65.2月8日 ヘンリープール→ランチへ

仮縫いスケジュール

澪は自分の手元の紅茶を見つめながら、小さく呟いた。

「……クレーシーズン始まったら、本気で忙しくなるし、動けなくなるよね。三月も、インディアンウェルズとマイアミあるし……。私の趣味のために、ここまでさせてしまうのかって……」

九条はそんな澪の言葉を、遮ることなく静かに聞いていた。

「……でも、言っちゃったんだよね。執事やってって。燕尾服が見たいって」

澪は紅茶を一口飲んで、苦笑する。

「軽いノリだったのに。まさか、こんな……本気でロンドンまで来るとは思わなかった」

澪はカップを置き、目を伏せたまま、ぽつりと呟く。

「……プロのアスリートに何やらせようとしてんの、私……」

その瞬間、血の気が引くのが自分でもわかった。

「え、だって、試合で世界飛び回ってる人に、燕尾服仕立てさせて、執事やってって……頭おかしいでしょ私……? なに? バカなの? 重症……?」

小声でぼそぼそと自分を責め始める澪の前で、九条は紅茶を口に運びながら、あくまで冷静に言う。

「今さらか?」

「そういうの追い打ちって言うんだよ?」

「事実だ。……だが、お前が本気で望んだなら、俺も本気で応える」

澪は勢いよく顔を上げる。けど、その視線の先にあった九条の目が、真っ直ぐすぎて、何も言えなくなった。

澪は小さな声で、誰にも聞かれないように吐き出した。

「私はAmazonとか楽天で買って、2日くらいで届いたやつで良いじゃんって思ってたのよ…!」

すると九条が、まるでその呟きを拾うように、ゆっくりと顔を向けて言った。

「俺がそれを着るとでも?」

ぐぅの音も出ない。

澪はその場でくるっと椅子の上で体勢を変え、両手で顔を覆った。

「そうなんですよ……そこが盲点だったんですよ……」

頭を抱えて悶えていたが、ふと顔を上げて、今さらながら訴える。

「いや、でも普通はそう思うでしょ!? 二十四時間の罰ゲームで、ここまでやる人いる!?」

九条は涼しい顔で答えた。

「俺が“普通の人間”に見えたのか?」

……撃沈。

「見えなかったです……初対面から……」

顔を覆いながらも、澪は食い下がる。

これはさすがに引けない。

「でもそれにしても、限度ってものがあると思うの!」

九条は、一瞬だけ沈黙したあと、低く言い放つ。

「限界を決めて生きていたら──こうはなっていない」

その言葉に、反論の余地はなかった。

「ごもっともでございます……」

もう、何を言っても勝てない。

世界ランク1位の理屈は、反論を許してくれない。

澪は肩をすくめながら、紅茶のカップを両手で包むように持って、小声でぽつり。

「……でも私も、世界ランク1位の人に執事やらせるって……ちょっとヤバくない?」

誰にも聞こえないように呟いたつもりだった。

でも──

「ちょっとじゃないな」

すぐ隣で、静かに響いた低い声に、思わずびくりとする。

「……聞いてたの?」

「聞こえる距離で呟くな」

「それは、私の距離感じゃなくて、あなたの聴力の問題でしょ……」

カップを置いた澪の手が、どこかそわそわと落ち着かない。

世界ランク1位を相手に、まさかの“執事プレイ”。

本気で実現しようとしているのは、たぶんこの世で彼ひとりだ。

「……ほんとにやるんだね、これ」

「お前が望んだことだ」

一言で返される。

「……はい……」

しゅん、と肩を落としながらも、どこか頬がゆるむのは、

その“本気”が、ただの優しさじゃないと知っているから。

今後の予定

しばしの沈黙。

ラグジュアリーな応接室の空気が、紅茶の香りとともに、少しだけ和らいでいた。

けれど、すぐに九条が現実に引き戻す。

「仮縫いと調整は、三回。今日を入れて、あと二度必要だと言っていた」

「えっ、二回も? あ、そっか……オーダーってそうか……」

澪は反射的にスマホを取り出しかけて、すぐにやめた。

スケジュールを調整するのは、自分ではなく、彼の方だ。

「……でも、雅臣さん。そんなに時間ある? 遠征もあるでしょ」

「三月中旬からクレーシーズンの準備に入る。四月はローマの前に一度空きがあるはずだ」

「その“空き”にロンドン来るの……? いや、来てもらうしかないんだけど……でもそれって……」

思わず額に手をあてる。

「ほんっとプロのアスリートに何やらせようとしてんの私……」

九条は軽く首を傾けると、静かに言った。

「仮縫いに合わせて動くのは問題ない。完成が全仏にかかるなら、それまでに仕上げればいいだけだ」

「…………ほんとにやる気なんだね」

「お前が望んだことだ」

それで何度目だ、このやり取りは――

でも、あの言葉に勝てる理屈を、澪はまだ一度も見つけられたことがない。

「次、2月中に少しでも進められるかな?」

澪が指でカレンダーをなぞりながらつぶやく。

「3月入るまでに、少しでも進められるなら……」

「次は2月14日。週末だ」

九条は即答した。

「夜の便でロンドンに来る」

「昼間練習して、そのまま空港?」

「そうだ」

澪は手元のスマホを取り出し、カレンダーアプリを開いて指を滑らせる。

「14日は金曜日……ショーもイベントも入ってない」

呟くように言ってから、スケジュール欄に小さくメモを入れた。

「リモートにできるか打診してみるね。冬って、ヨットのイベント少ないから助かる……」

彼女の職業は、セレブ向けのヨットを販売する営業職。

豪華なクルーザーやカスタムヨットを扱う華やかな世界だが、春先からイベントが立て込む。

3月後半には、週末をまたぐ大規模なヨットショーが控えていた。

「じゃあ、練習終わり見計らって空港行くよ。待ち合わせしよ」

タップ音が止まり、画面を閉じて澪が顔を上げる。

「その日なら……5分で準備しなくていいし」

その一言に、九条が視線を向けた。

恨み節か、あるいは無意識か。

直前に突如決まったこの前の渡英は、澪にとって本当に“弾丸”だった。

「……今回は、10分やる」

「倍になっただけじゃん!」

言葉ではそう返しつつも、どこか笑っていた。

ふたりの間には、あきらめとも愛情ともつかない、静かな温度が漂っていた。

「お願いだから、執事服のために練習時間犠牲にしないでね!?」

澪が勢いよくそう言うと、九条は短く息をついて応えた。

「すでに一日、犠牲にしたしな」

「……っ、それ言わないで……」

澪の声が急に小さくなる。

「罪悪感で死にそうなの……」

月曜日、本来は練習が入っていた。

けれど、ロンドンからの帰国が間に合わず、スケジュールは一日空白になった。

練習は中止。

それもすべて、澪の望んだ“執事服”のためだった。

――けれど本当は、それだけじゃない。

九条は、澪と過ごすために週末の練習も入れなかった。

普段よりも練習時間を削っている。

その分、昼の練習は限界まで密度を高めているが、澪はそれを知らない。

それを知っているのは、九条と氷川だけだ。

ふたりとも、そのことは何も言わない。

言えばきっと、澪はもっと罪悪感を抱くから。

だから、九条はただ静かに目を伏せた。

「……時雨さんにだけは絶対言わないで。お願いだから……!」

澪が半ば懇願するように言うと、九条は少しだけ目を細めた。

時雨悠人──九条と同じく日本人選手で、現在は調整練習に同行している。

全豪オープン準々決勝で九条と当たった相手ではあるが、ランキングの開きはある。

それでも、特にクレーコートでの打ち合いでは、彼ほど粘り強くて密度の高いラリーができる存在は貴重だった。

月曜日も本来なら、彼と練習するはずだった。

だが九条は、特に理由を明かさないまま、その予定を中止にした。

「時雨さん、怒ってないかな……。ドタキャンって思われてたらどうしよう……」

澪がそっと顔を伏せる。

もちろん、時雨には練習がキャンセルになった理由なんて、ひと言も伝えていない。

まさか“執事服の仕立てのために世界ランク1位がロンドンへ”なんて、どう取り繕っても説明できない。

「俺も氷川も、余計なことは伝えない。お前は気にしなくていい。それより——慣れない海外移動で体調を崩すな。来週にはまたフライトがある」

九条は淡々とそう言った。

けれど、その声音には少しだけ、澪の体を気遣う温度が混じっていた。

「……そうでした……」

澪は思わず、肩をすくめるように小さく返した。

今は“ごっこ遊び”みたいな気持ちで動いていても、現実には、相手はプロのトップ選手だ。

一日に何時間も練習し、海外と日本を往復するハードスケジュールの中に、彼女の“わがまま”を組み込んでもらっている。

──本当に、これでいいのかな。

──私なんかのために、ここまでさせていいの?

罪悪感が、またじわりと胸の奥を湿らせる。

「じゃあ、来週の週末まで仕事頑張る!風邪ひかないようにしないと。雅臣さんも頑張ってね!……私よりずっと頑張ってるだろうけど」

澪は笑って言ったが、その声には少しの名残惜しさが滲んでいた。

九条は短く、「言われるまでもない」と返す。

ぶっきらぼうなその言葉の裏に、彼なりのやさしさが潜んでいることを、澪はもう知っている。

彼にとって、澪と過ごす時間は“仕事の合間”ではない。

むしろ、それは彼の疲れを確実に回復させる、数少ない“栄養”だった。

澪を抱き枕のように抱えて眠る夜。

不思議と、重だるかった身体の芯から、疲労が抜けていく。

科学的には説明のつかない現象でも、体は正直だ。

ただ、触れているだけで整っていく。

彼女の呼吸がそばにあるだけで、心拍のリズムが穏やかになる。

九条はそれを説明しようとも、誰かに言おうとも思わない。

ただ、今夜もまた、同じ夢を見ればいいと思っていた。

お会計

「ところで、オーダーメイドのお会計って最初に全部払うの?」

澪がぽつりと問いかけると、九条はごくあっさりと答えた。

「基本はそうだ。フルオーダーの場合、最初に全額前払いが多い。仮縫いを含む仕様なら、なおさらだ」

「ひえぇ…やっぱりそうなんだ…。まあ、向こうも手間と時間かかるもんね…」

「量販とは違う。生地もカットした時点で戻せない。だから、キャンセルも基本できない」

「これ……総額100万超えてない?」

「たぶん日本円で200近い。まだ生地と付属を足す前だ」

澪はごくりと唾を飲んだ。

(すご……。でもこの人の金銭感覚だと、これってどのくらいの……?)

澪は会計を終えたばかりのレシートをそっと財布にしまいながら、ふと尋ねた。

「……今までで、いちばん高い買い物ってなに? 家とか?」

九条は一歩遅れて出てきたレシートのコピーを受け取りながら、一瞬考える素振りを見せる。

「物として? それとも、契約全体?」

「え、そんな違うの?」

「違う」

「じゃあ、物としてでいい。家とかヨットとか?」

九条は目線を遠くにやって、少しだけ口角を上げた。

「家は“資産”だ。買い物というより、投資になる」

「うわー出た、富豪の言い方……」

「買い物としてなら……たぶん、腕時計か、車」

「車って何台くらい持ってるの?」

「4台。どれもあまり運転はしない」

「運転しないのに4台……」

「乗るために所有してるわけじゃない。迎えに来てもらうためにある」

「ほんとに…生きてる世界が違うんだなあ。…契約全体ってなに?」

九条は、ためらわず答える。

「年間スポンサー契約。ある企業との契約は、3年で総額十数億。ボーナス込みならもう少し上がる。物じゃなく、“俺”に支払われる金額だから、“買い物”とは違うがな」

「…………そっか。“自分”が売れてるってことか」

「売ってるつもりはない。“使われる”条件を交渉してるだけだ」

「あるスポンサーとの3年契約。ボーナス込みで十数億。俺が“買う”んじゃなく、“俺”が使われる条件で金が動く」

澪はしばらく黙って、それから苦笑いした。

「……そっか。そういう世界か……」

九条は肩をすくめた。

「お前も四億のヨットを売った女だろう。金額に驚くな」

「いやでも、それは会社の物であって、私は代理で売っただけで……でも確かにそう言われると何も言えない……」

「金額の問題じゃない。どれだけの価値があるかを判断できるかどうかだ」

その言葉に、澪は思わず口を閉じた。

確かに、彼の選ぶ服のすべてがそうだった。ただ高ければいいわけじゃない。完璧なフィット感、仕立て、手入れ、すべてに彼は価値を見ていた。

「その世界で生きてたら、私は……安いか……」

ぽつりと澪が言った。

自分の口から出た言葉にすぐ後悔したけど、それでも思ってしまったのだ。

食料品の買い物が三万円を超えただけで「ごめんね、奢ってもらってばっかで」なんて謝ってしまうような女が、億単位の契約を動かす男の隣にいていいのかと。

一瞬の沈黙の後、九条の声が鋭く落ちた。

「俺はお前のことを“安い”なんて見てない。──二度と言うな」

思いがけず強い語調だった。

「……そんな怒らなくても……」

澪は思わず目を伏せる。

本気で怒られたのが分かって、しゅんとしてしまう。

でも九条は容赦なく続けた。

「お前に値段はつかない。俺が何億積もうが、お前は離れるときは離れるし、金を積まれたからといって相手を好きになる女でもない」

澪は何も言えず、黙って頷く。

「自分の収入で生活できるから、金銭問題で苦しくなるくらいなら断って一人で生きていく──そういう女だ」

「……うん」

「なら全然安くない。いくら積もうが、手に入らないときは入らない。それは“高い”ってことだ」

「……だって、お金でモラハラされて逃げられなくなったら嫌だもん……」

澪がぽつりと呟いた声には、冗談めいたトーンと、本音が少しだけ混じっていた。

九条の視線が鋭く向けられる。

「俺は、知らずにお前の機嫌を損ねることのほうがリスクだと考える」

その一言に、澪は「え?」と目を瞬いた。

「お前は金で機嫌を直す女じゃない。──むしろ、怒るだろう」

「……馬鹿にしないでって、なる」

澪はしゅんとしながらでも、自分の主張はする。

言うべき事は言う。黙らない。黙らせようとする圧力に対して立ち向かっていく。

「どこが安い女だ」

その言葉は、突き放すようで、優しさを含んでいた。

何億という契約や、大会賞金、スポンサー料を動かす男が、こんな風に言ってくれることが、なんだか信じられないような、不思議な安心感をくれる。

「なんか、泣きそうだからどうでもいい話しよ。笑えるやつ。人生で覚えてる変な出来事とかある?」

澪がぐいっと話題を変えようとしたのを見て、九条はほんの少し、眉を上げた。

「変な出来事?」

「うん。昔の失敗でも、恥ずかしいことでも、なんでもいい。……あ、でもそれ言いたくないやつだったら言わなくていいけど」

九条は少し考え込む素振りをしてから、静かに口を開く。

「……デビュー戦の時、コートに入ってすぐラケット落としたことがある。観客の前で。足に当たって、転がって、拾う間すごく静かだった」

「……うそでしょ。世界ランク1位の黒歴史、わりと地味め! でも想像すると地味に恥ずかしい!」

「無言で拾った。誰も笑わなかった。空気が死んでた」

「それ一番きついやつ! 誰も突っ込まないのが余計つらい!せめて笑ってほしい!!」

澪が吹き出して笑うと、九条はほんの少しだけ、目元を緩めた。

「ほら、笑った」

「うん、ありがと。……でも、そういうのあるんだね。ていうか、そういうの教えてくれるのが一番泣けるっていうか……やめよう、また泣きそうになる」

「お前、忙しいな」

「そっちのせいでしょ!」

「あとあれだ」

「なに?」

「最近、変な女に出会った」

澪は目を細めた。急に出てきたその話題に、少しだけ不穏な空気を察知する。

「……どんな女?」

「よく笑うし、食べることばかり考えてる。……そうかと思えば、初対面で睨み付けてきたな。感情がすぐ顔に出る」

澪の口元が、わずかに引きつる。

「……ふぅん」

「子供っぽいのに、変に大人じみている時もある。馬鹿なのか賢いのか全く分からない。……理解不能な生き物だ」

「……ねえ、それ誰のこと言ってんの!」

ようやく気づいて身を乗り出す澪に、九条は視線を外しもせず、淡々とした口調で返す。

「でも、好きだ」

唐突に、それでも不思議なくらい自然に落とされた言葉に、澪の呼吸が一瞬止まった。

そのタイミングでテーラーの老紳士がやってきて、澪はさりげなく後ろを向いた。

顔を見られないように。

ランチへ

ヘンリープールの店を出て、待機していた車に乗り込んだ。

「お腹空いた。ランチ行こうよ」

「…どれがいい?何が食べたい」

九条がスマホを取り出して、近隣のレストラン候補をいくつか表示する。

The Wolseley、少し歩くけど格式ある店。Cecconi’sはイタリアン。Jermyn St.のブリティッシュもある。軽く済ませるならPret

「……どれも美味しそうで選べない…!」

「だから聞いてる」

「悩む!優柔不断だから、“行きたくないのはどれ”って聞いてくれた方が選びやすい…」

「全部許容範囲だろう?」

「正論やめて」

澪は画面を覗き込みながら、じっ…と考え込む。

「チーズの香り…捨てがたい…」

「イタリアンか?」

「うん!チーズとパスタ食べたい!お腹空いた!」

「…ほら、食べることばかり考えてる」

「余計なこと言わないの!」

「お昼はイタリアン、夜はローストビーフ食べたい。で、アフタヌーンティーにスコーン食べたい」

「……」

九条は一瞬だけ彼女の顔を見たが、何も言わずにスマホをしまった。

「え、何その間。なんか言ってよ」

「何も言わない。もう慣れた。欲望に忠実すぎる胃袋に、突っ込んだところで無駄だと学んだ」

「それ、褒めてる?」

「…賞賛ではないが、尊敬はしてる」

「言っとくけど雅臣さん、私の何倍も食べてるからね!?」

「その分、消費してるが?」

「ぐ……」

明らかに分が悪い。澪は口をへの字にして黙り込む。

「基礎代謝が違う」

「知ってる…アスリートってすごいって話だよね……」

「遠慮せず食え。気にするな。お前の胃袋の忠誠心は疑っていない」

「いや褒めてないでしょそれ!!」

車内、静かなクラシックが流れる中。絶え間なく言い合いをする二人。

「雅臣さんが美味しいものばっかり提供してくるのが悪い」

「そういうのを責任転嫁という」

「違う、あれは誘惑。罠。抗えない罪深さ」

「罪の自覚はあるんだな」

「そりゃ私だって体重とか体脂肪とか気にしてるし…でも、美味しいもの出されたら無理じゃん…」

「気にしてるわりには、今“ランチ・アフタヌーンティー・ディナー”まで予定入ってるが」

「量は控えめにするつもりです」

「そうなるといいな」

「全然信用してないじゃん!」

その瞬間、運転席の氷川が「ゴホッ」と突然咳き込んだ。

「……風邪ですか?」

「いや、すみません。花粉ですね、たぶん……」

後部座席からの会話を聞いて、耐え切れなくて思わず笑いそうになったのをごまかしたのがバレバレだ。

澪は「ふっ」と笑いを噛み殺し、九条はと言えば、何事もなかったような顔で窓の外を見ている。

「ねえ、氷川さん、ちょっと同情してくれました?」

「いえ、とんでもない。あくまで運転に集中しておりますので」

「うっそだー、絶対ちょっと笑いかけたでしょ」

「……花粉のせいです」

氷川は意外と嘘が下手だ。クールそうに見えて、根が正直だ。

「私いつも雅臣さんにいじめられてるんです!」

後部座席から澪が突然の訴えを始めた。

「人聞きが悪い」

「悪くない!めっちゃパワハラだし!」

「その分の対価は払ってる」

「うわ、お金出せば何しても良いと思ってる人の考えだー!」

まるで鬼の首を取ったように澪が指を差す。言ってやったという顔で、得意げだ。

運転席の氷川が「ゴホッ」とまた咳き込みながらも、淡々と返す。

「私は今の待遇に満足しております」

「えっ!あ!上司についた!」

「当然の結果だな」

「ムカつくからドヤらないで!!」

そんなやり取りを後部座席で繰り広げながら、車はロンドンの石畳を静かに走り抜けていく。

Cecconi’s

 

Cecconi’sの重厚なドアが開くと、上質な木の香りと、オープンキッチンから漂うチーズと焼きたてパンの匂いが迎えてくれた。

 クラシックな北イタリアの空間に、緊張と高揚を同時に感じながら、澪はメニューを開く。すぐに目が輝いた。

「ピザとパスタとサラダも食べたい……」

 一拍置いて、眉を寄せる。

「……待って、もしかして量すごい?」

 九条はワインリストを見ながら顔を上げずに答える。

「一皿がそれなりにある。イギリス基準だ。お前の胃袋が日本モードなら止めておけ」

「うわ、出た“世界基準”。でもさ、こういうのってシェアすればよくない?ピザ半分こして、サラダ一緒に食べて、パスタはそれぞれ頼めば……」

 澪が計画的に説明しようとするその横で、九条は静かにメニューを閉じた。

「好きなものをほどほどに頼め」

「いやいやいや、そういうこと言われると注文のハードルが上がるの!そもそもピザだけでお腹いっぱいになる可能性あるし…パスタも3種類ぐらい試したいけど…(悩)」

 澪はピザとパスタとサラダの組み合わせを悩みながら、ふと九条の方を見た。

「でも雅臣さん、いっぱい食べるよね?いつも5食とか食べるんでしょ?」

 ワインリストを読み終えた九条が、グラスの水を一口飲んで淡々と答える。

「練習がある日はな」

「あ、そっか」

澪がメニューを見て目を輝かせた。

「ロブスターのパスタ食べたい!あと、窯焼きのピザも気になる……氷川さんと藤代さんも一緒にシェアしよー?そしたらいろんな種類食べれる!」

 まるで修学旅行の夕飯かという勢いで提案する澪に、九条はワインリストを閉じながら静かにひと言。

「……昼だぞ」

「いいじゃん、ランチだし!昼に食べたら太らないって言うし」

「それは嘘だな」

「えー……」

 軽くむくれながらも、澪の目はメニューに戻る。

「ピザはマルゲリータと…クワトロフォルマッジも気になる。あと、シャンテレール茸とトリュフのアニョロッティって絶対美味しいやつだと思う」

「デザートも決めてるのか?」

「うん。ティラミスと……あとカプチーノ!」

「完全に決定してるじゃないか」

 氷川が控えめに笑いながら、「私は何でも大丈夫ですよ」と言い、藤代も「私も好き嫌いないので、シェアいいですね」と同意した。

 注文を終えて、料理が来るまでのあいだ、澪はテーブルを軽く指でトントンしながらぼそっと言う。

「あ、待った。アフタヌーンティー行きたいから、デザートやめとく。そっちで美味しいミルクティー飲みたいし。雅臣さん、そっちのお店も選定してね」

 メニューを下ろして、当然のように九条に投げる澪。その様子を見て、氷川と藤代は顔を見合わせる。

(世界ランク1位を、ここまで自然に使いっ走りみたいにできる人間が、世界に何人いるんだろうか……)

 そう思いながらも、二人とも何も言わない。言えないというより、慣れた。

 九条も特に異を唱えることなく、ただ水を一口飲んで、

「……わかった」

 とだけ応じた。

「お昼からワイン飲むの?」

「付き合い程度なら」

「一応社交の概念あったんだ…」

「おい」

「てっきり『ワインは熟成10年以上、自宅のセラーからしか出しません』とか言うのかと」

「その通りだが」

「うわ言ったー!」

「お前、俺がどこで買ってるか知らないだろう?」

「……知らないけど、なんかすごい店なんでしょ?」

「生産者から直接だ」

「でた、出所から選ぶ男。ワインって温度で酵母が死ぬもんね。お店で頼むと運んでくる工程とか、保存状態わからないし」

澪、意外と詳しい。

「飲まないのになぜ知ってる」

「へへへー知識はあるんです。知識は」

「うんちく垂れるだけで、口にしないのはただの評論家だぞ」

「えっ……それはちょっと痛い……」

「俺は口にしてから語る。だから選ぶ」

「CMみたいなセリフ言ってる」

「事実だ」

「お酒弱いソムリエとか、飲み込まないでワインでうがいするんでしょ?さすがに口に入れて出すのは無理だしなぁ。行儀の悪さに耐えられない」

「お前、本当に無駄に詳しいな」

「無駄って言わないで」

「じゃあ何に使うんだ、その情報」

「…知識のトーク聞いてるの好きなの。通勤のときずっとイヤホンして聞いてると自然と入ってくるの。でもお酒弱いから飲んでないの」

「学ぶ意欲が高いことは褒めてやろう」

「うわめっちゃ上から言われた」

「事実を述べただけだが?」

「そうやって真顔で言うと、余計に上からに聞こえるのよ…」

「なら日本に戻ったら飲ませてやる」

「私あんまり飲めないのに勿体なくない?」

「開栓せずに飲める専用の道具がある」

「あ、それ知ってる。コルクに針で穴開ける機械」

「お前本当に無駄知識が多いな」

「無駄って言うな!」

澪が勢いよくツッコんでる間に、スタッフが音もなく料理を運んでくる。フライドカラマリとピザの香ばしい匂いに、会話がすっと止まる。

「……あ、美味しそう」

「やっと黙ったな」

「うるさい。ピザ食べよ。これ以上喋るとまた変なこと言われそうだし」

ピザの香ばしい匂いがテーブルに広がると、澪はぱっと顔を輝かせて「いただきます!」とフォークを取った。

その横で、九条は何やらまだ突っ込む気満々の顔をしているが、澪の食欲には勝てずに一言。

「……早い」

「だってお腹すいたんだもん!」

2人のやり取りに、聞こえてきそうで聞こえてこないくらいの、氷川の小さな咳払い。

(……この人、こんなに喋る人だったか?)

声に出さないまま、目線だけで藤代と一瞬アイコンタクトを取る。

藤代は無表情だが、目の奥で「俺も思ってた」と言っているように見えた。

(ていうか、ちょいちょい笑いそうになるんだよな……)

氷川は目線だけで笑いを堪え、真顔を保つために水を飲んで落ち着かせる。

だがその背中は微妙に震えていた。

料理が運ばれ、テーブルにピザとロブスターのパスタ、カラマリ、サラダが並ぶ頃には、澪と九条の“やや喧嘩腰な漫才”もひと段落していた。

氷川はグラスに手を伸ばしながら、ふと目線を落とす。

藤代もフォークを持ちながら、九条の隣で微かに眉を上げた。

――綾瀬澪、恐るべし。

心の声は、ふたりともまったく同じだった。

プロの世界で10年以上、常に“静寂”と“制御”の中にいた男が、今、目の前で喋っている。

笑っている。

ツッコまれて、返している。

目が合わない程度に視線を交わした氷川と藤代は、同じ沈黙の中で同じ答えにたどり着いた。

澪が何者なのかはわからないが――

九条雅臣という男の“通常運転”を軽々と変えてしまう女だということだけは、はっきりしていた。

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URB製作室

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