メルボルン 空港にて
2025年1月29日(水) 夕方 / メルボルン空港 プライベートジェットターミナル
午前中は、スポンサー企業との面会。
昼過ぎには、メディア向けの囲み会見。
午後は、写真撮影とオーストラリアテニス協会の担当者との打ち合わせ。
必要最低限の言葉で、全てをこなした。
内容は正確で、表情も整っていた。
だが、どの場面にも「感情」はなかった。
ただ、終わらせるために動いていた。
今日の夜、すべてを終わらせて帰るために。
空港に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
車を降りると、氷川が事務手続きを済ませていた。
タラップの先に待機する機体が見える。
機体は、ガルフストリームG800。
最新鋭の高速ビジネスジェット。
マッハ0.9での巡航が可能で、メルボルンから東京までは、およそ8時間半。
どの路線よりも静かで、どの手段よりも速い。
それが、彼の「会いに行く」という意志の速度だった。
九条がタラップを上がる数歩後ろを、氷川が黙ってついていた。
何も指示はなかった。
けれど、同行することは“当然”の判断だった。
トップアスリートの遠征や帰国には、予期せぬ事態がつきものだ。
スケジュールの遅延、突発的な対応、現地調整、体調の変動――
そのすべてを補うのが、マネージャーの仕事だ。
それを九条雅臣が一人でこなせるかと問われれば、
「できるだろう」と答える人間は多い。
だが、それを“やらせてはいけない”と知っているのが、氷川だった。
その為に雇われている。
彼の集中を少しでも逸らす要因があるなら、それはすべて排除されるべきだ。
マネージャー不在の移動は、信頼性と安全性の喪失であり、競技以外に意識を割く要因を増やすだけにすぎない。
だから、氷川はいる。
理由は要らない。必要だから、そこにいる。
タラップを登ると、機内の空気は張り詰めていた。
いや、音ひとつないその空間に、九条の内部の緊張だけが静かに映っているようだった。
無駄な荷物はない。
着替えとスマートフォン、それだけ。
座席に腰を下ろすと同時に、機体が動き出す。
窓の外には、メルボルンの夕空。
地平線は金色に染まりはじめていた。
フライト時間はおよそ9時間。
日本時間で言えば、翌朝5時10分に羽田着。
誰もが眠っているであろう時間帯。
だが、九条にとっては関係のないことだった。
会見も、挨拶も、式典も要らない。
ただ――彼女と会う時間だけがあればいい。
氷川は一言も話さなかった。
席も通路を挟んで斜め後方。
会話を求められない距離を、わかって選んでいる。
それが、九条と氷川の距離感だった。
機体が滑走を始めた。
G800のエンジン音は低く、振動は最小限。
やがて高度を上げ、夜の空へと向かっていく。
目を閉じた九条の意識は、まだ何も想定していなかった。
何を話すかも、何を聞かれるかも、何も――
ただ、ひとつだけはっきりしていることがあった。
「会いたい」と、彼女が言った。
それだけで、すべての行動は決まっていた。
この帰国は、栄光の凱旋ではなかった。
たった一人に会いに行くための、無言の移動だった。
チーム九条 Slackにて
その後、Slackには誰の投稿も続かなかった。
だが氷川には、
“文字にならないため息”が画面越しに伝わってくる気がした。
――驚き、
――呆れ、
――諦め、
それでも、受け入れているという共通の沈黙。
だが、氷川にはわかっている。
九条雅臣の動きは、常に把握できるようにしてある。
日本国内での移動。位置情報。いつどこの施設を利用したか。誰と会っていたか。
全て把握できる。
彼が何も言わなくても、
その「痕跡」が氷川のところに全て集まってくる。
“理解するな。把握していろ。だが口は出すな”――
それが、彼のスタンスだった。
普通の感性では、到底マネージャーなど務まらない。
九条雅臣にとって、言葉とは命令であり、
それが省かれるということは、“察して当然”の意味に変わる。
氷川は、その沈黙を正確に読み、動く。
「だから俺がマネージャーなんですよ」
誰に言うでもなく、画面の向こうにだけ、そう思った。
氷川は、チームメンバーの誰にも何も言っていなかったが、
九条らしからぬ行動パターンには、しっかりと違和感を覚えていた。
普段なら決してかけてこない時間帯に届いた、一本の電話。
それだけでも十分に異常だった。
急なスケジュールキャンセル自体は、過去にも何度かあった。
だが、そこにはいつも“理由”があった。
伝えられるかどうかは別として、理由は存在していた。
けれど今回は違った。
言葉はなかった。
連絡は簡潔だった。
そして突然の、日本への帰国――
何があったのか、今はまだ分からない。
だが、動きがある。
それだけは、確かだった。
そしてその動きの理由は――
いずれ、必ず明らかになる。
氷川はそう確信していた。
九条が日本に滞在する際、いつも使用しているレジデンスがある。
一年のほとんどは使わないが、他の場所での滞在を嫌うため、一年中ずっと押さえて家賃を払い続けている。
氷川は、その部屋が家主を迎えられるように、すでに準備を手配していた。
何も指示は受けていない。
だが、そうするのが当然だと分かっている。
九条雅臣という人間のそばに立つなら、
その一挙手一投足に対して、
“言われる前に動けること”が前提条件だった。
いちいち指示を待つような人間は、
とっくの昔にこのチームから除外されている。
今、九条の周囲に残っているのは、
言葉がなくとも意図を察し、
迷いなく“正解の行動”を選べる人間だけだ。
そして――
氷川尚登は、その中でも最古参のひとりである。
誰よりも早く、
誰よりも静かに、
九条の“次の一手”を読み取り、支える。
だからこそ、彼は今も変わらず“マネージャー”という立場にいる。
「何も言われていない」ことこそが、
時に最大の指示になる――
氷川は、それを深く理解していた。
動機はひとつ
【Scene:2025年1月30日(木)5:10 AM / 羽田空港・VIPゲート】
機体がゆっくりと減速を始めたとき、九条は目を開けた。
正確に言えば――目を開けていたことに気づいた、という感覚だった。
眠ったつもりはなかった。
けれど、目を閉じてから今までの時間がまるで切り取られたように飛んでいる。
意識は深く沈まない。
けれど身体は、勝手に休息を取っていた。
外気の温度が変わった。
G800の機内は一定の空調が保たれているはずなのに、
それでも、“日本の空気”はわかる。
湿度。
におい。
音の粒。
それが、違う。
機体が完全に停止した。
外で車輪止めを掛ける金属音が、わずかに響く。
機体側面のドアが開く。
空気の層が入れ替わる一瞬で、九条は深く息を吐いた。
そこに郷愁はなかった。
“帰ってきた”――そんな言葉は、彼の辞書にはない。
中学生の頃から、生活の基盤は海外だった。
チームメンバーが日本人ばかりで構成されており、日本に家族がいるスタッフもいるから、オフシーズンは日本へ“行く”。
この国に“帰る”という感覚は、もう失われて久しい。日本には、九条が帰りたいと思う場所は無い。
ただ、「着いた」。
それだけだった。
特別な用事がない限り、この国には着陸しない。
通路の奥で、氷川が静かに立ち上がる気配がした。
九条は何も言わず、足元を確かめるようにタラップへ向かった。
外は、まだ夜と朝の境界にあった。
羽田の滑走路は静かで、空港はほとんど目覚めていない。
だが、この時間を選んだのは偶然ではない。
誰にも見られず、誰にも遮られずに帰ってくるために。
ターミナルのVIP動線はすでに確保されていた。
入国手続きは数分で終わる。
荷物も最低限。ほとんどが機内に持ち込んだものばかりだった。
静かだった。
誰も彼を出迎えない。
だが、それが最も彼らしかった。
九条雅臣は、日本に戻ってきた。
そしてこれから――
たった一人を迎える準備をする。
連絡、それだけ
車は空港の裏手、関係者専用出口に静かに横付けされていた。
氷川がドアを開けると、九条は一言も発せずそのまま後部座席へ乗り込んだ。
彼の横顔を確認しただけで、氷川も何も聞かない。
エンジンがかかる。
遮音性の高い車内は、外気の湿りも喧騒も遠ざけたまま、動き出す。
沈黙があった。
だが、それは不自然なものではない。
この時間、この空気、この状況――
言葉の必要性は、そこに存在しない。
やがて、九条がスマートフォンを手に取った。
ロックを解除する動作すら、習慣として染み付いている。
迷いはない。ただ、意志があった。
画面に表示された、昨夜のやり取り。
「会いたいです」
「優勝、おめでとうございます」
それを一瞥するだけで、指先が動いた。
「着いた。仕事終わりに迎えを行かせる」
たったそれだけ。
だが、今の自分に言えること、言うべきことは、それしかなかった。
送信ボタンを押したあと、九条はスマホを伏せた。
再び視線を前へ戻し、窓の外を眺める。
何も言わず、何も期待せず。
ただ、彼は迎える準備だけをしていた。
手の届かない領域、だが掌握はできる
【Scene:車内 / 氷川尚登】
運転中、ふとバックミラーに目をやると、
後部座席の九条が珍しくスマートフォンに文字を打ち込んでいた。
素早いフリック入力。
数秒で文字を送り終えると、すぐにロックをかけ、ポケットへしまう。
この一連の動作が、すでに異常だった。
九条雅臣という人間は、基本的に人と言葉のやり取りを望まない。
外部との連絡や調整は、すべて氷川の役目だ。
それがチームにおける役割であり、機能の分担でもある。
にもかかわらず、本人が直接誰かにメッセージを送った。
しかも、何も言わない。
――つまり、それは「例外的な人間」がいるということだ。
誰なのかは分からない。
ただ、それが行動に表れている。
九条雅臣という男が、グランドスラム直後にメディア対応をすべてキャンセルし、
一言も語らず日本へ向かう――その決断をさせた存在がいる。
行き先は、毎回日本滞在時に使用しているレジデンス。
他に行きたい場所があるなら、九条は言う。
何も言わないということは、それでいいということだ。
車がレジデンス前に停車したとき、
九条は一言だけ呟いた。
「夜、綾瀬澪という人間を迎えに行け。場所と時間は追って連絡する」
そう言って、ドアを開け、何も残さずに立ち去った。
“名前”を出した。
それは、氷川が口外も詮索もしないとわかっているからだ。
彼の信用は、その前提で成り立っている。
九条雅臣のあらゆる日常――
カード情報、スケジュール、居場所、体調の変動すら氷川の管理下にある。
そこに“名前”が加わっただけだ。
綾瀬澪。女の名前。
後に届いた連絡には、セレブ向けのヨット販売店の情報が記載されていた。
退勤時間帯の指定。
その時点で、大方の察しはついた。
Sunreef 50。
昨年のオフシーズン、モナコに納艇されたラグジュアリーヨット。
その購入に関わった人物なのだろう。
さすがに、やりとりの中身までは把握していない。
だが、氷川は淡々と思った。
――ヨットの販売員が、世界ランク1位のテニスプレーヤーと。
まさか、本気ではないだろう。
だが、現実は動いている。
彼女が、九条をここまで動かした。
何がそこまで良いのか――
氷川には分からない。
だが、“分からない”ことと“把握していない”ことは、まったく別だ。
彼は、必要な情報をすべて掌握していた。
だから、それでいい。
“言わない”という最適解
【Scene:ホテルにて / 氷川尚登】
夜までは時間があったので、仮押さえしていたホテルに仮眠を取りに行った。
ネクタイを外し、ノートPCを開いて、最低限の連絡だけを返す。
Slackには、何も動きはない。
九条の帰国を告げた時のままだ。
試合以外の期間は、基本的に静かなチャンネルだ。
また3月の大会までには合流することになる。
この日本での滞在が、何日になるのか。
それすら、今は分からない。
夜、指定されたヨット販売店まで車で向かう。
予定時刻の10分前には到着していた。
車から降りて、周囲を確認。
名前と、おおよその容姿は伝えられていたが、特徴はありきたりすぎた。
体型、肌の色、髪の長さ――すべてが、個人的感情を排したスペック的な指示だった。
予定時刻を少し過ぎた頃、遠巻きにこちらを見ている人物がいた。
チラチラとこちらを伺ってくる者は他にもいたが、
その女だけは、じっとこちらを見ていた。
「綾瀬澪さんですか?」
「…はい」
躊躇いながら答えたその女は、**一般的な“普通の人間”**だった。
若く、容姿も悪くはない。
だが、それはあくまで一般人の基準の中での話だ。
特別に光るものは、何もない。
「どうぞ。ご案内いたします」
後部座席のドアを開けると、
彼女は戸惑いながらも、おとなしく乗り込んだ。
動作の端々に、車で迎えに来られるという行為に慣れていない様子があった。
普段は自分で電車やタクシーを使って移動している人間だ。
今まで九条が付き合ってきた女性たちとは、違う。
それが良いか悪いかではない。
ただ、“違う”というだけのこと。
黙って目的地へ車を走らせながら、
心の中でふと、こう思った。
――いずれ、別れるだろう。
こっちは、一般人とは違うレベルで仕事をしている。
求められる能力も、動かす金額も違う。
プロの集団に、感情を持ち込むのはやめてほしい。
正直、九条が関わること自体、リスクでしかない。
止めないのは、言っても無駄だからだ。
放っておくのが、最短で別れに近づく方法。
そう判断した。
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