アフタヌーンティー予約
「いいからアフタヌーンティーのお店探して」
フォークをくるくる回しながら、澪はパスタを口に運ぶ。
そのスピードはわりと本気の空腹。
「予約が埋まるから当日は無理だ」
「それ、雅臣さんが行きたい“格式高いところ”だからでしょ?」
「そうでなければ行く意味がない」
「出たよ、貴族体質」
パンをちぎりながら、澪がむっとした顔で睨んだ。
そうは言っても――
九条がスマホを差し出して、近隣の店のリストを静かに見せる。
澪の目が、一瞬で輝いた。
「うそっ、かわいいー!」
画面の写真にかじりつく勢いで前のめりになる。
「この3段重なってるお皿のやつ、憧れー!可愛いー!」
写真には、いかにもアフタヌーンティーらしいセット。
銀のスタンドに、小ぶりなサンドイッチ、スコーン、小さなケーキ。
どれも食べられる量じゃないのに、並んでいるだけで幸せなやつ。
「チェーン店でこれは無理だ。予約必須だ」
「ぐぬぬ……これは確かに捨てがたい可愛さ……」
「見た目でなく、味と伝統で選べ」
「伝統はどっちでも良いです。美味しさとテンションが上です」
九条がなにか言いかけて、結局、無言でグラスの水を口に運ぶ。
「……何にせよ、このレベルを求めるなら、今回は諦めろ」
九条がスマホを閉じる。
「来週また来る。その時に使えるかどうか、確認する」
さも当然のように言ったその言葉に、澪はフォークを止めた。
こういうハイブランド系の店の予約や調整は、いつもマネージャーである氷川の仕事だ。
だからこそ、氷川が静かに口を開いたとき、ちょっとだけ意外だった。
「これは提案ですが」
一瞬の間を置いて、彼は続けた。
「九条さんが自ら連絡すれば、無理が通る可能性があります」
九条雅臣。
テニスの世界ランク1位。
ウィンブルドン優勝経験ありどころか、「芝の申し子」とも称される男。
静かで礼儀正しいその姿勢は、格式を重んじる芝の聖地・ウィンブルドンと相性が良かった。
その“品格ある勝者”という印象は、世界中の大会主催者や関係者に静かな敬意を持って受け止められている。
つまり、この国の“ティーサロンの予約枠”が、動く可能性はある。
「じゃあお願いしていいですか!」
パスタをひとくち飲み込んだ澪が、目を輝かせて九条を見る。目が懇願している。
九条は一瞬だけ目線をそらし、低く答えた。
「……そういうのは、あまり好まない」
立場を傘に着て我儘を通す――
九条雅臣は、そういった類の行動を、好まない。
伝統や格式、一流を好むのは事実だ。
だがそれは、**“自分自身もまた、それに相応しくあるべき”**という意識の裏返しだった。
著名人だから貸切にしろとか、予約枠を空けろとか。
そんな“場をねじ曲げて得る特別扱い”は、彼の美意識に反する。
利用したい店があれば、氷川が事前に予約を入れる。
“特別扱い”を求めるのではなく、“特別扱いされるに足る準備”をする――
それが九条のスタンスだった。
今回のイギリス旅行での、ヘンリープールへの急な執事服の仕立ても、本来の九条からすればかなりのイレギュラーだ。
もちろん、それに見合うだけの費用は支払っている。
だが、**「金さえ出せば、通るだろう」**という発想は、彼にはない。
だからこそ。
アフタヌーンティーを嗜みたいからといって、ティーサロンの予約枠を空けろ、とは――
言いたくなかった。
九条はわずかに息を吐いて、言葉を絞る。
「……念のため、確認だけしてみる。だが空いてなければ、諦めろ」
「わかりました!」
澪は、ぱっと顔を明るくする。
「雅臣さん、どのお店が良い?」
「お前が食べたいんだから、お前が選べ」
ちょっと考えてから、澪がスマホをスクロールしながら呟く。
「……じゃあ、ここが良い。フォートナム……アンド……メイソン?メゾン?」
横で見ていた九条が、淡々と訂正する。
「メイソンだ」
「お皿とカップが可愛い!ここが良い!」
「これは提案だが、宿泊するホテルThe Savoyにもアフタヌーンティーの店はある。そこにすれば、ホテル内で動きが完結する」
澪はあまり外出や、人が多い場所を好まない。移動や、対人関係、光や音の刺激に強くなく、疲れやすい気質だ。
それを、この短期間の関わりの中で九条は理解していた。
「じゃ、じゃあそうします…」
「分かった」
九条がスマートフォンを耳に当て、英語で丁寧に予約の確認を入れる。
落ち着いたトーンで、希望日を伝える。
案の定、“予約は埋まっている”という返答――の直後。
なにかが伝わったらしく、担当が別の人物に代わる。
沈黙。
数分後、スマホを置いた九条が淡々と告げる。
「店に確認した。通常の予約は満席だが、一般客とは別の枠でなら席を用意できるらしい」
「え、それって……」
驚く澪に、九条は目線も逸らさず答える。
「空いていた。どうするかは、お前が決めろ」
「…………なんでそんな枠があるの」
「そういう運用をしているだけだ。誰かの予約を奪ったわけではない」
「……………予約って、もっと平等なものだと思ってた」
「世界は平等である必要はない。だが、誰かを犠牲にしていないなら、選ぶことはできる」
その言葉に、澪はしばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
「……じゃあ、15日。行ってみたい」
「了解した」
九条はそれだけを言い、再びスマートフォンを操作し始めた。
彼の指先の動きは、変わらず無駄がない。
けれど今は、それが少しだけ、優しく見えた。
年齢に逆らう
ランチを終えて、ふたりはテーブルに残ったティーカップを前に、しばらく静かに座っていた。
澪が先に口を開いた。
「……このあと、どうする?」
「お前はどうしたい?」
「うーん……早めに日本戻ったら、出勤できるかなって思ってたんだけど」
九条がカップを置いて、少しだけ眉を動かした。
「やめておけ」
「……え?」
「慣れない海外旅行な上に、このスケジュールで動いてる。体調を崩すのが目に見えてる」
澪は返す言葉に詰まり、黙ったままカップの縁を指先でなぞる。
日本からロンドンまで、約12時間。
片道移動だけで、身体の感覚はぐちゃぐちゃだった。
時差のせいで、到着時には眠気と頭痛でふらふらで――
正直、空港からホテルまでタクシーで寝落ちしかけたくらい。
「……でも、週末に出るって言っちゃってて……」
「休め」
静かに、だが、断言するような口調だった。
「休まなければ倒れる。倒れれば、もっと迷惑がかかる」
「……う」
図星だった。
(そうなんだよね……本当に、そう)
わかってる。
でも、言い出せない。周囲に迷惑をかけたくない。
いつもそうやって頑張ってきた。でも――
九条がちらりと視線を向けて、淡々と続ける。
「自分を軽んじるな。誰に何を言われたとしても、身体は取り替えが利かない。自分を守れ。……それが、“本当に迷惑をかけない”ということだ」
静かに響くその言葉に、澪は視線を伏せた。
コーヒースプーンの先が、ソーサーの上でカチ、と音を立てた。
「……はい」
それだけ答えて、小さくうなずいた。
「ホテルは二泊分、押さえてある」
九条は時計をちらりと見てから言った。
「一度部屋に戻るか? 夜には日本に向けて発つことになる」
「うーん……」
澪は椅子にもたれかかって、小さく伸びをした。
「せっかくイギリス来てるのに、なんか……もったいない気がする」
「また来週には来る」
すかさず返ってくる。
「今無理をしたら、来週もっときついぞ」
「う……」
確かに。
今はアドレナリンで動いてるけど、たぶん飛行機に乗った瞬間、電池が切れるやつ。
それでまた月曜からフルタイムで働いて、金曜にまた渡英……なんて、持つわけがない。
「……体力は、気力じゃカバーできないってこと、最近よくわかってきた」
「気付いたなら、実践しろ」
「はーい……」
返事だけは元気よくして、澪はふっと笑った。
「まあ、私たちそんな若くないもんねー」
澪は何気なく言いながら、ストレッチするように背中を伸ばす。
「10代や二十歳そこそこの若者じゃあるまいし……」
「……おい」
その一言に、澪の動きがぴたっと止まった。
「え、今のアウト?」
「私“たち”と言ったな」
「……言ったね」
九条はゆっくり立ち上がって、無言のままコートを取る。
その背中に、澪は慌てて続けた。
「ち、ちがうの!えっと、そういう意味じゃなくて!“この旅程には無理があるよね〜”って話で!」
「俺は、お前より年上だが?」
「そ、そうですよね!! えーと、尊敬してます……いつまでも若々しくて……?」
九条が一瞬だけ立ち止まり、ゆっくり振り返る。
目が笑っていない。
「フォローになっていない」
「……っすよねー!!いや全然!全然、実年齢より若く見えます!!」
澪は慌てて手を振りながら叫ぶ。
「実際そこらへんの若い子より鍛えてると思います!肌も綺麗です!」
言いながら、自分でも“どんだけテンパってんの…”とわかるレベルで早口だった。
九条は、そんな澪を見下ろしながら、ほんの一拍だけ間を置いて答える。
「……当然だ」
ドヤ顔すら見せず、まるで呼吸のように言い切った。
そして、追い討ちのようにもう一言。
「若いだけで自堕落に生きてる人間と一緒にするな」
「そうだけど……言い方よ」
思わずツッコミを入れた澪の声が、店内の空気をほんの少し柔らかくした。
「戻るぞ」
「はぁい……」
澪は小さくため息をついた。
なんとなく“遊び足りない子ども”みたいな顔になってる自覚はある。
とはいえ、反論できる雰囲気でもないので、トボトボと九条の後をついていく。
ホテルへ戻る
レストランの外では、氷川がすでに会計を済ませて待機していた。
どこまでも動きがスムーズ。
移動の段取りはすべて把握済み。タイミングも完璧だった。
店を出ると、藤代がさりげなく澪の背後に回る。
何も言わないけれど、しっかり“守っている”ことが伝わる位置取りだった。
車は、氷川の運転する黒の車。
チーム九条の定番とも言える移動スタイル。
乗り込んだあとの車内は静かで、窓の外にはロンドンの石畳の街並みが流れていく。
澪はなんとなくコートの襟をつかんだまま、九条の隣で小さく丸くなっていた。
(……もうちょっと歩きたかったけどなぁ)
ホテルに着くと、エントランスで九条が氷川にひとこと。
「迎えは夕方でいい」
「かしこまりました」
氷川が短く答え、車を離れていく。
そのまま九条と澪がエレベーターに乗り、藤代は無言で後ろに立った。
部屋の前まで来ると、九条がカードキーをタップする。
「中で休め」
その声に従って、澪は部屋へと入っていく。
扉が閉まる直前、藤代と一瞬だけ目が合った気がした。
(……なんでこの人、いつも無言なのにちゃんとわかってるんだろ)
そんなことを思いながら、澪はゆっくりと室内に足を踏み入れた。
外出していた間に、部屋はきれいに整えられていた。
テーブルの上のグラスは新しくなり、タオル類もきちんと畳まれている。
ホテルスタッフの手による完璧な空間――まるで何もなかったような、無音の整頓。
澪はコートを脱いで、ソファにどさっと座り込んだ。
「ふぅ……」
カーテン越しに入るやわらかい光が、視界を少しだけぼやかす。
そのまま動かずにいると、後ろから九条の声が落ちてきた。
「ベッドを使いたかったら使っていい」
「え、だって……せっかくシーツ交換してくれてるのに」
澪は顔を上げて振り返る。
「仮眠のためにクシャクシャにするのも、なんか申し訳なくて」
「帰りもフライト時間が長い。時差もある。休むなら今のうちだ」
「う……」
確かに。
どれだけ高級なプライベートジェットでも、移動時間が劇的に短縮されるわけじゃない。
気圧も気温も、身体への負荷は消えてくれない。
「お前は体力がない。余裕があるくらいの体調にしておけ」
「……あなたが体力モンスターなんだってば」
澪がぼやくと、九条はソファの肘掛けに手をかけて、無言のまま横を通り過ぎた。
彼の動きには疲れの気配がまるでない。
(あんなのと比べられたら誰だって劣等生だよ……)
心の中でそう付け加えながら、澪はそっとソファから立ち上がった。
ベッドルームの方を見やり、小さくつぶやく。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
まるで誰かに許可を取るように。
自分に言い聞かせるように。
そうして彼女は、ゆっくりとベッドルームに向かった。
ベッドの端に腰を下ろしたまま、澪はふと後ろを振り返る。
「ねえ、部屋に戻ったのって……気遣い?」
九条はすぐには答えなかった。
ソファの脇でジャケットを外しながら、ちらりと澪を一瞥する。
「もしかして……2人になりたかったりする?」
ほんの冗談のつもりだったけれど、返ってきたのは真顔のままの一言だった。
「……静かな空間には、戻りたかった」
それを聞いて、澪はくすっと笑う。
「人がいっぱいいるとこ、苦手そうだもんね」
「そうだな」
あっさりと肯定されて、ちょっと拍子抜けする。
澪はベッドに片肘をついて、ごろりと体を横にする。
「……アフタヌーンティー、無理して予約してない?」
天井を見ながら聞いたその言葉には、わずかな遠慮がにじんでいた。
けれど九条は、それにも変わらぬトーンで答える。
「それはない。気を使わなくていい。……寝ろ」
「……はーい」
毛布を引き寄せてベッドに潜り込んだ澪は、最初は仰向けで目を開けていた。
でも数分後には、横向きに丸くなって、まぶたがゆっくりと閉じていく。
外はロンドンの午後。
曇りがちな空からは、白く柔らかい光がカーテン越しに差し込んでいた。
九条は、部屋のソファに腰を下ろして書類をめくっていた。
音を立てることはせず、ただ静かに、時間を潰すようにページを送る。
数ページめくったあたりで、ベッドの方から微かな寝息が聞こえた。
目を上げると、澪はすでに寝ていた。
しっかり毛布に包まれた姿。
髪が少し乱れて、枕にしっとり落ちている。
目元には少し疲れの名残があるけれど、眠っている顔は穏やかだった。
九条は本を閉じ、静かに立ち上がる。
カーテンの隙間から光が入りすぎないよう、
片側のレースをそっと引いた。
時計を見て、フライトまでの時間を確認する。
問題ない。
このままあと一時間は、寝かせておける。
ソファに戻って腰を下ろし、九条は何も言わずに視線をベッドに向けた。
そのまま静かに、微動だにせず、ただ――
その寝顔を見ていた。
(……本当に、すぐ無理をする)
思うだけで、声には出さない。
彼女が起きたときには、きっと何事もなかったように「よく寝た」と言うのだろう。
そしてまた、何かを“我慢しながら”笑うに違いない。
だが今は――
ただ眠らせておけばいい。
守る理由も、説明も、いらない。
静寂が、部屋を満たしていた。
そろそろ飛行機へ
時計の針が夕方を示し始めた頃、九条はそっと立ち上がった。
カーテン越しの光はゆるやかに傾き、部屋の中には橙がかった影が落ちている。
ベッドでは、澪がまだ眠っていた。
呼吸は深く、整っている。
無防備に仰向けになって、毛布の端を片手でぎゅっと掴んでいる。
「……澪」
小さく名前を呼んでみる。
反応はない。
もう一度、今度は少し声を張って。
「起きろ。そろそろ時間だ」
ほんの少しだけ、まぶたが動いたような気がした。
けれど、次の瞬間にはまた深い寝息に戻っていた。
どう見ても、完全に本気で寝ている。
九条は、ベッドの脇に腰を下ろし、腕時計に目をやる。
そのまま、静かに、淡々と――
言葉だけを落とした。
「……車で寝ていい。そのまま機内で寝ろ」
返事は、もちろん返ってこない。
それでも彼は、それ以上は何も言わず、ただ立ち上がった。
スーツケースの位置を確認し、タブレットでフライト情報を開きながら、
ふと、もう一度だけベッドを振り返る。
(よく眠っている)
その事実だけを確認して、
九条は淡々と荷物の最終確認に戻った。
出発はもうすぐだ。
「……ん、……え?」
目を開けたとき、澪は最初、自分がどこにいるのかわからなかった。
毛布はかかってる。
でもベッドじゃない。シート。揺れてる。暗い。
空調の音がして、ほんのり香水と革の匂い。
(……車?)
ぼんやりと顔を上げると、見覚えのある横顔が隣にあった。
「え、ちょ、ちょっと待って……」
慌てて体を起こすと、九条がちらりと目線だけ動かした。
「起きたか」
「……空港?え、もう着いてる?ていうか何時!?」
「そろそろ搭乗だ。荷物は済んでいる」
「……うそでしょ……」
頭を押さえながら、澪はぽつりと呟いた。
「どんだけ爆睡してんの私……」
記憶は、ソファに座ったあたりで途切れてる。
確か一度起こされたような気はする。
でもそのあとの記憶が完全にない。
身支度も移動も――何も覚えてない。
「……服とかどうしたの……?」
「着ていた服のままでいい。誰も見ていない」
「……完全にVIP仕様……」
情けないやらありがたいやらで、もう言葉が出なかった。
でも、ふと気づく。
荷物も、パスポートも、上着も――すべて整っている。
自分が寝てる間に、全部。
(……完全に、お姫様扱いなんですけど)
そう思ったけれど、口には出さなかった。
たぶん、出したら怒られる。
それでもどこか、悪くない気分だった。
「私……」
澪は座席に浅く腰かけ直して、恐る恐る尋ねる。
「……どうやってここまで運ばれたの……?」
なんとなく、想像はつく。
でも、想像したくはなかった。
九条は一瞬だけ間を置いて、あっさりと答える。
「……そんなに重くなかった」
「やめてーー!!」
思わず顔を覆って絶叫する澪。
「恥ずかしさで死ぬーー!!」
シートに背中を打ちつけてのたうち回るようなリアクションに、
九条は少しだけ、口元の筋肉を緩めた気がする――が、たぶん気のせいだ。
「ちゃんと歩けてた記憶ないんだけど!?どこから!?」
「ホテルの部屋から。車まで。そのまま空港のファストレーン。問題なかった」
「問題大アリだから!私的には!!」
澪は床に埋まりたい気持ちで、シートの端に丸くなった。
「絶対スーツケースか何かの上に載せて運んだでしょ……」
「しない」
「しないで担いだの!?なおさら恥ずかしいんだけど!!」
九条はそれ以上なにも言わなかった。
だが、その沈黙が何より雄弁だった。
(まさか……本当に、抱えて運ばれた……?)
ぎゅっと毛布にくるまる澪。
(お願いだから……映像とか残ってませんように……)
「てか……」
もごもごしながら毛布の中から声が漏れる。
「……あの、車の中……寝てたのはうっすら覚えてるんだけど……」
「……」
「私、がっつり……あなたの肩、使って寝てました?」
九条はわずかに目線を動かし、しかし声色は変えない。
「起こしても無駄だった」
「うわーーーーーー!!」
澪は毛布を完全にかぶって丸くなる。
「お願いだから忘れて……それか記憶から消して……」
「無理だ。現実だ」
「ひぃぃぃ……!!」
澪のうめき声が、機内の静かな空間に小さく響く。
隣で九条は、なにも言わず、
ただ少しだけ姿勢を正してから、
静かにシートベルトを締めた。
(……あれ、まさかこの人、気にしてなかったの?)
でもたぶん――
ちょっとは気にしてる。
だって、あのとき、肩を動かさなかった。
⸻
澪はプライベートジェットのふかふかのシートの上で体勢を整えた。
フットレストはもういい感じに上がってて、膝には薄手のカシミアの膝掛け。
シート横のリクライニングボタンをそっと押して、半分だけ倒す。
前のテーブルには、白いリネンのクロスが敷かれていた。
飛行機の中とは思えない、静かな食事空間。
テーブルセッティングは完璧。
前菜のプレートが運ばれてくるたび、まるで高級レストラン。
「……もう……何この空間……すご……」
目の奥はまだ半分眠ってるのに、
食事だけは絶対に逃したくないという謎の本能で、澪は頑張ってフォークを握る。
隣では、九条が黙々とナイフを動かしていた。
一切無駄のない、静かな所作。
揺れもしない。
(なんで……飛行機の中でもホテルのディナーみたいに食べられるの……)
澪は目の端でチラチラと九条の皿を盗み見ながら、
自分のメインディッシュにナイフを入れた。
柔らかい。
やばい。
美味しい。
「……寝なくてよかった……」
寝ぼけたまま、心からそう思った。
ただ、数分後。
デザートの頃には、ナイフとフォークを握ったまま、
澪の動きがゆっくり止まり始める。
「……これはもう、限界との戦い……」
隣で九条がちらりと視線を動かす。
「無理に完食するな。寝ろ」
「やだ。これ全部食べる……」
「記憶に残らないなら意味がない」
「……せめてこのチョコだけ……」
澪は気合を入れて一口だけ頬張り、
そのまま目を閉じた。
しあわせそうな顔で、口をもぐもぐしながら――
寝た。
「……食べて寝たら虫歯になるぞ」
九条が水をひと口飲みながら、澪に目もやらずに言った。
「どんだけ子供だと思われてんの私……」
澪は半目で反論する。
「精神年齢5歳だろ」
「ひどくない!? せめて10歳にして!」
「10歳は寝ながらチョコを口に入れたりしない」
「う……っ」
反論しきれず、チョコのひと口を恨めしそうに見つめたまま、
澪はふにゃりとシートに沈んでいく。
「……ちゃんと歯、磨くもん……」
そのつぶやきが聞こえたかどうか、
九条は黙って毛布を引き寄せ、彼女の膝元にそっとかけ直した。
「……5歳児でも、虫歯はできるからな」
「うるさい……もう寝る……」
ぷいっと顔を背けて、背もたれを倒して、そのまま夢の中へ。
日本到着
機内は静かに巡航中――
片側のシートだけ、やけに穏やかで温かい空気に包まれていた。
飛行機が地上に降り立つ少し前。
シートベルト着用サインが点灯し、機内の照明が落ち着いた色に変わる。
澪は、毛布にくるまれたまま、目をぱちぱち開けた。
「……んー……あれ、着いた?」
「もうすぐだ。起きろ」
九条の声に、ゆっくりと体を起こす澪。
髪はふわふわ、まぶたは半分閉じたまま、まるで寝起きの猫。
「……ふわぁ……」
ふわっと伸びをして、シートの背にもたれかかる。
「でも……しっかり寝たから、行きより元気かも」
その口調はまだふにゃふにゃしているのに、
言ってることは妙に前向きで、ちょっと笑える。
「食べたしな」
九条があっさり返す。
「そっち!?」
「寝ただけでは回復しない。栄養がいる」
「なんかその言い方、スポーツ医学っぽい……」
「事実だ」
「はいはい、さすがです〜……」
ふわふわしたまま、毛布を抱えて立ち上がろうとする澪を、
九条が無言で支える。
「おっと……ありがと……」
「ちゃんと立て。転ぶ」
「そんな子供じゃないです」
でも、さっきよりはちゃんと歩ける。
たぶんほんとに、行きより元気。
まだ朝の光が淡く残る、日本の空。
帰宅
プライベートジェットが無事着陸し、澪と九条はそのまま静かに専用車へ乗り込んだ。
空港に預けてあった黒のレクサスがすでに待機しており、氷川がドアを開ける。
車内では、九条が無言でスマホを確認している横で、
澪が窓の外を見ながらぼんやりとつぶやく。
「……なんか、まだ夢の中にいるみたい」
「疲れているんだ。今日は休め」
「そうする……。あ、でも――」
玄関を入るなり、靴を脱ぎながら声を上げた。
「お風呂!ジャグジー!!もう入らないと気持ち悪い!!」
寝起きテンションのまま、澪はそのままバスルームへ直行。
「お湯入れとくー!」
バスルームのドアの向こうから、元気な声だけが響く。
リビングに残された九条は、まだコートを脱がず、ふとため息をひとつ。
(……本当に、よく食べてよく寝る)
けれど――
そうやって「回復できる場所」になっていることが、
少しだけ嬉しくもあった。
バスルームのドアが開く音。
「ふー! 極楽極楽〜……」
髪をバスタオルで包んだまま、もう一枚のタオルを体に巻いただけの姿で、澪がリビングに登場。
まだ湯気をまとって、ぼんやりと眠そうな顔。
九条はソファに腰かけたまま、ふと顔を上げて眉をひそめた。
「……服を着ろ」
「えー、裸じゃないだけマシでしょ? あ、もしかして――」
澪がニヤッと笑って、九条をからかうように目を細める。
「裸の方がよかった?」
間。
九条がリモコンで、スッとカーテンを閉めた。
「見せるな」
「……え、カーテン?」
「当然だ」
「だってお風呂上がり暑いじゃん。保湿してるからすぐ服着たらベタつくし。そんな見ないって」
澪はそのまま、バスタオル一枚で歩き回る。
無防備というにはあまりに無邪気な、その動きに九条の眉が僅かに動く。
「バスタオル巻いてるだけ、譲歩してます」
「こっちも、カーテン閉めるだけで譲歩してる」
「なにそれ」
そう言いつつも、澪は内心ちょっとだけうれしい。
からかっても、真面目に返さず流される。
それが、今の“ちょうどいい距離”だと、なんとなくわかっているから。
澪がソファで髪を乾かしながら、ふとつぶやく。
「……っていうか、タオル姿にそんなに驚くこと? 私、普段家ではもっとゆるいよ?」
九条が眉を寄せて、顔を上げる。
「お前まさか……普段、自宅で風呂上がりに裸なのか?」
「うん。実は」
間髪入れずに即答。
九条、固まる。
「……」
「さすがにカーテンは閉めてるよ?」
「一級遮光カーテンか?」
「はい。一応。でもたまに閉め忘れて慌てて閉めるときある」
「……」
第二の戦慄。
九条、ゆっくりと目を閉じて深呼吸。
「たまたま無事だった強運に感謝しろ」
「そんなに危ない!? 日本だよ!?」
「お前の家には防護シャッターが必要だ」
「それ冗談なのか本気なのか、どっち?」
バスタオル一枚。
濡れた髪。
無防備なその姿に、九条の視線がわずかに止まる。
……そして、その背後――
大きく開かれた窓と、開いたままのカーテン。
「……お前、今ここが何階か分かってるか?」
「えっ……あ。えっ……?」
澪が後ろを振り向いた瞬間、視界いっぱいに広がる夜景と、向かいのビルの影。
「ペントハウスだから大丈夫でしょ…?」
「確かに見上げる視線は少ない。だがゼロではない」
「えっ……うそ、そんなに見える?ていうか、見た人いたらどうするの?」
「……訴えるか殺す」
「やめて!?どこまで本気なのかわからないから!」
慌てて窓際に駆け寄る澪。
バタバタとカーテンを閉めた澪が振り返ったときには、九条はすでにソファから立ち上がっていた。
立ち上がる。
「……シャワーを浴びてくる」
「え?」
「……少し、冷ました方がいい」
「……………え」
返事はなかった。
扉の向こうで水音が響くまで、澪は、ぽかんとその場に立ち尽くしていた。
作り置きのおかずを消化します
髪を乾かし終えて、澪はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
「……あ、これ。作り置きしてたやつ、まだ大丈夫だよね?」
開け放った冷気に、つい背中をすくめてしまう。
中には、澪が作り置きしておいた食材がタッパーに入って並んでいる。
「これ、ちょっと食べといた方がいいかな?帰国してすぐだけど……」
誰に聞かせるでもなく、つぶやく。
なにも知らないフリで、朝食の支度を始める。
タッパーから小皿に移して電子レンジに入れ、トースターにパンを入れた頃――
ドアが開いた音がした。
シャワーを終えた九条が、濡れた髪をタオルで拭きながら出てくる。
ゆっくりとリビングを横切り、澪の背後に立つ。
ふいに、そっと腰に手を回される。
「朝ごはんは?」
澪は少しだけ振り返って笑う。
「……後でいい」
その声が、思っていたよりも低くて、近かった。
澪はくすりと笑う。
「二人っきりになると甘えるよね」
九条は応えず、ただそのまま額を彼女の肩に預けるようにして、静かに息を落とす。
「……嫌か?」
「嫌じゃないよ。もしかして、氷川さん達いたから我慢してた?」
「……いろいろと」
九条の腕の中で、澪がコロコロ笑う。
言葉にしなくても伝わる熱が、そこにあった。
「……シーツが濡れるから、髪乾かそう」
「…」
「めんどくさそうにしないで。その後、寝室に行こ」
それは、問いではなく宣言だった。
「わかった」
彼の声は相変わらず落ち着いていて、抑制されたように静かだったけれど、
その背中にはもう**「決壊の音」**が聞こえていた。
澪は少し顔を赤くしながら、タオルを巻き直す。
「じゃあ……ちゃんと乾かしてからね」
トースターのパンが焼き上がった音が、間の抜けたように鳴った。
朝食は、またあとで。
▶ 続き(BOOTHへ)効果覿面
しばらくの間、どちらも何も言わなかった。
ベッドの上に横たわるふたりを包むのは、
浅く乱れた呼吸音と、外から差し込む朝の光だけ。
カーテン越しに見える空は、どこまでも晴れていて――
まるで、何もなかったような静けさが、寝室に広がっていた。
やがて、澪がゆっくりとまばたきして、
「……朝から、何してるんだろ……私たち」
ぽつりと呟く。
その声に、九条の肩がわずかに揺れた。
静かに、けれど確かに、笑った気がした。
九条の腕の中で、澪がぐったりと身体を預けている。
まだ少し息が荒くて、でも口元には、ふわりとした笑みが浮かんでいた。
「……一回で足りた?」
「いや」
短い返事に、澪が笑う。
「だよね」
それでも、次の一手は渡さなかった。
「でも、朝ごはんちゃんと食べないと、次しないから」
ぴしゃりと、まさかの禁止令。
「……脅迫か?」
「ううん、交渉」
ごく当然のことのように言う。
「明日練習なんでしょ?今日のうちにちゃんと栄養とっとかないと、調整の意味なくなるじゃん」
「今日は練習じゃない」
「だからこそ。明日に備えて、ね」
「……わかった」
「ん。よろしい」
ふっと笑って、澪が九条の胸に頬を寄せる。
ぐったりしているくせに、口だけはしっかりしてる。
「効果覿面」
その一言に、九条も思わず口元を緩める。
優しく額に口づけながら、ぽつりと漏らす。
「……こういうのを、“手綱を握られてる”と言うんだろうな」
「違います。“腰を掴まれてる”と言います」
その即答に、九条はほんの少しだけ目を見開いて、そして――
「……なるほど」
心から納得したように呟いた。
違いない、と思った。
澪が、くしゃくしゃになったシーツを引き直しながら、そろそろとベッドから抜け出す。
髪はまだ乱れていて、足元は少しふらついているのに、口調だけは軽やかだ。
「……ていうかさ、朝ごはん食べてって言っただけで、なんでそれが脅迫なのよ」
笑いながら背中越しに言うと、
九条は少しだけ間を置いて答えた。
「……俺にとっては、お前の“しない”は、脅迫に近い」
「……“したい”は?」
返されたその言葉に、澪の動きが止まる。
振り返った彼女に、九条は目を逸らさず、淡々とした声で言った。
「……交渉、だな」
笑いながら、でも真っすぐに。
「成立するかは、条件次第だが」
澪はしばらく九条の顔を見つめて、ふっと笑った。
「――じゃあ、交渉成立させるために、ごはん作ってきます」
バスタオルを巻き直しながら、ゆっくりとキッチンへと向かっていく。
背中越しにひとこと。
「食べ終わったら、考えてあげる」
九条の視線が、去っていくその背中を追う。
脅迫か交渉か、主導権がどちらにあるのか――
正直、もうどうでもよかった。
“したい”と思っているのが自分の方だと、誰よりも分かっているから。
朝食
キッチンからは、トースターの軽い音と、卵を焼く香ばしい匂い。
バスローブ姿で澪がせっせと動いていたが、途中で「寒っ」となり、結局パジャマに着替えた。
九条がダイニングに来たときには、すでに皿が2人分、テーブルに並べられている。
「豪華ではないけど、ちゃんと作ったよ。文句ある?」
「……文句などない。よくやった」
「わー、素直に褒めた!めずらし!上からだけど」
澪がにこにこと笑う。
九条は席につき、サラダと卵、焼きたてのパンを一瞥してから手を伸ばす。
グラノーラも準備されているあたり、澪なりに“アスリートの食事”を考えて構成しているらしい。
「糖質はちゃんと摂ってね。あとタンパク質も。鶏ハム、下味つけておいたやつ使ったから」
「……お前、何者だ」
「ただのヨット営業の女です」
「その割に、栄養管理が妙に実践的だな」
「レオンさんに鍛えられたね〜」
アスリートの人と毎日一緒にいるから、自然とこういう食事が目に浮かぶようになってきた。
でも九条は特に反応を返さず、黙々と食事を進めていた。
「ちゃんと食べたら、どうする?」
「一旦、食後は休め」
「えー……それだけ?」
「その後何もしないとは言っていない」
「……」
澪の顔がぱっと明るくなる。
そしてすぐに何食わぬ顔でパンにバターを塗り直す。
「……じゃあ、デザートのヨーグルトもちゃんと食べといてね。イチゴ入れといたから」
「……わかった」
2人きりの、静かな朝。
カーテンの隙間から、冬の光が差し込んでいた。
朝食を終えて、澪はソファでゆっくりくつろいでいた。
くすんだグレーのゆるい上下のもこもこパジャマ。ふわふわの靴下に、顔はすっぴん。髪だけ、ざっくりとひとつにまとめている。
それを見た九条が、淡々と一言。
「……出掛ける気、ゼロだな」
「だって今朝イギリスから戻ってきたばっかりだよ?今日は引きこもるに決まってるじゃん」
堂々とした言い草に、九条はほんの少しだけ目を細めた。
「……開き直っているな」
「うん、今日はもう何にもしない日って決めた。作り置きもあるし、洗濯も出したし。完全オフモード」
澪はソファに座り、毛布をかけて、膝にマグカップをのせる。
テレビもスマホもつけずに、ただ窓の外を眺めている。
静かに流れる、午前の光。
「いつも、休日はこんなふうに過ごすのか?」
ふと、九条が尋ねた。
澪は頷きながら、マグカップのふちに口をつける。
「うん。カフェ行く日もあるけど、ほとんど家にいるよ。コーヒー買ってすぐ帰ってきたりとか。外出ても、用事だけ済ませてすぐ戻る」
「……なぜだ?」
「うーん、体力ないし、疲れるからかな。人混みとか、騒がしい場所が苦手で。休日は家にいるの好き」
言葉を濁しつつ、笑って誤魔化す。
それでも、九条はそれ以上聞いてこなかった。
「……なら、今日は外に出るな。寒い」
「うん。引きこもる。あなたも、今日はゆっくりしてて」
その“今日は”が、ただの1日じゃないことを、澪は分かっていた。
特別な時間じゃなくていい。ただ、隣にいるだけで。
――それが、今の自分には一番、嬉しい。
澪がソファーにもたれたまま、ふと目を開ける。
黒いふかふかの背もたれに頭が沈み込む。
「明日、練習あるんでしょ?しかもけっこうキツいやつ」
「……ああ。チームが組んでる強化メニューだ。ハードになる」
「それ聞いたら、今日しっかり休んでもらわないと。甘やかしてるんじゃなくて、準備してるんだよ、私は」
「……休むことが、準備か」
「うん。そうでしょ?」
九条はしばらく黙ったまま、澪の頭に手を置いた。
「……正しい。だが、その言い方だと“俺のためにお前が動いてる”ように聞こえる」
「え、そうでしょ?」
「違うな。お前が俺に命令している」
「そんなつもりは――」
「朝食を食べなければ次はない。あれは明確な命令だった」
「うわ、まだ引きずってる!?」
「忘れないだけだ」
「……あーもう、めんどくさい可愛い男だなあ…」
思わず笑って、澪は九条の肩に頭を押しつけた。温かい体温と、ちょっと硬い感触。
「でもまあ、休む時は休んで、勝つ時はちゃんと勝つ。そのための時間ってことにしよ。切り替え必要。うん」
「……勝つ、か」
「ほぼ毎日が勝負でしょ? しかも雅臣さんは“勝ち続ける人”だから。間にリラックスも大事」
その言葉に、九条は何も返さなかった。
けれど、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「言っておくがお前が寝てる間に何もしてないと思ったか?」
「少なくとも寝てはいないでしょ?」
「…ストレッチと軽い筋トレ」
「………何時間してたの?」
「お前がホテルで寝ている間だ」
「え、それって……」
「5時間くらいだな」
「がっつりやってんじゃん!どこが軽いのよどこが!」
「普段は8時間以上する」
「旅行中にホテルで5時間筋トレする人がありますか!」
九条はソファに深く座り直し、澪の方を見ずにぼそりと呟いた。
「習慣を崩すのが、怖いだけだ」
「……え?」
「崩れると、戻すのに時間がかかる。特に今は、全てに勝ち続ける必要があるからな」
「……そっか。まあ、アスリートの事は分からないから任せるけどさ。無理しがちだから、見てて心配。無理しないと勝てないっていう世界なのも事実なんだろうけどさ」
それはプロとして当然の意識だと分かっている。
九条は一瞬、言葉を止めた。
「……そうだな。無理をしなければ、勝てない世界だ」
「うん、やっぱりそうなんだ」
「だが、無理の質は選べる」
「……え?」
「無意味な痛みや疲労は、要らない。必要なのは、結果につながる負荷だけだ」
「……それ、誰かに言われたの?」
「いや。お前に出会ってから、そう思うようになった」
「……」
「無理をして、お前に背を向けるようなことはしない。それは俺にとって、必要な負荷じゃない」
ぽつりと、それだけ。
少しだけ、距離が近づいた気がした。
無理をし続ける男と、無理をさせたくない女。
そのバランスを探しながら、今日も隣にいる。
音の好み
「普段、ジムとかトレーニングしてる間、何か聴いたりしないの?」
澪の問いに、九条は軽く眉を動かす。
「……無音が多い」
「え、音楽とか聴かないの?クラシックとか、好きそうだけど」
「聴かない。曲は知ってるが、好みじゃない」
「意外……てっきりバッハとか好きかと思ってた」
「…練習に“感情”はいらない。音楽はどうしても気持ちを乗せる。邪魔だ」
「へぇ……でもなんか分かるかも。私も、仕事で集中したい時は静かな方がいいかも」
「静かというより、余計なものを削ぐ感覚だ。身体と頭だけに集中する」
「……さすがアスリートって感じ」
「お前は?」
「私、たまに作業用として雨の音とか聴いてる。エンドレスに流れ続けるやつ」
そう言って、澪はマグカップをくるくる回す。
「雨の音?」
「うん。ザーッてずっと流れてるだけのやつ。あれ聴くと落ち着くの」
九条は少しだけ目を細めた。
「……眠くならないか?」
「ならない。むしろ集中できるよ。文章書いたり、読書してるときに流すと、気が散らなくなる」
マグカップを持ち直しながら、澪は笑った。
「あとね、雷雨の音のやつもあって……」
「雷?」
「うん、ザーッて雨の音に、たまにゴロゴロって混じるの。たまにドーン!って鳴ることもあるけど、それがまた、目覚めるというか」
「集中したいのか、目覚めたいのかどっちだ」
「どっちも。あれ聞くと、外にいるみたいな気分になるんだよ。閉じこもってても、ちょっとだけ世界と繋がってる感じ」
九条はその言葉に、しばらく黙っていた。
「……お前らしいな」
「え?何が?」
「孤独を楽しむくせに、完全には閉じない。微妙なバランスで、自分を守ってる」
その言い方に、少しだけ胸が詰まった。
でも、澪は言葉を返さずに、ただマグカップの中を覗き込む。
「焚き火の音とかも好き。パチパチしてて癒されるやつ」
「……分からなくはない」
意外にも、否定ではなく受容の返答。
「今度トレーニングの時とか、聴いてみて」
「……試してみる価値はあるな」
「寝落ちしても責任はとりません」
「お前は雷雨でもよく寝てそうだ」
「否定はしません」
睡眠の記録
もこもこパジャマの澪はソファーの上で体育座りをして、マグカップで白湯を飲んでいた。
ふと自分の手首に巻いているApple Watchが視界に入った。
九条から贈られたもの。充電している時と入浴の時以外は毎日ずっとつけている。
「…あ、Apple Watchつけてたよね? それで睡眠の記録とってるよね? それ見せて」
隣でソファに座っていた九条が、一瞬だけ動きを止めた。
「……」
「ほら。見せて。誤魔化す気でしょ?」
「見せたところで、お前が判断できるのか?」
「できるよ。スコアと心拍の変動で睡眠の質は分かる。あと、深い眠りと浅い眠りの時間のバランス」
「……どこで覚えた」
「自分のでも毎日チェックしてるもん。あと、あなたの体調は私が見るって決めてるから」
淡々とした口調。でも、その言葉には確かな意志がこもっていた。
しぶしぶとApple Watchの画面を操作し、睡眠ログを開く九条。
澪は画面を覗き込むと、すぐに眉をひそめた。
「ちょっと……。睡眠時間、4時間ちょっとじゃん。しかも途中で目覚めてるし。信じらんない。飛行機でも寝てないでしょ」
「お前が寝てる間に、寝言を言うからこうなった。
「…ねえ、それって“必要な負荷”?」
「……ギリギリ、必要な範囲だ」
「嘘。ギリギリって言った時点でアウト。無理しないって言ったばっかりじゃん」
九条は何も言い返さず、ただ目をそらす。
その沈黙に、澪はため息をついた。
「じゃあ、今日は昼寝。今から一緒にゴロゴロする。もう決定事項です」
「……交渉の余地は?」
「ないです」
そう言って、勝ち誇ったように澪は笑った。
「これは睡眠時間短過ぎ。絶対駄目。寝る。寝室へゴー」
澪が指差したのは、さっきまで二人でいたベッドルームのドア。
マグカップをテーブルに置いて、ソファから立ち上がる。
「……お前が眠いだけじゃないのか」
「私はもう寝た。今はあなたが対象。データに基づく強制措置です」
「医者か何かか」
「お医者さんじゃないけど、やります」
どこか誇らしげに言い放つ澪に、九条は無言で立ち上がる。
でもその動きは、ほんのわずかに緩やかだった。
「ついでに一緒に寝る。はい、おいで」
「……完全に主従が逆転してるな」
「今だけね。あとで取り返していいから。今は私が命令する番」
九条がゆっくりと寝室へ歩き出す。
その背中を追いながら、澪はふと呟いた。
「……守ってあげてるみたいで、ちょっと嬉しいかも」
「守られてるというより、監視されてる気がする」
「それでもいいの。私は“口うるさい私設管理人”だと思って」
それを聞いた九条が、ふっと笑った。
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