77.離陸

機内食

離陸からしばらくして、シートベルト着用サインが消えると、機内が少しだけ静まり返った。

空の上とは思えないほど穏やかな滑空に揺られていると、ふわりと漂う香ばしい匂いが、澪の鼻先をかすめる。

「お食事の準備が整いました」フライトアテンダントがやわらかく微笑みながら声をかける。すぐに白いクロスが敷かれたテーブルに、ひと皿ずつ料理が運ばれてくる。

最初に出てきたのは、小さなグラスに盛られたピンチョスと、繊細にカットされたカナッペの盛り合わせ。

彩りは鮮やかで、まるでパーティー会場のウェルカムプレートのようだ。

「……綺麗すぎて、食べるのもったいない…」

澪がつぶやくと、隣にいたレオンがクスッと笑った。

「フィンガーフードは機内の定番。揺れてても食べやすいし、見栄えも良いからね」

「……なるほど」

次に運ばれてきたのは、自家製ローストビーフを厚めにスライスして、高級バゲットに挟んだサンドウィッチ。

トリュフ風味のバターがほんのり香り、アクセントにはほんの少しの粒マスタード。

さらに特選にぎり寿司と、数種のグリル野菜が添えられた洋食御膳が続き、完全に“レストランのフルコース”の様相を呈していた。

「ちょ、ちょっと待ってください……これ、空の上で出る食事ですか……?」

驚きを隠せない澪の問いに、藤代がぼそっと言う。

「九条のフライトは、全部オーダーメイドだからな。地上のミシュラン級レストランから直送してる」

「え……すご……」

そして、メインが下げられると――デザートタイム。

運ばれてきたのは、まるで宝石のように輝く季節のフルーツ盛り合わせと、ベリーとピスタチオのムース。

さらに別皿には、ロブスターロールとミニマカロンまで添えられていた。

「…………っっ……」

澪の頬がふわっとゆるみ、瞳がふわふわと笑う。

その瞬間、彼女のまわりだけ空気が柔らかくなったような、ふんわりした雰囲気が漂った。

「……っ、かわいい……!」

澪は思わず、声を漏らしていた。

「ちっちゃ……何これ……かわいすぎない……?」

まるで美術館の展示品みたいなデザートプレートに、理性が吹き飛びそうになる。

「え、ちょっと待って、食べるのもったいない……」

写真撮りたい、でもチームの中で自分だけ撮ってたら恥ずかしい。でもこれは……。

「いただきます」

誘惑に負けて、ムースを一口。

「……おいし……っ」

口に入れた瞬間、優しい甘さがふわっと広がる。軽いのに、しっかり満足感があって、後味もすっきりしている。

「何これ……高級ホテルの朝食みたい……」

チョコレートも、見た目よりずっと濃厚で、ちょっと苦みがある大人の味。

思わずほっぺたが緩む。

「……この時間、永遠に続いてほしい……」

ぽつりと呟いたその声が、小さく漏れ聞こえたらしく、向かいの氷川がそっと笑っている。

「……よかったですね」

「えっ、あ、聞こえてた……!?」

赤くなって慌てる澪に、九条がふと横から静かに言う。

「……足りなければ、もう一皿出させる」

「えっ、ほんとに!? えっ、いいの!?(でもちょっと恥ずかしい…!)」

「……いい。甘いものを食べてる時、素直だ」

「なんかそれ、褒めてるようで褒めてない……」

嬉しさと照れが入り混じる中、澪はそっと次のチョコレートに手を伸ばした。

(きっとこの先、いろんな大変なこともある。でも——)

——今日のこの甘さは、きっと忘れない。

デザートをひと通り口に運んだ澪は、席にふわっと背を預けた。

目元はとろんとして、口元は無意識にゆるんでいる。

そのまま天井を見上げて、小さく息を吐いた。

「しあわせ……」

つぶやいた声が、ふんわりとした甘さの余韻に乗って漂う。

「……やばい、私、今めっちゃ顔ゆるんでる……」

「ゆるんでるな」

不意に、隣から静かな声が落ちてきた。

「……やっぱり?」

澪は恥ずかしそうに笑いながら、クッションに頬を擦りつけるようにして姿勢を整えた。

「顔が全部、“おいしい”って言ってる」

「えっ、そんなに?」

「うん、すごい。幸せオーラ出てる」

背後からレオンの声が飛んできて、カザランもひょこっと背もたれの上から覗き込んだ。

「今、ふわふわの妖精さんみたいになってたよ」

「妖精て……」

そう返しつつも、否定できない自分がいた。

だって本当に、甘いデザートと甘い気持ちに包まれて、今の澪はたぶん誰よりも幸福そうな顔をしている。

視線の先では、九条が澪の方を見ていた。

無言のまま。けれど――

どこか、口元がほんの少しだけ緩んでいる。

「……あ」

澪が気付いた時には、もうその表情は消えていた。

でも確かに、九条の目がやさしかった。

甘いデザートはとっくに口から消えているのに、胸の奥に、もう一つの甘さが残っていた。

素材

カザランは、澪の席から少し離れた位置に腰を下ろしながら、さりげなく視線を滑らせた。

澪はまだデザートに夢中で、甘いものに心を奪われた子どものような顔で、とろけるような笑みを浮かべている。

――惜しいな。

そう、思う。

肌はきちんとケアされてる。髪も素直な質感。

パーツも整っているのに、服とメイクと姿勢で、七割くらいしか活かされていない。

本気で仕上げたら、見違える。

――いや、“化ける”のではない。“本来の姿になる”だけだ。

プロの美容師としての目が、それを瞬時に見抜く。

けれど、口には出さない。

この空間では、まだ“チームの外”にいる女の子。

でも彼女のその素材は――

あの九条雅臣が心を許した理由として、納得できるほどに整っていた。

レオンが横から小声で言う。

「気付いた?あの子、いい表情してるよね」

カザランは軽く頷くだけだった。

“素材は、上等”

でも、それを光らせるかどうかは――彼女次第。

彼女の“これから”に少しだけ、期待した。

寝室がある

機内の照明が少し落ちて、フライトは夜の静けさへと移ろい始めていた。

歯磨きを終え、席に戻った澪は、ふぅと小さく息をついた。

とても空の上とは思えない、快適すぎるフライト。思わず、地に足がついていないような気がしてしまう。

そんな時、レオンが何気なく言った。

「休みたくなったら奥の寝室、使っていいからね」

「……えっ、寝室?」

素で聞き返してしまった。

「あるよ、ちゃんとしたベッドの部屋。多分、想像よりずっとちゃんとしてる」

言われて後方をちらりと見れば、確かに一枚奥まったドアがある。

「九条さんも、試合が近いので、寝てください」

氷川の静かな声が、機内に落ち着いたテンションで響く。

フライト時間はまだある。が、今後の時差調整やスケジュールを考えると、ここでの休息は不可欠だ。

「あなたが起きていると、誰も寝られません」

言葉の選び方は丁寧だが、内容はもはや命令に近い。

九条は腕を組んだまま視線だけ向けると、「……わかった」と素直に立ち上がった。

「来い」

短く低い声が、澪にかかった。

九条がもう機内の奥――寝室へと続く通路の方を向いていた。

命令とも、習慣とも取れる声の調子。振り返ることもせず、当然のように歩き出す。

「……えっ」

一瞬だけ戸惑った澪だったが、その背中に、拒絶や気遣いではない“自然さ”を感じて、胸がじんと熱くなる。

何も言わずに立ち上がり、後を追った。

その背中に、蓮見が軽く釘を刺す。

「防音、ないからな。変なことすんなよ」

わざとらしい茶化し方に、周囲が一瞬息を呑む。

その一拍のあと、

「今すぐ下ろされたいのか?」

九条が低く言った。

完全に“本気の声”だった。

蓮見が肩をすくめて笑う。「冗談だって。飛んでんだから下ろせるわけないだろ」

「なら、黙れ」

九条は一言で締めて、そのまま寝室へと姿を消した。

しん……と、しばらく機内に静寂が流れる。

ややあって、カザランが小声で漏らす。

「蓮見さん、火種投げすぎ」とぼやきながらも、ちょっと笑っている。

空の上のベッド

部屋の真ん中に、キングサイズのベッド

しかもホテルのスイートみたいに、左右にサイドランプまで付いてる。

天井も高いし、照明もふわっとした間接光で落ち着いてるし——

ここは本当に飛行機の中なのか。

 

「ここ、……普段、誰かと寝てるの?」

思わず出た言葉に、自分でもちょっと引いた。

でも聞かずにはいられなかった。

あまりにも大きすぎて、空間が持て余してる感じすらする。

 

九条は、澪の少し後ろに立ったまま、淡々と答える。

「一人だ」

 

「……一人で寝るのに、このサイズ……?」

言いながら、ベッドに視線を戻す。

まっさらな白のリネンが、どこまでも続くような錯覚を起こす。

これ、寝返り何回打っても、端まで届かないやつだ。

 

「さすがに広すぎない? 飛行機だよ……?」

「疲れて戻る場所だ。小さいよりはいい」

即答だった。

「それはそうか」

たしかに、彼の毎日は戦いの連続だ。

ただ寝るだけの場所でも、“最高の回復空間”であることが求められるのかもしれない。

でもそれにしても——

 

「このベッドで、一人か……」

澪は口をつぐむ。

想像してしまった。

彼が一人でここに横たわって、眠ってる姿を。

隣には誰もいない、大きなベッド。

——なんか、それはそれで、想像するとちょっと寂しいような。

機内のバスルームでメイクを落とし、軽く髪を整えたあと。

澪は薄暗い寝室に戻ってきた。

足音を立てないように、そっとドアを開ける。

ほのかに灯った間接照明だけが、空間を淡く照らしていた。

その中に、大きすぎるベッドがドーンと横たわっている。

キングサイズ。

まるで、スイートルームの真ん中に設置された展示品のようだった。

 

ベッドの片側には、九条がもう横になっていた。

仰向けになっている。

でも、彼のすぐ隣には、きちんと空間があった。

シーツが、ぴたりと整えられて。

何も言わなくても、“ここに来てもいい”って伝えてくるような、そんな空白。

 

(……呼んでるわけじゃないんだろうけど)

 

それでも、澪はわかっていた。

それが、彼なりの“準備”であること。

 

そっとベッドに腰を下ろし、

静かに身体を滑り込ませる。

その一連の動作に、九条は何も言わない。

でも——

わずかに息遣いが変わった気がした。

 

「……おやすみ」

声をかけたのは、澪のほうだった。

返事はなかった。

けれどその代わりに、ゆっくりと腕が伸びてきて。

静かに、包むように引き寄せられる。

 

甘く。

ぬくもりの中に、無言のやさしさがある。

 

澪は何も言わず、そのまま身をゆだねた。

彼の呼吸のリズムに、自分の心拍が同調していくような感覚。

ベッドがどんなに大きくても——

彼の腕の中は、不思議なくらい落ち着く場所だった。

 

——澪は、本当は一人で寝るほうが好きだった。

誰かと同じベッドで眠るのは、ずっと苦手だった。

無防備な時間に、距離を詰められるのが嫌だったし、

眠い時に触れられるのも、煩わしくて仕方なかった。

 

けれど。

 

この人の腕の中だけは、なぜか違った。

くっつかれるのではなく、包まれている。

閉じ込められるのではなく、守られている。

暑苦しくも、窮屈でもないのに、手放したくない。

 

(……なんでだろ)

 

理由なんて、わからなかった。

でも今だけは、思考よりもまどろみの方がずっと心地よくて。

彼の腕にすっぽりと収まったまま、澪はもう、なにも考えられなかった。

 

眠ることが、こんなにも自然で、優しくて、怖くないなんて。

いつからだったか、忘れていた感覚。

 

心地よい揺れ。静かな呼吸。

その音に、澪はゆっくりと、深い眠りへと沈んでいった。

まだ夜

薄く目を開けて、ぼんやりと天井を見上げる。

静かな揺れ。機内の空調音。

それから、ほんの微かに聞こえる水音。

 

(……シャワー?)

 

少しして、九条がバスルームから戻ってきた。

髪がまだ濡れていて、バスローブを羽織ったままの姿。

「おはよう。起きたか?」

「……うん。おはよう……」

 

寝起きの声は掠れていて、言葉も上手くまとまらない。

けれど、そんな澪に、九条は水のボトルを手渡してくれる。

「飲め」

「……あ、ありがと……」

ボトルを受け取って、少し口に含む。

冷たさが、目を覚まさせてくれた。

 

「……あれ? まだ夜?」

「夜だ。だけど——」

 

彼が言いかけて、ふと笑った。

「東から西へ飛んでる。太陽と同じ方向だ。だから、たくさん寝ても、まだ“昨日の夜”だ」

「……なんか、不思議」

「そろそろ、2回目の機内食が出る。その前にシャワーを浴びるか?」

 

シャツの袖をまくりながら、九条が何気なく告げる。

髪はもう乾いていて、彼の動きはすでに一日の始まりのように整っていた。

けれど、外はまだ夜のままだ。

 

「あ、うん。軽く浴びてこようかな……」

そう答えながら、澪はストレッチをしながらベッドの端に座る。

まだ体はゆっくりと目覚めの途中だ。

 

「向こう着くの、何時ぐらい?」

「現地時間で二一時から二三時になる。着いたらまた寝ることになる」

 

「……ふふ、じゃあ今日は、ずっと“寝てる日”だね」

「移動日は、そんなもんだ。無理に身体を起こさずに、時間に合わせて馴らしていけばいい」

 

その言い方が、なんだか“旅慣れた人”の余裕に聞こえて、

澪は少し羨ましく思う。

九条にとって、この空も、この生活も“いつものこと”なんだ。

それがまた、ちょっとだけ遠い。

 

「……じゃあ、行ってくるね。メイクもしておきたいし」

「着いてすぐに寝るのに、化粧するのか?」

バスルームへ向かおうとする澪の背中に、九条がふと問いかける。

振り返ると、彼は機内の間接照明の中で、まるで純粋な疑問を投げる子供のような顔をしていた。

 

「だって……他の人にすっぴん見せたくないんだもん。マスクで半分は隠すけど、やっぱり恥ずかしい」

澪はそう言って、少しだけ唇を尖らせる。

 

「そういうものか」

九条はうなずいたが、まだ納得しきれていない顔をしている。

 

「そういうものです」

澪はぴしゃりと断言した。

それ以上は議論の余地なし、というように。

 

九条は小さく笑って、何も言わずに飲みかけの水を口に運んだ。

2回目の機内食

「2回目って、何が出るの?」

「軽めのホットミールを頼んでおいた。お前の分は、スモークサーモンとチーズのサンド、あと野菜スープと、ヨーグルト。フルーツもある」

「……めっちゃちゃんとしてる……」

「他にもある。変えたければ言え」

「いや、全然いい!むしろ豪華……っていうか、飛行機の中で“選べる”って何?

 

澪はふと笑ってしまう。

ファーストクラスの機内食すら縁がなかったのに、プライベートジェットで好きなものを選べるなんて、もはや世界のルールが違いすぎる。

 

「他にもリストがある。ケールとキヌアのサラダとか、ミニパスタもあったな」

「さっきシャワー浴びてきただけなのに……現実味がない」

「機内での時間を快適に過ごせるように設計されてる。耳も詰まらなかっただろ」

「うん、あれすごい。なんで?」

「気圧調整がされてる。キャビン内は約3,000フィート。地上と同じではないが、ほとんど負荷はない」

「へぇ……理屈はわかんないけど、なんかすごい」

 

言いながら、澪は九条の向かいに座った。

座っただけで、何も言わなくても、温かいハーブティーとミネラルウォーターがサイドテーブルにサーブされる。

 

ああ、これが“住んでいる世界が違う”ってことか。

無言のサービス、限られた人しか知らない空間。

居心地が悪いわけじゃないのに、なんとなく「借りもの」のような気がしてしまうのが、少しだけ切なかった。

九条が、用意されたプレートの中からヨーグルトを澪の前にスッと置いた。

「……あまり食べると、消化にエネルギーを使う。睡眠が浅くなる。軽めにしておけ」

「おお、さすがアスリート。詳しい」

思わず声に出してしまった感心に、九条は特に反応せず、ただ自分のカップに口をつける。

「あと2時間もすれば着く。着いたらすぐ寝るつもりなら、胃に負担をかけない方がいい」

「……なんか、寝る準備も管理されてる感じがする」

「してる」

あっさり返されて、澪はちょっとだけ笑った。

到着・ビギンヒル空港

プライベートジェットが静かに滑走路へ着陸したのは、ロンドン現地時間の午後十時過ぎだった。

機体が完全に停止すると、ほどなくして入国管理官が乗り込んできた。

専任スタッフに促され、九条と澪は座席に座ったまま、パスポートと渡航許可(ETA)の提示だけで簡潔に手続きを終える。

「もう終わったの?」と、澪が思わず口にするほど、あっさりしていた。

「ここはそういうものだ」と九条が答え、機体のドアが開く音が重なる。

外はすっかり夜。ロンドンの空気は、日本を発った時よりも乾いて冷えていた。

タラップを降りると、FBOスタッフが手配した黒塗りの車がすぐそこに待機していた。

「このままサヴォイへ向かう」

「うん……」

澪は短く頷きながら、服の裾を整えて後部座席へ乗り込む。

機内ではしっかり眠れたはずなのに、地面を踏んだ途端にじんわりと疲労が浮き上がる。

九条は車のドアを閉めると、無言のまま腕時計を確認し、後部座席に乗り込んだ。

「この後はホテルでそのまま休む。荷解きは明日でいい」

「うん……でも、すごいね。空港に着いて、誰ともすれ違わないし、誰とも並ばない」

「それが、プライベートの世界だ。必要なのは“誰にも見られない”こと」

 

九条は静かにそう言って、リムジンの中でブランケットを澪の膝にかけた。

滑走路を離れ、車は音もなく夜のロンドンへと滑り出す。

 

ビジネスクラスでもファーストクラスでも、きっと味わえない静寂と、隔絶された感覚。

澪は、自分がいまいる場所がどれだけ特別なものなのか、改めて実感していた。

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URB製作室

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