40.交錯

迎え

仕事終わり、本当に九条さんのスタッフの方らしき人が迎えに来てくれた。

「仕事終わりにスタッフに迎えに行かせる」

としか書いてなかった。

どんな人が迎えに来るのか知らなかった。退勤後、オフィスを出たら、車が停まっていて、男性が近くに立っていた。

背が高い、スマートな印象を与える男性だった。手袋をしていた。運転手だということが一目で分かる。

この人かな。

違ったらどうしよう。

そう思って自分からは声を掛けられなかった。

男性と目が合うと、話し掛けられた。

「綾瀬澪さんですか」

落ち着いた、知的な印象の声だった。

「…はい」

戸惑いながら返事をした。

「どうぞ。ご案内いたします」

後部座席のドアを開けてくれた。

黒い車。艶のある主張する黒じゃない。光を弾かずに沈み込んでる黒。

でもよく手入れされて、埃も砂粒ひとつ付いてない綺麗な車。

車内も真っ黒だった。

革の重たい黒。

恐る恐る乗り込むと、シートは柔らかかった。でも沈み過ぎない。反発力がある。

身体の形を覚えられるような感覚がした。

ドアが閉まると、音が消えた。

空気そのものが消音されたような感じ。

真新しさを感じる綺麗な車内なのに、匂いが一切ない。消されている。

車内は暖かく、外の寒さを嘘のように感じない。

多分、今日のような真冬にTシャツ1枚でこの車に乗ったとしても、寒くない。

着ていたコートを脱いだら、その音もうるさく響く気がして、なるべく音を出さないようにそっと脱いだ。

ドアのところに、目立たない模様がある。織物…?西陣だろうか。でも温かみは感じない。

車内は真っ暗じゃない。どこかに照明があるはずなのに、光の出所が分からない。

シートの中央に何か分からないパネルがあった。怖いから触らない。手垢の跡が一切なかった。

後部座席はスモークガラス。誰が乗っているかを隠されている。

前の席との間隔は広い。足元のスペースを阻害しない。

でもそれは、運転する人との分断でもある。運転手と話すことはない、という無言の主張と圧。

九条雅臣、という人間性そのものを体現したような車だと思った。

この車は私のための用意じゃない。誰が乗ろうが変わらない。でも、彼が自分の精神にノイズをもたらさないようにそう設計したことはわかった。

スタッフの方は名乗らず、最初の挨拶以降、一切話しかけてこなかった。

運転の仕方はとても静かで安全。ブレーキの振動が一切ない。なんのノイズも不快感も感じさせない運転の仕方。

目隠ししていたら運ばれてることに気付かないんじゃないか。そう思うくらい、静かで乗ってる人に影響を与えない運転だった。

車内は無音に近い。路面音も消えている。

暖かいから暖房が付いているはずなのに、風は感じない。匂いも無い。

一応背もたれにはもたれたけど、緊張は解けなかった。

この空間に、自分は似合ってない。生活レベルの差を歴然と感じさせられる。

そして、彼はこれに似合う人と普段一緒にいるのだろうか、それとも誰も寄せ付けないのか。

そう想像せずにはいられない。

私は、どこに運ばれるのか。

何も教えてもらえなかった。

それでも、彼に会いたかった。会ってみたかった。

到着

到着した場所は、ホテルじゃなかった。

マンションのような、ホテルよりももっとミニマルで静か。

都内だけど、静かで閉じられた空間を作っている。

車はそのまま地下駐車場へ入っていく。

「どうぞ」

後部座席のドアが開けられ、そっと車を降りた。

ヒールの底が当たることすら気を遣う車だった。

コンクリートの匂いが、少しだけする。

天井は低く、照明は控えめ。車のドアを閉めた音は、控えめだったはずなのに、やけに大きく響いた。

「こちらです」

運転手の男性が歩き出す。

エレベーターに乗ると、何も操作しないのに勝手に階数が点灯した。

エレベーターの内装は、上品でシック。

鏡はあるけど、大きくはなかった。鏡の中の自分が、一瞬箱の中に閉じ込められたように見えた。

壁はグレー系で光を反射しない素材。

床は音を吸収するカーペットだった。ヒールの音が全くしない。仕事で疲れた足に優しく感じた。

エレベーターは、何も操作してないのに、スタッフの方が何かかざしたら勝手に動き出した。

行き先の階は分からない。

ボタンはあるのに、押してなかった。

今まで見たこともないシステムだった。

上に登っていく感覚はある。

耳が少し詰まっていくような。

でも、どのぐらいのスピードで、どのぐらいの高さまで登っているのかは分からない。

ーーードアが開いた。

「どうぞ。中でお待ちです」

その先に会った光景は、想像と違った。

ドアがなかった。

エレベーターを降りたら、いきなり室内の光景だった。

正確にはここが玄関になるんだろうけど、私が知ってるものとは全然違う。

「それでは、私は失礼いたします。後ほど食事のケータリングが届きますので、どうぞご遠慮なく」

その人はそれだけ言って、私の返事を待たず、ドアを閉めた。

報告と任務はここまで。

あとはあなたが選ぶことだ、と言われたように感じた。

戸惑い

中も、色がなかった。

正確には黒、グレー、アイボリーなどの色はある。

間接照明の明かりもある。

でも赤やオレンジ、緑などの鮮やかな色は一切ない。

まるで、彼の心の中に入ったみたいだ。

こういう世界の中で生きている。こういう世界しか望まない。

そんな感じ。

家は、その人の心をよく映していると思う。

九条さんはここには住んでないんだろうけど、それでも心が望むものをよく反映されている。いや、「望まないものは一切排除されている」。

色に限らず素材の一つ一つに至るでまで、自分の世界にノイズを走らせるものは置かない。

差し色なんていらない。

そういう世界。

ヒールのまま入ってきて、それ以上進んでいいのか迷う。

どうしていいのか分からない。

シュークローゼットはあるけど、そこを使っていいのかも分からない。

通常なら家主が玄関まで出迎えてくれるのだろうけど、この家では待ってもそれは訪れなかった。

何も分からない。どうするか自分で決めるしかない。

ふと、奥に人の気配を感じたような気がした。

本当に人がいるのか疑わしかった。あまりに静かだったから。

でも、いる。無機物じゃない。

人間が。

これ以上は土足で入っちゃいけないと思った。

ただ、脱いだあとどうしたらいいんだろう。

とりあえず、室内を汚さないようにヒールを脱いで、邪魔にならないところに置いた。

それも音を立てないようにそっと。

この空間は、靴の音すら許されないような、そういう場所だった。

初めまして

何も言われないから、進むしかなかった。

じゃないと、何も変わらない。

時間だけが進んでいく。

私が行くしかない。

勇気を出して、足を前に進めた。

初めて会う、九条雅臣のところへ。

人の気配はある。

そこにいる。

でも、顔が見えない。

室内は明るくない。間接照明のぼんやりとした灯だけ。

足元さえ見えれば良いというような、そういう空間。

煌々とした明かりは望まない。必要ない。その意思がある。

静かで暗い室内は、自分の呼吸の音が聞こえるくらい、空気の中に何もない。

人の家に入ったのに、匂いを何も感じない。

ただそこにいる。

ゆっくり歩いて行った。

彼の世界の中へ。

モノクロの中で生きている人のところへ、初めて生身で入っていく。

画面越しじゃなく、生身の自分で向き合う。

目の前まで来て、初めて目が合った。

「…初めまして」

声が少し震えていた。

でも、ちゃんと言えた。

最初の問い

この人は、何も答えない。

でも、画面の中で見たその人だった。

今日、迎えがあって、ここに来て、この人がいたということ。

それがこの2年間の答え合わせだ。

ヨットの納艇と共に終わったと思ったやり取りは、ここで更に一段前へ進んだ。

この先、どうなるかは分からない。

でも、拒絶はされなかった。

彼の世界に入ることは許された。

もしかしたらまだ、この先の行動を試されるかもしれない。

そこを通過できるかは分からない。

ただ、少なくとも一歩前へ進んだ。

話さないなら、話しかける。

彼は、こちらが話しかけたことに無視はしない。

全豪オープン優勝、おめでとうございます。

本日は迎えに来ていただいてありがとうございます。

ただ、私はここからどうすれば良いでしょうか?

色々、言いたいことも聞きたいこともあった。

でもこの人は、無駄な会話を好まない。

「今日は、どうして呼んでくださったんですか」

私を、あなたの世界に入れてみようと思ったのは、なぜですか。

決勝後にメッセージを送ったから?

「……お前から来たんじゃないのか」

確かに。

私は「会いたい」って言った。でもそれは、私からいきなり言ったわけじゃない。

言える勇気は無かった。

会えるか?と聞いてくれたことが嬉しかった。

拒絶されなかった。

会いたいと返事をしたら、その翌日には飛行機に乗ってくれたのが分かった。

だから、この日、この時間にここにいる。

それは、彼の歩み寄りだ。

それが嬉しかった。

「来ました。会えるか?って聞いてくれたことが嬉しかったから。会いたかったから。だから今日来ました。それは、私の意思だけですか?」

会いたかったのは、私だけ?

あなたは仕方なく受け入れただけ?

そんな人じゃない。仕方なく受け入れるなんて妥協は死んでもしない人だ。

ただ、確かめている。

私に言わせようとしている。

意思を。

私は、自分の気持ちから逃げてはいけない。

自分の気持ちと向き合い、言葉にすることは怖いことだけど、そこから逃げてはいけない、と試されている気がした。

九条さんからじゃない。

自分の人生から。

「俺は、“受け入れた”覚えはない。…だが、帰れとも言ってない」

その言葉を聞いた時、ふっと笑みが溢れた。

どういう感情で笑ったのかは分からない。

じゃあどうすればいいのよ、って思った。

受け入れられてない、でも帰れとも言われてない。

なら、好きにしたらいいの?それ怒らない?

あなたはどうしたい?

そう聞いて、彼は答えられるだろうか。

この人は、プライベートな事で、自分がどうしたいかを決められない。

不要なもの、不快なものを拒絶する意思は強い。

でも、こうしたい、これが欲しいが無い。

ヨットのカスタムの時もずっとそうだった。好みがない。

だから無彩色なものを選ぶ。

物ならそれでいい。

あれはあなたがお金を出して購入したもの。

どうしようがあなたの自由だ。

私はそのサポートをしただけ。

でも人間を選ぶときに、そんな態度は傲慢だ。

それを「卑怯」と呼ぶ。

責任を、人になすり付けてはいけない。

この場にいる責任は、私たち二人のものであるべき。

私だけが選んだように見せかけないで。

「ここにいることが私だけの意思なら…帰ります」

俺は選ばれただけ。

選んだのはあの女だ。

俺のせいじゃない。

そんなふうに逃げるなら、私は帰る

そんな男は嫌いだ。

言葉にせずとも、目に力を込めた。

「…帰るな」

小さく、一言、そう言った。それしか言えなかったのだ。

それで充分。

帰らないでほしい、じゃなくて「帰るな」。

それすら命令言葉。でもそこには、ちゃんと頼みと意思があった。

それが聞けただけで、欲しい言葉はもらえた。

多分、今の彼にはそれが精一杯なんだ。自分の感情や思いを言葉することに慣れていない。

事務的な報告、連絡しかしない。それも一方的に投げつけるような言葉だけ。

あなたはどうしたいの?

そう聞かれたことがないんだ、きっと。

この人、女に睨まれたの初めてじゃないか?

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URB製作室

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