67.2月10日 昼寝→ジム→夕食

「さっき、朝食を食べたら2回目していいって、約束したよな」

ベッドのふちに腰を下ろして、九条がぽつりと切り出す。

 

澪は少し身を引いて、警戒するように目を細めた。

「したけど……まさか4時間しか寝てないなんて思わなくて」

「したら、眠れる」

即答されたその言葉に、澪は思わず息を詰める。

「確かに……眠くはなるね。それは、わかる」

「なら、いいな」

「……もしかして寝てなくて、ちょっとハイになってる?」

「お前が、ストレッチもジムも禁止したからだ」

「え、それ私のせい!?ちゃんと寝ておけば良かったのに…」

 

そう言いながら、澪は苦笑いを浮かべる。

 

九条は返事をしない。ただ静かに、ベッドのマットレスに手を置いたまま、こちらを見てくる。

その視線が、淡々としているのに、どこか熱い。

 

「……飛行機の中では、眠れなかった」

「私の寝言が気になって?」

 

その問いにも、九条は何も言わない。

でも――澪にはなんとなく察しがついた。

 

(ああ、そっか。私が隣にいる状況で、他のチームメンバーの人がいるっていう状況で気が張ったのか……)

九条だって、氷川や藤代が後ろにいる中で、無防備に眠るわけにはいかない。

自分の言動がどう受け取られるか、常に考えて動いてる人だ。

 

「……じゃあ、私のせいかもね。寝言いうし?」

「……言ってた」

「……やめて、もう内容は言わないで……!!」

「全部は聞こえなかったが、“おかわり”って聞こえた」

「だからやめてってばーーーーー!!」

 

顔を真っ赤にした澪が布団に潜ろうとした瞬間、九条がその手を掴んだ。

「……本当に、“おかわり”でいいんだな?」

「ちが、あれは……たぶん、夢で、パンとか……」

「そうか。パンか」

「ううう……!」

 

九条の顔は真顔のまま、けれど目が少しだけ笑っている。

もう、逃げられない。

でも、逃げる気も――ない。

「じゃあ……ちゃんとしたら、寝てね」

澪が、少しだけ真面目な声で言う。

「旅行中、無理して私に合わせただろうから。明日に備えて、休んだり、準備運動したり……好きにしていいから」

 

九条は一拍だけ間を置いてから、低く返す。

「……好きにする」

 

その“好きに”の意味を一瞬で誤解されたことに、澪は思わずジト目になる。

「……そこだけ聞き取らないで」

 

九条は肩をすくめた。

わざとか、天然か。それすら分からないけど――たぶん、わかっててやってる。

 

「……ちゃんと寝るの、約束してくれたら、してもいい」

そう付け加えると、九条の目がゆっくりと細められる。

「……なら、“ちゃんと”とは何だ?」

「寝落ちじゃなくて、ベッドでちゃんと横になって、アラームかけて、朝まで……」

「……わかった」

「わかった?」

「“ちゃんとする”から、“ちゃんとさせろ”」

「ちょっと待って、私の“ちゃんと”はそこじゃない」

「違わないだろう」

「……もう……」

 

抗議する口調なのに、声の奥に笑いが混じってしまう。

こんなふうに、からかわれて、翻弄されて、それでもどこか甘い。

九条雅臣という人は、理性と欲の境界を、いつもほんの少しだけ曖昧にしてくる。

「いつからこんな屁理屈言う子になっちゃったんだろ、雅臣さん」

澪が小さくため息をつきながらぼやく。

「お前のせいだ」

即答。

思わず吹き出しそうになる。

「……まあ、私と知り合う前はこんなじゃなかったんなら、私のせいか」

「そうだ」

これまた迷いのない返事に、澪は目を細めた。

「……なんかちょっと責任感じるなぁ。日本の誇るトップアスリートを屁理屈王に育ててしまったなんて」

「悪くない育ち方だ」

「開き直った!?」

「“屁理屈”ではなく、“論理の応用”だ」

「言い方変えただけじゃん、それ」

 

声だけのやり取りなのに、どこか空気があたたかい。

部屋の温度でもなく、陽射しでもなく――

二人の間にある、静かな余白が、心地いい。

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「……ん、あつい……」

かすれた声で澪が呟く。

熱を持った肌と肌が触れ合い、呼吸が絡む。

けれど九条は、それをほどこうとはしなかった。

 

「……疲れた?」

そう聞いた澪の声には、どこか心配と照れが混じっていた。

九条は少しだけ間を置いて、低く答える。

「……正直…まだできる…」

「ふふ……」

澪が小さく笑う。

笑うたび、胸元に伝わる振動が心地よかった。

 

「約束したから、一度ちゃんと寝て?」

「……お前が先に寝るだろ」

「そうかも……もう力入らない……」

呟きながら、澪の指が九条の背中にすべり込む。

ただ触れていたい、というような、優しい手のひら。

 

九条はその指を感じながら、そっと額を澪の髪に預けた。

柔らかい香りが、微かに残る。

 

「……痛いところは?」

「ない。……ちょっと、明日筋肉痛になるかもだけど」

「……変な場所が筋肉痛になったら、マッサージする」

「やった。VIP待遇」

笑いながらも、澪のまぶたは少しずつ重くなる。

疲れているのに、心地いい。

 

眠りに落ちる寸前の静けさ――

九条は腕の中の体温を感じながら、ただ黙って、呼吸を揃えていた。

まるで、自分の鼓動が澪に伝わっているかのように。

 

何も語らず、何も問わず。

ただ、今だけは。

ひとつのベッドで、ひとつの鼓動の中に沈んでいく。

「……寝よっか」

かすれた声でそう言った澪が、九条の胸元に額をこすりつける。

猫みたいに、甘えるような仕草。

どこかまだ余韻に蕩けたままの動きだった。

 

「……そうだな」

短く応じて、九条がシーツを肩まで引き上げる。

澪の身体が、自分にぴたりと密着してくるのを感じながら、

九条はそのまま腕を回し、柔らかく包み込むように抱きしめた。

 

「このまま一緒に寝てもいい?」

「……いいに決まってる」

ためらうように聞く声に、即答する。

まるで、迷いが生まれる前に消すように。

 

静寂が満ちる。

 

外はまだ昼前。

けれど、カーテンの隙間から落ちる光も、どこか柔らかくて――

朝からずっと起きていたとは思えないほど、ベッドの中は静かで暖かい。

 

「……ねえ、雅臣さん」

「ん」

「今日、幸せだね」

「……お前がそう思ってくれるなら、俺もそうだ」

「……ふふ」

 

ふわっと笑って、そのまま澪の呼吸がゆっくりと沈んでいく。

 

九条はしばらくの間、ただ黙ってその呼吸のリズムを感じていた。

温度、柔らかさ、重なった鼓動――

どれもが、確かにそこにある。

 

それは、勝利でも支配でもない。

ただ、守りたいもの。

触れて、抱いて、知った重み。

 

「……おやすみ」

誰に聞かせるでもなく呟いて、

九条もまた、まぶたを閉じた。

 

今だけは、言葉もなくていい。

ただ、彼女の眠りに溶け込むように――

静かな午後の夢の中へと、ゆっくりと落ちていった。

カーテン越しの光が、だいぶ傾いていた。

昼の柔らかさを残したまま、部屋は少しだけ琥珀色に染まっている。

澪が、ゆっくりとまぶたを開けた。

隣には、まだベッドにもたれたままの九条。

片腕で澪を抱き寄せていたその姿勢はほとんど変わっておらず、

ただ目だけが、すでに覚めたようにこちらを見ていた。

 

「……ん、何時?」

「夕方。16時前くらいだ」

「これで、睡眠時間ちょっとは確保できた?」

「何なら寝すぎたくらいだ」

「嘘。そんなことない。まだ合計8時間くらい」

「お前がそうやって監視するから、数字で言い返せない」

「私のせいじゃないでしょ。自己管理が甘いだけです」

澪が小さく笑って、寝ぼけたまま彼の胸に顔をこすりつける。

「……夜、眠れるように、ジム行ってくる」

九条がそう言って、静かにシーツをめくる。

「いってらっしゃい。体、動かしてきて。帰ってきたら、ご飯しよ」

「……ああ」

立ち上がりながらも、九条の動きにはどこか名残惜しさが残っていた。

澪がベッドから手を伸ばして、その手首をふわっと掴む。

「ねえ」

「なんだ」

「この週末、ほんとに幸せだったよ。ありがとう」

 

九条は言葉を返さず、ただ軽く額に唇を落とした。

それが返事だった。

 

ベッドに残された澪は、そのままもう一度、シーツをかぶってごろりと寝返る。

ほんのり香る彼の残り香に包まれながら――

次に帰ってくる“彼”を、ゆっくり迎える準備をする。

ジムへ

夕方、九条雅臣は滞在先の高級会員制ジムへ足を運んでいた。

完全予約制、プライベート個室。芸能人や政財界の人間も利用する施設だが、誰も彼の名を声に出す者はいない。気づいたとしても、空気が違いすぎて近寄れない。

黒のトレーニングウェアに着替えた九条は、無言で準備運動を始める。

静かだが、一動作ごとの精度と滑らかさが異質だった。

旅行中に鈍った身体を、明日の練習に支障が出ない程度まで戻す。それが目的――のはずなのに。

まずはフリーウェイトゾーン

ダンベルプレス、スクワット、スプリットランジ。

重量もフォームも、まったくブレない。

トレーナー不在。彼は自分で自分を“追い込む方法”を知っている。

続いて体幹強化

サイドプランクからバランスボールを使ったピラティス応用。

20秒、30秒、45秒と時間を伸ばしながら、インナーマッスルを確実に刺激していく。

サーキットに入ると、空気が変わった。

バトルロープ、メディシンボールスラム、ケトルベルスイング。

インターバルは最小限。時計も見ない。

機械のように繰り返す。

仕上げはジャンプトレーニングとアジリティ

ハードルジャンプ、ラテラルステップ、バーピー、シャドーフットワーク。

どれも短時間で神経系を叩き起こすメニュー。

汗が滝のように流れても、九条は黙って繰り返す。

「全開」ではない。だが、“静かに狂気をはらんだ調整”というべきセッション。

彼にとってはこれで「軽め」なのだ。

シャワールームに入る前、Apple Watchのリングが三周した。

リングを閉じることに意味はない。ただ、これくらいやって当然だというだけ。

帰宅時には、すでにすべてをクールダウンしている。

汗の匂いも消し、表情も穏やかに戻し、涼しい顔で澪のもとへ戻る。

「ご飯、できてるよ」

「ありがとう。先に手を洗う」

あのジムでの光景を知る者は、誰もいない。

九条雅臣という男は、見せる必要のないものは決して見せないのだ。


夕食

九条がリビングに入ると、澪はすでに食卓の最後の仕上げをしていた。

エプロン姿のまま、小鍋の蓋をそっと開けて湯気を確認しながら、少しだけ緊張した表情。

「作り置きも使ってるけど…今日の分は、ちゃんと色々調べたから」

テーブルに並べられたのは、色味も栄養も考え抜かれたプレート。

  • メインは鶏むね肉の塩麹グリル。脂質は抑えつつ、しっとり仕上げた高たんぱくな一皿。
  • 副菜にはブロッコリーとゆで卵のサラダきのこと大根おろしの和え物
  • 雑穀入りのごはんと、豆腐とわかめの味噌汁
  • そしてデザート代わりに、カットしたキウイとバナナが小さなボウルに。

「どうかな…ちゃんとアスリートっぽくなってる?」

「充分だ。理想的すぎるくらいだ」

「よかった…一応、“筋肉食堂”って検索したり、“テニス選手 夜ご飯”って調べたりした」

「お前がその単語で検索してるとは誰も想像しないな」

澪が照れくさそうに笑う。

「だって、ちゃんと寝て、ちゃんと食べてほしいんだもん。…命かかってる仕事でしょ?一応、私なりにできることはやりたいから」

九条は黙って箸を取る。

味はもちろん良い。だが、それ以上に“理解しようとしてくれたこと”が、心にしみる。

何も言わなくても、彼女が自分を見ていることが、今は分かる。

「明日ってレオンさん来る?」

澪が茶碗を置きながら訊ねる。

「明日は練習日だから朝から来る。氷川から連絡があった」

「そっか。やっぱプロにちゃんとお任せしたい。アスリートの食事、責任重いもん」

「お前のも美味い」

そう言って、九条は涼しい顔で味噌汁をすする。音ひとつ立てずに。

「イギリス帰りで和食食べたかったから、お味噌汁作ったの」

「普段より少し甘く感じる」

「うん、ちょっとだけ白味噌混ぜた。私の好みだけど、疲れてたら沁みるかなーって」

「……美味い」

九条が短くそう言って、静かにまた一口すする。言葉より、その仕草に満足がにじんでいた。

「ありがと」

澪は照れ隠しのように笑って、自分のお椀に視線を落とす。ほんの少し、心がほどける音が聞こえたような気がした。

「鶏胸肉、塩辛くない?大丈夫?」

「丁度いい」

「お世辞じゃない?」

「俺が言うように見えるか?」

「見えないです、全然。でも私が傷つかないように言ってるのかと思って」

「口に合わなければ、無理して食べない。特に塩分が多いものは摂らないようにしてる。つまり、そういうことだ」

「……なるほど。わかりやすい」

澪が小さく笑って、安心したように箸を進める。九条はただ静かに、また一口鶏肉を口に運んだ。

食後

完食。

「ご馳走様。美味かった」

「……よかった」

澪が、少し照れたように笑う。

それだけの言葉なのに、ちゃんと伝わるのが嬉しかった。空になった器を見つめて、心の中で小さくガッツポーズをする。

九条は椅子に寄りかかって、食後の静けさを味わっている。特別な会話がなくても、満ち足りた時間が流れていた。

「よかった。明日、早いんでしょ?片付けはやっとくから、先にストレッチでもしといて」

「お前もだ」

「え?」

「一緒に寝るって言った」

「…あ、うん。じゃあ、食洗機だけ回してくる…!」

わたわたとキッチンに戻っていく澪の背を見て、九条はほんの少しだけ、口元を緩めた。

この食卓が、明日への力になることを、誰よりも自分が知っている。

「お前、風呂は?」

食器を流しに運びながら九条がふと尋ねる。

「雅臣さんがジム行ってる間に済ませたよ。汗かいてたから」

「そうか」

短く返す九条の声に、気遣うような温度が少しだけ混じっていた。

別に確認したかっただけなのか、それとも自分の汗のにおいを気にしたのか――。

澪はその言葉の端を探るように、ちらりと彼の横顔を見たが、何も表情は変わっていなかった。

「……こっちも寝る準備しとくね」

「もう寝る気満々だな」

「そりゃもう。今日はもうガッツリ寝かせるって決めたんだから」

そう言いながらタオルをたたむ澪の背中に、九条は何も言わず、照明を少し落とした。

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URB製作室

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