帰宅
レオンがキッチンで包丁を動かす中、九条はソファに深く腰を下ろした。
その隣、やや控えるように氷川が立っている。
本来、彼がこの空間まで上がってくることはない。
だが今夜は九条から「少し話がある」と言われ、そのまま一緒にエレベーターに乗った。
「ちょうどいい。手短に話す」
「はい。何でしょうか?」
九条はMacBookを閉じ、低く静かな声で言った。
「横浜に通勤しやすい範囲で、物件を探したい」
その一言に、氷川の指先がわずかに止まる。
が、次の瞬間にはもう、何パターンもの候補が頭の中で展開されていた。
「それは、どなたが住む物件でしょうか。条件の優先順位が変わります」
「……彼女だ」
数秒の間。氷川の声がさらに一段静かになる。
「本人が希望されたのでしょうか?」
「いや」
「でしたら、了承なく物件を贈るのは、場合によっては――怖がられます」
「……分かっている」
九条は目を伏せたまま、指先でMacの蓋をなぞった。
声には、ためらいではなく、確信だけがあった。
「だが、今の住まいはセキュリティが脆弱すぎる。防犯カメラは死角が多く、オートロックも信用できない。夜道も暗い」
「……それは、同感です」
氷川は一度、視線を横にずらし、淡々と続けた。
「彼女の職場に近く、女性の一人暮らしという条件で――尚且つ、空港にもアクセスしやすい方がよろしいかと」
「空港?」
九条が短く返すと、氷川は静かに頷いた。
「おそらく、海外出張が年に数回あります。国内出張もゼロではないはずです。その点を踏まえれば、空港や新幹線へのアクセスは、長期的に見て優先度が高いかと」
「……」
「予算にも寄りますが、現時点で候補として挙げられるのは、港北区、みなとみらい、武蔵小杉近辺。また、品川・大井町側まで視野に入れるなら、新幹線も視野に入ります。山手線沿線も利便性が高いですが、防犯面と夜道の静けさを考慮すれば、落ち着いた高層マンションの方が現実的です」
九条は黙って聞いていたが、やがて短く尋ねた。
「……予算を訊いたな」
「はい。ご予算により、建物の築年数やセキュリティのグレード、フロア指定などが変わってきます」
「決めていない」
「かしこまりました。では、“住環境の安全性と静音性を重視”の上限なしで、まずは選定いたします。後日、候補リストをご確認いただければ」
氷川はそう言うと、すでに端末に候補地の検索ウィンドウを開いていた。手には、自身のMacBookがある。
「宜しければ、今いくつかお調べいたしますが?」
「座れ」
「失礼致します」
静かにソファに腰を下ろすと、氷川はスリープモードで閉じていたMacBookを開き、指先で軽やかにキーボードを打ち始めた。
数分後、画面を九条の方へと軽く向けながら言う。
「後ほど、改めて候補をリスト化してお送りしますが、現時点でのおすすめはこちらです」
画面には、高層ビルの夜景が映し出されていた。
Oakwood Suites Yokohama
横浜みなとみらいエリアに位置する高級サービスアパートメント。
全室バス・トイレ別、フルキッチン付き。24時間セキュリティ、有人コンシェルジュ、オートロック、監視カメラ完備。
羽田空港へのアクセスも良好。駅直結の立地、清潔な室内環境、ジム・ラウンジの共用設備もあり、
長期出張や一人暮らしの女性にとって安心・快適な住環境を提供する。
「長期滞在向けの家具付きのサービスアパートメントです」
「これは借りているだけだ。所有ではない」
「はい。ですが、いきなり本人の了承を得ずに分譲マンションを購入して贈るのは、一生を束縛しようとしていると受け取られる可能性があります」
氷川の声はあくまで穏やかで理性的だった。
「恐らく彼女の性格上、受け入れないと思われます。しかも、今の職場に生涯勤めるならともかく、将来的に引越しや転職の可能性も否定できません。
日本の不動産は一度人が住んだだけで資産価値が大きく下がりますし、地震などの災害リスクも高い。
あらゆる観点から見て、現段階で物件を購入するのはお勧めできません」
九条は無言のまま画面を見つめ、やがて短く、低い声で返す。
「……なるほど」
氷川は、九条のこうした反応にも慣れていた。意見を即座に受け入れることはないが、頭の中で緻密に組み替えているのを知っている。
この男が誰かのために“家”を与えようとしている。そのこと自体が、氷川には一つの変化として映っていた。
氷川は、MacBookの画面に映るOakwood Suites Yokohamaの詳細を九条に示しながら、静かに続けた。
「こちらでしたら、ある種ホテルのようなものなので――いきなり“住む”という形ではなく、週末だけ過ごす場所として提案なさってください。
住居ではなく、気分を変える旅行先のような扱いで。そう伝えれば、心理的な重さは和らぎます」
九条は無言のまま、画面に目を落とす。
「契約自体は半年以上の長期滞在型にしておくと良いでしょう。
もし今の住居よりも快適で、彼女に合っていた場合、自然とこちらに物を移していくはずです。
人は、便利さには逆らえません」
しばしの沈黙のあと、九条が低く応える。
「……わかった」
氷川はほんの一拍、間を置いてから言った。
「それと――これは、あくまで私の杞憂に過ぎません。気分を害されたら申し訳ありませんが、聞いていただけますか?」
「内容にもよるが、聞いておく」
氷川の目が一瞬だけ揺れたが、そのまま理知的な声で続けた。
「万が一、彼女が……男性を連れ込んだ場合。こちらの物件であれば、エントランスに常駐のコンシェルジュがいるため、外部の出入りは記録され、早期に発覚する可能性が高いです。宿泊者以外の出入りが禁止されている為、施設側からの監視の目も入ります。
また、これは重要な点ですが、サービスアパートメントは『民法上の賃借権保護』よりも貸主側の権限が強く、料金未払い時などは契約解除・即時退去が可能です」
「…………」
「日本の通常の賃貸住宅では、たとえ家賃を滞納していても、明渡しには裁判など煩雑な手続きが必要になります。しかしOakwoodのような施設では、万が一の際も対応がしやすい。
つまり、“所有”や“賃貸契約”よりも、“契約管理権限を自分に残す”という点において、最も柔軟な選択肢だと考えます」
九条の指先が、MacBookのパームレストをわずかに叩いた。
怒りでも、迷いでもない。ただ、思考の音。
「なるほど」
それだけを残し、視線は再び画面へと落とされた。
氷川は、それ以上の言葉を控えた。
この男が「彼女に与える自由」と「自分が保ちたい支配」の間で、どう決着をつけるのか。
「……もう一つ、利点があります」
MacBookの画面から目を離さずに九条が問う。
「なんだ」
氷川は声の調子を変えず、静かに言葉を重ねた。
「こちらの建物の入り口は、商業施設の内部にあります。しかも、駅から直結している。
つまり、電車で通勤している女性が帰り道をつけられた場合――人の目に触れずに、建物まで侵入されることは、ほぼ不可能です」
九条の視線が一瞬だけわずかに鋭くなった。
「建物内に駐車場がないのも大きな要因です。
車で後をつけてそのまま敷地内に入るという行為ができません。
女性が被害に遭う犯罪で、最も多いものをご存知ですか?」
「いや」
「窃盗と、性犯罪です」
短く、だが鋭い言葉だった。
「住んでいるマンションまでの帰路が公道である場合、原付でのひったくり、大型車での連れ去り、車で後をつけての住所特定が可能になります。
しかしこの物件は、駅直結かつ屋内施設経由の導線しかありません。
人通りのある場所を経由せずに帰宅することが、そもそも不可能です。仮に特定されたとしても、部屋の前までつけていくことが難しくなります」
九条は黙ったまま、ソファに深くもたれた。
「帰宅時に玄関のドアを開けた瞬間の侵入、あるいはベランダ側からの不法侵入など、住宅街では起こりうる事件にも備えられます」
氷川は画面を切り替えながら、淡々と続けた。
「また、このサービスアパートメントには『シティビュー』と『ベイビュー』の2タイプがあります。
ベイビューは窓が海側を向いており、外から覗かれるリスクがより低くなっています。
高層階であれば尚更です。静かな景観を好まれるなら、ベイビューが適しているでしょう。
この点は、ご本人の希望を優先されても良いかと」
長い沈黙の末、九条が口を開いた。
「……わかった。ここにする。1年間まとめて契約して、彼女にキーを渡す」
その瞬間まで黙ってキッチンで作業していたレオンが、ふと振り返った。
「氷川さん……プレゼン能力、高すぎません?」
氷川は顔を上げずに返す。
「必要な情報を提示したまでです」
「……営業に転職できますよ、ほんとに」
「遠慮しておきます。九条さん一人で手一杯なので」
九条は、何も言わず、視線を再び画面へ落とした。
レオンが、まな板の上のパプリカを刻みながら呆れたように笑う。
「いやもう、事前の資料準備もなく、ぶっつけ本番でその説明力……凄すぎでしょ」
「恐れ入ります」
氷川はさらりと答えると、調理台越しにレオンへ向かって、品のある所作で一礼した。
「ですが、メリットだけではなく、当然デメリットもございます」
氷川はわずかに視線を下げてから、冷静に続けた。
「……高層階マンション特有の問題ですが、地震の際に横揺れが大きくなる傾向があります。高所恐怖や揺れへの耐性が低い方には、心理的な負担になるかもしれません。その場合は別の物件への変更をご提案いたします」
「他に問題は?」
「フロント階が既に46階、居住階はそれ以上です。万が一、地震などでエレベーターが停止した場合、階段での昇降はかなり困難になります。非常時に備えて、飲料水や食料などの備蓄は通常よりも多く必要になります。
それと、エレベーターですが、“ザ・タワー横浜北仲”では、揺れを感知すると自動で最寄り階に停止し、全運転をストップする仕様です。耐震構造の設計もあり、一定の安全性は確保されています」
「再稼働の目安は?」
「小規模な地震であれば、数時間〜半日での復旧例が多いとされています。ただし、点検技術者の到着と安全確認が必須のため、即時には動きません。規模が大きければ数日かかる可能性もあります」
「階段で降りられる高さじゃないな」
「その通りです。非常食・水・電源の確保は前提条件です」
一瞬、場の空気が静まった。
そんな中、キッチンの奥で包丁を止めたレオンが、ぽつりと呟く。
「おお、日本さながらの問題」
九条が彼に目をやると、レオンは肩をすくめて続ける。
「どこまでも安全と快適を突き詰めたと思ったら、今度は災害対応ですもんね。備蓄もチェックリストも、また澪さんが張り切って作りそうだなぁ」
「……想像できてしまうのが悔しいな」
九条が小さく笑った気配がして、レオンは得意げにニヤリとした。
澪 帰宅
「地震への恐怖さえ超えられるのなら、選ぶべき場所と考えます」
「……」
九条が無言のまま頷いた、そのタイミングで――。
「ただいまー。わー今日もいい匂いー」
玄関ではなく、エレベーターからそのまま入ってくる声。
「こんばんは、氷川さんだ。こんばんは」
「こんばんは。お帰りなさい」
氷川が礼儀正しく立ち上がって挨拶を返すと、澪はぱたぱたとスリッパでソファの方へ歩いていく。
「ただいまです。あ、そうだ聞いて聞いて!」
嬉しそうにバッグをごそごそ。何かの書類を取り出し、九条の元へ小走りで見せに来る。
「じゃん。来週、ドバイに出張になりました。このイベントに参加します!」
広げられた紙には、【Dubai International Boat Show 2025】の文字。
「関係者として、イベント出席。現地で営業もします」
その声に反応したのは、キッチンで調味料を振っていたレオンだった。
(わぁ、タイムリー)
思わず口には出さず、フライパンの音で気持ちを誤魔化す。
「雅臣さん、ドバイの大会出るでしょ?時期が綺麗に前と後ろで順番になってるから、向こうで一緒にいられるかと思って」
そう言って笑った澪に、九条は一瞬だけ静かに目を細めた。
「氷川」
「はい」
「ドバイ入りを前倒しする。出発は…いつだ?」
澪が即座に答える。
「17日の夜。金曜の便で羽田から出ます」
「そのタイミングで入る。準備を整えろ」
「かしこまりました」
氷川はすぐにスマホを取り出し、フライトと宿泊手配の調整を開始した。
澪は少し驚いたように目を見開く。
「え、ほんとに?合わせてくれるの?」
九条は言葉では答えず、わずかに頷くだけだった。
それが、彼なりの「行く」という確固たる返事。
レオンがキッチンから、口角を少し上げてぽつり。
「どっちが遠征先にくっついて行ってるんだか、わからないですねぇ」
氷川は肩をすくめながらも、微笑を浮かべて訂正する。
「今回は“偶然、同じ都市に仕事で行く”だけです」
氷川が、ふと思い出したように澪へ尋ねた。
「宿泊先はお決まりですか?」
「あ、えっと……会場から近いホテルに、社員まとめて泊まるんですが、私は急遽後から決まったメンバーだから、自分で決めていいって。上司が甘やかしてくれました」
「氷川」
呼ばれた瞬間に指示を察知したように、氷川はわずかに頷いた。
「はい。宜しければ、九条さんと同じホテルに宿泊されますか?会場までのアクセスはこちらで考慮致します」
「えっ、いいの?」
驚いた澪に、九条はわざとらしいほど静かにMacBookを閉じて、言葉にはせずにこちらを見た。
無言の「異論はない」という圧。
レオンはその一連のやり取りを見ながら、声を出さずに笑っていた。
まるで、完璧に動く舞台装置みたいな連携。
――やっぱりこの人たち、恋愛もプロフェッショナルでやってる。
九条が、ごく自然な顔で言った。
「うちのジェットに乗っていけ」
澪は思わず聞き返した。
「……出張にプライベートジェットで行く人いないよ」
「エコノミーで行きたいのか?」
「行きたくはないけど、経費申請するし……」
「チケットを取るだけ取って、乗らなければいい」
「いやいや、他の社員の目もあるし……!」
九条は、表情を変えずに一言。
「うまく誤魔化せ」
「えええ……無理でしょそれ……」
九条が淡々と言う。
「飛行機は、乗客が乗っていなくとも、時間になれば出発する」
「……確かに」
澪が納得するのも悔しいが納得する。
「うまく誤魔化して、“時間ずらして乗った”ってことにしよ。自分でチケット取る制度でよかった〜……。そもそも、ずっと他の社員の人たちと一緒って、地味にキツいんだよね」
「なぜ急遽、海外出張に?」
「もともと行くはずだった人が体調崩して入院したの。私、アラビア語ができるから、現地の人とコミュニケーション取りやすいし、行ってきて欲しいって」
「アラビア語……?」
レオンが思わず目を見開いた。
「UAEってヨット購入する顧客多いから、英語でも通じるんだけど、親しみを持ってもらうために勉強したの。専門的な会話は難しいけど、話すと結構仲良くなってくれるんだよ」
レオンが「へぇ」と感心した声を漏らす。
「現地語で挨拶されるだけで、嬉しい人って多いですもんね。ラテン系とか中東の方って特に」
「そうそう。英語で普通に通訳すればいいって言う人もいるけど、こっちから歩み寄るのって大事だと思うし。名前を呼ぶときとか、ちょっとだけでも発音に気をつけると、空気が変わるんだよね」
九条は黙ったまま、ソファでその会話を聞いていた。
目を閉じていたはずの瞼が、微かに開いて澪に向けられる。
言葉は何もない。
けれど、レオンと氷川には分かる。
――彼は今、彼女の“選択”を尊重している。
「じゃあ、澪さんも帰ってきたことですし、ご飯にしましょうか」
レオンがエプロンの裾を軽く払って、笑顔で声をかける。
「わーい。お腹すいたー!上着置いてきます!」
澪がぱたぱたとスニーカーを脱ぎながら、楽しそうに奥の部屋へ向かう。
その背中を見送ってから、氷川が控えめに一礼した。
「では、私はここで失礼致します」
「え?氷川さん、ご飯食べて行かないんですか?」
振り返ったレオンが、ちょっと驚いたように尋ねる。
「こちらの材料は、お二人分ですので」
落ち着いた口調で、静かに返す。
「……真面目だなぁ」
肩をすくめるレオン。
氷川はわずかに笑みを浮かべ、レオンに向けて丁寧に一礼する。
「お気遣い、ありがとうございます」
そのやりとりを、ソファの九条は特に何も言わずにただ見ている。
が、その視線だけで、何もかもが伝わる。
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