だぞ、あれ」

神崎は顔を歪めた。

「深く入ったら、また戻すのが遅れる……!」

氷川が冷静に言う。

「でも、今はまだ“寸前”です」

● 6-5 九条(セットポイント)

フィオルは叫びもせず、ただ深呼吸を一回。

(負けねぇ……こんなところで折れねぇ)

フランスの若きエースの眼差しは鋭い。

サーブを放つ。

強烈。

だが――九条が返す。

深い。

重い。

ブレがない。

フィオルは踏み込む。

だがその踏み込みが、半歩遅れた。

次の瞬間。

九条のフォアの逆クロス。

白線をかすめる“音”。

主審の声が響いた。

「ポイント、九条。7−6、九条。九条が第1セットを取りました」

会場が揺れた。

赤土が震えるほどの拍手。

九条は――やはり無表情だった。

ただラケットを握り直すだけ。

勝利の裏側に潜むもの

● フィオル陣営

グロージャンが立ち上がった。

「……まずいな。メンタルが折れかけている」

ブルゲラは口元を押さえ、

「いや、まだだ。アレックスは強い。だが相手の“深さ”が予想以上だ」

フィオルはベンチで肩を上下させながら、

苦く笑った。

(なんでそんな落ち着いていられんだよ……お前、昨日あの試合したんだろ)

でも、眼は死んでいない。

若さの火がまだ燃えている。

 

● 九条陣営

蓮見は大きく息を吐いた。

「……取ったのはすげぇけどよ、これ、勝てばまた明日試合なんだけどな?」

氷川は淡々と記録を更新し続けている。

「データ上は問題ありません」

レオンは苦笑して肩をすくめる。

「問題あるのはメンタルのほうでしょ。こっち側の」

志水と早瀬は黙々とモニターを確認しながら、しかし顔色が少し硬い。

神崎だけは、誰よりも深刻な表情だった。

「……これ以上は入らせない。入られたら、また“戻す時間”が足りない」

蓮見も渋い顔で頷く。

「頼むから、早く終わらせてくれ……勝っても負けてもいいから、短くしてくれ……」

氷川がぼそり。

「負けるのは良くないです」

「分かってるよ……分かってるんだけどよ……!」

九条はベンチで水を一口飲み、深呼吸を一つ。

目を閉じると、今にも“深く沈みそう”な静けさ。

蓮見が青ざめた。

「……おい九条、入るなよ。そこで入るなよ……!」

しかし九条は何も言わなかった。

ただ立ち上がり、ラケットを持った。第2セットへ向けて。

自分が消える地点

第2セット。

フィオルは、まるで開き直ったように攻撃のギアを上げてきた。

初球から200km近いサーブ。

続けてフォアの逆クロス。

コート後方をえぐる弾道。

若さの勢いが、そのまま暴力になっている。

「来たな、これ……」

蓮見が呻くように言う。

フィオルは迷いが消えた。

恐怖を押し込め、ただ強さだけで勝負している。

(引いたら飲まれる。だから攻める)

そのシンプルな答えが、プレーに反映されていた。

九条は――受けていた。

淡々と、機械のように、フィオルの強打を全部拾い続けていた。

力ではなく、読みと角度と最小限の身体操作で。

神崎の眉が、わずかに動いた。

「あれ……少し深い……」

3ゲーム目。

一本のラリーが異様に長く続いた。

フィオルの猛攻。

九条は淡々と返し、また深く、また静かに、また正確に。

観客の声が薄れていく。

いや――声が薄れているのではない。

九条が、音を遮断している。

レオンだけが、静かな声でつぶやいた。

「……入ったね」

氷川がすぐ横を見る。

「何故わかるんです?」

レオンは少し悲しそうに笑った。

「肩の力が抜けた。あれは“自分”がいなくなる時の姿だよ」

その言葉に、蓮見が顔をしかめる。

「入るなって言っただろ……!」

だが九条は、もう届かない。

視線はボールだけを追い、呼吸は無音、動きは最小限、表情は消えた。

完全に、深部へ。

『ゾーン』ではない。

もっと深い場所。

自分という概念すら薄れていく場所。

壊れるまで戦う男

神崎が立ち上がりかけた。

「まずい……昨日より深い……!」

蓮見が声を荒げる。

「おい九条!戻れ!戻れって!」

もちろん聞こえない。

氷川が冷静に言う。

「無駄です。入った九条さんに声は届きません」

蓮見は拳を握る。

「届かないじゃなくて!……届かせなきゃダメだろ……!これ以上入ったら――」

レオンが淡々と最後まで言った。

「――壊れるよ」

蓮見は歯を食いしばった。

「だったら、なんで止めねぇんだよ……!」

レオンは静かに九条を見つめた。

「止める気がないんだよ、九条さん自身が」

「……は?」

「全豪が終わったあと言ってたでしょ。“あの状態に入れば勝てる。確実に再現する方法を見つける”って」

華奢な見た目のシェフが、自分の手のひらの中の選手を見つめる目が、やけに痛かった。

「言えば誰かが止めるから、言わずに実行してるんだよ」

蓮見が呆れたように、怒りを帯びた声を出す。

「お前がそれを言ったら、俺らは止めるんだが?」

「でも、試合に出るのは止められないでしょ。怪我もしてない。棄権させられない。

出てしまえば……もう誰の声も届かない」

氷川が小さくつぶやいた。

「テニスは個人競技ですから」

神崎は頭を抱える。

「試合が終わってから戻すこっちの身にもなってくれ……!」

レオンはほんの少し目を伏せた。

「戻りたくないんじゃない?」

全員の顔がレオンを見る。

「……は?」

「“あの世界”にずっといたいのかも。あそこなら、身体が持つ限り永遠に勝てる」

蓮見が声をひそめる。

「永遠に身体がもつわけないだろ……」

レオンの答えは短かった。

「だから――壊れるまで戦い続ける」

静まり返った控室。

誰も、言い返せなかった。

九条のプレーは、もうアスリートのそれではなかった。

ただの、戦闘マシンだった。

恐怖を知る瞬間

第2セット中盤。

スコアは拮抗しているのに、フィオルの中に“言語化できない違和感”が生まれ始めていた。

(なんだ……このラリー)

打っても、打っても、返ってくる。

しかも、質が落ちない。

スライスでもない。

ドロップでもない。

テンポを変えても、角度をつけても――

九条はそこに“最適解”で立っている。

気づく。

(……迷いが、ない?)

普通、身体は追いついても、判断は一瞬遅れる。

プレッシャーでぶれる。

だが九条は――

「判断」という工程が存在していない。

ただ反応している。

反応というよりも、「最初からそこにいた」かのように。

そしてもっとも恐ろしいのは、表情が一切動かないことだった。

十六球目のラリーの途中。

フィオルが放った強烈なバッククロス。

普通なら追いつくだけで精一杯。

返せても浮く。

だが。

九条はわずかに姿勢を低くしただけで、その球を完全なタイミングで捉え、フォアの逆クロスを叩き込んだ。

音が違った。

乾燥した赤土コートで、ありえない厚みを持った“破裂音”。

そして、その打球を放った本人は――

無表情のまま。

汗も、息も、荒れない。

ラケットを握る指先が、わずかに震えているだけ。

それは緊張ではなく、完全なゾーンに入った時の微細な震え。

フィオルの背中に電流が走った。

(……怖い)

若いエースが、初めて“恐怖”を理解した瞬間だった。

観客は沸く。

だがフィオルだけは、音が遠くなる感覚を覚えていた。

(なんなんだ……お前……)

ここから試合は急に“滑り始めた”。

● 第2セット 3-2(九条)

フィオルの攻撃は落ちていない。

むしろギアは上がっている。

だが、九条の読みがすべて半歩早い。

バックのDTL。

フォアの逆クロス。

深いボール。

浅いボール。

そして急激な緩急。

どれも予測されている。

蓮見の声が震える。

「……これ、昨日より深い」

氷川が淡々とつぶやく。

「九条さん、反応時間が通常の半分です」

神崎は額に手を当てた。

「完全に入ってる……!もうどの球でも“読めてしまう”状態だ……!」

 

● 4-2(九条)

九条のリターンが、ラインを“かすめる”頻度が増える。

それは偶然ではなく、精密な計算と身体操作の極致。

フィオルは叫ばない。

ただ、息が荒くなる。

(読み合いじゃ勝てない……!)

 

● 4-3(フィオル)

フィオルが一つ奪い返したのは、ただ力だけで押し切ったポイント。

フォアの強打を連発し、最後はインサイドアウトをラインに落とす。

若さの力。

コーチ席のブルゲラが拳を握る。

「アレックス、まだ折れるな……!」

 

● 5-3(九条)

しかしすぐに返される。

九条の静かな強打。

プレッシャーを一切感じさせないラリー運び。

まるで軌道を事前に知っているようなコートカバー。

レオンが眉をひそめた。

「……戻る気がないんだよ、九条さん」

蓮見が声を荒げる。

「だったら俺たちが戻すしかねぇだろ……!壊れる前に……!」

神崎はもう答えない。

ただ、九条の動きを見ていた。

戦闘マシンのような精度。

人間がやっていい強度ではない。

球威が増す九条。

焦り始めるフィオル。

フィオルはまだ若い。

強い。

だが、この“無表情の強さ”の前では――経験が足りない。

試合の流れは、ゆっくり、しかし確実に傾き始めていた。

勝っても戻らない

5–3。

九条がリードしたまま、第2セットは深いところへ沈んでいく。

フィオルは、まだ折れていなかった。

強打を連発し、足を止めず、声も出さず、ただ“勝ちに行く”。

若さ特有の諦めの悪さではない。

トップに来る選手の“意地”そのものだった。

強烈なフォア、角度のついたバック、逆をつくスライス、ボディへのサーブ。

持てる全てを使って、九条の集中を揺らそうとする。

しかし――揺れない。

九条は表情を失い、反応速度は常識を超え、読みの精度も異常に高い。

(……化け物かよ)

フィオルは心の中でそう呟きながら、それでも前へ出る。

だが、九条の球は淡々と深く、重く、正確だった。

マッチポイント。

フィオルは最後まで攻めた。

全身で踏み込む。

最後のフォアハンドを振り抜く。

赤土を削る音。

ボールがライン際に落ちる――

ほんの数センチ、外れた。

アウト。

主審が手を上げる。

「ゲームセット。6–3、6–3。勝者、九条雅臣」

場内が大きく沸いたが、九条は反応しない。

ガッツポーズもしない。

視線を上げることもない。

ただ、ラケットを持ったまま“動作として”ネットに向かう。

まるで、勝敗がどうでもいいかのように。

握手を交わすとき、フィオルは九条の目を見た。

そこに「勝った喜び」も「達成感」も無く、ただ底が見えない“無”だけがあった。

フィオルは息を飲む。

(……こいつ、本当に人間か?)

勝利の外側

コートを出た瞬間。

九条の足取りがふらりと揺れた。

蓮見がすぐに支える。

「おい、大丈夫か……!」

九条は返事をしない。

瞳だけが焦点を結んでおらず、呼吸の深さも一定ではない。

神崎が表情を硬くして駆け寄る。

「試合間隔が短すぎる。昨日も深かったが、今日のほうが明確に“深い”。戻るまでの時間が足りない」

九条の瞳孔反応を確認しながら、神崎が唇を噛む。

「このペースで続けば、戻らない時間のほうが長くなる。試合に勝っても反応しない。再び深い状態に入るほうが早い体になっている」

早瀬が落ち着いた声で補足する。

「幸い、身体の動作効率が上がっているので脳への負担は少なめではありますが……」

声は淡々としているが、内容は重い。

志水が九条のサポートに回りながら、ストレッチの準備を進める。

誰も、勝利を喜んでいない。

蓮見が低く言った。

「明日が準決勝で、勝てば決勝。あと2日だ。強敵と当たれば、もっと深く入るだろうな……」

氷川がデータを見ながらつぶやく。

「九条さん……戻す気がないんでしょうね」

レオンは悲しげに息を吐く。

「昨日も今日も、本人が止める気がない。“あの世界にいたい”んだよ」

九条は言葉を発さない。

反応しない。

ただ立っているだけ。

神崎の声が低く落ちる。

「この状態で、競技を続けさせるのは医師としては反対だ。怪我をする前に棄権させろと言いたい」

蓮見が苦く笑う。

「それやったら、こいつ……二度と戦わなくなるぞ」

その言葉に、誰も反論できなかった。

九条雅臣は、アスリートという枠を超えていた。

ただ勝つためだけに作動する、無機質な戦闘装置のように。

残されたスタッフは――

ただ彼を守りきるしかなかった。

大会が終わる、その瞬間まで。

コントロール不能の天才

控室に戻ると、空気が一瞬だけ緩む。

だが誰も安心していない。

志水はすぐに水を渡し、九条の手に押し込むようにして飲ませた。

早瀬はふくらはぎに冷却材を貼り、呼吸の浅さを確認しながらゆっくりと肩をほぐす。

神崎が九条の顔を覗き込む。

「九条。……深呼吸しろ。吸って、吐いて。ゆっくりだ」

九条は反応が遅い。

言われた動作を“機械的にやるだけ”という状態。

蓮見がタオルを持ってきながら小さくぼやいた。

「……ひでぇ顔だな。昨日より戻りが遅い」

氷川はタブレットを確認しつつ言う。

「心拍は落ちてきていますが……意識の“戻り”が弱い」

九条は、まだどこか遠くにいる。

神崎は静かに呼吸して、しかし声ははっきりと落とした。

「このまま試合に出し続けるのは危険だ。フローに入ったまま連日戦う。頭も心も、何も感じないまま動く……これは、いい兆候じゃない」

志水と早瀬が黙って手を止める。

蓮見が腕を組んだまま言う。

「問題は本人が、それを“悪いこと”だと感じてないってことだよな」

氷川が苦笑を漏らす。

「うちにはメンタル専門のスタッフがいませんから」

神崎が肩をすくめる。

「本人が“整えられる”ことを嫌うからな。他人に心の内を触られるのが一番嫌なタイプだ」

蓮見が言う。

「何があっても狼狽えないし、落ち込まないし、傷つかない。メンタルが強過ぎるのも……考えもんだな」

レオンがスプーンを片付けながらぽつり。

「それって強いんじゃなくて……固いだけじゃない?氷の柱と同じで、折れやすいよ」

蓮見が頷く。

「折れたら刺さるしな。周りに」

早瀬も小さくため息。

「冗談にならないですね」

九条はその会話のどれにも反応しない。

ただ、ぼんやりと一点を見つめている。

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URB製作室

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