81.Night in London

食後の片付け

食後の余韻を楽しんでいたけど、ふとテーブルに目をやると、食器がそのまま残っているのが気になった。

 「……ちょっと片付けちゃうね」

 そう言って立ち上がり、ワゴンの上に食器を一つずつ丁寧に戻していく。

 カチャカチャと音がしないように、気を配りながら。

 「そんなに気にしなくていい」

 背後から聞こえた九条の声は穏やかだったけど、それでも私はワゴンの上を整える手を止めなかった。

 「寝る前に気になっちゃうから……ごめん、すぐ終わる」

 ワゴンの上にナプキンを軽くかけ、

 邪魔にならないように廊下の端にそっと出しておく。

 扉を閉めて振り返ると、ソファに座った九条が、少しだけ笑っていた。

 「やっぱり、お前はそういう女だな」

 「どういう?」

 「気がついたら、俺の生活も整えてくれてる女」

 思わず、ちょっと照れた。

「こう見えて普段、一人で生活してますから。でも甘えすぎないでね?世話焼きが好きなわけじゃないから」

 澪が胸を張ると、九条はソファから片肘をついて、ゆるく目を細めた。

「説得力に欠ける」

「う…まあでも雅臣さんには私も色々とお世話になってるから!これは世話焼きじゃなくて恩返し!うん」

「……じゃあ、俺の“恩”はずっと作り続けた方がいいな」

「え?」

「そうすれば、お前はずっと、そばにいてくれるだろ」

 それは冗談みたいな口ぶりだったけど、目はまっすぐで。

澪は思わず、ふっと笑ってしまった。

「雅臣さんって、なんでも出来るのか、何もできないのか、よくわかんないよね」

「…どういう意味だ」

「何もかもそつなくこなせるくらい能力高いのに、食事のお皿は誰かが片付けてくれるからやらないとか」

「…だらしがないと言いたいのか?」

「ううん。全然だらしなくない。自分ではやらないけど、やってくれる人員確保はお金使ってでもやるじゃん」

「部屋が汚いのは耐えられない」

「だよね。だらしない人って部屋が汚くてもそのままにするもん」

「俺は“散らかっている状態”に精神を侵される」

「侵されるって(笑)」

「視界にノイズがあると、集中できない。疲れる。効率が落ちる」

「じゃあ、テニスコートでも落ち葉とか気になるタイプ?」

「気になる。コンディションの悪いコートだと苛立つ」

「そういうとこほんとブレないよね。なんか、“自分”をちゃんと持ってるって感じ」

「……褒めてるのか?」

「褒めてる!一緒に暮らしてみると、そういうとこありがたいなって思うし」

 そう言いながら、澪は九条の横で小さく笑う。

「ただねー、なんでも“人に任せるのが正解”って思ってると、人生損することもあるよ?」

「たとえば?」

「自分で片付けたお皿って、ちょっとだけ“美味しかったな”って余韻が残るの。……たまには、やってみても良いかもよ?あとあれよ。この食器洗い洗剤、洗い上がりが好きだなーとか、この洗剤は乾きやすいなーとか、このスポンジの硬さ好きだなーとか」

「それは人生に必要な情報なのか?」

「そうやって合理的になりすぎるのも良くないよ?小さなことでも楽しんでいかないと」

「ふむ」

「ま、そう言いつつ、私も家だと食洗機使っちゃうんだけどね!」

「感心した気持ちを返せ」

「前は手洗いしてたから嘘はついてないよ。ダスキンの食器洗いスポンジ好きだし。あ、亀の子のスポンジも捨てがたい」

 ぺらぺらと喋る私を、九条は黙って見つめていた。

「……なに?」

「いや」

「いや、じゃない。言って」

 少しだけ目を細めて、彼は言った。

「そんなことを、楽しそうに話すお前を見るのは嫌いじゃない」

九条の視点

好みの洗剤だの、スポンジの硬さだの。

 そんなことを語る人間を、これまで見たことがなかった。

 ──正確に言えば、「語る必要もない」と判断して、話さなかった人ばかりだったのかもしれない。

 美しくて、育ちが良くて、格式ある家庭に育った女性とは、何人か関わったことがある。

 けれど彼女たちは、誰かが準備した部屋に暮らし、誰かが用意した食事を口にし、誰かが選んだ服を身に着けていた。

 生活とは、彼女たちにとって「提供されるもの」だった。

 けれど澪は違う。

 洗剤も、スポンジも、服の素材も──自分の手で確かめて、暮らしを組み立てている。

 身の回りを誰かに任せるのではなく、自分で完結させている人間の言葉だ。

 「……そうやって話すの、悪くない」

 思ったまま、口に出していた。

 澪が「えっ」と振り向く。

 その目が、くすぐったそうに細められて、笑う。

 けれどその笑顔の奥には、言葉以上の強さと、やわらかさがあった。

 ──どこか、羨ましいと思った。

 自分には無い視点で、生活を“楽しめる”こと。

 それは、能力や収入では埋められない、“生き方”の違いだ。

食後の優しさ

食後の紅茶を飲み終えたあと、澪はふうっと息をついてソファに沈み込んだ。バスローブの下にゆるいトレーナーとズボン。部屋着のまま、ごろんとリラックスモード。

 九条も隣に腰を下ろし、背もたれに寄りかかる。

「移動疲れ、起こしてないか?」

 ふと、九条が澪の様子をうかがいながら問いかける。

 その声がやけに優しくて、澪はぽかんと彼を見つめ返した。

「……」

「なんだ?」

「優しいなーって思って」

 じーっと見つめながら、にやりと笑う。

「……変か?」

「うーん……ちょっと手つきが、やらしい」

 澪の腰に回されていた九条の手が、そっと体のラインをなぞるように動いていた。くすぐるように、確かめるように、ご機嫌を伺うみたいなぬくもり。

「やらしくはない。撫でてるだけだ」

「うそだー。めっちゃ手が探ってきてるもん」

「体調確認だ」

「どこの?」

「……腰回り、特に下腹部。疲労が溜まりやすい」

 さらっと言い訳してくるあたり、さすがの九条。

「じゃあ“触診”ってことで好きなだけ触っていいよ?」

「診察に協力的だな」

「ふふふ、だって先生が優しくて格好いいから」

 澪が自分のだぼっとした部屋着を見下ろしながら、少し呆れたように笑う。

「こんな色気のない格好してるのに、よく興奮できるね?」

「用があるのは服じゃなく中身だからな」

 九条は迷いなくそう返して、腰に回した手を背中まで滑らせた。

「……なにその即答。恥ずかしいんだけど」

「恥ずかしがる要素はない。事実を言っただけだ」

「いや、ちょっとは照れてほしい…」

「なぜ?」

「こっちが恥ずかしくなるでしょ…」

九条の返事は淡々としていて、でもその手は澪の背中から腰を撫でるように動く。

 澪がむずがゆそうに体をよじると、九条の手が止まった。

「……くすぐったいのか?」

「うん、ちょっと……やっ、ダメっ」

 そこからはあっという間だった。

 くすぐったがる澪を面白がって、九条がわざと指先で脇腹を突いてくる。

 ソファの上で体をよじって逃げる澪。

 笑いながら必死で手を払って、逃げきれずに捕まる。

「やめて!ほんと無理!……って、わー!」

 最後には、九条に抱き寄せられるようにして、そのままソファに倒れこむ。

「……捕まえた」

「本当に…脇腹はだめ…っ」

 笑いの余韻が残る中で、額が額に触れるくらいの距離。

 息がかかる距離で、九条が澪を見つめる。

「……逃げるからだ」

 低く、囁くような声に、笑っていたはずの鼓動が跳ね上がる。

 澪が口を開く前に、そっと唇が重なった。

 いたずらのあとの、優しいキス。

 ふざけた流れが静かにほどけて、呼吸の音だけが、ソファに落ちていく。

 唇が離れると、ソファに落ちる静寂だけが残った。

 澪は少しだけ視線をずらして、九条の肩におでこを預ける。

 そのまま、くすぐったそうに笑って、ぽつり。

「……お返し、してもいい?」

 九条が不思議そうに眉を動かす前に、

 澪は背伸びするように顔を上げて──

 ちゅ。

 額に、そっと唇を当てた。

「……お返し、ね」

 口に出してから、自分で照れくさくなって、つい目を逸らす。

「……お前な」

 九条が、息を押し殺したように笑う。

 いつもなら“子供だな”って呆れるところなのに、今日はなぜか何も言わない。

 ただ、ゆっくりと片腕で澪を引き寄せて、胸元にぎゅっと抱き込む。

「……なんか、ずるいな。そういうの」

「え?なにが?」

「可愛すぎて、理性に悪い」

「…そんなこと思うの、あなたくらいです」

九条の腕に抱き込まれたまま、澪は少しだけ身を預けた。

 着ていたのは、やわらかいスウェット地のゆったりしたトレーナーと、リラックス用のパンツ。

 素肌には直接触れてないのに、服の内側に感じる九条の体温が、じんわりと伝わってくる。

「……あったかい」

「体温が高いだけだ」

 そう言う声も、低くて、落ち着いていて。

 でもその音まで、どこか鼓動みたいで──静かな部屋に、心地よく響いていた。

 澪は目を閉じて、そっと息を吐く。

「こうしてると……全部どうでもよくなる。今日、怒ったこととか」

「……あんなに怒ってたくせに」

「だって、雅臣さんがあったかいから。安心しちゃう」

 くすぐったそうに笑いながら言うと、九条は黙って、少しだけ腕に力をこめた。

 ぎゅ、と抱き締められるその強さが、優しさであることを、澪はちゃんと知ってる。

「このままだと眠くなっちゃうから……寝ないようにして?」

 抱きついたまま、澪が甘えるように顔を上げる。

 九条はその目をまっすぐ見返して、ふっと息を吐いた。

「……そうやって誘ってる自覚はあるのか」

「誘ってるつもりはないけど、イチャイチャはしたい」

 正直すぎる返しに、彼の口元がわずかに緩む。

「……くすぐったい場所は、感じるようになる場所でもある」

「うそだー。普通にくすぐったいだけだよ」

「試すか?」

 言い終わる前に、九条の指が澪の脇腹をなぞるように動く。

 ふいに身体がぴくっと跳ねて、澪は反射的に肩をすくめる。

「ちょ、待って……そこほんとにダメ……!」

「知ってる」

 わざと囁くように言いながら、今度は背中のラインを、柔らかく撫でるように指が辿る。

「くすぐったい、でも……やだ、そこ……ちょっと……」

 触れてるのはあくまで優しい手つき。

 でも、それが余計に意識を刺激して、澪の声が少しずつ熱を帯びていく。

「寝ないようにして、って言ったのはお前だろ」

 低く囁かれた直後、九条が澪の耳たぶに軽く甘噛みする。

 それだけで背筋がびくっとして、澪の身体が少し震える。

「わっ……!」

 驚いた声をあげる間もなく、彼の腕がするりと回ってきて、抱き上げられてしまう。

 ぴたりと身体が密着して、心臓の音が聞こえそうな距離になる。

「…わざとだもん」

 小さく笑って、澪が上目遣いに言うと、九条は鼻で笑った。

「……とんだ悪戯っ子だな」

「子供じゃないです」

 むすっとしたその口調に、九条の視線が少しだけ和らいで。

 そのまま、ゆっくりとベッドに下ろされる。

 マットレスに沈む感触と同時に、すっと上から覆いかぶさる気配。

「子供に──こんなことはしない」

 目を見つめながら、キス。

 ゆっくりと、でも逃さないように。

 唇が重なった瞬間、澪はもう、言葉を返せなかった。

澪の視点

ベッドにそっと下ろされた瞬間、空気が変わった気がした。

 マットレスが沈む感触。身体を囲うように落ちてくる大きな影。

 見上げた彼の目が──

 まるで、獣みたいだった。

 鋭くて、でも熱を帯びていて。

 逃がさないって、そんなふうに言ってるみたいで。

 鼓動がひとつ跳ねた。

 「子供に──こんなことはしない」

 その言葉と同時に、唇が重なった。

 触れた瞬間、寒さなんて、もうどこにもなかった。

 冬のロンドンの夜。

 外はきっと、冷たい風が吹いている。

 ──でも、心も身体も、あたたかい。

 包まれているのは、腕だけじゃない。

 言葉も、熱も、視線も全部。

 この人は、ちゃんと「いまの私」を見てくれている。

 優しくて、強くて、でも繊細で、どうしようもなく、好きだと思った。

 昼間あんなに、からかってきたくせに。

 「子供っぽい」とか、「騒がしい」とか、「早く服着ろ」とか。

 意地悪なことばっかり言ってたくせに──

 いまの彼は、どうしようもないくらい、優しかった。

 頬を撫でる手も、キスの深さも、

 まるで、壊れものを扱うみたいに、丁寧で。

 甘やかすように、全部を確かめるように、触れてくる。

 そのたびに、心の奥がじわって熱くなって、

 身体の芯が、彼の熱を欲しがるみたいにうずいてしまう。

 「……さっきまでの雅臣さん、どこ行ったの」

 息の合間にそうつぶやいたら、くすっと笑われた。

 「からかいたくなるのは、安心してる証拠だ」

 囁く声が、耳の奥に落ちてくる。

 その声の低さがずるい。

 指先も、くちづけも、ずっと深くなっていくのに──

 優しいから、抗えない。

 どこを触れられても、拒めない。

 何度も抱きしめられてるのに、もっと奥まで来てほしくなる。

 気付けば、指を絡めて、腰を押し付けていた。

 「やっぱり……悪い子じゃないか」

 笑いながら言うくせに、そのあとの彼は、全然、冗談じゃなかった。

「……寒いか?」

 背中に回された九条さんの手が、服の中にするりと滑り込む。

 びくっとして、小さく声が漏れた。

 でも──すぐに気付く。

 彼の手は、肌を撫でるだけじゃない。

 私の体温を、確かめるように、そっと触れている。

 「平気、あったかいよ。雅臣さん、体温高いから」

 そう答えても、彼の手はどこか遠慮がちで。

 私の服の裾を少しめくって、でもめくりきらずに止まった。

 「……寒いなら、脱がせない。シーツの中で、触るだけにする」

 その言葉が、嬉しくて、じんと胸にしみた。

 ほんとは、見たいくせに。

 肌も、全部触れたいくせに。

 私のこと、大事にしてくれてるのが、すごく分かる。

 「服着てると暑いから、脱がせて。肌が触れ合うのが気持ちいいから」

 そう言った私の声は、思っていたよりも静かで、

 でも、いつもみたいに言い淀んだりはしなかった。

 雅臣さんは、一瞬だけ目を細めて──ふっと、口元だけで笑った。

 「……今日、素直だな」

 低くて優しい声。

 その指が、私の裾に触れる。

 目を閉じていれば、ずっとこのままいられるような気がする。

 でも、現実は違う。

 ロンドンの次は、ドバイ。

 ボートショーが終われば、私は一人で日本に戻る。

 彼は、大会のためにまた次の地へ向かう。

 わかってた。最初から。

 でも、触れて、息を重ねて、心まで近くなってしまった今、

 離れることが──思っていたよりずっと、ずっと怖い。

 「……ドバイ、終わったら──」

 少しだけ間を置いて、続きを飲み込まないように、ゆっくり口を開く。

 「しばらく、近くにいられないから」

 言葉にした瞬間、胸がきゅっとなった。

 本当は言いたくなかった。言葉にすると、現実になってしまうから。

 でも、言わなきゃ、伝わらない。

 この時間が、どれだけ愛おしいかも、どれだけ寂しくなるかも。

 雅臣さんは、黙ったまま私の髪に唇を落とした。

 強くも、優しくもない──ただ静かに、でも確かに触れるキス。

 「……そうだな」

 それだけしか言わないのに、その声にはちゃんと、私と同じ痛みが宿っていた。

 ロンドンの夜は冷たいけど、二人の間には、静かに火が灯るみたいだった。

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URB製作室

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