控え室の扉が、静かに閉まる音がした。
ほんの数秒前まで、数万人の視線と拍手の中にいたとは思えないほど、ここは静かだった。
空調の音すら聞こえない。壁の厚さが、世界との境界線になっているようだった。
時雨悠人は、スツールに座り、ラケットバッグを足元に置いた。
まだ汗が引いていない。
ユニフォームの背中が冷たくなっていく感覚だけが、今が“試合後”であることを教えてくれる。
――壊されていない。
まず、それだけを確認した。
感情も、意志も、フォームも、試合前の自分と何ひとつ変わっていない。
負けたのに。セットを一本も取れなかったのに。
それでも、自分は無事だった。
彼は、壊しにこなかった。
壊すことに、興味がないのだと思った。
テニスを始めた頃から、“上に行くには誰かを倒すしかない”と教えられてきた。
奪う。支配する。打ち負かす。
でも今日、コートの向こうにいたあの人は、違った。
あの人は、勝つために誰かを否定しない。
そもそも、勝ち負けを相手との関係で決めていない。
ただ、正しい手順で、正しい場所にボールを送る。
それが彼の試合だった。
彼の目には、相手も、ラリーも、得点も映っていないのかもしれない。
彼が見ていたのは、きっと“完了された未来”だけだった。
その未来へ向かって、淡々と処理を繰り返しているだけのようだった。
……なら、自分は何をしていたんだろう?
あんなにも手を伸ばして、必死に追いかけて、
読み合って、反応して、タイミングをずらして、
打って、走って、
——何度も“届かせよう”とした。
観客に?
世界に?
いや、違う。
あの人に。
でも、届かなかった。
最初からわかっていたことだ。
あの人は、“届くように設計されていない”。
それでも、俺は打った。
誰かにではなく、自分自身に向けて。
この試合を、未来で思い出せたとき、
“あのときの俺は、ちゃんと人間だった”と言えるように。
静かだった。あまりにも静かで、頭の中にさえノイズがなかった。
悔しさも、怒りも、自己嫌悪もなかった。
ただ、ひとつの問いに答えた感覚だけが、残っていた。
——お前は、どう在りたい?
その問いに対して、自分は“打つ”ことで答えた。
逃げずに。媚びずに。祈らずに。
たとえ届かなくても、
「それでも打つ」と決めて立ち続けた、それが今日だった。
シューズの紐をほどきながら、深く息を吐いた。
カラダの奥に残っていた熱が、ふっと抜けていく。
バッグの中からスポーツドリンクを取り出す。
キャップを開けると、プシュッという乾いた音が、部屋の静寂をやさしく裂いた。
その音だけが、彼が戦っていた証拠だった。
今日、彼は負けた。
でも、それは敗北ではなかった。
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